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川柳的逍遥 人の世の一家言
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うしろの正面不動明王にらみおり               田口和代

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 山東京伝黄表紙

寛政の改革は、天明7年(1787)から寛政5(1793)にかけて、享保の改革を下敷きに老中・松平定信が行った幕政改革である。改革における禁止条目は、増加することはあっても減るようなことはない。先の享保の改革では、まだ緩やかだった取り締まりが、寛政の改革でいっそう厳しいものになる。

「詠史川柳」-寛政の改革

田沼政治を覆した白河藩主・松平定信は、御三家や11代将軍・徳川家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の強力な推薦を受け、1787年6月老中に就任、寛政の改革を開始した。定信は8代将軍・吉宗の孫であり、新参成り上がりの田沼の政治に対し、不満をもつ大名グループの指導者であった。彼は老中に就任するや、これら同志の大名を次々に幕府の要職に登用し、改革推進の体制固めを行った。定信は、けっして独裁せず、改革の重要政策は彼らと十分協議し、さらに御三家および治済の意見を聞いたうえで実施された。定信は率先して倹約を励行し、華美な風俗を取り締まり、綱紀を粛正した。

コンパスで描いた円はつまらない 
竹内ゆみこ

この寛政の改革のひとつの眼目は、出版に対する強烈な弾圧であった。書物および草紙類の新規出版禁止。禁じたものは、『当世を一枚絵等にすること、通説以外の異説を題材にすること、風俗に拘わる好色本、無用の手を加えた高価なもの、古代を装って不束なことを展開する子供向け草双紙、浮説を写本にして貸し出すこと』義務付けられたのは、『華美贅沢にならないよう質朴を守ること、奥書には、作者と板元の実名を記すこと』もっともどうしても出版したいというのであれば、『奉行所へ伺いを立て許可を得ること』というものであった。

黒子がいいそれが一番よく似合う 
桑原スゞ代

ともあれ今後、書物・草紙屋は、相互に吟味して制禁書物類の密かな流通を見逃さないようにする。また手許に送られてきたら、必ず奉行所へ届け出てその差図を受けるように命じられたのである。この取締り方針は基本的には、享保7年11月の触書を踏襲している。それに現存する諸大名や旗本の先祖について書くことも禁止されたし、博奕及び遊里の趣を書き表すことも厳禁された。

すたすたとやってくるのは冬だろう 山本昌乃

 
 偐紫田舎源氏

これで女郎買いをおもしろおかしく書いて人気を博していた洒落本は息を止められた。寛政の改革に好意的だった「文武二道万石通」の作者・喜三二も、戯作の筆を折ることを余儀なくされ、同じ傾向の「鸚鵡返文武二道」(おうむがえしぶんぶにどう)の作者・恋川春町にいたっては、切腹したという噂が伝わっている。山東京伝「錦の裏」で手鎖50日に、また為永春水は、長い吟味の後、翌13年2月に手鎖50日に処せられ、翌14年2月14日に病死している。柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』は十三年の正月出版は叶ったものの旗本の組頭から「高屋彦四郎(種彦)其方に柳亭種彦という者差置き候由、右の者戯いたすこと宜しからず、早々外へ遣わし、相止めさせ申すべし」と断筆を迫られ、その6月19日には病死している。

トトロとすれ違う暗渠の中ほど  
井上一筒

その他では、出版社・蔦屋重三郎は身上半減の罰金、その出版を容認した書物行司ふたりは商売を禁止された上、現住地から追放された。この厳しい改革の中で狂句や川柳がのうのうと風刺を書いていることが許されるわけがない。こうして風刺や滑稽を効かせた575は、詠史川柳へ逃げるほかはなかったのである。

一八〇度の転身をして返り咲く  
清水久美子
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≪素戔嗚尊≫(スサノオノミコト)

どっちらも好きで大蛇(おろち)はしてやられ

天照大神岩戸隠れの原因を作った素戔嗚尊は、神の国から下界へ追放されるが、そこでは「八岐大蛇(やまたのおろち)退治」という偉業をなしとげる。八岐大蛇は八頭八尾を持ち、身体には苔や木が生え、長さは八つの谷や丘にわたり、毎年現れては娘を食べるという怪獣である。スサノオは八塩折(やしおおり)という強い酒を作って八つの酒器に入れ、大蛇がやってきてその酒を飲んで眠ったところを見計らって退治したのである。句は、大蛇が女も酒も両方とも好きだったからやられたのだという。

