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川柳的逍遥 人の世の一家言
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嵐去る迄はグレーのカメレオン  加藤 鰹





          信長光秀因縁の法華寺

   光秀は信長に殴打され恨みを抱いた
信長が武田軍との戦に勝利し、論功行賞や酒宴が行われている席上で、
「これで私も骨を折った甲斐があった」というような光秀の何気ない
一言に信長が激高し、光秀を殴打したのが法華寺である。




       信 長 公 記




『信長公記』は、信長の右筆である太田牛一が、信長が、室町幕府15
代将軍・足利義昭のもとに上洛した1568年(永禄11)から、本能寺
の変で自害を遂げる1582年(天正10)までの15年間の信長一代
をまとめたものである。
歴史学に於いて――、伝記や軍記物語は、書状などの一次史料をもとに
した二次史料と見なされている。
しかし『信長公記』は信長と同時代を生きた太田牛一によって書かれた
もので、一次史料と同等の扱いを受けている。
ここに牛一の信念・決意の言葉がある。
『直にあることを除かず、無き事を添えずもし一点の虚を書するときは 
天道如何(天道を踏み外すこと)に見る人は、ただに一笑をして実を見 
せしめたまえ』 と、嘘偽りなく同書を書いたことを誓っている。
こうした牛一の執筆姿勢が同書の史料的価値を高めている。



あの日の風が奔り抜けてる日記帳  相田みちる



例えば、 本能寺での最期の言葉「是非に及ばず」「信長が自害にいた
る様子」も牛一が現場にて直面した侍女から聞き取り、公記に載せた
ものである。
(是非に及ばず=だからどうした、今さら仕方あるまい」)
また、戦国武将の中でもいち早く鉄砲を合戦に導入し、戦国大名・武田
勝頼との「長篠の戦い」では、3千挺の鉄砲で武田軍を一網打尽にした
と伝えられている。
しかし、『信長公記』には「千挺ばかり」と書かれてはいるものの、
「三千挺」という数字はどこにもでてこない。
(別働隊も鉄砲を備えていた数の5百挺ほどを足しても千五百挺である)
さらに、「比叡山延暦寺の焼き打ち」に関しては、
『根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も
 残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い』『僧俗、児童、智者、上人一
々に首をきり』
と、信長が世間に公表してほしくないような、凄惨な様子をも淡々と綴
っている。



潔い清く眩しく疎ましい  ただれいな


   出雲・石見への国替えに苦慮する光秀の重臣 (『絵本太閤記』)




家康ー本能寺の変

1582(天正10)5月中旬、明智光秀は安土で徳川家康を接待中に
突然に中国地方へ出陣せよとの命を受けた。
その後、準備のために丹波亀山城へ戻った光秀に、信長から使者が来た。
<何事か…>と訝しむ光秀に、使者は次のように伝えた。
『光秀の丹波・近江の領地は召し上げ、代わりに出雲・石見を宛がう』
                       (『明智軍記』)




淋しさをなぞった様に紙魚奔る  米山明日歌




         亀山城天守古写真(美田村顕教)
光秀が領主として自ら築いた平山城は、領民の暮らしと一体になり、
領民の目線で統治するといった考えから築かれた。




――丹波・近江は、かつて信長のために粉骨砕身した褒美として与えら
れた領地であったはず。
こここそ自分の土地として、今日まで営営と領民を慈しんできた。
それを召し上げ、代わりに、いまだ敵の領地である「出雲・石見に行け」
という
武士を土地から切り離し、全国どこへでも移動を命じようとする。
信長の政策は、これほどまでに容赦のないものであったのか…。
省みれば、四国の長曾我部氏も、まもなく同じ運命に合おうとしている。
光秀の胸中には、様々な想いが過っていた。



知らぬ間に喉に刺さっている小骨  井本健治



四国遠征軍の出発日は、6月2日に迫っていた。
奇しくも同じ6月2日、信長は京の都にいるはずだった。
中国出陣を前にして、何事かを朝廷に言上する予定だったからである
<もはや、信長をこのままにしてはおけない>
光秀の胸中に殺意が固まったのは、この時であった。
これに先立つ5月28日、光秀は、連歌会を坊舎・西坊威徳院で「愛宕
百韻」
を興行した。明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、里村心前、
猪苗代兼如、宥源、威徳院・行祐と巻いた百韻である。
このとき光秀は、有名な「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を
詠んだ。続いて脇の行祐「水上まさる 庭の夏山」と、詠み、
第三で里村紹巴「花落つる 池の流を せきとめて」と詠んだ。
深読みすれば、危険で微妙な意味を含んだものと解釈できる。



火遊びの煙ゆらゆら心電図  みつ木もも花



愛宕百韻開催日の翌日、5月29日、信長は都に入り本能寺に到着した。
その時、引き連れていたのは、僅かな供回りだけだった。
6月1日の昼、信長は公家たちの訪問を受けた。
勸修寺晴豊「天正十年夏記」には、この時、信長は2月に要求した暦
の変更を、再び突きつけて強く迫ったとある。
このままでは「いずれ信長の言いなりにならねばならぬ」ことは明らか
だった。
一方、毛利にある秀吉の援軍に向かうべく、丹波亀山城を発った光秀
軍勢は、「討つべき敵は本能寺にある」と、信頼する老臣に本意を告げ、
老ノ坂を下って桂川を渡り、そのまま進路を東にとって、京都の本能寺
に向かった。



