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川柳的逍遥 人の世の一家言
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つぎ足してつぎ足して描く夢の画布  加藤ゆみ子

 


           (題字・ 横尾忠則)



NHK大河ドラマ「いだてん」 田畑政治の巻

 

NHK大河ドラマ「いだてん」は25話より、金栗四三(中村勘九郎)
からバトンを継いで、政治記者田畑政治(阿部サダヲ)に変わります。
視聴者からは、「この人誰?」と囁き声が聞かれるほど、田畑政治は、
過去に「おんな城主」の井伊直虎(柴咲コウ)以上に知名度が低い。
さてどうなりますことやら。そこで田畑政治がどんな人物で、何をした
人なのか、短くご紹介してまいります。

 

 

明治31(1898)年12月1日、浜松旧家で「八百庄」という造り酒屋に
生まれた田畑政治は、子供のときから水泳が大好きで、かなりの実力が
あったようです。しかし中学校在学時、盲腸に大腸カタルを併発し、
「泳げば死ぬ」と医者から言われ、水泳を諦め、指導者の道を歩むこと
になります。
 大正13年、東京帝国大学を出て、朝日新聞社に入社、政治部に配属
されて、戦後の首相となる鳩山一郎や有力政治家とも知己となり、その
立場を利用して日本の水泳を国際的にどんどん強くしていきます。
浜名湾を目の前にして育ち、一時は、神童スイマーと期待された田畑で
したが、よく当たる占い師から「30歳まで生きられない」と脅され、
波乱万丈ながら、一つ一つ山を乗り越え戦後の復興に期待し、スポーツ
振興及び、オリンピックの道に一生を尽くす人物のものがたりです。


 

床の間の七福神がけしかける  井上登美




 
前列右端・人見絹江、後列左二人目及び三人目・南部忠平、織田幹雄

 

大正13年10月31日、日本水泳界は「大日本水上競技連盟」を創設、
田畑は理事に就任します。理事になり、昭和3(1928)年開催の第9回・
アムステルダム・オリンピックを目指します。そこで 田畑は、水泳競技
の強化のために鳩山一郎を通じて、大蔵大臣・高橋是清(萩原健一)に
面会し直談判して水泳競技への補助金支出の約束を取り付けます。
そしてアムステルダムに10人の選手を派遣することになります。
結果として、陸上競技三段跳・織田幹雄、競泳男子200m平泳・鶴田義行
(大東駿介)の2名が金メダルを取り。
陸上競技女子800メートル競走で人見絹枝菅原小春)と競泳800mリレー
米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男が銀メダルに輝きます。
さらに競泳男子100m自由形で高石勝男(斎藤 工)が銅メダルと輝やか
しい実績を残します。これで自信のついた田畑は、昭和7年(1932)に
開催のロサンゼルスオリンピックに向け、常勝日本を目指して打倒水泳
最強国アメリカを目標に掲げます。

 

どっこいしょを枕言葉に動き出す  松浦英夫


そしてそのロサンゼルスオリンピックロサンゼルスでは、5個の水泳を
含む、金メダル7個、競泳4個を含む、銀メダル7個、競泳2個を含む
銅メダル4個を獲得。合計18個のメダルを獲得しっます。
世界中に水泳大国日本をアピールし、さらに田畑と競泳日本代表チーム
は昭和11(1936)年のベルリンオリンピックも同様のローテーション
で本番に向かうことに決定します。
 この時、田畑は35斎。幼少期に命にかかわる病にかかり、ある時は
「30歳までには死ぬ」と言われながらここまで生きてきたことに田畑は、
自らも驚きながら水泳一筋に生きてきた人生を見直し、昭和8(1933)に
妻・菊枝(麻生久美子)と結婚して、公私ともに充実期を迎えます。



 

くされ縁燃えさかるもの抱いている  三村一子


 


 

 

迎えた昭和11(1936)年のベルリンオリンピックでは、金メダル6個
(競泳の4個)銀メダル4個(競泳2個)銅メダル5個(競泳5個)と
ロサンゼルスオリンピックに匹敵する成績を残し、水泳大国日本の地位
を磐石にしました。
蛇足です、このベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎで、前畑秀子
(上白石萌歌)がゴール寸前までドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッド
ヒートとなり、これを実況放送したNHKアナウンサー河西三省(トータ
ス松本)の「前畑がんばれ!前畑リード!勝った、前畑勝ちました」
我を忘れた実況は、ほとんどの日本人が固唾を飲み、解説のない実況と
して、今も語り草になっていることは、多くの方の知るところでしょう。


 

外反母趾が骨盤に乗り移る  井上一筒





 日本最初の金メダル


戦後最初となるロンドンオリンピックは、イギリスがドイツと日本の参
加を拒否し、出場を断念することになりました。

 「エピソードー①」
「我々は《プリンス・オブ・ウェールズ》を忘れない」
プリンス・オブ・ウェールズとは、太平洋戦争開戦直後の昭和16年
12月10日、日本軍の上陸を阻止するため出動したイギリスの戦艦で
マレー沖にさしかかり、日本海軍航空機から爆撃を受け、僚艦のレパル
スと共に沈没してしまいました。
プリンス・オブ・ウェールズが撃沈されてから7年後、戦争が終わって
から3年後の昭和23(1948)年。日本水泳の古橋廣之進、橋爪四郎が
揃って未公認ですが世界新記録を出していました。
それを知り恐れてのことか、イギリスは日本のロンドン・オリンピック
への参加を認めませんでした。その時の通達の最後には、
『われわれはプリンス・オブ・ウェールズを忘れない』とあり。
怨みなのか、古橋、橋爪にびびったのか。
大英帝国の根性の無さを見た一幕でありました。


 

満月も刺股状になる妬心  山本早苗




日本で一番最初の銀メダル
アントワープオリンピックで熊谷一弥がテニスで獲得
 


「エピソードー②」
その通達を知った水泳連盟会長の田畑は、「記録の上で世界と戦おう」
という計画を立案しました。いわば、日本水泳界が世界に叩きつけた
挑戦状です。大会プログラムには、「田畑政治のロンドン大会に挑む」
と題した「檄文」が掲げられました。
そして、オリンピックの水泳競技と同じスケジュールで、日本選手権を
神宮プールで開催することを決め、そこで挨拶に立った田畑は、
「もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば……
ワールド・チャンピオンは、オリンピック優勝者にあらずして、
日本選手権大会の優勝者である」と言い切りました。


 

受けて立ちますと剣山のやる気  川畑まゆみ



 


その結果、自由形400mでは、オリンピック金メダリスト・ウィリア
ム・スミス(米)の記録4分41秒0に対し日本の古橋は4分33秒4。
1500m自由形では、金メダリスト・ジェームズ・マックレーン(米)
の記録、19分18秒5に対し古橋は、18分37秒0を出し。
橋爪は、18分37秒8を出しました。金、金、銀の結果です。
これらは公認記録として認められるものではありませんでしたが、
応援席には、天皇陛下、皇太子殿下も観戦にお見えになり、大きな拍手
をされ、感激した片山哲首相からは、特別に総理大臣杯を贈られました。
尚、その後も9月の学生選手権の400m自由形で、古橋は自己記録を更新
する4分33秒0、800m自由形で、世界記録である9分41秒0を
出しています。


 

