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川柳的逍遥 人の世の一家言
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雑木林を抜けてくるのは血の絆  森中惠美子

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『京極龍子』

芸は身を助けるというが、「美人」であることも、その縁となることがある。

戦国時代でいえば、「京極龍子」が格好の例だろう。

「松の丸殿」・「西の丸殿」とも呼ばれた龍子は、

近江の湖北地方で生まれた。

父は京極高吉、母はキリスト教徒の京極マリア

叔父に浅井長政がいる。

すなわち、マリアは長政の妹で、長政は三姉妹の母・の夫。

つまり、浅井三姉妹とは、従姉妹という間柄である。

弟・京極高次は、関が原の戦いで期せずして、重要な役割を担う。

また高次の妻は、三姉妹の次女・である。

何を着ても何を被っても負ける  前田咲二

はじめは、若狭の武将・武田元明のもとに嫁いだが、

夫が”本能寺の変”後に、明智光秀側についたことから、

龍子の運命は大きく動き出す。

秀吉の怒りを買った元明は、

自刃を命じられ、さらに、二人の男児まで殺されてしまう。

謀反人の妻となった龍子だったが、

没落した京極家の再興を願う弟・高次によって、

”秀吉の側室”として、差し出されてしまう。

太鼓打つごとに一コマ進む夢  井上一筒

秀吉は、美貌の龍子を寵愛し、

小田原城攻めや、

朝鮮出兵の拠点である名護屋城にも、伴ったという。

秀吉が催した醍醐の花見では、

神輿に乗る順番や、秀吉から盃を受ける順番を、

同じ側室の茶々(淀殿)と争ったという、エピソードが残されているが、

秀吉の死後も、豊臣家の人間として、

北政所や茶々と親交を重ねた。

疑いもなく言い合ったマタアシタ  志田千代

また、大坂夏の陣に、京都の六条河原で処刑された秀頼の遺児・国松

遺体を引き取って、手厚く葬ったのも龍子であった。

夫や子どもを殺されながらも、

”それを、運命として受け入れるかのように、

 秀吉の側室として生きた龍子は、

 心の深いところで、京極家の再興を願っていたのかもしれない”