過去からの10カウントがまた響く  くんじろう




      『本能寺焼討之図』 歌川延一 (都立中央図書館所蔵)
叛乱に応戦する信長 右方奥で帰蝶も戦っている。
           奮戦する蘭丸




6月1日の夜、信長は茶会や囲碁ですごし深夜に就寝した。
6月2日未明、本能寺に着いた光秀は、全軍突入を下知した……。
宿坊の周辺の物音が騒がしいのに目を覚ました信長は、「何事か!」と、
側近の小姓・蘭丸を呼び寄こし問えば「光秀殿 謀反!」と答えた。
聞くやいなや信長は「是非に及ばず!」と吐き、寝間着のまま…、
「信長は、初めは弓をとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、
 どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を
 受けて退いた。それまで傍らに女房衆が付き添っていたが、
 『女たちはもうよい、急いで脱出せよ』と言って退去させた」
                        (『信長公記』)
光秀軍は1万3千、信長配下の戦力は、150人余り、肘に傷を受けた
信長は殿中の中へと退却を余儀なくされた。
寺には火がかけられ、火の手は、信長のすぐ近くにまで迫る勢い。
信長は殿中の奥へ奥へと引き下がり、戦力の乏しいなかで信長は、
それでも、4時間持ちこたえた。
が、天下布武を目の前にした、信長は49歳の生涯を終えた。



夕間暮れ二足歩行は隙だらけ  青砥和子



6月5日、光秀は安土城に入城。
各地に室町時代の古い領主を呼び戻し、室町幕府体制を復活させようと
した。
6月7日、朝廷の勅使が光秀を訪れ、京都の守護を命じると伝えた。
(朝廷は光秀の行動を認めたのである)
そのころ都の公家たちは、<たびたび宴を開き、大酒を飲んでいた>と、
晴豊の日記には記されている。
(信長の死を祝うかのような行動をとっていた…ということである)
そして、信長に追放されていた室町将軍・義昭は、本能寺の変を知るや、
各地の大名に書状(御内書)を送った。



空中にただよう感情の微塵  黒瀧睦子



6月13日付の能美宗勝(毛利家親族)宛の御内書には、
<信長を討ち果たしたうえは、急いで、京の都へ上るための援助をせよ>
とあり、あたかも自ら信長を討ったかのような態度で、上洛援助を要請
している。朝廷・公家・将軍、信長に反対していた勢力のいずれもが、
光秀の行動を支持していて、光秀が構想する「古い時代の秩序と伝統の
復活」は、成し遂げられたかのようにみえた。
しかし、予想だにしなかったことが起こった。
中国地方で毛利氏と戦いの真っ最中で、当分は釘づけになっているはず
秀吉が、軍勢を引き連れて、京の都に迫ろうとしているという知らせ
が入ったのである……。



どうなるのだろう 裏表紙のけむり  大嶋都嗣子



「太田牛一と信長公記」
太田牛一は尾張国(現在の愛知県西部)春日井郡の生まれた。
信長より7歳年長で、元は織田家家臣・柴田勝家に仕えていたが、弓矢の
腕を買われて信長に召し抱えられた。
牛一は、筆まめな性分で、日々の出来事を、日記やメモに書き留めていた
ことが信長の目に留まり、書記官(右筆)を務めた。
そして信長一代記・『信長公記』を執筆することとなった。



間道も本道に変えていく覇者  八木侑子

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プッシューと生裏切り者は喉かわく  柳本恵子





   家康おもてなしに出された「安土饗応膳」 (復元)
「川角太閤記」に光秀が家康に饗応した料理が生臭いと信長に
よって捨てられたとの記述がある。
信長はこの悪臭に大変立腹し、光秀を接待役から外し堀秀政に変えた。




「絵本太閤記」には、光秀を叱責する場面が描かれた。




    森蘭丸にも命じて殴打させえた




「光秀が「信長にはついていけない」と考えた時」
徳川家康を安土城で接待することになった、光秀がその饗応役だった。
ところが、突然、解任された。
饗応役は5月15日~だが、その前日の14日、信長の三男・信孝が、
丹波の国衆に宛てた四国動員令は、光秀の領国丹波に、光秀を飛びこ
して出された。(『人見文書』)
この件で光秀は、信長に苦情を言った。
これに信長は、腹を立て、咎め折檻した。 (フロイス『日本史』)


き上手うまくカーブが投げられぬ  村山浩吉




「光秀、信長の蜜月時代」
光秀は、はじめから信長の家臣ではなかった。
若き日の光秀は、室町幕府に仕えていたといわれる。
義昭が信長の援助を受けて上洛し、将軍に任官するころ光秀は、信長と
室町将軍・義昭の2人を主人として仕えることになる。
光秀は、都の文化人と交流し得るだけの高い教養を持った人物で公家衆
や幕府衆に人脈をもつ唯一の存在であった。
そのこともあって、信長から非常に重用され、良好な関係を保った。


生い立ちは聞くな野暮です影法師  下林正夫


内に外に光秀の働きに対して、信長は、坂本城主としただけでなく、
その周りの志賀郡を所領として光秀に与えた。
これは、信長家臣の中で、「一国一城の主」第一号であった。
信長の能力本位の人材抜擢のおかげで、光秀は、とんとん拍子の出世を
していった。(ちなみに「一国一城の主」第二号は羽柴秀吉である)
近江の坂本城を、預かるという大抜擢のためだけではなく、有能な政治
家である信長について行けば、古い秩序を復活させることができると期
待し、光秀は、義昭が追放されたのちも信長に仕えた。



