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川柳的逍遥 人の世の一家言
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天狗の鼻がポキンと折れて夜が明ける  上田 仁

 (拡大してご覧ください)
  小田原包囲網

城の周囲ばかりでなく、海上までびっしりと包囲された小田原城。
秀吉は石垣山城にあって、日々歌舞音曲を楽しみつつ城方の自滅を待った。

「小田原征伐で激戦を演じた武将」


   
北条氏康

「大日本名将鑑」に描かれている
北条氏三代目当主・氏康。
信玄や謙信、今川義元と渡り合った知将であった。


「北条氏康」

北条氏三代目・北条氏康は、北条早雲の孫であり、氏政の父である。

生涯三十六度の合戦で、一度も敵に背を見せたことがない。

受けた傷は全て身体の前面につく「向こう傷」だったといわれている。

これが「氏康の向疵」といわれるものである。

同期では、信玄・謙信・今川義元らと戦って、不敗を誇る名将である。

一方で氏康は政治家としても非常に優秀であり、

他の大名家に先駆けて「検地」を実施し、通貨を統一し、

経済改革に努めている。 
北条家には、

 「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」

という家訓が代々あり、氏康 の統治は、まさにそれを表したものであった。

くすぐると腹を抱えて笑う幹  森田律子

永禄4年(1561)、越後の上杉謙信が関東管領職についてから、

関東を一円に支配するため、謙信は北条家に毎年の様に進攻してきた。

また長年敵対していた房総半島の「里見家」とも戦い、

今川義元の死後に三国同盟が解消されると、武田家 も進攻してくる。

また かつて撃退した 「山内上杉家」なども北条への敵対行為を続けており、

まさに四方から外敵の進攻を受けるような状態であった。

こうした事情から、氏康は堅牢な城の必要性を考え、

難攻不落の巨城・「小田原城」を築いたのである。

柔らかに月光三小節目のメンソーレ  山口ろっぱ

「成田長親」

忍城主の成田氏長は北条方に与していて、

小田原征伐が始ると手勢を引き連れ小田原城に籠城。
                           やすすえ
「忍城」は長親の父で氏長の叔父にあたる泰季が城代となった。

しかし防衛戦が始るとすぐ泰季は病死し、代わって長親が指揮を執る。

籠城方は長親配下の5百騎と武装した農民兵を合わせて約3千で、

豊臣方5万の大軍を防いだ。

戦後は氏長とともに会津の蒲生氏郷の元に身を寄せたが、

氏長と不和になり、下野国烏山で出家して暮らす。

晩年になると尾張で隠棲している。

歌うには足場が少し低すぎる  森田律子



小田原城外郭には北条氏時代の空堀や土塁も残されている。
北条時代は大坂城を凌ぐ規模の惣構えを持つ城郭であった。

「大道寺政繁」

後北条氏家中で「御由緒家」と呼ばれていた家柄。

これは後北条氏を興した伊勢新九郎(北条早雲)が駿河に向かう時、

従兄弟の大道寺重時のほか5人の同輩が同行する。

その出発に際して、7人は伊勢で神水を酌み交わし

「誰かひとりが大名となったら、他の者はその家臣となる」

誓い合ったのである。

そして新九郎が戦国大名として独立すると、

他の6人は御由緒6家として仕えた。

墓石の裏に紋白蝶を結ぶ  くんじろう

大道寺氏は代々、北条家で重きを成していたが、

政繁は北条氏康、氏政、氏直の三代に仕え北条を支えた。

秀吉の小田原征伐が始ると、信濃国に近い上野国の松井田城の守将として、

前田利家、上杉景勝、真田昌幸らが率いる大軍を迎え撃つ。

圧倒的な戦力差の前に碓氷峠での迎撃戦を回避し、

松井田城での籠城戦を展開、約一ヶ月に渡り豊臣軍を防いだ。

しかし水脈を断たれ、本丸にも敵兵が迫ったため開城。

その後は「忍城」、「八王子城」へと転戦する豊臣軍の道案内を務める。

八王子城攻めでは、自身の軍勢を率いて果敢に働いた。

しかし戦後、秀吉から開城の責任を問われ、

北条氏政、氏照らとともに切腹させられる。

前ぶれはほんの小さな風の音  桑原すず代


  石垣山一夜城

関東に築かれた本格的な石垣の城。小田原城から見えないように築き、
完成後に周囲の木を伐採したため一夜城と呼ばれた。
今も随所に石垣が残るが、関東大震災時に崩れている。