また、龍子の人生は、乱世における女性の身の処し方として、

江たち三姉妹にも、影響を及ぼしたことだろう。

虎描けばネコ猫描けばトラになる  新家完司

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『お江ー第11回・猿の人質- みどころ』

北ノ庄城から脱出した三姉妹は、羽柴軍の陣に連れていかれた。

すると、号泣している人物がいた。

秀吉(岸谷吾郎)だった。

秀吉は、泣きながら三成(萩原聖人)を殴りつけている。

秀吉  「お市様を、お市様を・・・なぜお救いせなんだ・・・ この馬鹿が、大馬鹿たれが!」

三成  「面目次第もござりませぬ」

そう言うと、三成は市から受け取った文を秀吉に渡す。

そこには、

『娘たちに、邪心などゆめゆめ抱くことなきようお約束戴きたい。

 わが一命に懸けて願い上げ候・・・』 

と書かれてあった。

花花花見えないほどに亡母の顔  井丸昌紀

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茶々(宮沢りえ)が秀吉に向き直って言う。

茶々  「・・・私たちは父である浅井長政を殺され、

            今また二度目の父・柴田勝家と、母まで失いました。

             二度もそなたに、大切な人たちを奪われたのです。

             ・・・私たち姉妹が、そなたを許すことは生涯ありません!」

その言葉に、初(水川ありさ)江(上野樹里)も思わず涙してしまい、

三姉妹で抱き合って泣き出す。

と、秀吉もついついもらい泣きをしてしまう。

すると、江がそれを見て言う。

江  「猿の分際で私たちと共に泣くな!」

悔しくて泣きたくて金魚鉢ゆらす  清水すみれ

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数日後、三姉妹は秀吉の命で、安土城に行った。

安土城は、あの見事だった天守閣が焼け落ちてしまい、その姿を変えていた。

最初に三人を迎えたのは、おね(大竹しのぶ)だった。

おね  「お茶々様、お初様、お江様・・・、こたびはわが夫・秀吉が、

      いえ こたびもまた、まことに、まことに申し訳ないことを致しました・・・」

茶々  「(冷たく)・・・謝られたところで、母が戻ってくるわけではありませぬ」

おね  「おおせの通りにございます。

      されど、どうしてもお詫びを申し上げたく、まかり越しました次第にございます・・・」

と、おねが平伏する。

だが、茶々も顔を背けて、取り合おうとはしなかった。

すると、江が心配そうに、おねと姉たちの仲を取り持とうする。

だが、姉たちは硬い表情を崩すことはなかった。

おね  「お江様、よいのです。

      ・・・いま何を申し上げても、お心には届きませんでしょうから・・・」

坊さんの頭の蝿も動かない  丸山 進

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そこに一人の女性が現れる。

京極龍子(鈴木砂羽)だった。

母親は、浅井長政の妹の京極マリア。

つまり、三姉妹とは、従姉妹の関係にあった。

秀吉が、こういう時期は親類が近くにいた方が、

「気が休まるのではないか」 と遣わしたのだ。

龍子が秀吉に遣わされたと聞いた時、茶々が言う。

茶々  「私たちの父・長政が、羽柴秀吉・・・どのに討たれたことは・・・?」

龍子  「もちろん存じております。」

茶々  「・・・その父は、あなたの叔父。 なのに・・・なぜ・・・?」

龍子  「実は私の夫もかつて光秀様にお味方し、山崎での戦いの後、命を落としました」

  「では秀吉は、仇ではないですか?」

龍子  「ええ。でも、私、今は秀吉様の側室ですの」

嘘泣きの涙にだって味がある  嶋澤喜八郎

三姉妹とも、その言葉に驚いた。

龍子  「私も最初は、いやでいやでたまりませんでした。

      でも、お世話をしているうち、秀吉様はなんと面白いお人だと・・・

      憎めないというか、愛嬌があると申しますか・・・。

      それに、おね様の存在です。

      私の境遇をおわかりの上、いつもいたわってくださり・・・、

      今や私にとっては、かけがえのないお方にございます。」

未だ夢がある自分史を書いてみる  田尾暉年

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次に三姉妹が案内されたのは、

今は秀吉の茶頭になっている千宗易(石坂浩二)の茶室だった。

宗易は、三人に茶を立てた後、言う。

宗易  「わたくしも幼き時に母を亡くしました。」

茶々  「左様ですか・・・。」

  「・・・。」

  「・・・。」

宗易  「でも、早うに母が逝ってくれて、よかったと思いますわ。」

三姉妹 「?」

宗易  「母親の死によってこそ、学べる、教わることもありますさかいな」

初  「・・でも、私たちは母上に生きていてほしゅうございました!」

宗易  「ほんまやなぁ、そらそうや。そやけど、もうおられません。

      せやったら、それを生かす道を探しなはれ。

      それもまた、亡くなられた御母上の教え、御心に適うことちゃいますやろか?

      ありがたいこっちゃ」

もう一度親子の積木はじめから  横山量子

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その宗易の言葉を受けて、部屋に戻った茶々はしみじみと言う。

茶々  「悲しみにくれていても、それは変わらぬ。

      それを私たちに伝えんがため、ああまで言うてくれたのであろう」

江  「・・・」

茶々  「・・・その心遣い、私はありがたいと思う」

  「ありがたい・・・?」

江  「おね様にしてもそうです。」

  「(キッと江を見る)」

江  「私たちに会うのは心苦しいはずです。 それでも、わざわざ来て下さいました」

茶々  「・・・そうじゃな。遠ざけていようと思えば、いくらでもできるはず。

     ありがたくおもわねばならぬな」

初  「あんな猿の女房にですか・・・!」

茶々  「そもそも命奪われておっても仕方ないわれらなのじゃ。

     そう思えば、ありがたいことではないか」

阿保になっとけば我慢が出来るんだ  大北芳郎

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その頃、三姉妹のもとに秀吉が、安土城よりも堅牢で大きな城を、