神代にもだますは酒と女なり

昔も今もとこの句の解釈は不要だろう。スサノオが退治た大蛇切り刻んでいると、尻尾から剣が出てくる。これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)で岩戸隠れのときに作った勾玉・鏡とともに「三種の神器」とされる。

名案がある荒縄を置いてゆけ くんじろう

【知恵袋】

素戔嗚尊は「古事記」では須佐之男命。伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉国の穢れを落とすために日向の檍原で禊を行なった際、左眼からアマテラス(天照大御神)、右眼からツクヨミ(月読命)、鼻からスサノオの三貴子が生まれた。イザナギは、その三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。

見込みある男飛びだす土砂降りへ 柴本ばっは

「日本武尊」の画像検索結果

≪日本武尊≫(ヤマトタケルノミコト)

女形その始まりは日本武

景行天皇の第三皇子である小碓尊(オウスノミコト)は、勅命によって西方の賊・熊曽建(クマソタケル)の平定に出かけ、女装して宴席に潜り込み討ち果たす。その時、熊曽建が皇子を称え日本武尊の名をこう奉ったといわれている。

御神徳氷で草の火を鎮め

日本武尊は続いて東国の平定に向かうが、相模国の草原の中にいた時、地元の国造(くにのみやつこ)が日本武尊を焼き殺そうと火を放った。その危機に日本武尊は、草薙剣で風上の草を払い、火打石で風下の草に火をつけて脱出をしたという。(氷は剣のこと)

ピンチでも平常心という強さ 神野節子

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サイダーを飲んでくるりと裏返る  石橋能里子

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「詠史川柳」―享保の改革

江戸は政治の中心地でしたが、文化の伝統がなかったので、元禄
時代までの江戸の文化は、上方中心のそれには叶いませんでした。
しかし宝暦の頃を境に、京阪中心の文芸はその勢力を江戸に譲る
ことになります。いわゆる文運東漸です。
この時期には、黄表紙・洒落本・狂歌・川柳等々遊戯的、享楽的気
分の濃厚な軽文学が新たに登場して、江戸文芸はにわかに活況を
みせはじめていました。

早咲き遅咲き一度はきっとは咲はずだ 森下よりこ

ことに川柳は、深い洞察力と機知によって、人間の喜怒哀楽を17文
字に凝縮させた文芸で、俳句のように季語や切れ字といった面倒な
約束事に拘束されることなく、多くの句材の中から、人事人情に関す
るものに滑稽・穿ち・軽み・風刺といった要素を加え庶民の間にまで、
その魅力の広がりをみせていました。
ところが「江戸の三大改革」という政治の介入により、罰則を恐れて、
リアルなものより、伝統や歴史の事件、歴史上の人物を詠みこんだ
川柳へと逃げこんでいくことになります。それが「詠史川柳」です。
詠史川柳とは、古典などに登場する往時の貴人や歴史上の有名人
などの行為を眼前に見る情景のように活写したもので、傍目では過
去のことを語っているように見せながら、滑稽と皮肉を隠し味にして、
政権への細やかにも不満と反抗を表現してみせたのです。

君らしく咲いてくれればそれで良い  杉山太郎

その裏事情。享保年間(1716~36)に「時々雑説、或は人の噂を
出版してはならぬ」という厳しいお達しが出ました。享保の改革です。
誰にとっても一番興味のある「時事問題や市井の恋愛や心中等々を
取り扱うことまかりならぬ」というのです。先に言うように、川柳しかり、
戯作でも芝居でも、すべて時代を鎌倉時代や室町時代に移行して、
場所は鎌倉、人物の名前も頼朝や弁慶、畠山重忠などに仮託する
ことになり、『忠臣蔵』では、吉良上野介高師直(こうのもろなお)、
浅野内匠頭塩冶判官(えんやはんがん)に仮託されたのは、こう
いう禁令を誤魔化す手にほかならなかったからです。

