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川柳的逍遥 人の世の一家言
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二枚重ねの下から顔を出す  酒井かがり



         この人は誰でしょう? 

  もはや原形が行方不明!  この名優を百歳の婆にしたのは、
特殊メイクでハリウッドでも大活躍をする江川悦子さんです。
  
 
 「鎌倉殿の13人」 大竹しのぶをもう一度
 

「鎌倉殿の13人」第35話のリピートです。

鎌倉幕府の3代将軍・源実朝は、京から妻を迎えた。
妻は、公卿の坊門信清の娘。名前は不明だがドラマでは千世と呼ばれる。
(実朝が暗殺されて出家後は、西八条禅尼と称した)
姉は高倉天皇の妃であり、信清は後鳥羽上皇の親族(外叔父)に当たる。
折角、京から美しい妻を娶った実朝だったが、このところ暗く沈んで何
か悩みがある様子で顔色も冴えない。


気がつけば一人ぼっちの舟を漕ぐ  高浜広川
 
 

実朝を前に囲炉裏を囲む義盛・巴御前の夫婦


そんな実朝を訝った和田義盛巴御前の夫婦は、孤独で気落ちしている
「鎌倉殿の心を癒そう」と自分たちの邸へ誘った。
実朝は、もっとも気楽な話し相手である泰時鶴丸を伴って和田邸を訪
れることにした。
<豪快で陽気な義盛と過ごすとリフレッシュできそうだ>
細かなことにこだわり、悩んでいる自分を一時でも忘れることができる、
のだろう。何もかも忘れて一緒に酒を飲んだり遊んだりする相手に、
義盛はピッタリの人である。
思い通り実朝は、リラックスして平和な時間を楽しんだ。


一番楽しかったのは小指ボンドでつけた時 くんじろう



            歩き巫女

歩き巫女は流浪の女占い師で、行く先々で町民や村民の吉凶を占ったり、
歌謡を聞かせたりしながら各地の情報を収集した。


そして思いついたように義盛実朝「占いの館」へ連れて行く。
占いの館には、白髪頭のお婆がでんと構えていた。
「歩き巫女」である。
歩き巫女とは、全国各地を渡り歩きながら、巫女として吉凶を占うなど
様々な人と接して、情報を集め、有用な情報を主君に伝える「くノ一」
の集団である。
歩き巫女が活動するのは戦国時代で、武田信玄が育成した女忍びたちだ。
そこへ時代設定も年齢も飛躍させて、使い古しの巫女を三谷幸喜は持っ
てきた。
これが幸喜ならではの魅せる忍術であろう。
(因みに、戦国時代多くの大名は、諜報機関として「影」を組織した。
「伊達の黒はばき」「北条の風魔」「上杉の軒猿」「薩摩の山くぐり」
「柳生の根来衆」などがある)


どう見ても喜寿そこそこのミドリガメ  森 茂俊


占いの館の奥に座すお婆巫女は、何やら水の入った皿に、葉のついた枝
を浸して、水をまき散らしながら、ブツブツ呟いている。
めちゃくちゃ怪しい。めちゃめちゃ不気味である。
巫女の下から舐めて廻してくる目線に、すべてが見透かされていそうで、
実朝たちは、リアルにたじろぐばかり。
こんな闇へ引き込むうな迫真にせまる演技をする、オカルトな女優は…、
「一体、誰なんだ!」
<何となく、見たことはある…が…、誰だか分からない>
テレビの前の視聴者も番組が終わる頃まで、誰か分からなかったようだ。


幽霊もゾンビもこ・こ・こ怖くない  蟹口和枝



     博打に興じる鎌倉武士


このお婆巫女の占いは、「よく当たる」と、義盛が言う。
巫女は、泰時を見据えると開口一番「双六、苦手だろ」と言い放つ。
泰時は、実朝からその真偽を尋ねられ
「苦手というか、子供の頃から、双六をすると、どういうわけか具合が
 悪くなってしまうんです」
と答えた。
これは泰時の真面目な性格を表現した場面である。


幸よりも不幸来ぬこと祈ってる  雨森茂樹





次にお婆巫女は、実朝に目線を移して、
「雪の日には気を付けるべし」と、暗示のような言葉を呟いた。
やがて実朝にせまる闇の予告である。
<おばば巫女は、こんなことを言っていたな…>
しっかりと記憶にとどめねばならない、忠告だったのだが……、
実朝は、何のことか意味が解らず、聞き流してしまった。
そして実朝が悩める気持ちをうちあけると、
「自分だけの悩みではない」
という巫女の言葉に涙してしまう。


聞き洩らし言い洩らしして黄昏れる  宮原せつ


 SNSに届いた視聴者の声ー①

特殊メークを施し、歩き巫女役で気味悪い婆を演じたのは、
演技派女優・大竹しのぶさん だった。
番組が終わっても、大竹しのぶと気付かなかった視聴者も少なくなかっ
たようだ。あとで正体がわかると、
「大竹しのぶ凄い」「すごい存在感」「すごっ!別人」「これ大竹しの
ぶさん?」「大竹しのぶ怪演!」「なんちゅう女優さんなん…すごいわ」
「すごいな、大竹しのぶさん」「まったく分からない」「すごすぎる」
「うまいな~」「北林谷栄さんテイスト」「まじですごい」と、驚きと
絶賛の声がSNSにあふれた、という。


爪紅く染めて楽しい姥盛り  木本朱夏
 
 

                                      大竹しのぶ 七変化

  
  歩き巫女役について、大竹しのぶさんが語っているー①

「いかようにもやれるというか、おかしくもできるし、怖くもできるし。
 ちょっとおかしなセリフの言い回しとかもあるんですけれども、
 ただ一つだけ三谷幸喜さん作品によくある、そこに隠されている真実
 のようなもの、それはちゃんと伝えなければいけないと思いました。
 でも、面白いところもないとつまらないし、面白さ7、深み1、あと
 2は勢い、みたいな感じですかね」 と。