大坂に建設しようとしているという情報がもたされる。

それは、すなわち、

信長に代わって、天下を狙っているということにほかならなかった。

三姉妹の憤りは、極みに達した。

そんなとき、秀吉が安土城に来たという。

江は脱兎のごとく走り出すと、秀吉に会いに行く。

茶々と初も、それを追う。

襤褸着ても大樹に靡かないつもり  村上玄也

茶々は秀吉の前に座ると、

「何故、信孝を切腹させたのか」
を問いただす。

秀吉は、「あれは、信雄が勝手にやったことだ」と言い逃れる。

茶々  「その上、天下を取るおつもりとか。」

秀吉  「とんでもないことにござりまする。

      それがしはただ、お屋形様のご遺志を継ごうと・・・」

茶々  「つまりは天下取りではござりませぬか」

秀吉  「そんなことは、断じて・・・ございません・・・」

その話初耳のような顔で聞く  ふじのひろし

そのとき、秀吉は茶々の姿に、市の姿を重ね合わせていた。

よく見ると、茶々は、市にそっくりである。

秀吉は今にも涎が垂れそうな顔つきで、茶々に猥雑な視線を送りながら、

天下取りの野望がないことを約束する。 

だが、今の秀吉は心ここになかった。

その秀吉の邪心に、いち早く気付いた江は、茶々に言う。

江  「姉上は、私たちを守ると言ってくださいました。でも、姉上は、この私が守ります・・・!」

茶々  「守る?」

  「羽柴秀吉・・・猿からでございます」

もくろみが成就せぬよう祈ってる  綾織省吾

拍手[13回]

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過去形を消そうのりたま振りかけて  山本昌乃

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    市の石碑

母・お市の方が三の丸門まで見送ってくれた。

かがり火に母の顔が揺らぐ。

お江姉の茶々、初と同じ一つの輿の窓から、あるだけの涙を流し、

遠ざかってゆく母を見つめた。

翌日、母は自害した。

その遺骸を乗せた北の庄城の九重天守が、

激しい炎に包まれたかと思った瞬間、

仕掛けた爆薬によって、越前の天空高く砕け飛び散った。

秀吉の陣があった足羽山(あすわやま)まで、その距離1,2キロ、

腹を突き刺すような揺れと轟音、爆風がお江ら浅井三姉妹を襲う。

口笛を吹く 失ったもの多し  進藤一車

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『市が、小谷城のときと違って、「どうして死を選んだのか?」』

については、いろいろな説明がある。

三姉妹は、小谷城の時と同じように、

「母が一緒に落ち延びてくる」

と思っていただけに、

母が、「城内に残る」と、言ったことには衝撃を感じた。

どうして三姉妹を残して、自刃の道を選んだのか・・・?

は、理解できないところがあるが、

負け戦で、集団自決を迫られたとき、それに反対する事は難しく、

その場の雰囲気として、柴田一族と運命をともにするのが、

自然な選択になってしまったもの・・・なのだろう考える。

どう跳ねてみてもこの世の中のこと  たむらあきこ

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福井城は北ノ庄城の遺構を用いて築城された

その時代としては、近代的な考えの者が多かった織田の家中にあって、

ただひとり

『古武士らしい振る舞いに徹することが誇り』 
だった勝家は、

こうして多くの人を道連れに、

少し芝居がかった戦国武者としての、人生にピリオドを打った。

瘡蓋ができたらメールいたします  西山春日子

宣教師・フロイス
の報告で、市たちの最期の様子を知ることが出来る。

『勝家が話術に巧みな老女に、

すべてを見届けたあとに、城外に出て、

 敵方に自分達の最期の様子を、語らせるように命じた』 

とある。

転け方も泣き方も負けたくはない  前中知栄

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三姉妹神社(柴田神社の境内にある)

市に別れを告げた江たち三姉妹は、羽柴軍の陣営に送り届けらた。

そこから、前田の居城である府中に立ち寄ったあと、

しばらく、湖北の寺院に預けられ、

やがて、三法師がいる安土城に住むことになった。

こうして越前での戦いが終わったことで、岐阜の信孝も孤立無援になる。

結局、信雄の勧告で城を出、

5月2日に、尾張の知多半島にある大御堂寺で自害した。

”昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前”

