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川柳的逍遥 人の世の一家言
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アバターの黒いタイツに電線が  河村啓子



       北条政子愛用の手箱の硯箱  (複製)(縦35×横42×高さ33㎝)

手箱は後白河法皇から頼朝に下賜され、政子が主に化粧道具入れとして
使用していたとされる。
明治7年、ウィーン万国博に出品の帰途、伊豆半島沖で船が沈没。
その時、手箱は海の中へ消失した。


ついに建仁3年(1203)9月2日。
2代将軍・頼家の妻・つつじの実家である比企氏と、政子の実家である
北条氏との間で戦闘が起った。
この戦いで、比企氏は北条氏に滅ぼされたが、苦悩した政子はまもなく
一つの決断をした。
<頼家がこのまま将軍を続けていると、幕府の混乱が収まらない>
政子は頼家を出家させることにした。
同年9月末、頼家は、伊豆の修禅寺に幽閉された。
孤独と寂寥に耐えかねた頼家は、
「深い山の中で、何もすることがありません。せめて側に仕える者だけ
 でもよこしてください」
と、鎌倉の政子に訴えた。
しかし、政子はその訴えを許さなかった。
以後、頼家が使いを寄こすことすら禁じた。


廃線は途切れ下弦の月残る  藤本鈴菜


翌元久元年(1204)7月18日。
頼家は幽閉先の修禅寺で殺害された。享年23歳。
その時政子は、48歳。
その肩には、「混乱した幕府の立て直しをはかる」という重い荷物が
課せられることになった。


言い訳は出来ない七月の指紋  山本早苗


「鎌倉殿の13人」 政子と実朝


          
      北条政子            源頼朝

建仁3年10月8日、頼家の跡を継いで二男の実朝が三代将軍になった。
その時、実朝は、まだ12歳。
幼いながらも父・頼朝を彷彿させる心配りの闊達な人柄で、周囲にその
将来を期待させた。
だが12歳で、実際に政務を司るわけもなく、政子を中心に北条時政
大江広元が政所別当という地位で、政治の代行をすることとした。
政子が、政治の表舞台に立つようになったことを示す記述がある。
『尼御台所御計也』
尼御台所とは、政子のことである。
つまり「政子の裁量によって、武士たちに土地が与えられた」と記され
ているものである。
慈円『愚管抄』、「女人入眼の日本国」すなわち
「いまや日本は政子という女性の力で治められている」
と、記したのもこの頃である。


これからを口ぐせにするアホウドリ  富山やよい


ところが、肝腎の三代将軍の実朝は、母・政子の活躍と裏腹に、次第に
政治への関心が薄れていく。
和歌に熱中し、実朝は、朝廷の実力者で優れた歌人でもある後鳥羽上皇
心酔していったのである。
そんな実朝が、18歳の時に詠んだ和歌が、都の高名な歌人・藤原定家
認められ、後鳥羽上皇の前でも、披露されたのである。
実朝は歌人としても、注目を集めるようになった。


歌詠んであとは野となり酒となる  中村幸彦


「京の実朝邸」
藤原定家43歳が、実朝の和歌の指導に来ている。
定家「仙洞50首の御製でございますね。
   下の句のーやや影さむし よもぎふの月 ー
   ここが味わい深くてようございます」
実朝「しかし、これも入れると私の歌だけで、30首を超すね」
定家「お気になさいますな」
そこへ卿の局・藤原兼子50歳がくる。
兼子「また古今和歌集のご相談ですか、毎日、ご熱心なこと」
実朝「そなたもいい歌を詠んだら、採用してやるぞ」
兼子「とんでもない。私の腰折れなど…」
実朝「だろうな…」


苦労性もしもばかりを考えて  荒井加寿


実朝「で、何の用だ?」
兼子「鎌倉から将軍の正室に公卿の姫君を戴きたいと申して参りました」
定家「私には…適当な娘はおりませんが」
兼子「鎌倉が欲しがっているのは、坊門殿の姫君です」
実朝「前大納言は私の叔父御だ、その娘といえば私の従兄弟だよ」
兼子「だからです!坊門殿には5人も姫君がいらっしゃいますし、
   しかも上の姫は、上皇様ご寵愛のその御方。
   その妹君が鎌倉将軍の正室となれば…」
定家「上皇様と将軍は、ご姻戚になられる…!?」
兼子「京と鎌倉はよき関係になりましょう…」
実朝「尼御前だな言い出したのは」
兼子「私も同じ考えです」