「北条氏照」

北条氏照は四代目・氏政の弟で文武両道に秀でた聡明な人物として伝わる。

16歳で初陣を飾り、以来一生を通じ勝戦が36度もあったという豪の者。

また織田信長徳川家康、伊達政宗らと親交を結ぶなど、

政治外交手段にも優れていた。

最初は滝山城城主の大石定久の養子となり、

「滝山城」と武蔵守護代の座を譲られている。

永徳2年(1559)には家督を譲られ、滝山城に入城する。

当時の支配地域は八王子を中心に北は五日市から青梅、飯能に至るまで、

南は相模原、大和、横浜の一部にまで及ぶ広大なものであった。

行く末はどうであろうとも帆をあげる  笠嶋恵美子

永禄11年(1568)には武田信玄に率いられた2万の大軍を撃退する。

その際に滝山城の防備に厳戒を感じたため、深沢山に堅固な山城を構築した。

これが八王子城で、天正15年(1587)頃には、ほぼ完成する。

「小田原征伐」の際は、ここで秀吉軍を防ぐ計画であった。

しかし秀吉軍が小田原城に迫ると、本家の命で氏照は4千の城兵とともに、

小田原城に詰めることになった。

城主不在の八王子城は、激しい抵抗を見せるも反日で落城。

小田原城も包囲されてから3ヶ月後に降伏、開城する。

秀吉は氏照も主戦派のひとりと見なしていたため、

兄の氏政らとともに切腹を命じられた。

お月さまも畳の縁は踏まないで  釜野公子

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裁かれた後にひとりぼっちの闇  勝又恭子


小田原征伐秀吉と家康

「北条氏滅亡」

上野国に生じていた小さなわだかまり(名胡桃城事件)が、

ついに天下の軍勢を関東に引き寄せる大戦の要因となった。

だが北条方としても、関東制圧を進めているころから、

上方の豊臣政権を意識していたようである。

その証拠に、秀吉の軍勢と一戦に及んだ場合を想定し、

早くから15歳から70歳までの男子を対象とした徴兵令を布告。

さらに寺から梵鐘を供出させ、これを大砲に鋳造するなどして、

戦闘への準備を着々と進めていた。

また小田原城の拡張工事だけでなく、東海道筋にある山中城

韮山城の整備、さらには箕輪城や松井田城、鉢形城、忍城といった

関東各地の城砦との連携や整備も進めている。

日の昇る水平線を信じたい  森田律子




秀吉がいくら大軍で押し寄せて来ても、広大な関東各地で釘付けになり、

そのうち兵糧が続かなくなって上方に引上げるであろうと考えていた。

それに北条軍の首脳陣は

「小田原城はかって武田信玄や上杉謙信の軍を跳ね返した難攻不落の城。

    秀吉ごときに落とせるものではない」

と自負していたのである。

アカンタレやのに「へちょ」がでしゃばる 山口ろっぱ

しかし、秀吉の下した陣触れは、

それ以前の戦いのスケールをはるかに凌駕するものであった。

まず傘下の大名には、その領地の石高に応じた人的負担を下した。

また奉行の長束正家に命じて米や雑穀を合わせて20万石を徴発させた。

馬蓄やその餌となる穀物も、天正大判で1万枚分も集めている。
                    くきよしたか
これらの物資は、長宗我部元親九鬼嘉隆らが率いる水軍が輸送。

兵站線が伸びきって、すぐに兵糧不足になると予測した北条方にとって、

すべてが想定外のことだった。

そして小田原征伐に参加する豊臣軍は大きく二つの軍団に分けられていた。

秀吉自らが率いる本隊に徳川勢を加えた約17万の主力軍は東海道を進軍。

東山道は前田利家を主将に上杉景勝真田昌幸らの隊約3万5千が進む。

これに対して北条方は、小田原城に5万を超える精鋭部隊を集めていた。

そして豊臣軍の主力が進軍してくることが明白な箱根山中での持久戦を

想定した戦略を立てていた。

だが、あまりの兵力差に北条方は籠城戦に切り替えている。

捉まえた尻尾くんくん嗅いでみる  小谷小雪


    鉢形城

多くの城がさしたる抵抗を見せずに落城した中、
約一ヶ月に渡り北方隊をひきつけた北条氏邦の守った城。
荒川と合流する深沢川が堀の役目を果たし、大規模な空堀や
土塁が縦横に張り巡らされていた。