敵の耳葬る塚の歴史悲話  ふじのひろし

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【豆蘊蓄】

≪「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

 そのとき、信孝がこの辞世を詠んだというが、

 切腹を命じたのは信雄であって、これの真偽は少し疑わしい≫

『長政を失ってからの市の人生は、

 自らの死に場所を探し求めるものだったかも知れない。

 今がそのときと、彼女は北ノ庄城落城とともに、37年の生涯を閉じた・・・』

生かされて流れて今日にたどり着き  櫻崎篤子

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北の庄城の石瓦(地元の笏谷石を使っている)

「賎ヶ岳その後」

賎ヶ岳の合戦が終わったあとの織田政権を、現代の企業にたとえれば、

三法師は代表権のない会長として、誰も異議をもたない。

問題はその次である。

織田信雄は、自分が社長で、秀吉の実力ナンバー1であることは、

認めるにせよ、

あくまで、秀吉は副社長に過ぎないと考えていた。

ところが秀吉には、信雄に家来扱いされる憶えはなかった。

噛みくだくたびに話がもつれだす  谷垣郁郎

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北ノ庄城の遺構を用いて築城された福井城跡

信雄に織田一家をとりまとめる能力が、あるとは到底おもえず、

信雄は名目だけの副会長、自分が社長とこまでで、

精一杯、織田家を十分立てた形だと、考えたのである。

”賎ヶ岳の戦い”の翌年にあたる天正12年(1584)の正月、

とりあえずの再建がなった安土城で、

諸侯は、三法師を抱いた秀吉の前で賀詞を述べ、

ついで、信雄の屋敷に伺候したが、

秀吉は、信雄邸には姿を現さなかった。

生命線今年あたりで切れている  森 廣子

1月に、大津の園城寺(三井寺)で、秀吉・信雄会談が行われたが、

信雄は最初の会談のあと、暗殺をおそれて、

家臣たちを置き去りにしたまま、伊勢へ逃げ帰ってしまった。

このとき、信雄に取り入ったのが家康である。

”本能寺の変”のあとに、家康は

信長から家臣たちに与えられた甲斐や信濃を、横領しており、

「これを返せ」と言われないように、予防線を張ったのである。

≪本能寺の変のあと、上杉と北条が取った残りを、

家康が、ちゃっかり我が物にしてしまっていたのである≫

あの謀叛なら鍋にして食べました  居谷真理子

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「小牧・長久手合戦」の屏風

家康にしてみれば、まず何よりも自分の領地へ、信雄に侵入されてはたまらない。

そこで、家康には信雄を篭絡する必要が生じ、

「信長公のご恩に報いるため、いつでも力になる」

と涙ながらに語った。

信雄は、「家康が味方になる」というので、

秀吉に高飛車に出はじめる。

3月になって、信雄は、秀吉に内通したとして、

津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三人の家老を斬殺した。

この三家老殺害が、「信雄側から秀吉への挑戦状」ということになり、

こうして、世にいう「小牧・長久手の戦い」へと発展していくのである。

そのうちに座る閻魔の前の席  井上一筒

拍手[6回]

置き去りにしたよ目尻の澎湖島  井上一筒

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賎ヶ岳羽柴秀吉VS柴田勝家布陣(CG)