世渡りの止めとあらば四方拝  高橋 蘭





      天皇の御前で行われた京都馬揃え


1575年(天正3)光秀は、丹波攻めの総大将となっている。
天正9年2月28日には、京都御所横で繰り広げられた信長軍団の軍事
パレードともいうべき「京都御馬揃え」でその総括を任されている。
信長が光秀に采配を託したのは、光秀を高く評価していたからである。
このこともあって、同年6月2日付の「明智光秀家中軍法」では、
光秀は「瓦礫沈淪の身だった自分を引き立ててくれた」信長に感謝の
気持ちを記しているほどであった。
 では、信長の命令を忠実に実行し、信長からの評価を得ていた光秀が、
信長からなぜ、離反していくことになったのだろうか?
【天正十年の数々の事件】が信長への叛意を芽生えさせることとなる。

ひとつの日またひとつの日の最新の  斉尾くにこ


家康ー光秀が謀反を決めた日





          安 土 城




信長の夢の象徴ともいうべき安土城
その姿からは、天下統一のあとに信長が考えていた新しい日本の体制が
どのようなものであったかを、伺い知ることができる。
また「信長公記」には1582年(天正10)正月のくだりに、
「御幸の間」つまり<天皇のための部屋>が安土城本丸殿にあるという
記述がある。
(最近の発掘調査によって、安土城には天主のかたわらに、天皇の
 御所である清涼殿に似た建物が建てられていることがわかった)


欲しいなとわざと聞かせる独り言  前中一晃





           安土城天主の館

さらにこの時期、信長と朝廷との間の連絡役・武家伝奏という役目を担
っていた勸修寺晴豊の日記『晴豊記』の正月7日に、次のような記述が
ある。
『行幸の用意馬鞍こしらへ出来』 (行幸に使う馬に鞍の用意ができた)
おそらく信長が天皇を安土に招くつもりで、行幸の準備が進められてい
たのだろう。
天皇を招いて自分の膝元に置く、そういう信長の考えは、朝廷の権威を
ないがしろにするものとも受けとられた。
(天皇が行幸することによって、天下人である信長の権威の前に、
 天皇が平伏していくという構図が可視的にアピールされることになる。
 ましてや、国主大名クラスの重臣ですら、転封を余儀なくされていた
 体制が見えてきていた時であった。
 伝統的な幕府体制の復活にかけていた光秀にしてみれば、大変なこと
 が起こりはじめている…、と考えたことだろう)


五分五分のバランス崩さない二人  居谷真理子




「暦問題」
1582年(天正10)信長はさらに思い切った要求を朝廷に突きつけた。
「暦の変更」である。
天皇が定めた当時の暦では、天正11年1月に閏年があった。
しかし、信長の出身地尾張では、天正10年2月を閏月にする暦がつか
われるなど、地方によってまちまちだった。
朝廷の暦は「宣明暦」を基礎とした京暦を用いたのに対し、
尾張などで使われていたのは「三島暦」という。
その暦を、信長は、尾張のものに統一しようとしたのである。


額縁を突き破ってくる黒豹  徳山泰子


暦の制定は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ、いわば神聖
にして侵すべからざる事柄であった。
「暦の制定」は、当時の天皇に残された唯一最大の権限である。
信長が暦の問題に介入してきたというのは、明らかに天皇に対する権限
侵害を狙ったものと考えられる。
その権限を侵そうとする信長の行為は、多くの人に衝撃を与えた。
光秀もまた、その1人であった。


あの人が来たら大きくなる騒ぎ  松浦英夫



古い秩序の回復をめざす光秀は、朝廷の権威をないがしろにする信長
行動に危機感を強めた。
そんな光秀と朝廷の一部とが、連携を取りつつあったと推察できる資料
がある。
勸修寺晴豊の日記「天正十年夏記」6月17日のくだりは、明智光秀
家臣・斎藤利三が護送されているのを見て記されたもの、光秀と公家が、
「信長暗殺」について相談していたともとれる記述である。
(信長打談合衆=信長を討つために談合をしていた衆がある。
 天下の政道を正しきにかえすには、もはや尋常一様の手段では、
 不可能と存ずる…と、檄する声がきこえてくる)


十年日記に挟んでおく花弁  森田律子





     長宗我部元親           明智光秀


暦の問題が起きてから三か月後の天正10年5月、信長光秀を決定的に
追い詰める出来事を起こした。
長宗我部氏に最後通牒を突きつけて、四国への遠征軍を編成したのだ。
5月7日、信長は、四国の処分案を明らかにした。
長宗我部氏の勢力圏とはお構いなしに、讃岐と阿波は、信長の三男・信孝
三好氏に預け、土佐と伊予の処分は、あとで信長が決めるというのである。



そんなアホなと過去形で言えたなら  藤本鈴菜


遠征軍の出発日は、6月2日と決められた。
『三七殿(織田信孝)、五郎左衛門殿(丹羽長秀)、四国へ六月二日に
 渡海あるべし……』 (『細川忠興軍功記』)
 このままでは長宗我部氏は滅亡してしまい、光秀の立場も危うくなる。
長宗我部氏の文書には、光秀の重臣・斎藤利三が、信長の四国攻撃を憂
いて光秀に謀反を促した。という記述が残っている。
『斎藤内蔵助(利三)は、四国の儀を気遣いに存ずるによって也。
 明智殿謀反の事、いよいよ差し急かるる』 (『長宗我部元親紀』)
明かに、長曾我部氏と斎藤利三が、何らかの連絡をとっていたことを窺
わせる内容である。
光秀は重臣からも「信長討つべし」と、いう突き上げを受けていたので
あった。本能寺の変まで3週間を残すところであった。