こうして誕生した詠史川柳やえ!と思う意外な歴史に触れながら、
今年の一年、話を進めていきたいと思っています。お付き合いの程
よろしくお願いいたします。

真っすぐの鉄条網はありえない 森田律子

≪天照大神≫

わっさりと岩戸開けんと四方の神

日本には神様は数々いますが、最高の神様は、やはり日の神・天照
大神でしょう。スサノオうの尊の乱暴な行動に怒った大神が、天の岩
戸に籠ってしまわれると世の中が真っ暗になりましたので、八百万の
神々が集まって岩戸を開ける作戦を開始しました。

うずめおどりが所望じゃと神つどい

「うずめ」「天鈿女命」(あめのうずめのみこと)のことですが「おかめ」
の意味にも使われます。
『古事記』によりますと、かなり刺激的なお神楽だったようですから、
神々も拍手喝采だったようです。

天の戸をうすめにひらくにぎやかさ

あまりの賑やかさに天照大神は「なんだろう」と少し岩戸をお開けにな
りました。
お神楽に角行の利きほど日が当たり、お神楽をやっている神様に、
将棋の角の利き道のように日が当たると、いよいよ天手力雄神(あめ
のたちからのおう)の出番です。

神代でも女でなけりゃ夜が明けず

鏡を見ない一日だった独り部屋  瀬川瑞紀

≪天手力雄神≫

岩戸までその日戸隠し闇で行き、戸隠は天手力雄神のこと。
岩戸を開けた手力雄が、天照神が二度と岩戸に隠れられないように、
開けた岩戸を放り投げたところ、信州に落下して戸隠山になったという
伝説があります。