思いきり鈴を鳴らした願い事  両澤行兵衛


「エピソードー③」
その記録を耳にしたアメリカの水泳連盟は、古橋や橋爪など6名の選手
がロサンゼルスで行われる全米選手権に招待されることになり。
そこで古橋は、400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分
33秒5、1500m自由形で18分19秒0(世界新記録)を出して
優勝します。
こうした日本の水泳チームの活躍に、アメリカの新聞は、競技の前に
掲載された日本の水泳選手に対する揶揄への謝罪文が掲載され、
古橋は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれました。
こうした記録と事務方の努力があって、昭和24(1949)年6月15日に
日本水泳連盟は、国際水泳連盟(FINA)に復帰を果たしています。


ほぐしたら一本線になりました 合田瑠美子

 


しかし、田畑の人生すべてが、順風満帆というわけではありません。
昭和27年、常務取締役の役職にあって田畑は、朝日新聞社を退社。
日本選手団団長として乗り込んだヘルシンキオリンピックでは、
銀メダル3個だけの成績に終わります。
昭和31年のメルボルンオリンピックでも、田畑は日本選手団団長とし
て参加するも、金メダル1、銀メダル4個と惨憺たる成績に終わり。
昭和32年に行われた日本水泳連盟の会長選においては、対立候補に
かつて田畑の指導下にあった高石勝男が立ち、僅差を競う激烈な戦いに
密約をもって、1年のみの続行を条件に会長を続けたといいます。


 

全身をアンテナにして風を聴く  小林すみえ



江戸東京博物館・特別展『江戸のスポーツと東京オリンピック』より


 

その後日本が高度成長へとひた走る中、田畑は、昭和39年、東京五輪
の招致と開催に尽力します。

「エピソードー④」
東京五輪招致のためには、IOC委員の東竜太郎を東京都知事にするのが
最善だという意見が大勢を占めていたなかで、田畑はスポーツと政治が
癒着することを警戒し、自民党の推薦で東が出馬することに難色を示し
ました。結局、それを受け入れることになりますが、田畑は、昭和55
年にアメリカがソ連のアフガン侵攻に抗議して、モスクワ五輪をボイコ
ットし、これに日本が従うことになったときにも、強く反対し、最後ま
で参加の道を模索したといいます。スポーツ愛を貫く田畑の真骨頂を伺
い見る二コマでした。

 

埃なら書棚にたんと積ってる  杉浦多津子

 


「エピソードー⑤」
東京五輪に向け、田畑は日本選手が活躍できる舞台を増やす必要性から、
柔道と女子バレーボールのオリンピック競技への採用を強く主張します。
男子バレーボールがすでに正式採用されていたために、男女平等の観点
から、田畑は、委員会で熱心に説き、女子バレーボールもオリンピック
競技に正式採用されることになりました。これが大松博文監督率いる
「東洋の魔女」が誕生するきっかけとなったのです。
同時にIOC委員であった嘉納治五郎が作り上げた柔道も、東京から正式
種目となり、今も個別に世界大会が催されるほど成長し、堂々、両種目
ともオリンピックに欠かせないものになりました。

 

ト書きではここで空気になれとある 美馬りゅうこ

 


東京オリンピック組織委員会の事務総長として着実に準備を進めていた
田畑でしたが、当時のオリンピック大臣であった川島正次郎との折り合い
が悪く事あるごとに対立していました。 その影響か東京五輪を二年後に
控えて、田畑は大会組織委員会事務総長を辞任せざるをえなくなります。

 「エピソードー⑥」
黒澤明は日本オリンピック組織委員会から、4年後の「東京オリンピック
公式記録映画」の総監督をお願いしたいとオファーを受け、黒澤も快諾を
していましたが、田畑辞任の煽りを受け、田畑肝煎りの「五輪映画計画」
も白紙になってしまいます。
実際、黒澤はローマオリンピックまで下見に行き、綿密な計画を立てて
試算までしていました。そこで黒澤が提示した金額は、5億5000万円。
これもネックだったかも知れません。
黒澤明の後任には、市川崑に白羽の矢が当たりました。
市川崑提示した予算は2億7000万円。記録映画『東京オリンピック』
は大ヒット。25億円の興行収入を得ました。その時、黒澤明は何を
思った?のだろうか。「わしは撮りたかった」かな。

 

5ミリほど残る未練とここにいる  桑原すヾ代

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ヒマがなきゃ誰も出来ないヒマつぶし  ふじのひろし


 

  (画像は拡大してご覧ください)
  伊勢参宮略図(広重)

 

江戸時代の旅で一番人気は「お伊勢さん詣り」。
庶民が伊勢神宮を詣でることができるのは、一生に一度あるかないか、
かかる費用だけでも大層なことだった。
それでも懐に多少のゆとりがある場合は、伊勢から足を延ばして京都や
大阪の有名な寺社名所を廻る。もっと時間と資金にゆとりのある場合は、
瀬戸内海を渡って、讃岐の金毘羅山に参詣することもあった。
さらには、帰りに中山道コースで信濃の善光寺を参拝することもあった。


 

「詠史川柳」 江戸の景色6-② 江戸小咄と旅事情





    旅 駕 籠

 

単に旅に出ると言っても、当時の移動手段は、基本的には自身の足だけ、
馬や駕籠もあるが料金が高くて、庶民の懐では全行程利用するのは無理。
お伊勢さん参りの場合、一度旅に出れば少なくとも1、2ヵ月は要する、
費用もかかる。そこで考え出されたのが講である。
講とは、同じ信仰を持つ者が集まって金を出し合い、金を積み立てて、
資金が貯まったところで、講中から幾人かが代表して目的地に行く。
代表を決めるのは大抵の場合、くじ引きで決まる。
一度行った者は、もう権利がないので、最終的には講中のメンバー全員
が行けるようになっているという、公平なシステムである。


 

裏庭に吹いた西瓜の種芽吹く  くんじろう


 

小咄ー6
 母、親爺にむかい
「おはなも、だいぶ手があがりました。もう百人一首でもございませぬ、
 ちと伊勢物語でも読ませたらよいでしょう」
親爺うなずいて
「なるほど、よかろう、どうせ伊勢へは参られないから」
これは在原業平が書いた歌物語の『伊勢物語』を勘違いし、
伊勢参宮の案内書と思った無学者のお笑いである。
小咄ー7
 仙台者が二人連れで伊勢参りに出かけるが、一人は目が不自由。
連れの男、赤子の捨ててあるのをを見つけ、
「これちょぼ市、ここに子めが 俵にいれて捨ててある」
「なんだ、米が捨ててある、ひろえひろえ」
「いやさ、赤子めだ、赤子めだ」
「赤米でもいい、ひろえひろえ」
「いやさ人だ人だ」
「四斗なら二斗ずつわけるべえ」


 

ガラクタは僕を宇宙へつれていく  徳山泰子




  53次・戸塚宿

 

懐と相談しながら旅は京都・大坂へと向かう。京都には寺社が多い。
京都見物というと、大方は寺院や神社を見て歩くということになる。
川は幾つもないが、鴨川には有名な橋が架かっていて、これが三条の
大橋、これが五条の橋と、一つ一つ渡るたびに古い昔が偲ばれる。
今でも京都の観光地ナンバー1といえば、清水寺。清水の舞台からは
京都市中を眺望することが出来る。
小咄ー7
 さる所に若息子、女郎を連れて清水へ参り、舞台にて、遠眼鏡で
五条の橋を見れば、友達の吉兵衛の通るが手に取るように見えたので、
その友人に「これ吉兵衛、必ずここで逢うたといのではないぞ」

 