さりげなく本音をもらす丸括弧  宮井いずみ
 

 
            大竹しのぶ 七変化  
 

  さらに、大竹しのぶさんが語っているー②

「ちょっと不思議な感じはあってもいいかなと思ったんですけど、
 本当だったら100歳くらいの方がやれれば一番いいような役なので、
  <私でいいのかな>というのはありますけれども。
 でも、特殊メーク担当の江川悦子さんもすごく凝ってくださって、
 それがすごく自然にできていたので楽しかったです」
と、小悪魔的な笑顔を浮べ、ご満悦のコメントを聞かせてくれた。
また、歩き巫女が実朝の悩みを聞くシーンについては、
「勇気をあげたいというか、真実を伝えることで、<それが実朝の生
 きる勇気になればいいな>というのは思いましたね」
と、ドラマの世界から乖離する大竹さんであり、続いて、
「それが世の常なんだよね」と、<シナリオにない言葉が脳を掠めた>
と、役柄にのめり込む女優・大竹しのぶだった。


魂は歳をとらずにいるらしい  まつもともとこ


SNSに届いた視聴者の声ー②

「大竹しのぶさんの歩き巫女のおばば、実朝に救いの助言、よいなぁ」
「大竹しのぶ女史が全く本人に見えなくて震えた」「巫女を演じる大竹
 しのぶさんが、あまりにもハマっていて笑ってしまった」
など、大竹しのぶ、 のまさかの登場に、SNSも賑やかだった。
まさに大竹しのぶ「こにあり」であったー第35回ドラマであった。
「何!あなたはこの場面を見なかった?」
「それは残念!」


いちゃもんを付けたドラマをまた録画  靏田寿子
 


「ついでですから忍者について蘊蓄を」


忍者の始まりは一説によると、聖徳太子が、自身に仕えた「大伴細入
(おおとものほそひと)に「志能便」(しのび)という称号を与えた
ことが発端だという。
戦国時代に入り、忍者は各地の戦国大名に召し抱えられ、敵の本拠地に
侵入し「変装して情報を集める」「夜討ちをかける」時には「破壊工作
なども行う」とされてれる。
しかし、忍者にとって最も重要な仕事は、「敵方の状況を主君に伝える」
ことであったことから極力戦闘を避け、生き延びて主君のもとに戻るこ
とを最優先の任務とした。
基本的に忍者は戦いを避け、百姓などをして人々の生活にまぎれて諜報
活動をし、情報を集めて主君にそれを伝えるのが仕事だった。


腹式呼吸くちなしの香を吸い込んで  山本昌乃


忍者といえば、伊賀甲賀の忍者が非常に有名だが、忍者は日本各地に
存在した。例えば、
「根来衆」は、戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯に居住
した僧兵たちの集団である。
「雑賀衆」と同様に鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍した。
(根来衆は、信長には好意的であるが、権力の継承者であるはずの秀吉
には、なぜか反抗的な態度をとり、雑賀衆と共に大坂を攻め豊臣秀吉の
心胆を寒からしめたのは有名)
 
 
あなたの影踏まないように前を行く  青木敏子


毛利家の忍者で有名なのが「世鬼(せき)一族」である。
毛利元就は25名の「世鬼家枝連衆」を足軽として扶持し、領内六ヶ所
にわけて住まわせた。
また毛利には「座頭衆」という忍者集団がいた。
宿敵・尼子晴久を滅ぼす切っ掛けを作ったのが、この座頭衆である。

上杉謙信「軒猿(けんえん)」という史上最強の忍者組織を作った。
謙信が関東に出兵した際、謙信暗殺をもくろんだ北条氏お康抱えの忍者・
「風魔党」波多野治右衛門、当麻平四朗を捕えている。
また川中島の戦いでは、信玄の透波(すっぱ)17名を生け捕りにした。
生きたまま忍者狩りをするとは、軒猿の腕の高さがうかがえる。


網目から月燦燦とこぼれだす  市井美春


武田信玄には、先に述べた「透波(すっぱ)」という忍者集団がいた。
透波は「歩き巫女」と同様、全国の情報集めの衆として活動した。
信玄が「足長坊主」の異名があるほど、遠国の情報に精通していたが、
それは透波選りすぐりの「三ツ者」と呼ばれる忍びたちの働きが大きか
ったといわれる。
(透波は「すっぱ抜く」の語源にもなる)


どことなく由緒正しき胡麻豆腐  新川弘子
 
 
北条を支えた忍者は、「乱波」とも呼ばれる「風魔党」である。
黄瀬川の戦いにおいて、対岸の武田の陣に毎晩のように夜討ちをかけ、
天候が悪くても、お構いなしに襲いかかり、将兵を生け捕りにしては
なぶり殺し、綱を切って馬を奪い、陣に火をかけ、武器・食糧を強奪
するなど、荒っぽいやり口に歴戦の武田勢も次第に疲弊させた。
こういう悪の集団であったため、乱波と呼ばれた。


蛸足の発火しそうな脳になる  木口雅裕



        服部半蔵

家康の「伊賀越え」に際し、出自が伊賀の半蔵は、伊賀、甲賀の土豪と
交渉し、家康を伊勢から三河の岡崎まで護衛し助けた。
この貢献がきっかけで伊賀や甲賀は、のちに馬廻、江戸城本丸・西の丸
を守る同心として徳川幕府に仕えた。


「伊賀忍者」は京都に近く、京都から流れてきた政治や情勢に精通した
人材を隠密として育成できたため、数多くの優秀な人材を輩出している。
政治の中心であった京都から流入してくる人材は、教養のある者も多く、
当時としてはまだ希少だった文字の読み書きができる者も伊賀忍者には
多かったという。
ゆえに伊賀者は、忍術や戦闘能力に秀でている者が多く、数多くの戦で
貢献をした。


そこそこに走る京都を中心に  中村幸彦


「甲賀衆」は、一国に仕えず、甲賀の里を領地とする歴代の領主達との
緩やかな主従関係を保った。
その他、伊達には「黒脛巾組」(くろはばきぐみ)
真田には「草の者」がいた。
徳川8代将軍・吉宗が紀州から連れて来た「御庭番」は。いまさら説明
をすることもないだろう。


推測ですが犬よりの猫ですね  中山奈々


薩摩・島津家では、神官や山伏に、体術・武術・霊術などを修行させて
忍者を育成した。そして組織化された集団を
「山くぐり衆」または「薩摩忍衆(さつましのびしゅう)」と呼んだ。
修験者・行者である山伏は、藩に重用され、藩から禄をもらい、藩士と
して仕事をした。領内の山伏を取りまとめ、安産、男子誕生、参勤交代
の無事、病気平癒、陣中において、戦勝祈願や呪いなどもした。