「CG画の解説」

柴田勝家と羽柴秀吉の両者は、琵琶湖の北東、”近江・余呉湖畔”で対陣する。

特に、大岩山砦(CG/左辺・下)と賎ヶ岳(CG/左辺・上)で、激しい白兵戦が展開。

余呉湖戦模様・・湖の右側一辺(権現坂から堂木山砦まで)赤い幟が、柴田隊の布陣。

左上・余呉湖と琵琶湖との間に賎ヶ岳があり、

そして琵琶湖から丹羽隊が上陸する。

前田利家隊は、右辺・上・権現坂辺りに布陣していた。

左一辺、賎ヶ岳から大岩山砦まで、佐久間隊が攻めてくる。

≪この深追いが、秀吉の美濃の大返しもあり、戦の行方を決定づける≫

そして、秀吉隊は、右辺下から底辺に布陣した。

どちらが勝ちだろうと素うどんはつづく  壷内半酔

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  炎上する北ノ庄城

『賎ヶ岳の戦いー実況』

天正10年(1581)12月、

勝家の城である近江・長浜城が、大谷吉継によって落城する。

吉継は、これをきっかけに頭角を現していくのだが、

この時も、柴田勝家は、雪に阻まれて身動きがとれなかった。

天正11年2月20日、勝家は、北陸勢に一斉に出動命令を出した。

3月2日、柴田方先発隊・佐久間盛政ら先遣隊が出陣。

3月5日には、柴田方全軍が、琵琶湖北東部、”近江・柳ヶ瀬”に着陣した。

負けて勝つ解っていても負けられぬ  福一静代

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    勝家隊土塁跡

ここは、峻険な山塊がつらなる難所ながら、

近江と北陸をつなぐ交通の要所である。

山間部の戦いは、投入できる兵員の総数が限られることもあり、

兵数が少なくても有利に戦える。

勝家はこの地で、秀吉を迎撃すべく、

北国街道を挟撃する位置に、多数の砦を構築した。

大根を見て今晩の鍋決まる  稲葉 洋

一方秀吉は、3月17日、柴田勝家蜂起のしらせを受け、

”北近江・木の本”に着陣する。

が、勝家の迎撃体制の万全さを見ると、

深追いを避け長浜に下がり、長期戦にそなえた。

4月17日に、織田信孝が岐阜城で蜂起したのを受け、

秀吉は、押さえの兵のみをおいて、

主力を西美濃・大垣城に着陣した。

しかし、これは秀吉側の誘導作戦であった。

あの黒さ並みの6Bではないな  浜田さつき

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4月19日、秀吉側に寝返っていた柴田勝豊(勝家の養子)の家臣が、

密かに佐々木盛政の陣に駆け込み、

「秀吉が大垣に赴いていて、留守である」と伝えた。

これにより盛政は、中川清秀の砦を急襲する作戦を、勝家に提案する。

当初は、これに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、

「砦を落としたらすぐ戻ること」

という条件つきで承諾した。

盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を討ち取り、

”賤ヶ岳の戦い”の緒戦を勝利に導いた。

欠点で長所で腰の軽いこと  嶋澤喜八郎

4月20日盛政が、大岩砦を占領すると、

盛政は、勝利におごり大岩砦にとどまった。

同日、大垣に「柴田勝家動く」の報せが届き、秀吉はただちに、

北近江・木ノ本へ出立する。

急ぐあまり、秀吉の馬廻衆(うままわりしゅう)が間に合わず、

秀吉は7騎で、しかも、「馬を乗り殺した」という伝説もあるほど・・・。

大垣ー木之本間、約52キロの街道には、

松明がともされ、食事が用意され、

秀吉軍の主力は、足軽本人と武具類を別便で輸送するという方式で、

驚異的なスピードで移動した。

≪この奇蹟の兵員輸送が成功したのは、石田三成の事務能力によるもので、

 すでに事前に、入念な準備が行われていた≫

パトカーが前にいるのに飛ばせるか  横山耕三

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賎ヶ岳戦場跡石碑

4月20日、午後7時頃には、秀吉軍主力は北近江・木之本に着陣していた。

秀吉軍は一転して、佐久間盛政隊を、挟撃する形となった。

4月21日深夜、佐久間盛政隊は数で劣る平地戦を避け、山沿いで撤収。

秀吉軍は、次の照準を、次蜂の勝家隊に絞った。

勝政隊が待機していた”賎ヶ岳での戦い”は、

激しい白兵戦となった。

よく見るとキツネタヌキが跳ねただけ  谷垣郁郎

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       賎ヶ岳

柴田勝政隊が陣を張っていた賎ヶ岳は、

険しい山々が連なり、

鉄砲隊の効果は薄い、

そのため槍を持っての白兵戦となった。

≪余談ー戦国時代の日本人は、実は命の危険の高い白兵戦は、あまり好きではない。

  応仁の乱から島原の乱までの、

    死傷者内訳を分析した鈴木眞哉著・『戦国鉄砲・傭兵隊』によれば、

     刀剣での死者はわずか7・1%だとある≫

職業欄生きる事だと書いてみる  神野千恵子


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    加藤清正            福島正則

そもそも一代で成り上がった秀吉には、代々の家臣がおらず、

秀吉と家臣団は精神というよりは、利害で結ばれていた。

”人は金のために人を殺すが、金のためには死ねない”