神さんがくしゃみしてはる間に悪さ  居谷真理子




  京都三条大橋

 


次の小咄は、芝居の忠臣蔵に出てくる高師直(吉良上野介)が欲張り
だったというところから創作された。
小咄ー8
 師直、賄賂の金銀をしこたま溜めるに従い、一向使わず、その金銀を
舐めて楽しみけるが、のちには鉄、赤がね、真鍮、鉛まで舐めるという
病となり、
「われいまだ塔の上なる玉を舐めてみず、なにとぞ五重塔の上にある
    擬宝珠(ぎぼし)を舐めてみたい」
と望み、権勢第一のお方のおおせ、さっそく五重塔へ足代を掛けさせ、
てっぺんの擬宝珠を舐めてみ「多年の望み達したり」と喜びける。
「あの貴殿には塔の擬宝珠をお舐めなされたか」
「舐めましたとも 舐めましたとも」
「どのようなものでござるな」
「いや思うたほどにもござらぬ、橋の擬宝珠に塩気のないものじゃ」


 

股ぐらに貼った両面ガムテープ  井上一筒




  53次・冨士見     53次・藤沢


 

一般的に東海道は、江戸から京都までを、宿場の数で五十三次と呼ばれ
ているが、大坂まで足を延ばす旅行者も増え、また参勤交代の宿の手配
も必要であったため。伏見・淀・枚方・守口の4か所に宿場を設置し、
実際には、「東海道五十七次」というのが正しい。
因みに、大坂から京へは京街道、京から大坂へは大坂街道を通行した。
が、何のことはない名称は違うが、同じ道なのである。
さて足の疲れはなんのその、いよいよ旅は大坂・堺へと入る。
旅は道連れ世は情け。各地からの旅人が京都で出会って、一夜の友と、
話も故事来歴にひっかけて、小話が弾んだりもする。

 

頭肩膝小僧みんなヨシヨシしてあげる  酒井かがり


 

小咄ー8
「京都ほど諸品安い所はない。東山で名代の八坂の塔が五十(五重)
   じゃが」

「そういいないな、大坂にも安いもんと言うたら、仏法最初のお寺、
 聖徳太子ご建立天王寺が3文(山門)じゃ」

「わしは西国者じゃが、それよりも安いは、平家の大将・清盛、重森、
 宗盛、知盛、維盛、敦盛、経盛これを合せて一文(一門)じゃ。

「これこれ西国のお方、その平家は安うても、いまはない人や、
 やくたいじゃ、当時ご繁盛の源氏の御代、わしが国というたら津の国
 じゃ、初めて源氏の名を賜りし六孫王・経基さまのご嫡男、これより
 安いものはござりません」

「一文より安いは、なんじゃ」
「多田の満仲じゃ」
これを、「ただの饅頭」と読んで落ちになっている。

 

沢庵も人のうわさもまだ噛める  美馬りゅうこ

 

さて大坂は、商業の町だから商売に関する小咄が多い。
小咄ー9
 通町の鏡屋に、天下一は漢字にして鏡屋は「かかみや」と仮名で書き、
看板いだせし家あり、いたずらな男、店先へ来たり、
「なぜ内儀さんを出しておかぬ」
というと亭主、
「それは何のことでござる」という。
「あれほど看板に、天下一のかか(嚊々)見や と書いて、
 何とて女房を出しておかぬ」
「まことにそれは誤りました。さりながら、これほどにかがみますれば、
 堪忍あれ」とやり返した。

 

伝えようアザミ程度の微笑みで  真島久美子


 

まだまだ小咄はありますが、一端はここまで。
小咄ー10
 とある箱屋の親父、風が吹くを喜び、
「かか、商売が流行るぞ、酒買うてこい」
と言えば、
「それはどうして忙しいぞ」
と女房が問う、
「はてこの風で人の目に埃が入ると、目を患うので、三味線を習うに
 よって、三味線の箱が大分売れる」
これは明和5年(1768)の関西の『絵本軽口福笑』である。
これが後の「風が吹けば桶屋が儲かる」の話に作り変えられていく。


 

ちょっとだけ味噌が足りない僕の脳 大塚のぶよし





  平知盛と弁慶

 

詠史川柳


 

≪平清盛≫

 

清盛の医者は裸で脈を取り
清盛も時疫だろうと初手はいい
汲み立てがよいと宗盛下知をなし
ゆでだこのように清盛苦しがり
入道は真水を飲んで先へ死に


 

平清盛は大変な高熱を発する病気で死んだと言われている。
『平家物語』には、病室の中は耐え難い暑さだったとある。
結局、清盛は1181年に死亡、この4年後に平家は壇ノ浦で滅亡。
平家一門は、潮水を飲んで死んだが、清盛は真水を飲んで死んだ幸せ者
である、と川柳子。

 

八月の空は終身禁固刑  上嶋幸雀         


 

≪平重盛≫


 

異国から納豆もらう小松殿
育王山和尚押し込み案じられ
案の定日本で跡の訪い人なし
潮風にもまれぬ先に小松枯れ


 

平重盛は清盛の長男。
重盛は、六波羅小松第に住んでいたので「小松殿」と呼ばれた。
平家物語には、重盛は日本では後世を弔ってもらえるかどうか心配で、
宋の育王山寺へ千両寄進し、また宋朝へ寄進して、育王山へ田畑を与えて
もらうよう依頼したと書かれている。
小松殿はお返しに育王山の名産である納豆をもらっただろう と川柳子。


 

ポケットに軽い本音を押し込める  靍田寿子


 

≪平知盛≫


 

そもそもこれはおっかない土左衛門
ことわらずといいのに幽霊なあり
反吐を踏み踏み弁慶は祈るなり
引き潮でないと幽霊まだ消えず

 

平知盛は、清盛の四男。
武勇に優れた人物だが、謡曲「舟弁慶」に出てくる幽霊として有名。
謡曲の中では、義経が西国へ逃れようと摂州大物の浦から知盛の幽霊
(土左衛門)が現れる。大嵐で全員船酔いで苦しんでいる中、弁慶が
「数珠さらさらと揉み」祈ると幽霊は次第に遠ざかって行き、やがて
「また引く塩に揺られ流れて、跡白波になりにける」と消えたという。


 

君が代を歌いつづける海の底  大森一甲             


 

≪平敦盛≫


 

熊谷は不承不承の手柄なり
敦盛は討たるる頃は声変わり
花は散り青葉は残る一ノ谷
その後は衣で通る一ノ谷


 

一ノ谷の戦に敗れた平家軍が我先に船へ逃げる中、源氏の熊谷直実
敵方の武者を発見、組み打ちし押さえつけて、首を掻こうとしたら、
まだ17歳ほどの少年だった。直美は可哀そうに思い見逃してやろう
としたが、味方の軍勢が迫ってきたので、泣く泣く首を掻いた。
少年は平経盛の子・敦盛であった。


 

錠剤の割る音ひびく夜半の月  河村啓子


 

≪平家滅亡≫

 

幽霊のみな横に行く平家方
豆蟹も一匹まじる壇ノ浦
緋の袴ふんどしに縫う下関
平飯盛ともいいそうな下関


 

平家蟹は壇ノ浦で海中に沈んだ平家の怨霊だという伝説がある。
現代の人は、そんなことお構いなしに平家をむしゃむしゃ食っている。


 

勝因は潮の変化さ壇之浦  松下和三郎

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いい日旅立ち知らない街が呼んでいる  片岡加代




 (画像をクリックすると拡大されます)
東海道53次細見図会 日本橋

 