苦労性もしもばかりを考えて  荒井加寿

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人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子



建永元年(1206)2月、実朝が義時の山荘で催した和歌会。
(この同じ年に公暁が、政子邸で着袴の儀を行っている)


「諫言は苦くても妙薬 甘言は心地よくとも毒薬」
 
奇妙なことに後鳥羽院は将軍・実朝に対して、しきりに官位を薦めた。
権中納言へ推挙(1213)以来、権大納言、兼左対象、内大臣、そして27
歳にして右大臣へと、実朝は異例の出世を遂げるのであった。
朝廷の後鳥羽院一派による「官打」である。
官打とは昇進させて早死に狙う院が謀った呪い…分不相応な官職につけ
ることで相手がそのプレッシャーに負けて、早死にすることを意図した。


してあげるやってあげるという目線  河村啓子
 
 
何とも姑息で陰険な策謀だが、後鳥羽院は実朝だけでなく、執権・義時
に対しても、興福寺や延暦寺に命じて呪詛を行ったといわれている。
それほど後鳥羽院は、鎌倉政権を嫌悪し、全面的に否定していたという
ことだろう。
政子や義時、そして京の事情に通じた大江広元は、実朝の昇進に危惧を
感じていた。広元は、義時と相談し、実朝に諫言するのだが、実朝
「源氏の正統が絶えようとしている今、せめて自分が高官になって名を
 のこすしかない」
と、退けたという。
聡明な実朝は、自身と源氏の嫡流の行く末を予感し、すでに諦めの境地
だったのかもしれない。


あなたへと堕ちる真っ逆さまに点  山本早苗


「鎌倉殿の13人」 実時暗殺ーカウントダウン



「建保職人歌合」 
(国立公文署内閣文庫蔵)
陰陽道は鎌倉でも重要な役割を果たし、陰陽道たちは寺院の僧侶たちと
並んで祈祷をおこなった。


建暦3年(1213)、この年の正月も義時「正月垸飯」を勤仕した。
正月垸飯とは、正月3が日に行われ、有力御家人が日替わりで担当した。
垸飯を担当した者は、その後の「御行始」に同行することができる。
御行始というのは、将軍が有力御家人の邸宅を訪問し、饗応を受ける行
事のことだが、義時は、この頃から「政」に目覚めた将軍・実朝を警戒
し始めていた。
義時にとって、実朝をあくまでも飾り物の将軍であり、政の実権は執権
である自分にある。
考え方の相違は必然的に、2人の良好な関係を悪い方へと進んでゆく。


繋ぐ手は緩い手錠のようでした  真鍋心平太


そんななか5月2日、ついに事件が起った。
実朝の側近であり、最も信頼を置く侍所の長官・和田義盛の軍勢が突如
蜂起し、執権・北条義時の館を襲ったのである。
これは義時の罠だった。
義時は和田一族に謀反があるとして一族の者を捕らえ、和田義盛を挑発
していた。執権・義時に兵を挙げた義盛は、幕府への反逆者とされ、
鎌倉武士団に討ち取られてしまったのである。
(義時は、義盛に代り侍所長官・別当に就任、幕府の軍事力を掌握した)
実朝から軍事力を奪い、将軍の政治力を失わせようと考えたのである。
この事態に実朝は、危機感を抱いた。
<なんとしても北条氏を押さえなければならない。しかし父頼朝以来、
 源氏に忠誠を誓ってきた和田義盛は、もはやいない>
この時、実朝の脳裏に浮かんだのは、和歌によって繋がりを深めていた
朝廷の権威だった。


合点がいかぬとじゅんさいのヌメリ  山本昌乃


「和田の乱」から半年後、実朝のもとに朝廷からの勅命が届いた。
将軍の直轄領から「税を徴収する」というのである。
これに鎌倉武士たちは猛然と反発した。
もし将軍である実朝が、朝廷に税を納めることになれば、それは関東武
士が、朝廷から実力で奪い取った領地の支配権を、ふたたび朝廷に返上
することになりかねない事態となる。
 だが、この時、実朝は意外な行動にでる。
なんと朝廷の納税命令を受け入れたのである。
実朝の狙いは、朝廷との結びつきを強め、自らの官位を上げることだっ
た。源氏の名と将軍の権威を高め、北条氏などの有力武士団を押さえ込
むことが目的だったのである。


移ろいの季節に棒杭をたてる  高橋 蘭



「玉藻前草紙」 常在院蔵
京文化に憧れた実朝は、陰陽道など鎌倉に京風スタイルを取り入れた。


さらに、実朝と鎌倉武士たちとの亀裂を深める事件が起った。
下野国の長沼宗政が幕府に謀反を企てた者を討ち取り、その首を携え、
鎌倉にやってきた時のことである。
反乱を未然に防いだことで「恩賞をもらえる」と思っていた宗政に、
 「なぜ将軍の私が命じる前に勝手にこの者を討ったのか、生きたまま
 捕えれば、本当に謀反の罪があるか確かめることができたであろう。
 お前の粗忽な振る舞いこそ罪である」
と、実朝は激しく叱責した。
これに怒った宗政は、不満を吐いた。
「将軍は、和歌や蹴鞠ばかりを重んじて、武芸を廃されようとしている。
 こんなことでだれが将軍に忠節を尽くすというのか」と。


雨音を集めて耳は不眠症  笠嶋恵美子


「武功」に対し、恩賞を与えようとしなかった実朝に、武士たちの反感
が募っていく。そして決定的な出来事が起こった。
実朝が、和歌や学問の師として都から招いていた公家の源仲章を、幕府
政治の中枢に送り込んだ。
有力な武士たちを押さえるために実朝は、側近の公家を武家政権の中心
に置いたのである。
実朝は、仲章を登用したこのころから、盛んに朝廷に働きかけ、官位を
上げようとしていた。
朝廷と結びつくことで鎌倉幕府を全国政権とし、民のために理想の政治
を行おうとする実朝の夢があった。


