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川柳的逍遥 人の世の一家言
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黒ばかり減った戦争のお絵かき  下谷憲子
 
 
 
          頼朝の前に居並ぶ御家人たち
正面頼朝から段差下左に大江広元 右に北条時政、和田義盛、畠山重忠
 
 
鎌倉本流の源実朝が、承久元年(1219)に死亡した時には「鎌倉殿
の13人」の鎌倉幕府に残るメンバーは三善康信・北条義時・大江広元
の3人だけになっていた。実際のところ、13人の合議制は、成立して、
翌年には瓦解し始まり、「頼家の独裁」「比企氏の乱」「牧の方の乱」
で崩壊、そして「和田義盛の乱」で消滅した。


生成りのあれは昨日の紙芝居  高橋 蘭


「鎌倉殿の13人の男たちの蜉蝣」



  梶原景時

 
梶原景時
優れた行政官だが讒言で敵を増やし、駿河への帰路、仲間の御家人らと
清見関にて戦闘になり、3人の息子たちが討死すると、梶原景時は西奈
にて自害。正治2年(1200)2月、60歳だった。
三浦義澄
頼朝の死去の翌年、梶原景時「鎌倉追放」に加担し、梶原氏の終末を
見収めるように、その3日後に病没。正治2年2月、74歳。
安達盛長
頼朝の死後、出家して蓮西と号するも「梶原景時排斥」を主導するなど、
存在感を保った。頼朝の死の翌年、正治2年6月に死去。66歳。
比企能員
比企氏にとって北条氏は脅威でしかなかった。能員頼家と謀り、時政
の追討を画策、これを察知した時政によって騙し討ちにされ一家は全滅。
建仁3年10月(1203)のこと。頼家は伊豆へ流された。
頼家の子・善哉は出家し、公暁の号で八幡宮に入った。


殺陣師から習うこの世の倒れ方  清水すみれ
 

 和田義盛

足立遠元
院の権力と結ぶ足立遠元の人脈や素養は、幕府の対朝廷外交に大きな力
を発揮したが、承元元年(1207)3月3日の「闘鶏会」にまつわる
『吾妻鏡』の記事を最後に、歴史の資料からその名を消している。
中原親能(ちかよし)
頼朝の次女の死後、出家(寂忍)したが、その後も、京に常駐し幕府の
スポークスマンとして陰ながら活躍をつづけた。承元2年(1209)
京都で卒去。66歳。
和田義盛
幕府で最も傑出した武将と称えられた侍所の別当・義盛は、権謀術数を
駆使する北条義時の挑発に乗せられ、建保元年(1213)「和田合戦」
を起こした。その勝負は2日間で決し,義盛そして和田氏は滅亡した。
66歳だった。
八田知家
比企氏に通じ北条時政と対立。頼家により嫌疑をかけられ、阿野全成
誅殺したのも時政の次女・阿波局を妻としていたからか。和田義盛滅亡
の5年後の建保6年(1218)に死去。76歳。


媚びたりしない白い紫陽花  みつ木もも花
 
 
 比企能員

三善康信
「承久の乱」で、大江広元とともに即時出兵を唱えて勝利に貢献、その
直後の承久3年(1221)8月に死去した。82歳。
二階堂行政
3代将軍・実朝の死を悼み出家するも、訴訟や政務を審議する「評定衆」
の一人となり、貞永元年(1232)に「御成敗式目」の制定に参加、
暦仁元年(1238)まで生きた。死去年齢不明。
北条時政
鎌倉幕府初代執権。元久2年(1205)「牧氏の変」により、娘政子
によって牧の方とともに伊豆島へ配流・隠遁生活を強いられ、建保3年
(1215)腫物で死去するまで伊豆の島で暮らした。78歳。
(牧の方は時政の死後、京都へ戻り、15年近く暮らしたという)


キミの名はらっきょだったのか  そうか  高野末次
 
 
  北条義時
元仁元年(1224)6月死去。
大江広元
時に話をはぐらかし、態度を曖昧にすることで政争から巧みに身を躱し、
宿老として常に幕府の中心に位置し、政所を仕切った。
嘉禄元年(1225)6月死去。
北条政子
政子は13人の合議制には入っていないが、ある時は表で、又ある時は
陰で義時を支援し、鎌倉という船の舵をとった。
嘉禄元年(1225)7月死去。
義時・広元・政子の3人は、仲良く自らの役目を終えた様に世を去った。


黄昏色のドアに待ったをかけておく  前岡由美子
 


        大磯ー和田義盛と朝比奈義秀


「鎌倉殿の13人」 和田義盛

 
和田義盛は34歳で「頼朝旗揚げ」に三浦一族として参戦し、その後の
戦さにも加わっている。
その後、鎌倉に本拠を定め、軍事政権として内乱の過程で成立した鎌倉
幕府において、頼朝の御家人として、主従関係で結び付いていた。
治承4年(1180)のことであった。
すると幕府に、御家人たちを統制する機関が必要になった。
それが「侍所」であった。
また「別当」は、最も軍略に優れ武勇の士である者が選ばれた。
その初代長官から実朝時代まで3代に渡って、別当として君臨したのが
和田義盛である。