戦いの様子を見てみると、

天正18年3月29日に進撃を開始した約7万の
主力は、

東海道筋にある山中城を数時間で落とした。


伊豆にある韮山城には織田信雄の軍を主力にした約5万の兵を差し向けた。

箱根周辺にあった鷹ノ巣城や足柄城は、徳川勢によって次々に攻略された。

水軍部隊は西伊豆沿岸に点在する伊豆水軍の砦を撃破。

下田城も攻略して小田原沖に展開する。

こうして小田原城の包囲網が完成すると、秀吉は北条方の戦意を削ぐため、

小田原城を見下ろす笠懸山に本格的な石垣の城を築いた。

小田原城の籠城軍は一夜で城が出現したかのような錯覚を覚えたという。

このことからこの城は「石垣山一夜城」とよばれるようになった。

生と死の狭間でちろちろ泣いている  合田瑠美子


 初代早雲  二代氏綱    三代氏康  四代氏政

籠城戦が長引くと、秀吉は上方から茶人の千利休や側室の茶々

諸大名の妻女らも呼び寄せ、石垣山城内で連日茶会や猿楽などを催した。

その歌舞音曲の音色は、小田原城内にも聞こえたといわれている。

秀吉はまた、しばしば城を抜け出し、

箱根方面の湯に浸かりに行ったりもしている。


こうした富と権力、さらに余裕を見せ付けることで、

篭城兵を圧迫していった。


北条方が頼りにしていた鉢形城に続いて6月23日には八王子城も落城する。

同盟関係にあった奥州の伊達政宗も秀吉の陣に馳せ参じ、恭順を誓った。


   5代氏直


そして城方からも寝返る者が続出したため、

城主の北条氏直は7月5日自らの切腹と引換えに、城兵の助命を申し出た。

ここに関東の雄・後北条氏は五代目氏直で滅亡したのである。

私には空き缶だけが残される  前中知栄

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鵺の皮着て兎の耳つけて  井上一筒


  模擬御三階櫓

小田原征伐の際、もっとも果敢に戦ったのが忍城であった。
城主は小田原城に籠っていて留守であった、にもかかわらず、
一ヶ月に渡り城を守り、小田原城が落ちてもなお開城していなかった。
城は明冶になるまで残っていた。

「忍城と三成の戦下手」
                                       おし
秀吉による北条征伐の中で、最後まで落城しなかったのが「忍城」である。