戸隠は手の這入るほど開くを待ち

腕限り天の岩戸を取って投げ

信州へ地響きがして日が当たり

戸隠は油の値段ぐっと下げ

その後は神楽も要らず初日の出

寝返りを考えている涅槃像  河村啓子

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近頃は顎の線まで崩れだす  山本昌乃


薫と僧都と小君

法の師と たづぬる道を しるべにて 思はぬ山に 踏み惑ふかな  

横川の僧都を、仏道や心の師と仰いで訪ねてきた道ですが、
思いがけない恋の山道に迷い込んでしまったようです。

「巻の54 【夢浮橋】」

明石中宮が言っていた浮舟生存の話を確かめるため、

浮舟の弟である少年の小君を連れて、横川の僧都を訪ねた。

そこで薫は、僧都から浮舟の様子を聞き、浮舟に違いないと思った薫は、

「私が心を寄せていた人で、突然、消息を絶ち訳も判らず葬儀を

   してしまった人がいます。それが尼君のお世話になっている人です。

   きちんと確認できたら、母親はじめ家族に合わせてあげたいのです」

と言う。


恋してるうちに雨は本降りに  森田律子

それを聞いた僧都は、深く考えず浮舟を出家させてしまったことを悔む。

が、引き合わせて欲しいという薫の要望は、頑として受け入れなかった。

一度出家した者を破壊者(戒律を破る者)にする訳にはいかないからである。

そこで薫は、僧都に事情を記した手紙を書いてもらい、

「お前の姉様は、死んだと諦めていたのだが、生きておられたんだよ。

    姉様は他の人には、知られたくないと思われているようだから、

   お前が行って、この手紙を渡してきておくれ」

と言って手紙を
小君に託す。

翌日、小君は僧都と薫の二つの手紙を持って小野の庵を訪ねた。

夜桜の優しさごっこ受け入れる  前中知栄


浮舟への手紙を書く僧都

簾越しに弟の姿を見た浮舟は、動揺をしていた。

門前にいる小君は、自殺の決心をした夜にも、恋しいと思った弟である。

一緒に住んでいた頃は、まだ腕白で、両親の愛に驕って憎らしかったが、

宇治へもよく遊びにきて、姉弟の愛を感じ合うようになっていた。

逢いたい、会って、何よりも母がどうしているのかと聞きたい。

他の人々のことについては、誰からともなく噂を耳にはするが、

母の消息は知ることができなかった。

それを思うと、目の前にいる弟を見ていると、何とも悲しくなり、

浮舟は涙をおさえられなかった。

左手の手袋ばかり見失う  三村一子

尼君は小君と話すように促すが、浮舟は首を横に振らない。

本心は弟に母の様子を聞きたくてたまらないが、

出家した身だからと
強く自制して「人違いだ」と言い張って、

顔を見せることすら拒み続けた。


仕方なく尼君が対応に出て、僧都の手紙を受け取る。

薫からの手紙は受け取るものの、浮舟は見ようとしないので、

尼君が開いて浮舟に手渡した。

紙の匂いは昔のままで芳ばしく、薫の懐かしい筆跡に涙が零れる。

のぞき見をして風流好きな尼君は、美しいものと思った。

僧都の方の手紙には「薫の執着心を取り除いてあげなさい」とある。

過去のことを知らない尼君は、その手紙を見て、薄々事情を知る。

耳掃除ばかりしている春の欝  笠嶋恵美子    


夢見心地に姉を待つ小君

泣いてひれ伏したままの浮舟の様子に尼君は困って、

「折角来てくれた弟さんに どう返事をすればいいのです」

と浮舟を責めると


「今は気持ちも落ち着かず、心がかき乱されています。


  それに昔のことを思い巡らせても、思い当たることがありません。

  落ち着きましたら手紙の意味が分かることもあるでしょう。

  ひょっとして手紙の受け取り人が、違っていたりしては迷惑なことです。

  このまま手紙を持って帰らせてください」

と浮舟は言い、手紙は拡げたままで尼君のほうへ押し返した。

ひらり来てひらりと去った冬螢  合田瑠美子

尼君はふたたび小君の話し相手に出て、

「物怪の仕業でしょうかね。お姉様はずっと御病気続きでね。

   わざわざご主人様も近くに来ていらっしゃるというのに、

   碌な返事もできずお詫びのしかたもないのですよ」と言う。

小君は姉に再会できる喜びを心に抱いて来たが、落胆して帰ることにした。

薫は小君の帰りを今か今かと待っていたが、

しょげて帰ってきた小君の様子
から、ことを察した薫は、

文を出さねばよかったと気落ちし、
自分がかつてそうしたように、

誰かが浮舟をかくまっているのではないか
と思い悩むのだった。

少しおしゃまなフライングして青蜜柑 美馬りゅうこ

【辞典】 最後に

「夢浮橋」は、源氏物語最終話で宇治十帖の締めくくりの巻になります。
この宇治と言う地名は、
<わがいほは 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と
ひとはいふなり>
という
歌を喜撰法師が詠んで以来、「憂し」を連想させる
地として知られるようになります。
その憂愁のイメージはこの宇治十帖全体
特に政治の内紛に巻き込まれ
没落した八宮や、いつまでも思い悩む薫の心の
様にリンクして物語に重量感
を与えています。また、この物語は、この後に
どのようなことが起こるのかを明確
には示さず、読者の想像にゆだねる形の
終わり方をしています。
それを「開けたままの終結」と呼ぶますが夢浮橋は
作者の紫式部が意図
して「開けたままの終結」にしたと伝えられています。