助走用カプサイシンを三匙ほど  平井美智子


建保4年(1216)9月20日、実朝の許に側近の大江広元が訪れた。
広元は、官位を上げ続ける実朝に、武士たちが反発していることを告げ、
次のように諫言した。
「父君、頼朝様のように、すべての官位を朝廷に返上なさり、願わくば
 武家の棟梁、征夷大将軍に専心されることが肝要かと存じます」
実朝は応えた。
「お前の言うことはもっともである。しかし、自分は体が弱く世継ぎも
 いない。いずれ源氏の血は絶えるえあろう。自分にできることは高い
 官位を得て、源氏の名を高めることだけなのだ」


口封じされて噂のど真ん中  上田 仁



右大臣・源実朝

世の中は  常にもがもな  渚漕ぐ 海人の小舟の  綱手かなしも
(この社会がずっと普段通りであるといいなぁ。海人が小船の綱を引く、
 そんな普通の光景にも、心動かされるものだよ)


「官打」

建保6年(1218)12月2日、実朝に待ちに待った知らせが届いた。
朝廷が武家としてはじめて「右大臣に任ずる」というのである。
この時、実朝は、右大臣への昇進が、実朝の失脚を狙った朝廷の呪い
「官打」であることを知るよしもなかった。
<征夷大将軍として、武家の頂点にある自分が右大臣となり、朝廷を動
 かすことになれば、幕府の力は全国に及び、父・頼朝の名に恥じない
 将軍となれる>
実朝は希望を抱いた。


うまそうな奴だ溢れる人間味  松浦英夫


しかしこの知らせは、北条義時ら鎌倉武士たちに衝撃を与えた。
<実朝はついに朝廷に取り込まれ、幕府の朝廷支配からの独立を、
 無に帰そうとしている>
それは武家政権の崩壊を意味していた。
2ヵ月後の建保7年1月27日。
その夜、「右大臣就任」を祝賀するため、将軍・実朝は、鶴岡八幡宮に
参拝することになっていた。
夕刻、出発が近づくと側近・大江広元が実朝に注進した。
「今日なぜか私は、涙を止めることがっできません。これは不吉な前触
 れかもしれませぬ。どうか装束の下に、鎧をおつけになってください」


もしもって嫌い自分を信じたい  前中知栄


これに、公家の源仲章が反対した。
「右大臣が晴れの場で鎧をつけるなど、前例がない」
実朝は仲章に従い、鎧を身につけなかった。
そして出発の間際、実朝は一首の歌を詠んだ。

「出で去なば主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ春を忘るな」
(主の私がいなくなっても、庭の梅よ、春を忘れずに咲いておくれ)


覗きみる今どの辺り今何時  中野六助

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右向けば黒ヤギさん左向けば白ヤギさん  酒井かがり



           白 拍 子 図 (東京国立博物館蔵)


後鳥羽上皇「白拍子芸」がことのほか好きで、しばしば、
遊芸の宴を催した。 白拍子を母に持つ皇子も多かったという。
そして、上皇の寵愛を一身に受けた伊賀局亀菊を愛するあまり、
摂津国長江・倉橋の荘園を与えた。
ところが、この両荘の地頭が亀菊とトラブルを起こし、亀菊は上皇に泣
きついたのである。
怒った上皇は、鎌倉幕府にこの地頭を罷免するよう要求した。
幕府としては、創業以来の基本方針を崩すわけにいかないから、
当然、これを拒否する。上皇は幕府への反感をますます強め、
のちに勃発する「承久の乱」の一因となった。


B型で左ツムジで左利き  くんじろう



       『松崎天神縁起』 (山口県防府天満宮蔵)


「鎌倉殿の13人」 後鳥羽上皇と実朝


 頼朝のあとを受けて長男の頼家が鎌倉殿となった。
しかし、3か月もたたないうちに、頼家は裁判権を奪われ、
13人の有力御家人の合議による裁判とされた。
頼家は父のような独裁者となる途を阻まれたのである。
翌正治2年(1200)には梶原景時が殺された。
66人の御家人たちが、讒言魔として知られる梶原を頼家に糾弾し、
梶原は鎌倉を追われ、謀叛を企てて上洛の途中、駿河で討死をした。
(「讒言」の内容は、九条兼実の日記『玉葉』によると、
 「景時は御家人たちが頼家の弟の千幡を立て、頼家を討とうと
 企てているのを頼家に告げたのだ」とある)


目立ちたいおれには不向き黒子役  松浦英夫


鎌倉では、頼家派と千幡(のちの実朝)派が対立しており、頼家は、
景時を庇いきれず、みすみす忠臣を失ってしまったのである。
そして千幡派の中心が、実は、北条時政だった。
時政や政子が頼家を嫌ったのは、頼家の外家・比企氏の台頭を恐れたた
めである。
頼朝の乳母の養子依頼として重用された比企能員は、娘を頼家の妻とし、
その間に長男一幡が生まれ、頼朝時代の北条氏と同様に、鎌倉殿の外戚
の位置を占めようとしていた。

ついに建仁3年(1203)時政は、比企能員をはじめ比企氏を滅ぼし、
一幡を殺し、頼家を伊豆へ退け、翌年に殺害し、千幡を鎌倉殿に立てた。
時政は執権に就任し、ここに執権政治がスタートした。


この線は君がなんとかしなくっちゃ  宮井いずみ
 


後鳥羽上皇


一方、京都では源通親が権勢を振るっていた、が、しだいに後鳥羽上皇
の発言が強まり、建仁2年に通親が没すると、上皇が実権を握った。
その翌年、鎌倉では頼家と実朝の交代が行われ、その後の後鳥羽上皇―
実朝の公武関係は、後鳥羽の主導下に展開され、往年の後白河―頼朝の
それとは異なった相貌を示すに至る。
上皇は、通親時代に逼塞していた九条家を優遇するとともに、
公武融和を図って、親幕的な政策をとった。
(頼朝・九条兼実の間に一時は気まずい時期もあったが、九条家の動き
 は、概して親幕的であった)


物差しの目盛り大きくして暮らす  前岡由美子



後鳥羽上皇に最も長く仕えた坊門局の華麗に舞う姿
上皇の心が亀菊に行っても、坊門局の心は上皇の側にあったという。


幕府が「千幡擁立」を報告すると、後鳥羽上皇は、直ちにこれを承認、
征夷大将軍に任命して「実朝」の名を与えた。
上皇はその閨閥の中に、実朝を組み込もうと考えた。
元久元年(1204)実朝は、上皇の近臣・坊門信清の娘を妻として迎
えた。
(信清の姉・七条院・殖子は上皇の母であり、実朝夫人の姉・坊門局は、
 上皇
の女房である)