鉛筆を変えて直線下剋上  上田 仁





   「明智光秀家中軍法」
光秀一代の事績を編年体で記述した軍記。
史料的価値は乏しいが、参考になるところもある。



「一昨日自明明智所魚津迄使者指越」
(一昨日、明智光秀が越中の魚津に使者をよこしてきた)
             北陸上杉家の記録『覚上公御書図』
(一昨日とは、6月1日、つまり本能寺の変の変の前日のこと)
魚津城は当時、上杉家の勢力圏であった。
光秀は、「本能寺の変の前」に信長の敵・上杉氏に使者を送っていたの
である。 その使者の伝えた内容とは、
『御当方、無二御馳走申し上げるべき』
(上杉家は、最大限の援助を申し上げるべきである)
言葉遣いから、上杉が援助すべき相手は、将軍義昭だったと推測される。
即ち、光秀は、かつて信長と敵対して都を追放された義昭のために、
上杉氏が働くように伝えたのである。
光秀は、この時すでに信長に反逆し、諸大名と連携して義昭を担ぎ上げ
「時代をふたたび室町の世に戻そう」と、考えていたようである。

直角が三角形を離脱する  加納美津子





愛宕百韻(ときは今天が下知る五月哉)を詠む




覚上公とは、上杉景勝のこと。書状には、光秀の名前が記されている。
日付は6月3日、「本能寺の変の翌日」に綴られた上杉家の家臣同士の
手紙である。
それにしてもこの書状をいつ、認めたのだろうか。
当時の交通事情では、使者が上杉氏のもとに到着するまでには、どんな
に急いでも3,4日かかる。場合によっては、一週間程度の日数を要し
たと考えられる。
ということは、光秀は、6月1日よりかなり前に「信長打倒」を決意し、
諸大名に呼びかけていたということになる。
すなわち、「本能寺の変」は決して突発的な事件ではなく、
極めて計画性の高い大がかりなものであったことがわかる。


断捨離を迫るどんど焼きの煙  古田裕子

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少し汚れた空気の方が生きやすい  宮原せつ




「洛中洛外図屏風」 (信長が見た京の町)
は、平安京の町並みを、郊外も含めてパノラマ風に描いた屏風絵であり、
名高い寺社や名所、四季の移り変わりとともに、上は内裏や公方の御所、
下は町家や農家の住まいまで、そこに生きる様々な人々の風俗が細かく
とらえられている。





            洛中洛外図屏風 右隻
右隻は、鴨川と東山方面を西側から見た景色であり、画面左端には御所、
中央付近には祇園祭の様子が描かれている。

            洛中洛外図屏風 左隻
左隻では、将軍の御所や松永弾正邸など並べて配された市中の町並みの
細かな描写が圧巻である。



脇道を捜せばボクはそこにいる  桑田桂子



「家康」ー 信長と光秀の擦れ違い



足利義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名が連携し
信長包囲網を形成、数年にわたって、各地で激しい合戦が相次いだ。
信長は組織性と機動力に富む軍団を駆使し、巧みな戦術を用いて、
次々に強敵を撃破していった。
その先兵の1人となったのが、光秀だった。
1579年(天正7)7月、光秀は難攻不落といわれた丹波国を平定し、
その功績は信長から高く評価された。
『明智が丹波に長く出陣し、尽力してたびたびの戦果を挙げたことは、
 比類ない功績である』(「信長公記」)
恩賞として丹波一国を与えられた光秀は、良き領主たらんとして丹波地
方の政治に邁進するようになった。
――手柄を立てて主君から領地をもらい、その地に善政を敷く。
自分が理想とした、武士の秩序と伝統が世の中に戻って来た。
(そのころの光秀の心境は、まさに喜びと希望に溢れたものであった)



若いなあハンカチ出して泣けるって  森光カナエ



一方、琵琶湖のほとりの安土の地に巨大な城の建設を始めていた信長は、
天正7年5月、その天主に移り住んだ。
建設が進むにつれて、それまで家臣たちが思ってもみなかったことを言
い出すようになった。
「家臣たちは、普段は領地を離れて、安土山の周辺に築かれた武家屋敷
に住むように」 と、命令したのである。
武士たちは、それまでは、先祖伝来の領地に館を築いて住むのが当たり
前であった。
彼らにとっては、まさに驚天動地ともいうべき命令だったのである。



政治屋でその日その場で右左  近藤北舟




          安 土 城 全 景




「安土城」信長が、まさに夢を託して築いた城であった。
その天主が聳える安土城の麓に、信長は武家屋敷を建築させた。
そして配下の武士たちに、本国の領地を離れて安土に住むことを命じた
のである。 それは当時の武士たちの常識を覆す命令であった。
鎌倉時代以来、武士たちは「本領」といわれる先祖代々の土地に根付い
て暮らしてきた。
有力な武将に仕えて奉公するのは、この「本領」を安堵してもらうため。
つまりは土地の支配権を保証してもらうためだったのである。
ところが信長の方針は違っていた。
信長は、新たな領地を家臣に与えるのではなく、預けおくだけにしたの
であった。
こうすれば、家臣たちは、その土地の権益に囚われることなく、政治に
励むことになる。



ぼちぼちと自分の色をだしていき  若林くに彦



織田時代までは、経済的に許される範囲において、あらゆる階層が武装
していた。
このたび突如、信長が打ち出したのは、武士の在地性を否定し、城下に
集住させることで、武士と土地との関係を切り離した政策だ。
兵農分離政策である。
中世を通じて、兵と農との身分は、明確に線引きされていなかった。
武士たちの多くは村落に住み、自身も直接農作業に従事し、戦争が起こ
ると出陣していたのが実情だった。
兵農分離は、武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策を指す。
兵の専業化による強化……、武士が農業から離れ、農地の非所有、在地
武士制から城下集住と領主による農民の直接支配への転換、二刀帯刀の
武士・農民の区別、身分固定などの政策が行われた。