品川周辺には縄文時代から集落があったとされるが、中世を迎えると、
東京湾へと注ぐ目黒川の河口に位置する地の利を生かし、武蔵野平野
全体への物資の集散拠点として繁栄をみせる。
そして、その隆盛を確実なものとするきっかけとなったのが、幕府が
慶長6年(1601)に制定した、東海道の宿駅伝馬制度である。
以来、品川はその第一番目の宿場となり、西国へ通じる陸海両路の
玄関口として活況を呈した。

 

「詠史川柳」 江戸の景色-6-①  江戸の小咄と旅事情

 

いまも昔も、旅は庶民のおおきな楽しみの一つ。
街道や宿場が整備された江戸時代、庶民は何かと窮屈な中でも旅費を
やりくりし、名目を立てて近場へ遠方へと足を延ばした。
旅の起点はお江戸日本橋だった。
当時は京都に朝廷があったから、京都の方へ行くことを「上る」といい、
京都から諸方へ行くことを「下る」といった。
江戸っ子はおのぼりさんになって、仲間内や親方などに見送られながら、
夜中に日本橋から品川の「宿場」へ向かう。


 

すこやかに生きて情けのど真ん中  上田 仁




 
東海道53次細見図会 品川

 


【宿場】 宿場は、将軍の御用で荷物や人を運ぶ馬や人員を確保する
目的で設置されたものであった。
そのため将軍や幕府の用の場合は無料であったが、大名や町人も有料で
使用することが出来た。
その後寛永12年(1635)大名たちの参勤交代が制度化されると
街道はますます整備が進み、設備などが充実する。
街道には一定の距離ごとに宿場が設けられ、一里ごとに道しるべとなる
「一里塚」が設けられ、さらに街道の脇には木が植えられるなど、
安全な旅が出来るようになっていった。


 

時々は心に風を通さねば  靍田寿子

 

品川が見送り人との別れの所で、ここらで夜が明けて、提灯の灯を消す。
小咄ー①
ある男が京へ旅に出ることになり、親方や仲間が品川まで送ってきた。
送ってきた人からはここらで餞別ををくれることになっている。
「いい親方だ、きっと別れにははずんでくれるよ」と仲間が言う。
男は期待していたが、さて別れ際となると親方は、
「じゃあ道中無事で行ってこいよ」と言ったきりだった。
男、あとでひとり言。
「だれが無事で行くものか」


 

二番出口もともとなかったことにする  河村啓子

 

品川をあとに京都まで、急いで13、4日、ゆっくり行くと20日から
1ヵ月はかかろうというのが、当時の東海道の旅だった。
新幹線で2時間ほどで行ってしまうの現在とは違い、大方は徒歩で行く
のだから、それくらいかかるのは当たり前なのだが、途中、最大の難所
は箱根山だった。
ここには江戸へ出入りする者を取り締まる関所があった。

 

Y字路に来るたびサイコロを投げる  岸田万彩




 
東海道53次細見図会 小田原

 

【関所】 宿場が整備されると同時に「関所」が設けられた。
江戸時代は軍事態勢下であったため、西国の大名などから、江戸を攻め
られぬよう取り締まりをするためである。
しかし箱根の関所は、従来、言われていたような、厳しい取り締まりが
行われていたわけではなかった。通行手形も必須ではなかった。
箱根の関所の管理は小田原藩に任されており、あまりにも関所で問題が
多い場合には、小田原藩の責任となる。
こうしたことを回避するためにも、重箱の隅をつつくような取調べは、
しなかったのである。

 


神様もリセットしたい過去がある  前中一晃

 


江戸っ子は箱根まで行けば、当時は話の種になった。
行かないで知ったかぶりをする者もあった。
小咄ー②
ある男が宿屋へ行くと、亭主が挨拶をして序に箱根の話をした。
「このあたりには見られないが、山椒魚は、さて風味のよいもので
 ございます」

と言われて、男、ものしり顔で
「あのぴりぴりとした辛味が、すごくいい」
山椒魚というから、植物の山椒の実のようにぴりぴり辛いものと思って
知ったかぶりを発揮したのである。


 

二枚目の舌がこむら返る夜  笠嶋恵美子




 
東海道53次 箱根湖水図


 

箱根を越すと富士山が見える。
江戸時代は空気が澄んでいたから、秋から冬の終わりまで晴れた日なら
市中から富士山がよく見えた。もちろん明治大正にも見えた。
見えなくなったのは昭和の終わりころから、経済成長などのあおりで
スモッグのカーテンが富士山を隠してしまったからである。
小咄ー③
床の間の掛物を見て、男が
「ははァ、これは立派、立派、わたしはこの間富士へ参りましたが、
 いやこの通りでござる」
「するとあの山の上からは、わしの家までも見えましたでしょう」
「とんでもない、どうしてあの山の上から、ここが見えるものですか」
「はてな見えるはずだが、わしの家の物干しからは富士がよく見える」


 

画布全て私色に染めてゆく  中川 尚

 

【川越え】 東海道には川があるが橋がない。
旅を続けるためには川を渡らなければならない、どうして川を渡ったか。
川越し人足というのがいて、肩車や背負ったりして渡してくれたり、
蓮台渡しといって、台の上に乗せて渡してくれる。
そういう川で一番有名なのは、駿河と遠江を流れる大井川だった。
水かさが増すと、川止めといって、水が歩いて渡れるほどに引くまで、
何日も足止めをくらうことがある。
旅人は大きな川になればなるほど、川越えには苦労したが、一方、
小さい川には川越え人足などいないから、みんな川の中へ入って歩いて
渡る。ところどころに深いところもあり、溺れる人もあった。


 

心電図ルート66が終わらない  岩田多佳子


 


東海道53次 岡崎・矢矧の橋

東海道の岡崎宿を通る参勤交代の大名行列


 

小咄ー④
4,5人の巡礼が川にであった。見ると橋はなし船もない。
川の瀬も知らずさて困ったと向こうを見ると、首だけ出して渡っている
人がある。心細く思ったが、「南無観世音薩」と祈り、手に手を組んで、
川へ入って行ったが水は脛までもない、これは有り難い、きっと観音の
ご利生だろうと、喜んで川を渡りきり、先ほどの人を見ると、
岸へあがってきて「抜け参りに一文くださいまし」と言った。
見ればいざりであった。
(抜け参りー親や主人に内緒で家を抜け出し、手形もなしで伊勢参りに
 行くこと)


 

有情無常賽の河原のかざぐるま  加納美津子


 


当時の東海道は、いまの東海道線とは違い、桑名から四日市へ抜けて、
伊勢の山中を草津へ出て、琵琶湖畔から京都へ入る。
桑名の名物は蛤。その蛤で失敗する話がある。
小咄ー⑤
「これ八兵衛」
「はい」
「この蛤をこの鍋のままかけて、蓋を取らずによく煮ろ、蓋をとるもの
 ではないぞ」
「はいはい」
というわけで火を焚いていると、蓋がむくむくする。
これは飛んだことになってきたと思い蓋を取ってみて、
「もし旦那さま、とんだ不調法をいたしました」
「どうした」
「つい蓋を取りましたなれば、みんな裂けました」
なかで蛤が開いたのを、八兵衛は自分が蓋をとったから、裂けたとのだと
思ったのである。

              さて次は京都・大坂へ足を延ばしましょ。

 

終電の終着駅で待つ始発  近藤北舟




  西 行

「心なき身にもあわれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」


 