たらればの話はすぐに盛り上がる  津田照子



             実朝の使用した硯箱
和歌や政所下文を書くときにつかったのだろう。


「話を戻す」
そしてある時、実朝は運命を変える一冊の書に出会った。
後鳥羽上皇が編纂を命じた『新古今和歌集』である。
その序文には、
「歌は世を治め、民を和らぐる道とせり」 とある。
実朝はこれをきっかけに、民のために政所を行った朝廷政治を学んだ。
そしてそれを将軍としての理想とするようになっていった。


網目から月燦燦とこぼれだす  市井美春



           「政所下文」 
冒頭の文字は将軍・実朝のものである。


「政所下文」とは、実朝が、幕府の命令を武士たちに発する際に出した、
公式文書のことで、末尾には、北条義時をはじめ、有力な武士たちの署名
が並んでいる。
このことは、実朝が合議による政治を行っていたことを示している。
つまりは実朝は、「最終的に自らの手で政治決定を行っていた」
と、いうことになる。
実朝は、政治に積極的に取り組み、武士を束ねようとした。
実際この頃、実朝は、盗賊が増えて民衆が困っていると聞くと、
これを厳しく取り締まるよう通達を全国に発し、 また、
壊れた橋が長く捨て置かれていると聞くと、これもすぐに直させた。
実朝は、和歌を通じて知った古の「朝廷政治を理想」として実践しよう
としたのである。


渋柿と呼ばれてやっと今日  井上一筒


しかし、将軍実朝が朝廷にならった政治を行い始めたことが、
鎌倉の武士たちに、次第に、不信の念を抱かせるようになっていった。
朝廷や公家はもともと、土地の支配権をめぐり、武士と利害の対立する
勢力だった。
実朝の父・頼朝はあるとき、弟・義経が平家を滅ぼした功績によって、
朝廷から官位を賜ると、これに激怒し、義経を死に追いやっている。
官位を受けた義経は、
「朝廷に取り込まれて、武家政権を危うくする裏切り者だ」
としたのである。
ー今、三代将軍・実朝が、和歌を通じて朝廷と結びつき、政所を行おう
としている。このことは鎌倉の武士たち、特に執権・北条義時にとって、
武家政治の危機と映りはじめていた。


助走用カプサイシンを三匙ほど  平井美智子



鎌倉時代の女たち
その後ろでは、男がややこをあやしている。


「政子は悪女ではなかった」

当時の武士階級の女性は、夫が死んだあと、家の中で非常に大きな権限
を握った。つまり、夫亡きあと、後家は家父長権を代行するのを認めら
れており、親子関係でいえば、親権が非常に強かった。
たとえば、母親と息子が違った意見を出したとすると、当時の人たちは
母親の意見に賛同した。
政子の頼家に対する諫めの言葉にしても、常識的でしかも冷静なものだ
から、御家人たちの指示を得られた。
息子だからといって、偏愛をしなかった。


さみどりの対角線にある戦さ  合田瑠美子


頼家が側近だけを大切にしたり、一所懸命の武士たちの土地に対して、
真剣に考えて取扱わなかったりしたのを見、実朝が、後鳥羽上皇と協調
路線を取ろうとするのを見、また聞くにつけ、政子は、生まれながらの
東国の女性だから、息子たちがだんだん違った方向へ行っているという
感は拭えなかっただろう。


親バカのどこかに支障ありますか  清水すみれ

 
新しい社会の建設を亡き夫・頼朝の路線に沿ってすすめていくか、
自分の子どもをとるか、二者択一を迫られたとしたら、
政子は躊躇なく、新しい社会の建設という方向を選んだ。
その決定が多くの御家人たちの支持を得て、鎌倉を北条を育てていった。
とはいえ、根の優しい政子は、期待した息子たちが、
期待どおりにいってくれない、というもどかしさを胸に抑え込んで、
「母の情をおろそかにした」というわけではない。


有刺鉄線越えるかキミと抱き合うか  酒井かがり
 
 
「尼御台所の心配事ー兼子が持ってきた結婚話はうまくいったが…」

尼御台所であり、母である政子にとって、一つの心配事があった。
「いつまで経っても実朝に跡継ぎが生れず、幕府の後継者が定まらない」
ことである。
建保6年(1218)2月4日、政子63歳は、京の都を訪れた。
実朝に子どもが恵まれないので、朝廷にかけあって、皇族の一人を跡継ぎ
に迎えるためであった。皇族を将軍に迎えれば、
<朝廷と幕府のもっとうまくいくようになるに違いない>
と、いう思いもあった。
この時、政子は、朝廷から従三位という高い位を授けられ、後鳥羽上皇
会うことも許された。しかし、政子は、
「辺鄙の老尼、竜眼に咫尺(しせき)するもその益なし」
と、答えて辞退した。
(片田舎の老いた尼が上皇様にお会いしても何もよいことはございません)


お疲れのようだ あちこちから煙  竹内ゆみこ

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