一筋の煙シナリオ書き替える  荒井加寿



越前を平定したのちの1575年(天正3)9月、信長柴田勝家など
の武将を配し、支配方針を盛った9か条を定めて「越前国掟」とした。
この掟をもって初めて、分国者(大名)から脱して、それらの上に立つ
という、信長が、統一政権としての自己を明確に位置付けたことを意味
するととらえられている。
「所領の在高にもよるが、給人をつけない土地をいくつかのこしておく
 こと」 (「越前国掟」より)
(給人とはその土地から収入を得る家臣のことで、どの家臣にも任ぜず、
直轄する土地を残しておけというのである)
「将来に功績があった者に与える恩賞のため」
というのが理由だが、領地は家臣のものではなく、信長のものだという
考えを表したものでもあった。




無花果の葉は賞罰に含めない  くんじろう




    安土城麓に建築された重臣屋敷復元図




信長「兵農分離」政策は激しく強引であった。
たとえば、1578年(天正6)には、尾張に妻子を残して単身赴任し
ていた家臣120人を発見して、私宅を焼き払わせて、強制移住させた
こともあった。
ー武士を土地から切り離す。
その方針が、信長の家臣ばかりでなく、戦国大名たちにも適用されよう
としていた。
それが光秀にも思わぬ災厄をもたらすことになった。
(その問題となったのは、四国の支配をどう行うかということだった)



絶縁体として太い眉きりり  酒井かがり




土佐国大名・長宗我部元親が岩倉城主・三好式部少輔宛てに発給した書状




戦国時代四国では、土佐に本拠を置く長宗我部氏と、阿波に本拠を置く
三好氏とが覇権を争っていた。
信長は当初、長宗我部氏と結んで四国に勢力を伸ばそうとしていた。
その仲立ちをしたのが光秀である。
光秀を頼った長宗我部氏は、信長に忠誠を誓うことで、安心して合戦を
続け、四国全土を征服しかねない勢いをみせた。
ところが、1581年(天正9)6月、信長は突如として思いも寄らぬ
命令を発した。
『阿波の支配は、三好氏に任せることにするので、長宗我部氏は三好氏
を援助するように』
と、長宗我部氏の当主・元親の弟・香宗我部親泰への朱印状に記されて
いたのである。



嫌なこと嫌と言っても良いのかな  古本恵子



そもそも、阿波は長宗我部氏が自らの努力で領土とした土地である。
それを一方的に<三好氏のものにせよ>という命令は、承服し難いもの
だった。
――信長に忠誠を誓ったのも、領地を保証してもらえると思ったからこ
そのこと。なのに<ここにきて突然取り上げるとは>元親は反発した。
長宗我部氏が従わないと見るや、四国侵攻の準備を命じた信長、その真
の狙いは、四国全土の征服であることは明白であった。



躓いた石で人生逆転す  柴辻踈星  




     明 智 光 秀




信長
長宗我部氏の仲立ちをした光秀の面目は、丸潰れになった。
長宗我部元親は、光秀の重臣・斎藤利三の妹と縁組していたうえに、
光秀は長宗我部氏に<信長に尽くせば安泰>と説得していたのである。
思わぬ成り行きに驚く光秀。
追い打ちをかけるように、光秀は信長から四国担当を外されてしまう。
――おかしい。信長様はいったい何をやろうとしているのか。
光秀の心には、信長の改革に対する底知れぬ疑念と恐怖が湧き上がっ
ていた。
ここまで良好であった信長と光秀の仲が瓦解しはじめた時でもあった。
本能寺の変まで、針は残り半年を指している。



この辺で心を決める句読点  津田照子

拍手[5回]

欲の皮ちょっと伸びたり凹んだり  津田照子




         信長上洛之図  『絵本拾遺信長記』




美濃攻略に要した7年余りは、信長とその家臣団にとって、尾張の一大
名から天下を目指す集団へと鍛えられた。
長い仕切りの時でもあった。
そして今、信長の気力は天下取りへとかつてない充実を見せている。
「天下布武」へと旗揚げした信長の前に、1568年(永禄11)一人
の貴人が救いの手を求めてきた。正親町(おおぎまち)天皇である。
100年にもおよぶ戦乱に、困窮を極める朝廷、荒れ果てた御所は修築
もままならず、正親町天皇は、父である後奈良天皇の死に際し、火葬の
費用にさえ事欠くありさまだった。
目ざとい公家は、この時期早くも次の天下人として信長を「先物買い」
をはじめていた。正親町天皇は美濃・尾張にある信長に、御料所の回復、
誠仁親王の元服料、禁裏修理を命じ、というより頼んだ。
「及ばずながらこの信長…必ずや」ここに最高の名文を得た信長は、
電光石火の速さで上洛の兵をあげる。



廊下の続く何処までも白い春  河村啓子





  信長上洛を果たし義昭と会見する



家康ー信長・足利義昭・明智光秀



新興勢力の信長と、古い権威を代表する足利義昭
その二人の間を取り持った人物。それが明智光秀である。
光秀は名門土岐氏の家系に生まれたと伝えられ、かつては室町幕府の
役人として、13代将軍・足利義輝に仕えていた、とも言われている。
都の人々に交わって高い教養を身につけた光秀は、戦国の無秩序のなか
で、朝廷や幕府の権威がないがしろにされている様を見るにつけ、世の
混乱を収めて、秩序を回復したいと考えるようになったと言われている。