この時点での羽柴秀吉の最大の弱点は、

「秀吉のためなら死んでもいい」

と言ってくれる家臣がいないことであった。

横向いているが聞えているらしい  杉本克子

そこで長浜時代から育ててきた、福島正則・加藤清正らに先陣を命じ、

彼らが奮戦した。

これが「賎ヶ岳七本槍」である。

≪余談ー実際には、このとき功労賞を受けたのは、7人ではなく、

 石河兵助・桜井佐吉の2名を加えた、9人だったと言われている≫

大木になろうと思う草の夢  上村八重子

いずれにせよ、退路を確保していた前田利家隊が、

突如戦線を離脱した時点で、勝敗は決した。

柴田勝政隊・佐久間盛政隊は孤立し、柴田方は総崩れとなって、

越前北ノ庄へと撤退を開始。

4月21日、午前9時頃、秀吉は本陣を決戦場である賎ヶ岳に移し、

勝利を宣言した。

きざはしに革命のあと夢のあと  森中惠美子

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『お江ー第10回・「別れ」‐あらすじ』

清洲会議以降、秀吉(岸谷五朗)に押されっぱなしだった勝家(大地康雄)。

その我慢も限界にきた勝家は、

天正11年2月20日、北陸勢に一斉に出動命令を出した。

そして3月2日、甥の佐久間盛政(山田純大)が先遣隊として出陣。

つづき勝家は、雪解けを合わせたかのように、

3月3日、越前・北ノ庄をたち、5日に近江・柳ヶ瀬に着陣した。

一方、このとき対抗勢力のひとり滝川一益を攻めていた秀吉は、

勝家出陣を聞くと雌雄を決するべく、

大軍を率いて近江・木之本に進軍。

琵琶湖と余呉湖の間にある賤ヶ岳を挟んで、

勝家軍と対峙する。

こだわりを流してからの軽い靴  山崎三千代

陣地に勝るのは勝家。

数に勝るのは秀吉。

予断を許さない両軍のにらみ合いは、1か月にもおよんだ。

この膠着状態に、しびれを切らした佐久間盛政は、

岐阜城の織田信孝(金井勇太)をけん制するため、

美濃・大垣城へ進軍した秀吉の不意をついて、秀吉軍の砦を強襲。

敵将・中川清秀を討ち取るなどの戦果を挙げ、

勝家に先勝をもたらした。
.
しかし、良かったのはそこまで。

あんまりな雨に剥がれた金メッキ  山本早苗

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なおも盛政は、
いさめる勝家の命令を無視して、敵陣深くに進軍。

その報を待っていた秀吉隊は

”中国大返し”
を思わせる強行軍で、

大垣-木之本間・約52kmを、わずか5時間で駆け付けた。

佐久間隊は、その秀吉率いる大軍に囲まれ、

奮戦むなしく崩壊する。

メビウスの輪を駆けている馬と鹿  板垣孝志

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秀吉とも旧交のある勝家の与力大名・前田利家(和田啓作)の、

突然の戦線離脱も重なり、勝家は、北ノ庄へ敗走することになる。

この敗戦の結果、勝家は愛する・市(鈴木保奈美)とともに、

北ノ庄城で自刃の道を選択する。

北ノ庄城は、石田三成(萩原聖人)見上げるもとで炎上。

そして、江(上野樹里)たち三姉妹は、秀吉に保護され、

さらに数奇な運命を歩むことになる。

のんびりの時間をつくる忙しさ  ふじのひろし

拍手[3回]