詠史川柳 


 

≪西行法師≫

 

柿本人麻呂、芭蕉とともに、日本三大詩人と称されている西行法師は、
平安末期から鎌倉初期の人。
戦乱の世に無常を感じ、出家して山奥に隠遁することが流行りました。


 

北向きの武士やめて西へ行き
折りふしは佐藤兵衛の時の夢



北向きの武士が西へ向かう…川柳子のやったーの声が聞こえる一句。
西行も北面のエリート武士でしたが佐藤兵衛義清と名乗り旅にでます。
持ち前の社交性から各界各層の人と親しくつきあい、
またヘビースモーカーの上、大の旅行好きで


 

西行と狩人一つ店に住み
すり鉢をを伏せて西行煙草にし


親しい人と住む店は借家。すり鉢は富士山の事。
西行は愛煙家のように詠まれているが、当時の日本に煙草はなく、
「風に靡く富士の煙の空に消えて 行くへも知らぬ我が思いかな」
の句の煙に絡めたもの。


 

一割ほど乗せさせてもろてます  雨森茂樹


 

鴫が立たぬとへんてつもないところ
命なりけり快気して二十なり


 

一句目は名所「鴫立沢」。
「心なき身にもあわれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」を題材に。
二句目は「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり佐夜の中山」
の文句取り。佐夜の中山は名所「東海道・日坂」。
西行の旅好きが見える作品は多々ある。




西行冨士見図


 

富士山がなければはっち坊主なり
きさらぎのその望月に西へ行き


 

鉢坊主は、托鉢をして回る乞食坊主。
ボロボロの装束で冨士を見ている西行だが、
「冨士見西行」で富士山が描いてあるから西行とわかるというのだ。
そして旅の最後に訪れた場所は西方弥陀の浄土であった。
「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」から。

 


地球外生命体に添い寝する  酒井かがり

拍手[5回]

偏平足の話でしばし盛り上がる  竹内ゆみこ


 

(画像は拡大してご覧ください)
 三 囲 の 景(広重)

 

三囲(みめぐり)の名は社殿の下から掘り出された翁がまたがる白狐の
神像から白狐が現れて、三遍回って姿を消したことに由来するとされる。
元禄6(1693)年6月28日に俳人・宝井其角が雨請いのために、
「夕立や田を見めぐりの神ならば」の句を捧げたところ、雨が降ったと
いうことでも有名。神社は低地にあり、鳥居も土手の下に立っていた為
隅田川の方から眺めると、鳥居は土手にめりこんだように見えたという。



 

「詠史川柳」 江戸の景色ー⑤ 俳句(芭蕉・其角・千代女)




 
  芭蕉と曽良


 

≪松尾芭蕉≫ (1644~1694)

 

藤は捨て芭蕉で広く名を残し



 
俳諧を芸術にまで高め「俳聖」と謳われた松尾芭蕉。若年の頃は、伊賀
上野の藤堂家に仕え、身分は料理人でしたが、主君の藤堂良忠が俳句を
することから共に俳諧を嗜むことになる。寛文6(1666)年良忠の死ぬと
仕官を退き俳諧に精進。当時40歳。「奥の細道」の旅にでます。
これが訳ありで、生まれたのが忍者の里・伊賀であること、旅費のこと、
健脚で移動速度の速いこと、行き先が東北方面であること、などから
仙台藩の謀反の調査を兼ねた密偵が目的ではないかといわれました。
深読みすれば、名句「いざさらば雪見にころぶところまで」が、忍者説を
暗示するかのように聞こえてきます。それが川柳子にかかると、
 


いざさらば雪見に呑めるところまで
いざさらば翁も酒がなると見え
転んでも汚れねぇのが名句なり

 

しがらみのすべてを虹にしてしまう  山本昌乃


 

転びそうになって「おっとどっこい 転んでなるか」
などと言いながら、芭蕉は、また二三丁頑張って歩きだすのです。


 

どっこいと言い言い芭蕉二三丁
膝や手をはたいて翁一句詠み 


 

転んだのは、「下駄の鼻緒が切れたから」と言い訳をし
「転ぶところまで」と言っているからには、転ばなければ
果てしなく行くことになります。


 

転ばずば翁の雪見果てがなし


「芭蕉は転ぶところまで」と言っているが、俺たちだったら



 

いざさらば居酒屋のあるところまで


 

捕まえた陽射しと午後のお茶にする 吉川幸子


 

芭蕉の川柳はパロディーが多い。
ご存知「古池や蛙とび込む水の音の名句には、


 

芭蕉翁「ぽちゃん」というと立ち留まり
古池にその後とび込む沙汰もなし


 

「夏草や野良者どもが夢の跡」には


 

夏草や野良者どもが出合い跡



 

「無残やな甲の下のきりぎりす」には



 

むざんやな梯子の下の草履取り


 

「煮売屋の柱は馬に喰われけり」には


 

道のべの木槿は馬にくわれけり


 

なぜかあっしも危険分子の一部 山口ろっぱ





其角と大高源吾


≪宝井其角≫ (1661~1707)


 

師は寒く弟子は涼しい名句也


 

これは、宝井其角の句「夕立や田をみめぐりの神ならば」と、松尾芭蕉
の雪見句とのセットで、子弟対照を詠んだもの。
其角は芭蕉門下の雄に収まらず元禄俳壇の大立者として活躍しました。
後年、芭蕉は「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」と記し、其角は
桃に、服部嵐雪は桜になぞらえて「両の手に桃とさくらや草の餅」と詠ん
でいます。ただ芭蕉の弟子とはいえ、其角の作風は師の目指ところの
「わび・さび」とは遠いところにあり、人々の生活を華やかに唱い洒落を
きかした句がメインです。これを疑問とする森川許六は芭蕉に「いいので
すか」と問いました。それに対して芭蕉は、「自分の俳諧は閑寂を好んで
細く、其角の俳諧は、伊達を好んで細い、この細いところが共通する」
と答えたといいました。


 

やんちゃな男が四角を丸にする  福尾圭司

 

江戸時代の随筆集・『墨水消夏録』(三囲稲荷)燕石十種(えんせきじっ
しゅ)から、川柳子は句を考えます。

 

宗匠へ蓑よ笠よと土手の雨
人の田に水を引かせたは其角

 


墨水消夏録には、農民が其角をとりまき、ぜひ雨乞いしてくだされ」
と頼んだと書き出しにあり。其角は止むを得ず…向島土手下の三囲神社
「ユタカ」の字を折句にして「ゆうだちやたを三囲の神ならば」と詠
んだといいます。すると夕方近くになって、筑波の方から雷は鳴りだし、
盆を覆すほどの雨が降り出した、というのです。其角の自選句集に、
牛島三囲の神前にて、雨乞いするものに代わりて」と前書きをしてこの
句が載り「翌日雨が降る」と書き添えてあるところからみると。まんざ
ら事実のようで、川柳子にかかると普通の雨が豪雨になっていますが。


 

脳内へ隠し包丁式包丁  山本早苗


 

一句吟ずればゆたかの雲起こり
よく詠んだなあと褌まで絞り


 

頭文字「ゆ・た・か」が豊作を呼んだと農民は大喜び。
 旱天の雨は金のように価値があり、


 

金の降る雨は宝の井から湧き
たなつもの持って発句の礼に来る

 

たなつもは穀物のこと。農民はお礼をもって其角を訪ねました。





世間体しばらく雲に載せておく  岡田陽一




 井戸端の千代

 