トクトクトクはーといつしか琥珀色  雨森茂樹

源氏物語はこれにて終結しました。次は話の種などを書いていきたいと
思っています。これからも続き、お付き合いよろしくお願いいたします。

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金不足で戻されてきたわたし  桑原伸吉


 庵の浮舟と稲を刈る人

身を投げし 涙の川の 早き瀬を しがらみかけて 誰かとどめし

涙からできたような流れのはやい川に身を投げた私。
誰がその流れを止めて、私を助けたのでしょうか。

「巻の53 【手習】」
     よかわ  そうず
比叡の横川の僧都の母尼妹尼、弟子の阿闍梨ら一行が、大和の初瀬詣の

帰る途中の奈良坂という山を越したころ母尼が病気になった。

一行はこのまま京まで行くのは無理だと判断し、

近くの宇治の院に宿泊することにした。


そこで異様な気配を感じた阿闍梨が、人の入れそうもない庭の方を見回り

に行くと、気味の悪い大木の下の辺りで、揺れる白いものが目に入った。


「幽鬼か神か狐か木精か、高僧のおいでになる前で、

   正体を隠すことはできないはずだ、名を言ってごらん、名を」 

と言い、阿闍梨が着物を引くと、その者は襟に顔を隠して泣きはじめた。

出生はどこの星かと問いかける  油谷克己


阿闍梨らと白い着物の女

付き添いは誰もおらず、打ちひしがれているその者は、

若くて美しく、白い綾の一重を着て、紅の袴をはき、薫香の匂いも芳しく、

気品も高そうな美しい女であった。

尼君は女房に言いつけ自身の室へ、その女を抱き入れさせた。

女は、依然失心状態が続いていて、衰弱もひどかった。

「この人を死なせてはいけません。加持をしてください」

と尼君は言い、僧都の妹の尼は、死んだ自分の娘が帰って来たように思った。

あの夜の冬桜なり女なり  徳山泰子

尼君は親の病よりも、この人をどんなにしても生かせたいと、

親身に付き添い夢中で介抱をした。

知らない人ではあったが、容貌の非常に美しい人だから、

このまま死なせてしまうのも惜しいと、女房たちも皆、必死に世話をした。

それでも時々目をあけて空を見つめる眼を見ると、いつも涙を流している。

その黙りこくって悲しげな女の様子に尼君が、

「黙って泣いてばかりいる貴方を見ているのは、こちらも悲しい。

 宿縁があればこそこうして出逢うことになったのだから、

    少しでも何かものを言ってくれないかね」

懇願するように言うと、病人はやっと、

「生きることができましても私はもうこの世にいらない人間でございます。

   人に見せないで、この川へ落としてしまってください」 

と低い声で言う。


心にも無い返事うっすらと雪  山本早苗

女は「川へ落としてほしい」と言った一言以外、その後は何も言わない。

尼君にはそれが物足りなかったが、いつまでも起き上がれそうにもなく、

このまま衰弱して死んでしまうのではないかと、無関心にはおれなかった。

宇治で初めから祈らせていた阿闍梨に、
以来ずっと尼君は祈祷をさせた。

早く健康を戻して家族として、暮らしたいと尼君は願っているのである。

やがて大尼君の病気も癒え、方角の障りもなくなったことから、

怪異めいた場所に
長居するのもよくないので、僧都の一行は、

比叡の坂本の小野へ帰ることにした。


こんなにも無口が似合う春霞  清水すみれ

小野までは長い道中だったが、夜ふけになって草庵に帰り着いた。

身もとの知れない若い女の病人を伴って来たというようなことは、

僧として
噂になってはいけないので、尼君は同行した人達に口留めをした。

もし捜しに来る人があったならばと思うことさえ、尼君を不安にしていた。

どうしてあのような田舎に、この人が零されたように落ちていたのであろう。

初瀬へでも参詣した人が、途中で病気になったのを継母のような人が、

悪意で見捨てたのであろうかと、そんな想像もするのだった。

価値観のちがう女とたそがれる  桜 風子

小野の草庵に帰ってからも皆、女を懸命に介抱した。

救われた女には物の怪に取りついており、阿闍梨が交替で加持をした。

物の怪が女の身体を去る時に、僧都の弟子に取りついて告白を始めた。

物の怪の告白によれば、美女たちが住む家に住みついて、一人殺した後に、

死にたいという女がまた一人いたので、取りついたということであった。

聞くところを察すると、どうも大君と浮舟のことのようである。

一人殺したというのは、おそらく大君で、もう1人は浮舟のことである。

幽霊にいつでもなれる洗い髪  佐藤美はる

その甲斐あって取り憑いていた物の怪も退散し、

意識を取り戻した浮舟は、死ぬことも叶わぬ自分の身の不運を嘆き、

読経などの勤行や、書をつれづれにしたためる「手習い」などをして

日々を過しながら、ひたすら出家したいと願った。

しかし、妹尼は浮舟の若さゆえに首を縦に振らない。

そんなこと聞くから愛が風邪を引く  河村啓子 


 出家をした浮舟

九月になって尼君たちは、ふたたび初瀬へ詣ることにした。

今まで苦しくも、心細くも死んだ娘のことばかりを考えていた自分に、