正論の肩がいつでも凝っている  真鍋心平太



そんな光秀の目には、信長の強力な軍事力と政治力は、新しい秩序をも
たらす有力者にふさわしいと映ったに違いない。
信長上京後の光秀は、京都の施政を担当し、義昭や公家・寺社との交渉
役として活躍した。
ところが、信長の力によって将軍になった足利義昭は、ただ古い権威を
振り回すだけでとうてい世の中を治めていける人物ではなかった。
(光秀の前半生には謎が多い。美濃の守護・土岐氏の流れを汲むとも、
また信長の正室・小濃の従兄とも言われ、長い浪人生活を経て、越前の
朝倉家に仕官。身を寄せていた足利義昭と知り合い、幕臣そして信長の
武将へと出世していく)



夕暮れは演歌うたっているポスト  平井美智子









京都に平和を回復し、また御所の修復など朝廷への運動につとめた信長
その推挙によって、足利義昭は室町幕府15代将軍に任ぜられた。
大はしゃぎの義昭は、信長宛の手紙の中で「武勇天下第一」とほめ、
「御父織田信長殿」とまで持ち上げている。
が、信長のほうは、もとより義昭を、自分の都合のよい操り人形としか
みていない。
たとえばある日、義昭の居館・二条館の前に9個の割れた貝が置かれて
いたの報を受けた信長は、笑って
「9枚の貝は、公界(くがい)という言葉に通じさせる判じ物である。
 公界とは、公の仕事を意味する。その貝がことごとく割られていた、
 ということは、つまりは、<義昭公が馬鹿で、公の仕事は何もでき
 ない>と、都の人々が痛烈にあてこすっているのだ」 と、
あざけったという。(『戴恩記』)



輪郭がみえないままの そうだよね  斉尾くにこ




平氏の紋・揚羽蝶のついた信長の陣羽織



信長が積極的に御所を修復したのには、理由があった。
一つには力の誇示。
そしてもう一つの目的は「朝臣としての自分の立場を明確にするため」
だった。それは同じく天皇によって任ぜられる足利将軍と自分が対等で
ある宣言することになる。
「義昭様は仮の天下、次は自分が」 という野心。
このころから信長が、朝廷向けの文書などに「平信長」を名乗り始めた
のもそのためだ。
(当時は、源氏と平氏の血筋が交互に天下をとる「源平交代思想」が、
公家を中心に信じられていた)



空っぽに花植えてゆく物語  徳山泰子








1569年(永禄12)は、信長義昭が最良の関係にあった年だった。
事実この年、一度尾張へ戻る信長を義昭は、京の東の粟田口まで出向き、
涙ながらに見送ったという。
が、その蜜月も長く続かず、よく永禄13年には両者の関係は、一気に
険悪化する。
直接のきっかけは、その前年の正月に信長が義昭へと突きつけた「殿中
御掟」と、永禄13年(4月、元亀に改元)正月23日の日付の「信長
朱印条書」にあった。
条書は当時、毛利や武田・上杉などの諸将と接近しはじめていた義昭へ
の牽制として書かれたものだった。
【御下知之儀 皆以有御棄破】
<これまで義昭が出した命令はすべて破棄すること>
【天下之儀 何様ニモ信長ニ被任置】
<天下のことはすべて信長に任せること>
要するに、義昭の行動を信長の監督下に置こうというものである。


更迭は燕返しを再現し  太田省三




             条  書




この条書は、信長が、朝山日乗明智光秀宛に出し、光秀は義昭に承認
させる務めも担った。
このときの光秀は、義昭に見切りをつけて、真の実力者である信長にあ
くまでもついていこうとしていた。
以後、義昭は陰に陽に、信長に敵対するようになり、元亀4年には、つ
いに信長によって都から追放されてしまった。



うしろ髪ひかれてひょいと前のめり  小山紀乃




   
足利十五代之正統 従四位下参議左近衛中将 源義昭乃像
信長の軍事力を得て上洛し、15代将軍に就任したものの対立。
追放されて諸国を流浪しながら、各地の武将に御内書を送り蜂起を促し、
しぶとく信長に抵抗した。  『絵本豊臣勲功記』国文学研究資料館蔵




「義昭のその後」

1573年(元亀4)7月、義昭信長から京都を追放された。
義昭は毛利輝元によって匿われ、備後国にある鞆の浦で暮らした。
だが、京を追われてからも、義昭は、自分の利用価値を高く見ており、
復讐心に燃えて、全国の大名に信長打倒を呼びかけた。
実際のところ、外交能力の高い義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利
いった有力な大名が連携して「信長包囲網」を形成していった。
そんな中で義昭は戦国時代最強の武田信玄から上洛の約束を得た。
義昭は信玄という後ろ盾を得て信長に強気に出た。



寝違えてから反省ができない  井上一筒



ところが、肝心の信玄が急死してしまう。かつて、従兄弟である14代
将軍・義栄の突然の病死によってチャンスを掴んだ義昭だが、
今度は頼みの信玄の突然の死によって暗転する。
信長は、武力で義昭の敷く包囲網をひとつずつ突破。
これは、信玄や謙信などの強力なライバルが、相次いで病死したことが
追い風となった。
その幸運も、腹心の明光秀智の謀叛という形で幕を閉じることになる。
謀反の光秀を討ち、信長の跡を継いだのは秀吉であった。
秀吉は、義昭が隠れ蓑として身を寄せていた柴田勝家を破ったあと、
九州征伐に乗り出した。その九州に向かう途中、義昭は備後国で秀吉
面会をする機会を得た。その場で義昭は、秀吉によって京都に戻ることを
許され、追放されてから15年後の1588年(天正15)に京に戻った。
が、将軍としてではなく御伽衆として秀吉に仕えることとなった…。