この婚姻で上皇と実朝は、義理の兄弟のようになり、実朝自身が、
院の近臣化したのである。
縁談を推進したのは、上皇の乳母として信任の厚い藤原兼子である。
彼女は坊門局を養女とし、坊門局が産んだ上皇の皇子・頼仁親王を養育
していた。
鎌倉側で兼子に応じたのは、北条時政の後妻・牧の方であった。

時政・牧の方夫妻の娘は、実朝夫人の兄弟にあたる坊門忠清に嫁して
 おり、北条氏は坊門家とも、繋がりを持っていた。 実朝擁立で、
 幕府の実権を握ったのは、どうやらこの夫妻のようだ)
 
 
  約束はあじさい色の気がするわ  岡谷 樹


このとき京都の警備、公武の連絡にあたる京都守護として上洛を命ぜら
れたのは、夫妻の娘婿・平賀朝雅である。
朝雅は、上皇によって右衛門佐に任ぜられ、上皇の「笠懸の師」となり、
近臣のように遇されていた。
夫妻は、このように後鳥羽上皇とまでつながりを持っていたが、
夫妻のこのような跳梁に反発する者もいた。
牧の方の継子にあたる政子・義時らである。
元久二年(1205)時政夫妻は、ついに平賀朝雅を将軍に立て、
実朝を殺そうと図った。
が、陰謀は失敗に終わる。
政子・義時によって時政らは、伊豆に流され、朝雅は京都で討たれ、
義時が執権となった。
幕政の実権は、ここに時政から政子・義時に移った。
(幕府の内紛も上皇と実朝との関係に影響をおよぼすことなく親密な
 関係は続いた)


雲梯の二段抜かしよ喫水線  蟹口和枝



     上皇が催す歌会に集う公家たち

「山は裂け海はあせなん世なりとも 君にふた心わがあらめやも」
                        (『金槐和歌集』)
実朝は、この歌で上皇に対する忠誠心を示した。
上皇と実朝とを親密ならしめた和歌である。
上皇は和歌に造詣深く、譲位後はさかんに歌合を主催し、
建仁元年(1201)には、和歌所を置いて『新古今和歌集』の撰定にも
着手し、4年後の元久2年に完成させている。
その後の『勅撰和歌集』は、治世の記念碑としての政治性を帯びたものと
なっている。

「公家政治」において理想の聖世と見られた「延喜の治への回帰」の意識
が、上皇の政治にも文学にも認められるように、上皇の願いであった。
(『新古今和歌集』に頼朝の和歌を採ったのも、幕府も傘下におさめよう
 とする上皇の政治思想によるものである)
 
 
四捨五入してまるい輪のなかにいる  下谷憲子
 

上皇の「公武融和政治」は、やがて障壁に直面する。
頼家幽閉という非常手段によって「執権政治」は成立したが、
それだけに執権政治は、
「故将軍御時拝領の地は、大罪を犯さずば召放つべからず(没収しない)」
という、御家人領保護の方針を強く打ち出すことによって、
御家人の支持を確保していた。

一方、後鳥羽上皇が、実朝を通じて伝える幕府への要求には、
「御家人の権益を否定」し、この「執権政治の基本原則と抵触する」
ものが、含まれていた。
「上皇が熊野詣でをするための課税の障害になる」とか「沿道の和泉・
紀伊の守護をやめさせろ」とか「備後国大田荘の地頭を停止せよ」とか
の類である。
西国の関東御領に「臨時に朝廷から課税」が行われた際、
大江広元が拒否を主張したのに対し、実朝は、
「課税の際にはあらかじめ通知してほしい」
と、緩やかな形に回答を改めさせている。


どっちやろちくわの穴の出入口  古崎徳造


このように実朝幕府官僚との意見の違いが、しばしばみられた。
が、しかし、太田荘の場合には、ついに実朝も、
「頼朝の時に任ぜられた地頭を咎なく改易することはできません」
として拒否したのである。
しだいに後鳥羽上皇は、実朝に対しても不満や焦燥を募らせていく。
実朝は上皇と執権政治との板挟みとなって苦しみ、建保4年(1216)
頃から、実朝の言動には、奇矯さが目立つようになる。
宋に渡ろうとして船を造るが失敗する。
子供が生まれないのに絶望して、官職欲が異常に高まる等である。
上皇との心の隔たりが大きくなり、実朝は和歌を殆ど作らなくなった。


ジャンプの高さはあなたとの親密度  市井美春
 


西園寺公経
 
建保5年、後鳥羽上皇実朝との亀裂を深める事件が起こる。
実朝の遠縁にあたる権大納言・西園寺公経は、上皇の覚えもよく大将の
官職を望んで上皇もこれを約束していた。
一方、藤原兼子の夫の大炊御門頼実も、養子の師経を大将にしようと運動
していた。
ところがある手違いから、公経は、上皇が約束を違えたものと誤解し、
「それなら私は出家でもしましょう。幸い実朝にゆかりがあるから、
 関東に下っても、なんとか生きて行けるでしょう」
と放言した。
これを聞いた上皇は、立腹して公経に謹慎を命じた。
ところが実朝は、これを知って強硬に兼子に抗議したため、
兼子のとりなしで、公経は出仕を許された、といういきさつがある。
これは小さな事件に過ぎないが、上皇と実朝の関係をいよいよ悪化させる
契機となった。


どうなるのだろう裏表紙のけむり  大島都嗣子


翌年政子は、熊野詣でに赴いた帰途、京都で藤原兼子と会った。
目的の一つは、険悪化した公武関係の修復であったが、
もっと重要なのは、実朝の後継者の問題である。
実朝が嗣子に恵まれないため、坊門局が産み、藤原兼子が養育している
後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を鎌倉に迎えようという話が進んだのである。

ところが、翌承久元年(1219)に、このような話し合いを反故にする
大事件が起きた。
「実朝暗殺」である。
 
 
しっかりと覗いたつもり曲がり角  津田照子

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黒ばかり減った戦争のお絵かき  下谷憲子
 
 
 