ここは代々成田氏が居城としていて、沼や河川を有効に利用し、

「関東七名城」に数えられるほどの堅城であった。

小田原攻めが決定した時、北条方に属する忍城城主の成田氏長

弟・長忠は小田原城に詰めることになった。
                    やすすえ
忍城には氏長の叔父である成田泰季とその嫡男の成田長親

氏長の長女の甲斐姫らが籠城した。

痩せ馬の眼はまだ天空を駆ける  竹内いそこ

北条方の支城を次々と落とし、小田原へと進軍を続ける豊臣軍。

忍城攻略部隊の大将には石田三成が任じられていた。

三成に率いられた軍勢は3万とも5万ともいわれる大軍であった。

一方忍城に籠城しているのは、近隣の農民兵を合わせても僅か3千ばかり。

三成は丸墓山古墳に本陣を置き、まずは正攻法で忍城に押し寄せた。

しかし、沼や河川が堀代わりになり攻め口が少ないうえ、

城兵の士気が高く巧妙な戦いぶりを見せるため、三成は攻めあぐねた。

だが戦いが始るとすぐ、籠城軍の軸であった成田泰季が病死してしまう。

以後、指揮は成田長親が執ることになった。

耳寄りな話棚から落ちてくる  中川隆充


   忍城鳥瞰図

三成は城攻めが滞ってしまったことで、

周囲の地形を考慮して、水攻めを行なうことにした。

三成は近隣の農民らを米や金銭で雇い、

僅か5日間で全長28kmにもなる
「石田堤」を完成させ、

そこに利根川の水を流し込んだのである。


だが水量が足らず、本丸が水に沈むことはなかった。

まるで水のうえに浮んでいるように見えた為「忍の浮き城」とも呼ばれる。

それでも雨が降り続くと、水は本丸まで迫ってくるため、

夜間に城から抜け出した2人の決死隊が堤防を破壊。

その結果、溜まっていた水が豊臣方の陣所へ一気に流れ出し、

約270人が溺死する事態となってしまった。

さらに悪いことに忍城の周囲は泥沼のようになり、

人も馬も近寄れなくなってしまったのだ。

夕間暮れ二足歩行は隙だらけ  青砥和子

それを見かねた浅野長政、真田昌幸・信繁父子らが、援軍として着陣する。

すると城側から内応の申し出があった。

だが手柄を横取りされるのを嫌った三成は、

嘘の情報を長政に伝えて散々な目に遭わせてしまうのだ。

その上で三成は総攻撃を決定。

そこでも功を焦った三成の抜け駆けが災いし、

豊臣軍はバラバラに攻撃を仕掛け、各攻め口で敗退を喫してしまう。

矢印に従えとある帰り道  山本早苗

小田原攻めから7ヶ月を経た7月5日、

北条氏直が自らの切腹と引換えに


「城兵の命を助けて欲しい」という申し出があり、

小田原城の籠城軍は降伏、開城するに至る。

小田原落城とともに成田氏長は忍城に使者を出し、

城の明け渡しを促した。


北条方に属する城で落城していなかったのは、忍城だけであった。

天辺のちょっと手前で裁かれる  岩根彰子

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噴き上げるいつかへ火種絶やさない  加納美津子


氏政・氏直錦絵

「昌幸の仕掛けた時限爆弾」

天正16年(1588)4月、豊臣秀吉は京都の聚楽第に後陽成天皇を迎えた。

諸大名に上洛を命じたが北条氏は応じず、

8月20日にようやく北条氏規(氏康5男)が上洛した。

氏規は沼田領の返還を強く訴えたが、秀吉は取り合わない。

沼田領の裁定が出た時期は不明だが、秀吉の使者が上田を訪れたのは

天正17年7月で、真田昌幸の嫡男・信之が饗応役を務めた。

2月に徳川家康に出仕し沼田領の差配を委ねられていたものと思われる。

おそらくこの間、昌幸と秀吉は大阪にいた信繁を介し、

入念に内々のやりとりをおこなっていたのではないだろうか。

ああー神よ怪しく動く不整脈  石橋芳山

秀吉の「裁定」は、上野の真田知行の3分の2に沼田城をつけて北条に、

3分の1を真田に与え、真田が北条に渡した分の替地は、

家康から
真田に渡すというもので、

家康領国から信濃箕輪領が昌幸に与えられた。


裁定は概ね利根川を境界線といした分割だった。

吾妻領は真田に残り、替地も手に入る。

昌幸らに異存はなく、粛々と沼田城を引き渡した。

しかも名胡桃城は「真田の墳墓の地」として真田に与えられたが、

墳墓が存在した事実はどこにもなく、

明らかに昌幸のこじつけたものだった。


数字だけがオレの人格だった頃  小西 明

だが、上野全域の掌握を望んでいた北条氏には不満が残った。

中でも沼田城と利根川を挟み、指呼の間に築かれた名胡桃城が

真田領になるのは大きな痛手だ。

その不満は沼田城に入った猪俣邦憲の名胡桃城奪取という形に表れる。

真田と北条の間に一触即発の緊張関係を生んだ。

真田側から多少の挑発はあっただろう。

だがこれこそ昌幸が仕込んだ時限爆弾だった。


くすぶった不満が出口探してる  相田みちる

天正17年11月、猪俣は昌幸の家臣である鈴木重則が守る

「名胡桃城を奪取」する謀略を実行した。

沼田城代を務めていた猪俣については、不明な部分が多い。

代々北条氏に仕えた富永氏の一族の出身で、北条氏政の弟・氏邦に従い、