毎日が等身大の福笑い  北山まみどり


合戦に当たっての義盛の武技は、弓矢に優れていたという。
頼朝が弓馬に優れ、忠節なる御家人22人を選出した際にも、義盛は選
ばれているほどである。まさに義盛は、頼朝に忠実で奉仕し功を重ねた。
さらに頼朝の耳目の役割をも果たした。
頼朝が死亡して、頼家が将軍になると、宿老13人の合議制が生まれた。
この13人に義盛は、当然、名を連ねた。
梶原景時「謀叛事件」には、積極的に動き、景時失脚後、義盛はその
影響力を強めた。


今日もまた一番星をさがしてる  奥山節子


やがて、北条氏の権力の前に立ち塞がる御家人は、比企能員和田義盛
など数人に過ぎなくなった。「比企氏討伐」に関しては義盛は北条時政・
義時父子に加担して「政敵・比企氏」の排除を計った。
だが、北条氏の権力が大きくなり、独裁制を強化するようになると、
北条と和田の対立は避けられなくなった。
この後、「畠山重忠追討」に続く、時政と牧の方による娘婿・平賀朝雅
を将軍に擁立しようとした「牧氏陰謀事件」によって時政が失脚すると
その後の北条氏の権力は、義時に移った。


何事も無い顔をして桜咲く  新家完司
 


        義盛を攻める義時の兵士


「和田合戦」


建保元年(1213)、鎌倉殿の3代・実朝の10年目。
和田義盛は、鎌倉幕府創立以来の功臣であり、御家人の最長老であり、
しかも、御家人に頂点に立つ侍所・別当であり続けた。
一方、2代執権・北条義時は、「権力をより強固なものにするため」に
大きな力を持っている義盛の力を削ぐことを計画した。
義時がきっかけとしたのは、
<実朝を将軍職から引きずり下ろし、代わりに、頼家の遺児を擁立して
 北条氏を倒す>
とする信濃の武士・泉親衡(ちかひら)が謀ったクーデター計画だった。
この泉親衡のクーデターに、和田氏一族が加担していることが発覚した。


お疲れのようだ あちこちから煙  竹内ゆみこ


義盛の甥・和田胤長が捕縛されたまま、義時の被官・金窪行親に連行さ
れて処罰された。和田一族に下げ渡されるはずの、胤長の屋敷地も没収
してしまった。
これは義時が、この一連の事態を利用し、もともと短慮な性格の義盛を
挑発したものだった。
この義時の度重なる挑発に、義盛はぶち切れてしまった。
まんまと挑発に乗ってしまった義盛は、同族の三浦一族の三浦義村を味
方に引き入れて、「北条氏打倒」へ挙兵、将軍御所や義時邸を襲撃した。
「和田合戦」である。


ふーっと息吐いて変身するナイフ  宮井いずみ


ところが、一度は同心した三浦義村の裏切り、また、唯一の頼りにした
3千騎を引連れて、駆け付ける手筈だった横山党の横山時兼が、事前に
予知していた義時側に足止めをくらい、義盛は孤立状態となった。
さらに土尾・山内・土肥・愛甲・逸見氏などの御家人が和田側にいたが
義時の狡猾な戦略に封鎖されていた。そして5月2日、
「君側(くんそく)の奸を討つ」として兵を挙げた義盛軍は、
4日の明け方には壊滅し、和田一族は滅亡した。義盛67歳だった。
(和田義盛が死亡したことで義時が侍所・別当を兼任、北条の執権政治
体制が確立した)


不都合はボタン一つで はい消去  津田照子
 


 北条義時


【付録】 その後、

建保元年 (1213)
1月、実朝、正二位に、義時、正五位になる。
5月、和田合戦。義時、侍所別当4兼任する。
8月、義時、新造御所に移徒の実朝に随従する。
建保4年 (1216)
1月、義時従4位、広元陸奥守となる。
4月、将軍家政所別当9人制となる。
6月、実朝が権中納言となる。陳和卿が実朝に拝謁する。
9月、義時・広元による実朝への諫言・「官職推挙懇願」がされる。
11月、実朝、権中納言の直衣始を行う。
   実朝、唐船建造を命令する。義時これを諫言する。
建保5年 (1217)
1月、義時、右京権大夫に。実朝の唐船、着水失敗に終わる。
6月、公暁が鎌倉に入る。
10月、公暁が鶴岡八幡宮別当となる。
11月、広元が陸奥守を辞任する。
12月、義時が陸奥守を兼任する。
建保6年 (1218)
1月、実朝、権大納言となる。
3月、実朝、左近衛大将となる。
4月、政子、従3位となる。
7月、泰時、侍所別当となる。
10月、実朝、内大臣となる。
12月、実朝、右大臣となる。
この翌年、鎌倉に大事件が勃発する。


さて今日も今日とて並のメニューです  山本昌乃

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