          頼朝の前に居並ぶ御家人たち
正面頼朝から段差下左に大江広元 右に北条時政、和田義盛、畠山重忠
 
 
鎌倉本流の源実朝が、承久元年(1219)に死亡した時には「鎌倉殿
の13人」の鎌倉幕府に残るメンバーは三善康信・北条義時・大江広元
の3人だけになっていた。実際のところ、13人の合議制は、成立して、
翌年には瓦解し始まり、「頼家の独裁」「比企氏の乱」「牧の方の乱」
で崩壊、そして「和田義盛の乱」で消滅した。


生成りのあれは昨日の紙芝居  高橋 蘭


「鎌倉殿の13人の男たちの蜉蝣」



  梶原景時

 
梶原景時
優れた行政官だが讒言で敵を増やし、駿河への帰路、仲間の御家人らと
清見関にて戦闘になり、3人の息子たちが討死すると、梶原景時は西奈
にて自害。正治2年(1200)2月、60歳だった。
三浦義澄
頼朝の死去の翌年、梶原景時「鎌倉追放」に加担し、梶原氏の終末を
見収めるように、その3日後に病没。正治2年2月、74歳。
安達盛長
頼朝の死後、出家して蓮西と号するも「梶原景時排斥」を主導するなど、
存在感を保った。頼朝の死の翌年、正治2年6月に死去。66歳。
比企能員
比企氏にとって北条氏は脅威でしかなかった。能員頼家と謀り、時政
の追討を画策、これを察知した時政によって騙し討ちにされ一家は全滅。
建仁3年10月(1203)のこと。頼家は伊豆へ流された。
頼家の子・善哉は出家し、公暁の号で八幡宮に入った。


殺陣師から習うこの世の倒れ方  清水すみれ
 

 和田義盛

足立遠元
院の権力と結ぶ足立遠元の人脈や素養は、幕府の対朝廷外交に大きな力
を発揮したが、承元元年(1207)3月3日の「闘鶏会」にまつわる
『吾妻鏡』の記事を最後に、歴史の資料からその名を消している。
中原親能(ちかよし)
頼朝の次女の死後、出家(寂忍)したが、その後も、京に常駐し幕府の
スポークスマンとして陰ながら活躍をつづけた。承元2年(1209)
京都で卒去。66歳。
和田義盛
幕府で最も傑出した武将と称えられた侍所の別当・義盛は、権謀術数を
駆使する北条義時の挑発に乗せられ、建保元年(1213)「和田合戦」
を起こした。その勝負は2日間で決し,義盛そして和田氏は滅亡した。
66歳だった。
八田知家
比企氏に通じ北条時政と対立。頼家により嫌疑をかけられ、阿野全成
誅殺したのも時政の次女・阿波局を妻としていたからか。和田義盛滅亡
の5年後の建保6年(1218)に死去。76歳。


媚びたりしない白い紫陽花  みつ木もも花
 
 
 比企能員

三善康信
「承久の乱」で、大江広元とともに即時出兵を唱えて勝利に貢献、その
直後の承久3年(1221)8月に死去した。82歳。
二階堂行政
3代将軍・実朝の死を悼み出家するも、訴訟や政務を審議する「評定衆」
の一人となり、貞永元年(1232)に「御成敗式目」の制定に参加、
暦仁元年(1238)まで生きた。死去年齢不明。
北条時政
鎌倉幕府初代執権。元久2年(1205)「牧氏の変」により、娘政子
によって牧の方とともに伊豆島へ配流・隠遁生活を強いられ、建保3年
(1215)腫物で死去するまで伊豆の島で暮らした。78歳。
(牧の方は時政の死後、京都へ戻り、15年近く暮らしたという)


キミの名はらっきょだったのか  そうか  高野末次
 
 
  北条義時
元仁元年(1224)6月死去。
大江広元
時に話をはぐらかし、態度を曖昧にすることで政争から巧みに身を躱し、
宿老として常に幕府の中心に位置し、政所を仕切った。
嘉禄元年(1225)6月死去。
北条政子
政子は13人の合議制には入っていないが、ある時は表で、又ある時は
陰で義時を支援し、鎌倉という船の舵をとった。
嘉禄元年(1225)7月死去。
義時・広元・政子の3人は、仲良く自らの役目を終えた様に世を去った。


黄昏色のドアに待ったをかけておく  前岡由美子
 


        大磯ー和田義盛と朝比奈義秀


「鎌倉殿の13人」 和田義盛

 
和田義盛は34歳で「頼朝旗揚げ」に三浦一族として参戦し、その後の
戦さにも加わっている。
その後、鎌倉に本拠を定め、軍事政権として内乱の過程で成立した鎌倉
幕府において、頼朝の御家人として、主従関係で結び付いていた。
治承4年(1180)のことであった。
すると幕府に、御家人たちを統制する機関が必要になった。
それが「侍所」であった。
また「別当」は、最も軍略に優れ武勇の士である者が選ばれた。
その初代長官から実朝時代まで3代に渡って、別当として君臨したのが
和田義盛である。


毎日が等身大の福笑い  北山まみどり


合戦に当たっての義盛の武技は、弓矢に優れていたという。
頼朝が弓馬に優れ、忠節なる御家人22人を選出した際にも、義盛は選
ばれているほどである。まさに義盛は、頼朝に忠実で奉仕し功を重ねた。
さらに頼朝の耳目の役割をも果たした。
頼朝が死亡して、頼家が将軍になると、宿老13人の合議制が生まれた。
この13人に義盛は、当然、名を連ねた。
梶原景時「謀叛事件」には、積極的に動き、景時失脚後、義盛はその
影響力を強めた。


今日もまた一番星をさがしてる  奥山節子


やがて、北条氏の権力の前に立ち塞がる御家人は、比企能員和田義盛
など数人に過ぎなくなった。「比企氏討伐」に関しては義盛は北条時政・
義時父子に加担して「政敵・比企氏」の排除を計った。
だが、北条氏の権力が大きくなり、独裁制を強化するようになると、
北条と和田の対立は避けられなくなった。
この後、「畠山重忠追討」に続く、時政と牧の方による娘婿・平賀朝雅
を将軍に擁立しようとした「牧氏陰謀事件」によって時政が失脚すると
その後の北条氏の権力は、義時に移った。