≪加賀の千代≫ (1703~1775)


 

朝顔で千代万代に名を残し

 

芭蕉が俳句作りの旅に出発し、東北・北陸を巡り、紀行文「奥の細道」
を元禄15年(1702)に出したこともあり、千代女が生まれた時代、
土地(加賀松任)では、蕉風俳諧が隆盛を見せていました。
千代女は、このような時代背景の元に生まれ、その影響で幼い頃から
俳諧に興味を持ち、親しんでいました。
代表作はいうまでもなく「朝顔に釣瓶とられてもらい水」です。
このため
松任では毎年、「千代女朝顔祭り」が開催され、朝顔はこの町
のシンボルの花にもなっています。


 

起きて三つ寝て三つ蚤を六つ取り



 

千代女は田沼時代の俳人。加賀松任の表具師の娘に生まれ、結婚をして
一子を産みましたが、最愛の夫、子供と死別し、以後は俳諧一筋に暮ら
しました。親子三人仲良く寝ていたのにと、しみじみ思い詠んだのが
「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」でした。



 

眠られて寝られぬ蚊帳の広さかな
起きて見つ寝て見つ蚊帳の穴だらけ
お千代さん蚊帳が広くば入ろうか


 

教科書をはみ出たとこで咲いている  笠嶋恵美子


 


千代が17歳の頃、諸国行脚中で芭蕉門下の俳人・各務(かがみ)支考
出合い「弟子にしてください」と頼むと、支考は「さらば一句せよ」と、
ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められました。
千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて
明にけり」
という句で、遂に支考に才能を認められ俳句の道に進むこと
になりました。


 

「お千代さんさぞ眠かろう」時鳥

 

千代は、心優しく風流のわかる女性です。井戸水を汲み上げる釣瓶に朝顔
の蔓が巻き付いているのを見ても、無理に切ったりせず、そのままにして
おいて、他所に水を貰いにいったのですが、世の中には無粋な奴もいて、


 

朝顔に振り向く千代の空手桶
無雅なやつからんだ蔓を切って汲み


 

朝顔は千代女を有名にした花でもあり、無雅なやつの仕業に懲りて、翌年は
井戸端から離れたところに朝顔を植えただろうと川柳子の推理が働きます。


 

翌年は千代井戸端をよけて植え

 

わがままも言ってくれたら風は初夏  森田律子

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美しい車力熊野の湯葉へ来る  説教節



「詠史川柳」
江戸の景色 湯屋ー② 山東京伝 黄表紙





         
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『賢愚湊銭湯新話』
曲亭馬琴の師であり、また半世紀早く金の取れる唯一の作家として
活躍した山東京伝は、遊里短編小説としての洒落本の第一人者であり、
浪漫的な伝奇小説、読本、そして黄表紙においても一流の作者である。
その京伝が著した『賢愚湊銭湯新話』は、享和二年(1802)出版の
黄表紙で、寛政改革時に厳しい出版取締令が出た後の出版であるため、
教訓的姿勢が濃厚であり、文芸的価値の点では、高く評価されないが、
江戸文化における「銭湯」を知るための資料として貴重なものである。
ついでながら黄表紙について、絵と文とを同時に並行して見、読むと
いうところは、現代の劇画に似ているが、軽妙、洒脱、機智に溢れて、
泰平の江戸の住人の興味を、そのまま反映しているところに、特殊な
価値を有するものである。
黄表紙とは、こんなものであったことを絵と合せ読んでみてください。



 


賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)と湯屋の湯番は高きところに上りゐて、
その形よく似たり、賓頭盧は衆生を済度するが役目、湯番は人の出入り
を守るが役目なり。これ軽き役にあらず、たとはゞ天道様ありて、人の
善悪を見分け給うがごとし。然れども湯番はもとが凡夫なれば、をり々
居眠りをして、出入の人に草履を履き違へさせ、帯を間違へさせること
などもあれど、天道様は居眠りなどはし玉わず、つねに日月の眼を押し
開きて、人の善悪を見分け玉ふ故に、あなたに少しも誤りあることなし。
天道様が見通しといふは、此故なり。
「わしが草履をかぼちゃのやうな頭のぢいさまが履きちがへて行ったと
いふことだ。裸足では帰られず、これは当惑千万だ。
ぞうりでかぼちゃが当惑とは、此の事であんべい」



 

    定
一、神儒仏の教は不申及主人父母の命をかたく相守可申候事。
一、身の用心大切に可仕候事。
一、極老の御方貪欲の源 入被成間敷(いりなされまじく)候。
一、浮気と云う悪敷病ある御方、色里へ御入込御無用の事。
一、心に奢りの風立候節は、何時成共御断なく身上しまわせ申候。
一、金銀其外大切の品御持参の御方、旅の夜道御無用の事。
一、名聞利欲の喧嘩口論、喜怒哀楽の高声御無用の事。
一、魂魄(こんばく)の失せ物不存候。
一、地水火風のあづかり物不仕候。

   月 日


   定
一、ひとむかし  拾ねん
一、子供のうち  八ねん
一、わかざかり  廿ねん
一、札銭人間一生ニ付  五十枚
一、陰徳をほどこす時は人間一生二度入りの御方となり、
  百年の寿命も保たれ申候。
一、右の通りご承知の上、正直に世渡り可被成候。

   月 日




 

そもそも銭湯の風呂口を石榴口といふは、むかし鬼子母神千人の子を
腹のこの中へ隠し玉ひしことあり。
風呂口も千人万人の人を隠しいるゝところなれば、鬼子母神の縁により
て石榴口と名付けたるよし。又諸人風呂へ這入る姿は蟒蛇(うわばみ)
に呑まるゝやうなりとて、蛇喰口とも名づくるよし、つくづく考ふるに、
正直なる人は楽しみ多く、邪なる人、愚痴なる人は苦労多し。
故に邪苦労愚痴なるべし。
されど尊きも賎しき湯へ這い入る時は裸となる。
これ天地自然の姿にて、風呂口より出る人は、産湯を浴びて生れ出るが
如く、着物を脱捨てて風呂へ這入る人は、この世金銀家財を残し置きて、
死して沐浴を受くるがごとし。
いかほど不精な人も此の二度の湯はぜひ々浴びねばならず、
死あるが故に生あり、生あるが故に死あり。
生死一重が儘ならぬと唄いしも此の事なり。





 

「すべるは すべるは どこい どこい。
 いちばん滑ってくんさるなら、かたじけ流しの真ン中だあも さ。
 こいつは朝湯なのせりふだ。
「おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ。だが、ふく坊は風呂へ這入って
 いい子になったぞよ。かかァが乳をためて待っていよふぞ。
「ことしは静かな良い春じゃ。去年中の心の垢を洗い落として、
 恵方参りとでかけやう。




 

諸人入込の銭湯は、貴賤老若混雑の世界によく似たり。
初会の床の当推量、辻占いの八つ当たりも、大概は衣装着物で見てとる
なれど、湯へ這入る人はみな裸なれば、貴賤上下おしなめて見分け難く、
襟に瘕(なまづ)のできたは鰻屋の隣の人か、顔に雀斑(そばかす)の
あるは饂飩屋(うどんや)のかみ様か、額に疥(はたけ)、肩に田虫が
できたは百姓の息子か、鳩胸は豆屋の亭主か、鮫肌は蒲鉾屋の隠居か、
手の長い人には油断なるまい、内股に膏薬を貼った人には滅多なことは
言われまい。小賓(こびん)に痣のある人は景清が末葉ならん。
背中に竜を彫った人は水滸伝の九紋龍が子孫かと、これ皆当推量の目利
きにして、まことの目利きにあらず。
人の心の善悪もなりふり顔つきで見分けがたきこと、この道理なり。