小田原から武蔵方面へと進出してきたとされる。

もともと名胡桃城は沼田城の支城であり、

本来は北条方に引き渡されることになっていた。


しかし昌幸は「名胡桃城は祖先の墳墓が残されている地である」

といい、頑として譲渡を拒否したのである。

猪俣は鈴木重則の家臣の中山九郎兵衛を買収。
                     おび
偽の手紙を重則に渡し、城外へと誘き出させた。

主が留守になった隙に、九郎兵衛に城を乗っ取らせたのである。

またひとつ罪を重ねた白ペンキ  上田 仁


 秀吉と家康

だがこの行為は、秀吉が定めた「惣無事令違反」に問われた。

秀吉は沼田一帯のほとんどを北条領とするなど、

臣従すれば、北条氏は存続させるつもりでいたようだ。

ところが大幅な譲歩をもってしても、

のらりくらりと臣従の意思を見せない北条氏に対して、業を煮やしていた。

家康も自らの与力大名・真田氏の利益を擁護する立場に立たざるを得ず、

北条氏は次第に孤立した。

昌幸が意図した通り、

秀吉は北条氏が「公儀」を蔑ろにしたと断罪し、


「小田原攻め」の大義名分を得たのである。

※ 惣無事令(大名同士の私闘を禁じた法令)

とろとろと沈む夕日に裁かれる  牧野芳光

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ソーダー水のむこう八月の足捌き  酒井かがり


  信長の麒麟の花押

「故事」-花押

「花押」は図案化された署名で「書判」とも呼ばれる。

花押は、実名をもとに作られ平安中期頃から主に皇族や公家に用いられた。

「公家様」といわれる、和風の柔らか味のある草書体のものが主流となり、

これが花模様に見えることから、花押という呼び名になったという。

武士が政権を握る鎌倉時代になると、武士も公家にならって

花押を用いるようになり、


太く力強い筆致の「武家様」といわれる花押が作られた。

大切な事は背中にしゃべらせる  中村幸彦

花押は、署名なので文書の最後に書く官職、位階、姓のあとに

記される
のが本来だった。 

つまり花押は名前そのものであり、


例えば、「信繁 花押」と連記するものではなかった。

しかし武士の時代には、文書に格式や威厳を持たせる、

偽造を防止する、などの理由により、

姓のあとに花押が記されるという連記が普通に行なわれれようになる。

実印を男の顔で押している  多良間典男                              


  信繁 花押

戦国時代になると、花押を何度も変えたり、複雑な形を一筆で書くなど、

模倣しにくい形が工夫されるようになった。

このころは、文書は右筆に書かせ、本人は花押を押すだけという習慣が

一般的になっていたので、花押の真偽が重要だったのである。

実名にない文字も使われるようになり、

8回も花押を変えたという織田信長は、天下統一の意志を表すため、

聖獣とされた「麒麟」「麟」を形象化した花押を用いたと言われている。

江戸時代に入り 太平の世になると花押は類型化するが、

型を作って押印する簡便な印判も普及していった。

どうでもいいところにモザイクをかける 岡谷 樹


宇治川の先陣争いの図

前方が池月の佐々木高綱と、後方が磨墨に乗った梶原景季 

「故事」ー馬
                                         いけずき
鎌倉前期の軍記物語『平家物語』に、源頼朝から拝領の名馬「池月」
 するすみ
「磨墨」をめぐり、佐々木高綱と梶原景季(かげすえ)の両者が、

宇治川の先陣争いに至る逸話がある。

名前が知られるほどの名馬は、希少な存在で昔から武士の憧れだったが、

名馬はまた富と権力の象徴でもあった。

奈良時代朝廷は、馬の育成を奨励するために諸国に牧(牧場)を定め、
                              みまき
特に信濃、甲斐、武蔵、上野には直轄牧地の「御牧」を設置した。

自然と気候に恵まれた信濃周辺は「木曾馬」など名馬の産地となった。

同じく馬の飼育に向いた東北も「三春馬」などの名馬を産出した。

ふあふあが海馬に集まる夏の午後  小永井 毬


万福寺の「磨墨」の像

日本の在来馬は体高130~140cmほどの小型で、

全体としてずんぐりしていたが、体質は強健で骨や蹄が堅く、

骨折などが少ないと言われる。

その体格は物資運搬に適していたが、軍馬としての資質にも恵まれ、

武士が政権を握った鎌倉時代以降、各地の牧は良質な馬の産出に、

一層努めるようになる。


古来、朝廷や各地の神社などでは、

年中行事として競馬や流鏑馬などが
行なわれており、

朝廷には東北や信濃、甲斐などの名馬が贈られていた。


室町時代には、幕府から朝廷への進物は太刀と馬が主となり、

各地の選ばれた馬が献上された。

天正9年、信長は京で馬揃を行なったが、

名馬500頭を並べた華麗な行進は威信を誇示するものとなった。

右向けと言われ小首をかしげとく  三村一子

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