煙突が傾いている寒さかな  嶋澤喜八郎

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 宮城を襲った津波の爪跡

百年後には、「平成の大地震」と呼ばれているるだろう三陸沖を震源とする地震が、

2011年3月11日(PM2時46分)に発生。

マグニチュードー9 震度ー7 明治以来、観測史上最大だという。

正式には、「平成23年 東北地方太平洋沖地震」と命名された。

この地震によって、東京以外の神奈川、千葉、茨城、長野などに、

別の断層を呼び起こし、関東・東日本は大揺れに揺れている。

人間の知恵は、自然の前に、いとも簡単に打ちのめされた。

人工のすべてが無力と思い知る  原 隼

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陸上に打ち上げられた船が家の上に

もちろん東京も”震度5”の針がぶれ、揺れた。

このブログを打っている時点でも揺れているそうだ。

コンビニから単3の電池とカップ麺が消えていく。

ただ東京の場合は、横浜のような地割れもなく、揺れただけである。

どういう意味かと言えば、地震観測によれば、

東京23区の地下には、「断層」が存在しないのである

失礼な言い方をすれば、貧乏ゆすりの前の机が揺れている状態なのだ。

そんな東京(江戸)を、家康は”首都”と決めた。

自然体でいなさいと無理な注文  清水すみれ

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   江戸城内総監図   

「太田道灌は、江戸城の真下に、

   ”断層がないことを知っていた”かのように江戸に城を築いた」

扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、

古河公方方の有力武将である、房総の千葉氏を抑えるため、

両勢力の境界である利根川下流域に、城を築く必要があった。

康正2年(1456)に着工。

翌、長禄元年(1457)4月、ほぼ完成し入城。

現在の”江戸城の内本丸”の一帯で、

自然の地形を利用した中世的な、城であったとされる。

このころは、江城といわれ、まだ江戸城とは呼んではいない。

広目天なら体温をあずけよう  森中惠美子

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    太田道灌

『永享記』には、

『資長(すけなが)が「霊夢のお告げ」によって江戸の地に城を築いた』 

とある。

道灌は、諸書を求めて「兵学」を学び、殊に『易経』に通じ、

当時の軍師の必須の教養であった『易学』を修め、

また「武経七書」にも通じていた。

なぜ城の位置が、この場所(江戸)になったのかは、

道灌が、数々の教養と「陰陽五行」、『中国風水学』を駆使したものと思われる。

”わがいほは 松原つづき 海近く 富士の高嶺を のきばにぞみる”

一服の煙を吐いて街を見る  両澤行兵衛

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御城内外御作事御手伝方丁場絵図

「江戸城は、鬼門・裏鬼門をはじめ、風水学を計算してつくられていた」

江戸城は、慶長8年(1603)、徳川家康によって江戸幕府の本拠地とされる。

道灌が築城した江城に、家康が幕府の拠点を置いたのは、

家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕え、

108歳で大往生した、

天台宗の天海僧正の、献策があったからといわれている。

昨日燃えつきました右脳五グラム  山口ろっぱ

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天海僧正は、徳川幕府の永代存続を祈願して、上野山に寛永寺を建立。

寛永寺は江戸城の東北方「鬼門封じ」のために、建てられた。
 
上野山という”龍脈”の突端に建てられた寛永寺は、

おそらく、江戸城の”鬼門除け”としては最強であったとされる。

ちなみに、易学では東北鬼門方位は”艮(ごん)の卦”で示され、

「万物万象の終結を成すところであり、かつまた開始を成すところでもある」

とする。

江戸城が、自然災害に強く、江戸幕府が、270年間存続できたのは、

「天海僧正お陰」といわれる由縁である。

* (龍脈とは、地気が蜿蜿起状して突起し連なった山脈)

* (艮の卦ー周囲に闇の静けさが広がっていく状態。
   その穏やかな暗さは、人に安堵をもたらす瞬間なのだという)

裏側は地球を背負う摩崖仏  海老地洋

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         日本列島を襲う津波の様子

『お江とゆかりのあるー「天正大地震」』


天正13年(1586)11月29日。

(この翌年に、お江千姫を出産している)