 

「お前の背中は猫背中だから、鼠の糞のような垢がよれます。
「二百はずむからずいぶん糠袋を買いつかんで、脂垢を西の海へさらり
 と流してくりやれ。よく、洗いましょ、垢落しだ。
「南無金毘羅大権現大平饂飩蕎麦か。
「あなたは桂馬様ではございませんか。お飛車しや 々
「かやうに金を握って申すは失礼でござるが、貴公の歩はお達者かの。





 

朝湯の人の身にひゝりとしみるは、此ごとく朝から家業を身にしみろと
いふ教え、仏嫌いな爺様も、湯へ這入れば我知らず南無阿弥陀南無阿弥
陀と念仏を申す。皆これ銭湯の湯徳也。
「人裸になれば貴賤上下を分け難し、然れども、土佐裃に外記袴、
半太羽織に義太股引と、一ㇳ口づつの湯屋浄瑠璃、豊後正伝唄祭文、
潮来四つ竹新内節、猫じゃ猫じゃに到るまで、ただその好む所によりて、
人柄の上下が知れるなり。
隅にいる人がいふ。
「さつきから聞いていれば、謡いもあればめりやすもあり。
 触り文句に責念仏,神祇釈教恋無常、これはとんだ乗合舟だ。
「一家も一門もない、きなかものでござい。ごめんなさいまし。




 


「これは強勢に熱い湯だ。
 焦熱地獄の銅壷の蓋か、不動様の背中ときてゐる。
「たがひの心うちとけて、うわべはとけぬ五大力、さはさりながら、
 変る色なき御風情っさ。
「あゝいゝ加減な湯じゃ。これがほんの極楽往生、あゝ南無阿弥陀 々。
「おぬいは涙せきあへず。恋は女子の癪の種。
「阿蘇の宮の神主友成とは我が事なり。






 

湯屋の流しも折々砂をつけて磨かざれば、人を滑らして大きな怪我を
させることある故、毎日々怠らずこれを磨くなり。
人の渡世も亦折々気をつけ、十露盤の玉をもって磨かざれば、
商いに上滑りがして人の身代に怪我をさせるのみにあらず、
我が家蔵の腰をぶんぬき、大工の骨接ぎ、左官の鏝療治(こてりょうじ)
でも治らず、晦日物前に打身がおこりて、終に病のもととなる。
怠らず商売を磨くべし。
「玉磨かざれば光なしだ。流しも洗わねば、溝板同然だ。
「さっさとこすれや、節季候 節季候。







 

草木こころなしといへども湯にも心あり。人の心には私ありて、
湯の心には私なし。それはまた何故といふに、人ひそかに湯の中にて
放屁する時は、直にぶくぶくと音がして、泡のやうなるもの浮み出る。
これすなわはち人の心に私ありて、湯の心に私なき証拠なり。
「もふ昼だそふで、腹が少し北山の武者所だ。酒を一杯熊谷なら、
 せめて二八の敦盛でもしてやりたい。
「かう毎日柄杓を持つが商売とは、梅が枝が川留めにあったやうだ。
 芝居だと手裏剣を受け止めて、巡礼に御報謝という役だ。





 

芝居にも土用休みあり。職人にも煙草休みあり。
湯屋にも定まれる休み日があって、風呂場を乾かし、小桶を干し、
風を入れ、日に照らすは、水に腐らせぬ用心なり。
大酒を好むものも此の道理にて、毎日々酒浸しになって休み日が無ひと、
腹が小桶のやうに張って、鼻が石榴口のやうに赤くなり、
壁のあばら骨があらわれ、四十四の骨の柱が腐って、命のを失ふこと
目前なり。慎みて大酒を好むべからず。
「此の本には女が少ないとて、おいら二人が此処へ書かれたのさ。
畢竟(ひっきょう)作者のおさきだま。
両方から駒下駄を履いた女中が来て、
「おやおやどうしやうの、休みじゃ無へと思ったに。
「わっちもさ。照らされたよ。どうしやうの。
と二人ながら下駄で来た故、げたげたと笑ふ。これを湯屋笑ひといふ。









湯屋の若い衆、休み日に奢りかける。
「かう奢っては明日の貰い湯を台無しにするぞよ。
「はて酔ったら儘の川千鳥、足がひょろつくぶんの事だ。
 もふ一つ もふ一つ。
 絵の△は、京伝の宣伝が書いてある。
一、忠臣水滸伝 売り出し中、お求めのほどよろしく。
一、京伝煙草入新型 京伝は煙草入れを発明したことで有名。






 

湯屋にも仁義五常あり。
湯をもって人を温め、草臥れ(くたびれ)を休めるは仁なり。
人の桶に手をかけぬは義なり。
田舎者でござい、冷え者でござい、御免なさいとは礼なり。
糠洗い粉軽石糸瓜の皮で垢を落すは智なり。
風呂の板を叩けば承知して水をうめる、これ信なり。
「湯は陽にして天の象(かたち)による故に、円き柄杓をもって円き
小桶に汲み入るゝ。水は陰にして地の象による故に、四角な水槽より
四角な升をもって汲みとる。
湯は男なり。水は女なり。男の熱き熱湯の中へ、女の冷き水をうめれば、
よき加減の湯となる。夫婦和合の道理、此ごとし。
熱湯の儘にて使へば火傷をする。水ばかりでは風邪を引くなり。




 



「動左衛門様、もうお上がりか。お前は烏の行水じゃの。
「商人は手拭を絞るにも、身の脂をしぼる気にならねばならぬ。
「けふもだいぶん湯が込むかへ。
「湯へ這入る所は誰でも、ざまの悪いもので、湯のよる処へは、ざまが
 よるとは此の事だ。
「そりゃ焼十能でござい。御免なさいまし。






 

男湯と女湯の分かるは、男女別あるの道理なり。
楊貴妃が驪山(りざん)の浴室には、玄宗の涎を流し、
塩谷が妻の湯上りには、師直のうつつをぬかす。
これらは皆煩悩の垢なれど、光明皇后は千人の垢を流して、仏の化身に
あひし事もあり。
煩悩あれば菩提あり、盆前もあれば大晦日もある道理なり。
「そもそも湯上りの時美しき女はまことの美人なり。雀斑(そばかす)
疥(はたけ)、疣(いぼ)、黒子、頬の赤きも大痘痕(あばた)も、
紅粉白粉でくろめれば、相応に見ゆるものなり。人の心もまずその如く
追従軽薄の紅粉白粉で彩しは真の心にあらず。
正直の糠袋で洗ひあげたる所が無疵の実心なり。
此の二人娘、粂三かお七といふ気取りで自惚れている。
「なんだか悪臭い匂いがするのう。
「あれは水虫へつける薬に糠の脂をとるのさ。
「お竹さんを人がいゝいゝといふが、気が知れねへよ。
「そふさ。あの横顔を見なゝ。精霊さまの馬を見たやうだ。
「これから帰って狆に湯を浴びせてあらふ。






 

「さあ々湯へ這入りましょ。坊やいゝ子だぞ 々。
「だいぶ御成人でござります。おとなしいお子じゃ。
「おつぼさん待ちなよ。付合いを知らねへ子だのふ。






 