あのような可憐な姫子と知り合えた縁は、、観音のご利益であると信じ、

お礼詣りをしようと思い立ったのである。

そんな尼君らの留守の間に、浮舟は妹尼の亡くなった娘婿である中将から、

またまた疎ましく恋の告白を受ける。

中将と浮舟が結ばれることを、尼君もそうなればと願っている縁だったが、

思い出すのも辛い
恋の行き違いから、このように漂泊する身になった自分

なのだから、それを恥じて
浮舟は中将の告白を無視し続けた。

そんなある日、浮舟は妹尼らの不在の折に立ち寄った横川の僧都に懇願して、

出家をしてしまう。

帰ってきた尼君は嘆き悲しんだが、すべてはあとの祭りだった。

鋭角に座り直して来た敵意  都司 豊

年が明け、浮舟の手習いは、仏勤めの合い間にも続けていた。

そんな所へ法要のための衣装を縫って欲しいという仕事が庵に寄せられた。

薫が主催する浮舟の一周忌に使う衣装である。

浮舟も手伝うように言われるが、自分のための仕事はできるわけがない。

その一周忌の仏事を終え、薫は挨拶かたがた中宮の御殿を訪ね、

儚い結末になった浮舟のことを薫は偲び、中宮と話しこんだ。

そんな中、薫が可哀想に思った中宮は、僧都から聞いた話を思い出し、

小宰相にそっと、


「薫の話を聞いていると今も、あの人のことを恋しがっている。

   それが可哀想で、ついあの話をしてしまうところだったけれど、

   私の口からは気づつなくて、言ってあげることができませんでした。

   あなたも僧都の話を聞いていたのだから、ほかの話のついでに

   僧都の言っていたことを話してあげなさい」

と言う。これは匂宮に関わりがあるために、

中宮自らは言わなかったのだと小宰相は思った。


茄子焼いて聞いてる主語のない話  山本昌乃

小宰相は世間話などをする合間に薫に、僧都が残していった話を始めた。

「横川で僧都が山の庵に立ち寄った折、女性を一人尼になすったそうです。

   患っている間も、皆若さを惜しんで尼にはさせなかったのだそうですが、

   その女性が強く願うので、出家させたとその僧都は言っておりました」

場所や時期をその時の様子を考えると皆、符合することばかり。

薫は、これは浮舟が生きていることではないかと推理した。

死んでしまったと思っていた人が、漂ってこの世にまだいるかも知れない。

そんなことがあるはずはないと思う反面、自殺などできる強い性質では

なかったことを考えると、話のように人に助けられ生きているのが

性格に似合っていると思う、薫だった。

生きていてくれと言われて生きている  永井 尚

薫は突然の話に驚くとともに、比叡詣の折に横川を訪ねてみることにした。

母とか弟とかには知らせず、供には浮舟の異父弟を連れて行くことにした。

都合ですぐに尼の家を訪ねることになるかもしれない。

夢の再会を遂げるその時に、気兼ねのない者がいる方が良いと思ったのだ。

その人と分かった後で、そこの尼たちから予期せぬ事実を聞かされることが

あっては悲しいだろうなどと、薫はいろいろと配慮をめぐらせるのだった。

手櫛にてさきおとといのもつれ髪  下谷憲子

薫の配慮は、匂宮のことでもそうである。

浮舟が生きてみつかり、宮がまだあの関係を続けようとしているのであれば、

どんなにあの人を自分が愛していても、もうあの時のまま死んだ人と思うこと

にしてしまおう、生死の線が隔てた二人と思い、いつかは黄色の泉の辺りで

風の吹き寄せるままに逢い得ることがあるかも知れぬのを待とう、

愛人として
取り返すために、心を使うことはしないほうがよかろうなどと

思う薫なのである。


落書きが美しいすぎてまだ消せぬ  桜 風子

ところが、今の課せられた境遇の中で浮舟の考え方は違った。

あの方(匂宮)のために自分はこうした漂泊の身になった。

変わらぬ恋を告げられたのを、なぜ嬉しく思ったのかと疑われてならない。

匂宮への愛も恋もさめ果てた気がする。

はじめから淡いながらも、変わらぬ愛を持ってくれた薫のことは、

あの時、その時と、その人についてのいろいろの場合が思い出されて、

匂宮に対する思いとは、比較にならぬ深い愛を覚える浮舟なのである。

もう少し濁ると僕も棲めるのに  薮内直人

【辞典』  本物の高僧

これまでの巻の源氏物語に登場する僧侶の殆どは、軽口であったり、人情味
がなかったりと否定的なイメージで語られてきた。しかしこのラスト二巻目
にきて、やっと僧侶らしい人徳を備えた人物が登場する。それが横川の僧都
である。何より心の深さが違う。源氏物語の登場人物の多くは世間の評判を
気にして、悪い噂が立たないよう行動しているが、この横川の僧都は違った。
浮舟の加持祈祷のため山を下りるとき、弟子が朝廷からの要請にも山から出
なかったことを引き合いに出し「何を言われるかわかりません」と進言する
が、横川の僧都は「言わせておけ」とお構いなしに素性も判らぬ浮舟を助け
に行くのである。
実はこの横川の僧都には実在のモデルがいたと言われている。
後の法然や親鸞にも大きな影響を与えたとされる源信である。
かれは平安時代中期の天台宗の僧侶で、紫式部と同時期に生きた人物である。