オンタン飴は影のなごりです  酒井かがり

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欠伸する隙間さえないスケジュール  橋倉久美子




                  戦国国盗りレース・一番乗りは誰だ




戦国時代。百年にも亘り戦乱が続いた。この混乱を鎮めて、世の中に新
たな秩序を取り戻す人物が現れることを、人々は望んでいた。
その期待を担って彗星のように、戦国の世に現れた天才児。
それが織田信長である。
信長は1534年(天文3)に尾張守護織田一族の奉行信秀の長男とし
て生まれた。18歳で家督を相続、清州城に移って以来、今川義元を討
ち、家康浅井長政と同盟し、1568年(永禄11)には、ほぼ尾張
を統一した。そして、同年9月、信長は、4万を超える軍勢を率いて、
ついに京の都に上った。
室町幕府の復興を目指していた足利義昭を将軍の座に据えて天下統一へ
向けての大きな一歩を踏み出したのである。




一番が好きで背中から炎  野口 祐



家康ー逸話で綴る信長の出世街道




           信 長 初 陣 図




「美少年だった信長」
吉法師と呼ばれた幼いころから癇癪もち、乳母の乳首をかみ切っては、
何人も交替させたという信長が、成長するにつれ、髪を茶道具の茶筅
のように結い、ペラペラの着物の片袖を脱いだまま、腰に火打石や革
袋をぶら下げた奇抜なファッションで「うつけ者」「婆沙羅」などと
呼ばれたのは有名な話。 (婆沙羅=常識はずれ)
ワル仲間のボスでもあった。その所為で母の土田御前をはじめ、家臣
にまでも疎まれるものの、初陣の姿を描いたという肖像画は「うつけ」
とはほど遠いキリリとした美少年ぶりで、そこには早くも後の風雲児
の面影さえ見ることができる。


「若き日の信長のファッション」
「うつけ」と呼ばれた信長の、縄で巻いた刀の柄も、血糊で手が滑ら
ないようにするためのものであり、腰のまわりの火打ち袋や瓢箪にも
実戦のさいの必需品が入っている、という実用を考えたものだった。



ざんねんないきものになり生きている  木口雅裕




信長が桶狭間の手本にした「ひよどり越」逆落とし
源氏 vs 平家「一ノ谷の合戦」で源義経は深い谷底に陣を構える平家軍に
切り立った「ひよどり越」の崖から逆落としの奇襲をかけ、勝利を手に
している。



「籠城して運のひらけたためしなし」
「城を出て今川の大軍を迎えうつ」という信長の決断は、当然のごとく
家臣の反対にあった。
「敵は4万5千、味方は2千にも足りない軍勢です。城外に出てはとて
 も勝てませんから、城に立て籠もる戦術をとったほうが賢明でしょう」
重臣たちがそう提言すると、信長は一蹴した。
「昔から籠城して運のひらけたためしはない。 外から攻め込まれると、
 将は気後れするし、士卒は心変わりする。城を出て国境を踏み越えて
 行って合戦せよというのが、父・信秀の遺訓である。
 父の遺言を無にすれば、天罰は恐ろしい。
 明日は断固として城を出て合戦をする」
積極的に打って出れば、危機は突破できるのだ。



はんぺんに固定観念の残骸  森田律子



        滝川一益
信長の優秀な武将・一益は甲賀の細作出身という説がある。



「勝負を決めた情報力」
信長はそのとき、勝利を確信した。今川軍と対決するべく、善照寺の砦
まで兵を勧めたときのことだ。
「義元本隊は桶狭間の近く、田楽狭間にて休息中」
そのニュースをもたらしたのは、先日、家臣に取り立てたばかりの梁田
正綱(やなだまさつな)ー地元出身の細作(忍び)の頭だった。
桶狭間の勝利の後、信長はこの合戦の「手柄第一」を梁田に与えている。
戦場にあっては情報がいかに大きな武器になることを信長は知っていた。
(例えば、当時の鷹匠は「忍び」としての使命も帯びていたとされるが、
鷹狩りを好んだ信長は、多くの鷹匠をかかえている)
一説には、桶狭間へ向かったこの日、突然に豪雨が降ることさえ、
地元の塩田技術者に聞いて予想していたという)




光らぬ様目立たぬ様に磨いてる  津田照子




「長良川をのぞむ金華山上に築かれた岐阜城」
道三の修築した山城・稲葉山城を土台にしつつも、麓の天主は広い庭園、
豪華な障壁画など、早くも政の城の原型を見せ始ていた。




1567年(永禄10)美濃稲葉山城を攻略した信長は、居城を小牧山
からこの地へ移すと同時に「井ノ口」と呼ばれていた城下町を「岐阜」
に改名している。これは中国・周の文王が岐山で挙兵し、天下を治めた
故事にならったもので、信長側近の禅僧・沢彦(たくげん)の発案によ
るものらしい。
まさに信長にとっての「天下取り」宣言の城となったこの岐阜城には、
山頂と麓の二カ所に天守と呼ばれる建物があったらしく、訪れた宣教師
フロイスもその豪華さには度肝を抜かれたようだ。(『日本史』)



岐阜までの逆に走っている時間  宮井いずみ




     「岐阜の加納一市に掲げられた楽市の制札」
 


「楽市楽座」
加納の市を自由市場とし「当市場越居の者は分国往還煩いなし」
(当市場に移住する者は、領国内を自由に往来できることや「借銭借米」
や「借地料」などの負担のどを免除することを保証し、楽市・楽座の上、
商売すべきこと」と定めた)
つまり信長は、いっさいの市場税や営業制限をとりはらい、誰でも自由
に商売が出来るようにしたのである。