何事も無い顔をして桜咲く  新家完司
 


        義盛を攻める義時の兵士


「和田合戦」


建保元年(1213)、鎌倉殿の3代・実朝の10年目。
和田義盛は、鎌倉幕府創立以来の功臣であり、御家人の最長老であり、
しかも、御家人に頂点に立つ侍所・別当であり続けた。
一方、2代執権・北条義時は、「権力をより強固なものにするため」に
大きな力を持っている義盛の力を削ぐことを計画した。
義時がきっかけとしたのは、
<実朝を将軍職から引きずり下ろし、代わりに、頼家の遺児を擁立して
 北条氏を倒す>
とする信濃の武士・泉親衡(ちかひら)が謀ったクーデター計画だった。
この泉親衡のクーデターに、和田氏一族が加担していることが発覚した。


お疲れのようだ あちこちから煙  竹内ゆみこ


義盛の甥・和田胤長が捕縛されたまま、義時の被官・金窪行親に連行さ
れて処罰された。和田一族に下げ渡されるはずの、胤長の屋敷地も没収
してしまった。
これは義時が、この一連の事態を利用し、もともと短慮な性格の義盛を
挑発したものだった。
この義時の度重なる挑発に、義盛はぶち切れてしまった。
まんまと挑発に乗ってしまった義盛は、同族の三浦一族の三浦義村を味
方に引き入れて、「北条氏打倒」へ挙兵、将軍御所や義時邸を襲撃した。
「和田合戦」である。


ふーっと息吐いて変身するナイフ  宮井いずみ


ところが、一度は同心した三浦義村の裏切り、また、唯一の頼りにした
3千騎を引連れて、駆け付ける手筈だった横山党の横山時兼が、事前に
予知していた義時側に足止めをくらい、義盛は孤立状態となった。
さらに土尾・山内・土肥・愛甲・逸見氏などの御家人が和田側にいたが
義時の狡猾な戦略に封鎖されていた。そして5月2日、
「君側(くんそく)の奸を討つ」として兵を挙げた義盛軍は、
4日の明け方には壊滅し、和田一族は滅亡した。義盛67歳だった。
(和田義盛が死亡したことで義時が侍所・別当を兼任、北条の執権政治
体制が確立した)


不都合はボタン一つで はい消去  津田照子
 


 北条義時


【付録】 その後、

建保元年 (1213)
1月、実朝、正二位に、義時、正五位になる。
5月、和田合戦。義時、侍所別当4兼任する。
8月、義時、新造御所に移徒の実朝に随従する。
建保4年 (1216)
1月、義時従4位、広元陸奥守となる。
4月、将軍家政所別当9人制となる。
6月、実朝が権中納言となる。陳和卿が実朝に拝謁する。
9月、義時・広元による実朝への諫言・「官職推挙懇願」がされる。
11月、実朝、権中納言の直衣始を行う。
   実朝、唐船建造を命令する。義時これを諫言する。
建保5年 (1217)
1月、義時、右京権大夫に。実朝の唐船、着水失敗に終わる。
6月、公暁が鎌倉に入る。
10月、公暁が鶴岡八幡宮別当となる。
11月、広元が陸奥守を辞任する。
12月、義時が陸奥守を兼任する。
建保6年 (1218)
1月、実朝、権大納言となる。
3月、実朝、左近衛大将となる。
4月、政子、従3位となる。
7月、泰時、侍所別当となる。
10月、実朝、内大臣となる。
12月、実朝、右大臣となる。
この翌年、鎌倉に大事件が勃発する。


さて今日も今日とて並のメニューです  山本昌乃

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アバターの黒いタイツに電線が  河村啓子



       北条政子愛用の手箱の硯箱  (複製)(縦35×横42×高さ33㎝)

手箱は後白河法皇から頼朝に下賜され、政子が主に化粧道具入れとして
使用していたとされる。
明治7年、ウィーン万国博に出品の帰途、伊豆半島沖で船が沈没。
その時、手箱は海の中へ消失した。


ついに建仁3年(1203)9月2日。
2代将軍・頼家の妻・つつじの実家である比企氏と、政子の実家である
北条氏との間で戦闘が起った。
この戦いで、比企氏は北条氏に滅ぼされたが、苦悩した政子はまもなく
一つの決断をした。
<頼家がこのまま将軍を続けていると、幕府の混乱が収まらない>
政子は頼家を出家させることにした。
同年9月末、頼家は、伊豆の修禅寺に幽閉された。
孤独と寂寥に耐えかねた頼家は、
「深い山の中で、何もすることがありません。せめて側に仕える者だけ
 でもよこしてください」
と、鎌倉の政子に訴えた。
しかし、政子はその訴えを許さなかった。
以後、頼家が使いを寄こすことすら禁じた。


廃線は途切れ下弦の月残る  藤本鈴菜


翌元久元年(1204)7月18日。
頼家は幽閉先の修禅寺で殺害された。享年23歳。
その時政子は、48歳。
その肩には、「混乱した幕府の立て直しをはかる」という重い荷物が
課せられることになった。


言い訳は出来ない七月の指紋  山本早苗


「鎌倉殿の13人」 政子と実朝


          
      北条政子            源頼朝

建仁3年10月8日、頼家の跡を継いで二男の実朝が三代将軍になった。
その時、実朝は、まだ12歳。
幼いながらも父・頼朝を彷彿させる心配りの闊達な人柄で、周囲にその
将来を期待させた。
だが12歳で、実際に政務を司るわけもなく、政子を中心に北条時政
大江広元が政所別当という地位で、政治の代行をすることとした。
政子が、政治の表舞台に立つようになったことを示す記述がある。
『尼御台所御計也』
尼御台所とは、政子のことである。
つまり「政子の裁量によって、武士たちに土地が与えられた」と記され
ているものである。
慈円『愚管抄』、「女人入眼の日本国」すなわち
「いまや日本は政子という女性の力で治められている」
と、記したのもこの頃である。


これからを口ぐせにするアホウドリ  富山やよい


ところが、肝腎の三代将軍の実朝は、母・政子の活躍と裏腹に、次第に
政治への関心が薄れていく。
和歌に熱中し、実朝は、朝廷の実力者で優れた歌人でもある後鳥羽上皇
心酔していったのである。
そんな実朝が、18歳の時に詠んだ和歌が、都の高名な歌人・藤原定家
認められ、後鳥羽上皇の前でも、披露されたのである。
実朝は歌人としても、注目を集めるようになった。