山吹の花で野良犬を染める  井上一筒

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口すすぐ昨日サヨナラ言った口  清水すみれ 

ありと見て 手にはとられず 見ればまた ゆくへも知らず 消えしかげろふ

そこに見えているのに、手にとることはできず、また見てみると
どこかえ消えてしまう。愛しいあなたは、まるで蜻蛉のようだ。

「巻の52 【蜻蛉】」

宇治の山荘は浮舟の失踪で騒然となる。

浮舟の秘密に関与していた右近だけは、浮舟の悲しみ苦しみ、煩悶が並み

並みでないことを知っていたから、宇治川に身投げしたに違いないと考えた。

小さい時から少しの隔てもなく親しみ合った主従ではないか、

隠し事は塵ほどもなかった間柄ではないか、

自殺の素振りも自分の前に見せられなかったのが口惜しい。

優しい柔らかい心の持ち主だった姫が自殺などと、まだ事実を事実として

信じることができずに、ただ悲しいばかりの右近であった。

誰あれもいない回転木馬秋になる  畑 照代

浮舟自殺の知らせを受けて、母である中将の君がかけつける。

あらかたのことを知る右近は、すべての成り行きを中将に話した。

女房たちは妙な噂が世間に広まるのを防ぐため、

その日のうちに亡骸のないまま、浮舟の葬儀を終えてしまう。

功罪を残し虚ろな通夜の雨  上田 仁

匂宮は、浮舟の最後の手紙に不振を抱き事情を聞くため従者・時方を送る。

時方は右近へ面会を求めたが、「急に亡くなったので、それどころではない」

と取次ぎの対応もおざなりである。

 「そうではありましょうが、何の事情も知り得ずに帰れませんので、何とか」

と時方は必死に言うも、右近は心労で寝込んでいることもあり、取次ぎは、

「ただただ今は、皆、呆然としておりますとだけお伝えください。

  少し気持ちも納れば、どんなに煩悶をしておられたか、宮様が来られた晩に

  どのような心境に姫があったのかなど話しができるかと思います。
  しょくえ
  触穢の期間の過ぎました時分に、もう一度お越しください」

結局、時方は使いの役目を果たせず、戻っていく。

ありふれた話でいいの もう少し  阪本こみち

薫は、そのとき母の病気の祈祷で、数日、寺に籠もっていた。

そのため知らせを受けたのは、葬儀も済んだあとだった。

薫も突然の出来事が信じられなかった。

まもなく薫は山荘を訪れ、相談もなく早々に葬儀を済ませたことに不満を

抱きつつ、侍従から聞く事情を察すれば、一人人生の深い悲しみを味わって

いた浮舟の生きていた時には、それを認めようとはせずに、たびたび逢いに

行くこともせず、寂しい思いばかりをさせて来たのであろうと思う後悔が

あとからあとから湧いてくるのだった。

手触りで時の過ぎゆくのがわかる  嶋沢喜八郎

思いもよらない悲惨な結末に、涙に暮れ、匂宮は病床に臥せってしまう。

多くの見舞いが訪れるが腹心以外、病気の本当の理由を知るものはいない。

匂宮は見舞いに来た薫と顔を見ると何となく引け目のようなものを感じた。

薫は色々な世間話のあと、匂宮の知らないこととして浮舟のことを話す。

宮も御承知のあの山里に若死にをした恋人と同じ血筋の人がいると聞き、

昔の人の形見に、ときどき顔を見て慰めにしようと思ったのですが、

世間から訳もなく悪く批評をされてもと思い、山里へ連れて行ったのです。

彼女を心の人として付き合いを考えていたところ、突然亡くなってしまいました。