こんなところに信号なんかつけんでも   森 茂俊



 
           繪本拾遺信長記  (享和3年(1803)刊)
信長上洛を恐れて三好の凶徒四国へ落る




「三好三人衆と対峙」
1559年(永禄2)信長はわずかばかりの共揃えで入京、当時の将軍
足利義輝に拝謁を果たしている。
このとき、敵対関係にあった美濃の斎藤義龍は、チャンスとばかりに道
中に刺客を5人送り込んだが、信長はこの暗殺者と単身対決。
「この信長を狙うとは笑止千万!」
刀を抜くこともなく一喝し、退散させたという。




固くなるなと柔軟剤を渡される  村山浩吉




「信長、京の市民に大人気」
義昭を奉じての岐阜出陣後、わずか20人足らずで京にいすわる三好三
人衆らを追い出した信長は、入京にあたり軍の規律を徹底強化。
「略奪・強姦・強盗」など、一切の乱暴狼藉を厳禁する。
その厳しさは、通りがかりの女の笠を上げ、顔を覗き込んだ足軽を信長
自ら斬り捨てているほど。
「違反者は即刻死罪」――この織田家の鉄の規律に、これまで三好軍の
狼藉に怯え、おののいてきた京の民も一安心、武骨な田舎大名と思われ
てきた信長は、「思いのほかの君」と格付けを大幅アップし朝廷の信頼
もがっちり獲得する。
それはまた、自らが奉じた義昭への「将軍宣下」を、狙い通り確実にす
ることにもなった。



いつの世も壁作る人壊す人  指方宏子




          自由都市・堺
当時堺は、鉄砲生産や食料生産、物流ビジネスなど積極的に事業を拡げ、
戦国時代の大名たちにとっては、咽喉から手が出るほど欲しいものが山
ほどあり、千客万来で富裕な町として栄えていた。




「信長の目論見」
上洛後一ヵ月足らずで、畿内を勢力下においた信長は、和泉国堺の賑わ
いに目をつける。当時,明国や東アジアとの貿易によって発展、商人た
ちの代表「会合衆」によって運営されていた堺は、一種の「自治国家」
だった。
信長はその堺にあえて軍資金(矢銭)2万貫を要求――一度は大筒まで
装備して、これに抵抗した商人たちだったが、町全体を包囲され服従を
決定。(このとき、信長は2万貫を届けにきた使者10人のうち、じつに
8人までを斬殺している)
信長が堺に拘った理由は、もちろんその経済力、そして鉄砲製造技術の
独占だった。以後、信長は代官を通じて堺から莫大な税を徴収。
一方、堺の側も今井宗久らの新たな実力者が信長に接近し、両者の間に
はギブアンドテイクの関係が成立していった。



ヘタを切り落とすと大人しくなった   竹内ゆみこ




南蛮寺
南蛮寺を建築する際、周辺の住民からの反対を事前に察知したルイス・
フロイスは、安土に信長を訪ねて許可を得たことで事なきを得た。
というエピソードが残っている。


「フロイス・レポート」
信長が初めて異国の宣教師(バテレン)を引見したのは、1569年
(永禄12)4月8日桶狭間の戦いから9年後のことであった。
その相手がルイス・フロイスである。
イエズス会のルイス・フロイスは、京から追放され堺に滞在していたが、
新しいもの好きの信長は、キリスト教の宣教師ともすすんで会い、彼ら
の話を積極的に聞いた。なかでもフロイスとは、実に20回も顔を合わ
せる親密ぶりを見せている。
フロイスは信長の印象を次のように語っている。
「彼は背丈は中ぐらい、体つきは上品でほっそりしており、髭は少なく、
声は高くて心地よい響きをもっていた。……自分の考えに自信を持ち、
日本のすべての貴族・武将を軽蔑していたが、半面どのような身分の者
とでも親しく話をした」  (『日本史』)



楽しげに教師は過去を口にする  こうだひでお



「信長・キリシタンになる」
バテレンたちとしばしば会い、京の都や自らの城下に南蛮寺(教会)や
セミナリヨ(神学校)の建設を許可するなど、キリスト教に手厚い保護
を加えた信長
では宣教師たちが期待したように、信長自身にキリシタンになる意思は
あったのだろうか。 答えはノーだ。
「彼は、神や仏をまったく信じていなかった」と、フロイスが「日本史」
に記しているように信長は根っからの宗教嫌い、キリスト教への保護は、
あくまで比叡山や本願寺など、旧仏教への対抗上、さらに言えば鉄砲に
代表される新兵器や技術の導入に、彼らを利用していた可能性が高い。
のちにデウス(神)を否定し、「自らを神になぞらえる」信長について、
フロイスも「途方もない狂気と盲目…悪魔的な思い上がりだ」と結んで
いる。



般若経も聖書も並べ無信心  美馬りゅうこ




「サインをハンコに切り替えたのはー信長だった」




「ハンコ社会を生み出す」
美濃を攻略し、天下取りを視野に入れた信長は、それまで書類や手紙に
用いられていた「花押」をいとも簡単にハンコへときりかえてしまう。
「天下布武」-----文字通り<天下に武をしく>というスローガンを刻ん
だこの印を押すことで、内外に自らの意気込みを知らしめ、政務にあっ
ては手間のかかる花押から事務の簡略化・効率化を実現する。
何事にも、旧体制を打破し、新体制の確立を目指す信長らしいこのやり
方が、独特の「ハンコ社会」を生み出すことになった。
(信長は三好竜興を稲葉山城の破り、城下井ノ口に移り、「岐阜」と名
を改めた)この頃から信長は、「天下布武」の印章を用いだしたという。



いもばんに愛の不可逆性とある  酒井かがり

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