歌詠んであとは野となり酒となる  中村幸彦


「京の実朝邸」
藤原定家43歳が、実朝の和歌の指導に来ている。
定家「仙洞50首の御製でございますね。
   下の句のーやや影さむし よもぎふの月 ー
   ここが味わい深くてようございます」
実朝「しかし、これも入れると私の歌だけで、30首を超すね」
定家「お気になさいますな」
そこへ卿の局・藤原兼子50歳がくる。
兼子「また古今和歌集のご相談ですか、毎日、ご熱心なこと」
実朝「そなたもいい歌を詠んだら、採用してやるぞ」
兼子「とんでもない。私の腰折れなど…」
実朝「だろうな…」


苦労性もしもばかりを考えて  荒井加寿


実朝「で、何の用だ?」
兼子「鎌倉から将軍の正室に公卿の姫君を戴きたいと申して参りました」
定家「私には…適当な娘はおりませんが」
兼子「鎌倉が欲しがっているのは、坊門殿の姫君です」
実朝「前大納言は私の叔父御だ、その娘といえば私の従兄弟だよ」
兼子「だからです!坊門殿には5人も姫君がいらっしゃいますし、
   しかも上の姫は、上皇様ご寵愛のその御方。
   その妹君が鎌倉将軍の正室となれば…」
定家「上皇様と将軍は、ご姻戚になられる…!?」
兼子「京と鎌倉はよき関係になりましょう…」
実朝「尼御前だな言い出したのは」
兼子「私も同じ考えです」


たらればの話はすぐに盛り上がる  津田照子



             実朝の使用した硯箱
和歌や政所下文を書くときにつかったのだろう。


「話を戻す」
そしてある時、実朝は運命を変える一冊の書に出会った。
後鳥羽上皇が編纂を命じた『新古今和歌集』である。
その序文には、
「歌は世を治め、民を和らぐる道とせり」 とある。
実朝はこれをきっかけに、民のために政所を行った朝廷政治を学んだ。
そしてそれを将軍としての理想とするようになっていった。


網目から月燦燦とこぼれだす  市井美春



           「政所下文」 
冒頭の文字は将軍・実朝のものである。


「政所下文」とは、実朝が、幕府の命令を武士たちに発する際に出した、
公式文書のことで、末尾には、北条義時をはじめ、有力な武士たちの署名
が並んでいる。
このことは、実朝が合議による政治を行っていたことを示している。
つまりは実朝は、「最終的に自らの手で政治決定を行っていた」
と、いうことになる。
実朝は、政治に積極的に取り組み、武士を束ねようとした。
実際この頃、実朝は、盗賊が増えて民衆が困っていると聞くと、
これを厳しく取り締まるよう通達を全国に発し、 また、
壊れた橋が長く捨て置かれていると聞くと、これもすぐに直させた。
実朝は、和歌を通じて知った古の「朝廷政治を理想」として実践しよう
としたのである。


渋柿と呼ばれてやっと今日  井上一筒


しかし、将軍実朝が朝廷にならった政治を行い始めたことが、
鎌倉の武士たちに、次第に、不信の念を抱かせるようになっていった。
朝廷や公家はもともと、土地の支配権をめぐり、武士と利害の対立する
勢力だった。
実朝の父・頼朝はあるとき、弟・義経が平家を滅ぼした功績によって、
朝廷から官位を賜ると、これに激怒し、義経を死に追いやっている。
官位を受けた義経は、
「朝廷に取り込まれて、武家政権を危うくする裏切り者だ」
としたのである。
ー今、三代将軍・実朝が、和歌を通じて朝廷と結びつき、政所を行おう
としている。このことは鎌倉の武士たち、特に執権・北条義時にとって、
武家政治の危機と映りはじめていた。


助走用カプサイシンを三匙ほど  平井美智子



鎌倉時代の女たち
その後ろでは、男がややこをあやしている。


「政子は悪女ではなかった」

当時の武士階級の女性は、夫が死んだあと、家の中で非常に大きな権限
を握った。つまり、夫亡きあと、後家は家父長権を代行するのを認めら
れており、親子関係でいえば、親権が非常に強かった。
たとえば、母親と息子が違った意見を出したとすると、当時の人たちは
母親の意見に賛同した。
政子の頼家に対する諫めの言葉にしても、常識的でしかも冷静なものだ
から、御家人たちの指示を得られた。
息子だからといって、偏愛をしなかった。


さみどりの対角線にある戦さ  合田瑠美子


頼家が側近だけを大切にしたり、一所懸命の武士たちの土地に対して、
真剣に考えて取扱わなかったりしたのを見、実朝が、後鳥羽上皇と協調
路線を取ろうとするのを見、また聞くにつけ、政子は、生まれながらの
東国の女性だから、息子たちがだんだん違った方向へ行っているという
感は拭えなかっただろう。


親バカのどこかに支障ありますか  清水すみれ

 
新しい社会の建設を亡き夫・頼朝の路線に沿ってすすめていくか、
自分の子どもをとるか、二者択一を迫られたとしたら、
政子は躊躇なく、新しい社会の建設という方向を選んだ。
その決定が多くの御家人たちの支持を得て、鎌倉を北条を育てていった。
とはいえ、根の優しい政子は、期待した息子たちが、
期待どおりにいってくれない、というもどかしさを胸に抑え込んで、
「母の情をおろそかにした」というわけではない。


有刺鉄線越えるかキミと抱き合うか  酒井かがり
 
 
「尼御台所の心配事ー兼子が持ってきた結婚話はうまくいったが…」

尼御台所であり、母である政子にとって、一つの心配事があった。
「いつまで経っても実朝に跡継ぎが生れず、幕府の後継者が定まらない」
ことである。
建保6年(1218)2月4日、政子63歳は、京の都を訪れた。
実朝に子どもが恵まれないので、朝廷にかけあって、皇族の一人を跡継ぎ
に迎えるためであった。皇族を将軍に迎えれば、
<朝廷と幕府のもっとうまくいくようになるに違いない>
と、いう思いもあった。
この時、政子は、朝廷から従三位という高い位を授けられ、後鳥羽上皇
会うことも許された。しかし、政子は、
「辺鄙の老尼、竜眼に咫尺(しせき)するもその益なし」
と、答えて辞退した。
(片田舎の老いた尼が上皇様にお会いしても何もよいことはございません)


お疲れのようだ あちこちから煙  竹内ゆみこ

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