人生の悲哀がまたしみじみと味わされ、寂しい思いをしております」

薫としては悲しい姿は見せるまいと我慢していたが、涙が自然とこぼれた。

薫の言葉に別な意味があることを悟り匂宮だが、素知らぬ風を貫いた。

 「お目にかけたら興味をお覚えるだけの価値のある女性でしたから、

あなたの愛人にどうかと思っていたのですよ」

と精一杯の嫌みを残して薫はその場を辞した。

結婚は紙の上での事だった  井上一筒

匂宮は浮舟の思い出話などをさせるため、宇治にいた侍従を呼び寄せ、

このまま明石中宮の女房になるようにした。

侍従には、匂宮を以前、蔭で見ていた時よりやつれ哀れに見えた。

そして貴族の姫君たちだけのお仕えしている場所だと聞いていて、

そうした上の女房たちの顔を、このごろ皆見知るようになってから考えても、

浮舟の姫君ほどの美貌の人は、いないと思うのだった。

陽炎に揺れて美人に見えてくる  牧浦完次

時が流れ、明石中宮が亡き源氏や紫の上を弔う法華八講を催した。

その場で女一宮を垣間見た薫は、その美しさに魅せられ恋心を抱く。

そして、その妹である妻・女二宮に、彼女と同じ装束をさせてみたりする。

薫はそうした折々にも大君を想い、

「あの人さえ自分と結婚しておれば、こんな目には・・・」

と悔やんでも仕方のないことを、いつまでも考えていた。

昔と遊ぶ酒はやたらと塩辛い  安土理恵

一方、匂宮は女一宮に出仕している宮の君(故・式部卿の娘)に心を寄せていた。

匂宮が今まであれば、八講会に集まった女性の中の人と問題を起こしていた

だろうが、すっかりと冷静になり、性質も変わったように思われた。

ところが近頃になってまた、恋しい故人に似た顔をしている宮の君に惹かれ、

式部卿の宮と八の宮は兄弟なのだからなどと、例の多情な心は、昔の人の

恋しいためという理由に、新たな好奇心もやまず、いつとなく宮の君を恋の

対象として考えるのであった。

また宇治にいた侍従は、若い2人の貴人を覗き見て、姫がどちらにせよ

この人たちに愛され生きておられればと思い、この幸運を自分から捨てて

しまったことを残念に思うと同時に浮舟の姫をしみじみ偲ぶのだった。

人の輪のやさしい方に乗り換える  菱木 誠

【辞典】  死の穢れ

浮舟失踪の知らせを受けた母・中将の君。このとき中将の君は、
浮舟の異母妹の出産が間近に迫り、なかなか家を離れられなかった。
それが飛んでもない結末に、動揺した中将の君だったが、女房の右近の
勧めもあり、世間体を考え亡き骸があるように見せかけた火葬を行った。
当時死は穢れであると考えられており、中将の君の夫・常陸守は穢れが
そのまま自分の邸に持ち込まれ、出産した娘と生まれたばかりの孫に何
かあっては大変と危惧していた。そのため中将の君は葬儀が終わっても
暫くは自邸に戻れなかった。浮舟の隠れ家だった小さな家で過していた。
亡き骸に触れることが出来たわけでなく、生死さえ定かではない、事情を
表沙汰にもできず、悲しみに堪えていた。
そこに突然常陸守がやってきて「まったくこの忙しい時に」と文句を言う。
中将の君は、ここで初めて常陸守にこれまでの事情の説明をすると、夫の
常陸守は驚いた。驚いたことは、そんな高貴な人と付き合いがあったこと。
浮舟の婚約破棄に加担したこの父親が、手の平を返すように娘の死を嘆く。
あんなに死の穢れを嫌っていたのに。

三角に握ってすます了見ね  山本早苗

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