湯の中で温まれば酒麩のやうに縮まった睾丸も自然とだらけてくる。
人の身代も内証が温まってくると、そろそろ金袋がだらけて、思わぬ
無駄銭を使ふかも、盛って入る時は、又盛って出づる道理。
ただ銭金を湯水のやうに使えば、じきさま休み日の湯屋のやうに、
身代の内証が空っぽしやぎとなるは目前なり。
「あゝいい心持ちだ。さっぱりとしてよいぞ々。
 おれが形は干し大根で作った文覚上人ときている。
「御隠居様この頃は碁はどうでござります。
「これ小僧、冗談をするな。小桶戻れば千里も一里だ。






 

「これはいかいこと小桶が並んだ。
 小人島で沢庵漬の問屋をするようだ。

「これはけしからぬ混みやう。おらが方へおはちの廻るは夜が遥かだ。







 

長湯を好む老人などは、たまたま湯気に上りて目をまわすことなどあれ
ども、気付けを用ゆるに及ばず。
顔へ水を吹きかけるとたちまち気がつくなり。
銭湯人殺さずとは此の故ならん。
「誰だと思ったら八百屋のお爺さんか、やれやれあんまり長湯をなさる
 からの事じゃ。長湯もあれば短湯もあるは八百屋の隠居様、
 これもうし気が付きましたか、気がつきましたか。
「頭が唐茄子のやうで、鼻が胡桃のやうで、手足が干し大根のやうで、
 睾丸が何首烏(かしう)のやうだから、八百屋のお爺さんだと思った。







ずっと大昔は、湯屋で物を掠めたがる者もありけるよし。
もしさやうの者ある時は、顔や体へ一面に鍋墨をなすって、辱しめたる
となり、これ何故なれば、崑崙国(チャンバ王国)の人は俗気多く、
珊瑚樹などを奪いて逃げ出す所、絵にもよく書くやつなり。
故に黒ん坊となして、恥を与へけるとぞ。
「まづ此の薪雑把を食わせるがいゝ。
「こいつはとんと黒ん坊の生捕りときている。
 珊瑚樹のかわり十能を見知らせてくりやう。どっちも赤いものだ。
「憎い八つ目鰻だ。おもいれ油をとってやれ。




 

湯屋の二階で売る駄菓子を食ふにも謂われなきにあらず。
教化別伝不立文盲な咄をして尻を腐らせる人は、達磨糖をしてやり、
お釈迦様の開帳話をしながら、さがおこしを食ふもあり。
生姜糖をしてやる薬取りもあり。
昼寝の夢のお目覚ましに粟の岩おこしを食ふもあり。
頭巾を被った人が大黒煎餅をせしめ、大ころばしを食って雪隠へ行きた
くなるお爺が、飴一本四文、大福餅あったかいにも故事来歴あるべし。






「今日はよい天気でござります。香煎をあがりまし。
「明日は大師河原へ行くつもりだが、気はなしか。
「昨日は堀の内へ参って、強勢に草臥れた。遠いぞ 々。
「番公変ることもないか。
「八兵衛が来るはずだが、まだ見へねへ。






 

「わりゃァよくおれが睾丸を糠袋と間違へてつかんだな。
 それで湯をぶっかけたが何とした。此の黒砂糖の固まりめ。
 柿のやうな眼を剥きだしても怖かあねへぞ。
「こいつが々、わりゃァまたおれが眼の柿のやうなをどの眼で見た。
 悪く笛を鳴らすが最後、犬に褌を咥へさせ大津の宿へしたにやるぞよ。
 漆掻きの尻を杖で突つくとはちがふぞよ。
「これさ二人ともきん玉があぶないあぶない。
蓼の虫葵に移らずといへども、襤褸襦袢より羽二重の小袖へも移るは
湯屋の虱なり。
人も又此の湯屋の虱の如く、襤褸襦袢の賎しきより羽二重の尊きへも
移らざるといふことなし。




 

もし旦那、それそれ葵虱が二つ胴に二匹連れ、裾までよって這います。
それからご覧じろ。こいつは続きの二匹だはへ。
「はて合点のゆかぬ。
 裁(き)りたての小袖へ千手観音のあらわれ給ふは心得ぬ。
 察する所、時は弥生の半なれば、こいつ花見虱じゃな。
 何にもせよ、むさいこの場の風呂屋じゃなァ。






 

大晦日の夜はいづくの湯屋も夜通しなるが、東雲のころ、風呂の栓を
抜きけるに、悪臭き匂いして、湯いちどきに流れ出で、湯気霧の如く
立ち昇るうちに、異形の物あらわれ出でたり、角は鼠の糞の如く、
面は軽石の如く、歯はつるしてある櫛の如く、手は鋏の如く、
胴は小桶の如く、足は手拭・糠袋に似て、糸瓜の皮の褌を締めたる鬼、
洗粉の如き生臭き毒気を吐きて、すっくりと立ちたり。
これをいかなる物と思ふに、一年三百六十日の間、毎日毎日入りくる
人の洗い流したる垢の亡魂なり。










垢の亡魂がいふ。
「色の黒き男色男にならんと洗粉にて磨きたるは、これ色欲の垢なり。
 金の番をする爺様が長き爪にて掻き流したるは、これ貪欲の垢なり。
 その他不幸不忠の垢、不義不仁の垢は申すに及ばず、高慢自惚の垢
 悋気嫉妬の垢、憎い可愛いの垢、嬉し悲しの垢、追従軽薄の垢あり
 て、一人として欲垢に汚れざるものなし。
 その垢積り積りては此の様な鬼となって一生を苦しむぞや。
「これ申し番頭どの、我が身欲垢の鬼となり、焦熱地獄の釜風呂の底
 に沈みて苦しむことを、世の人に告げて心のうちの欲垢を溜めぬや
 うに、よくよく伝えて下され。
 そのお礼には万歳で一つ祝っておきませう。





 

「欲垢に御万歳とは、お湯屋も栄へてましんます。
といいつつ小桶の尻をぽん々と叩き、
消し炭の火鉢のうちを掻き消す如く失せにけり。
「湯屋はけしからぬ化物だ。
「二日の初湯松の内、桃の節句や菖蒲風呂、盆の燈籠二度の貰い湯、
 一年中の人の垢、積り積りて此の姿、
 あゝ苦ししに牡丹で石榴口の絵解きだなァ。
「なんだか無性にめでたい めでたい。





 

夫天地間は湯室(ゆや)で看(みた)よりも大にして。
量り得がたきこと。浴盤を彭翁菜(ごぼう)で探るが如く。
一切衆生湊集(いりごみ)欲界。恰も銭湯の光景に似たり。
邪心悪念人心の垢。箇々十泉を以って。いかでも洗い落すべき。
琉球の洗粉、朝鮮の水石(軽石)。
紅毛(オランダ)の天糸瓜皮は用いるにたらず。
唯神儒の糠袋。仏老の垢擦り。よく心裡の垢をおとす。 
に浴しぶうしぶういふ険悍(ちうつばら)も。 蛮の垢を去り。
身にもろもろの惰的(ぶしょうもの)も。心に日頃の垢をたけな。
あらひ玉へきよめ玉へとまうす。

享和壬戌春  東都  山東京伝誌





【詠史川柳】 誰のことを言っているのか分かればかなりの歴史通



湯治場の評判になる車引き
車止めすこぶる困る照手姫
照手姫毎日そこら握って見



この主人公は、誰の事か今回は書いておりません。

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