当時、三河にいた松平家忠の日記によると、

『地震は亥刻に発生し、翌日の丑刻にも大規模な余震が発生。

その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて、地震があった』

と記されている。

震源地は、岐阜県北西部、マグニチュードは7.9 - 8.1と推定。

近畿から東海、北陸にかけての広い範囲に跨って、

甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、このことから、この地震は、

”複数の断層がほぼ同時に動いたもの” 
と推定されている。

海岸線が後ずさりしている地球  籠島恵子

琵琶湖では、下坂浜千軒遺跡となる現・長浜市の集落が、液状化現象により、水没。

越中国では木舟城が地震で倒壊、

城主・前田秀継前田利家の弟)夫妻など多数が死亡。

また、飛騨国帰雲城は、帰雲山の山崩れによって埋没し、

城主・内ヶ島氏理とその一族は、全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。

そして、周辺の集落数百戸も、同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出している。

また、お江ゆかりの美濃国・大垣城が全壊焼失、近江国・長浜城が全壊し、

城主・山内一豊の息女・与祢姫、家老の乾和信夫妻が死亡している。

海破れるたった二行のペンの先  増田佐代子

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    江戸城中の門

「江戸時代、江府内で石垣が崩壊するほどの大地震」

寛永5年(1628)寛永地震、 寛永7年(1630)寛永2次地震、

正保4年(1647)正保地震、 慶安2年(1649)慶安地震、

元禄16年(1703)元禄地震、 宝永3年(1706)宝永地震、

安政2年(1855)、篤姫、和宮らが経験した安政地震の、

7回が記録されている。

木々に風失くしたものに声がある  一戸涼子

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このうち最大級の被害をもたらしたのが、「元禄の大地震」ある。

震源地房総半島沖・25Kmで、推定マグニチュード8.2 という巨大なものであり、

震源地に近い安房、上総や三浦半島では、震度7 の強い揺れが襲ったという。

この地震で、家屋倒壊や土砂の崩落もとより、

巨大津波 も発生し、人的被害も甚大で

江戸を除く、安房、上総、相模、伊豆の地域だけでも、

7千名以上の犠牲者が生じている。

一方、江戸でも、石垣の崩落など地震による大きな揺れがあり、

死者も相当数のぼった。

(この死者のほとんどは、地震後の火災が原因といわれる)

六角に裁断された水の耳  井上一筒

地震は、鎌倉、小田原、箱根などで大きく、

特に小田原での被害は甚大で、

小田原城が大破し、城下町の建物は大破、倒壊が夥しく、

直後の出火によって壊滅状態となった。
 
また、地震直後に発生した津波によって、

相模湾沿岸や房総半島の太平洋沿岸、伊豆半島東岸などが、

甚大な被害を受けた。

ごらんの通り、この「元禄の大地震」は、

今回の「平成の大地震」にそっくりなのである。

台本にない人生にうろたえる  太田 昭

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   江戸城虎ノ門

【江戸城ー豆辞典】

関が原の合戦(1600年)に勝利した家康は、慶長8年(1603年)江戸に幕府を開く。

家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した、

比較的小規模で、質素な城であったため、

全国の大名を動員の天下普請によって、

江戸城造営の本格工事に着手する。

そこはかと飢えたピラニアの輪郭  酒井かがり

慶長9年6月1日、江戸城大増築工事が発令されたが、

実際に郭の石垣工事は、家康が将軍職を秀忠に譲った翌年、

慶長11年3月から藤堂高虎の設計で建設が始まり、

この工事によって、雉子橋から溜池に至る外郭・本丸・二ノ丸・三ノ丸の石垣と

本丸御殿の一部が造営され、

同年9月23日、落成した本丸に新将軍・秀忠が移った。

(この年の6月、お江が家光弟・忠長を出産している)

また慶長12年(1607)五層の天守閣が落成。

(この年から家康は、駿府城に移り、お江春日局の確執がはじまる)

その後16~17年にかけて、西丸の修築工事、

18年~西丸下の石垣工事が、”大阪冬の陣”で中断されるまで続いた。

手加減を知らぬ自然の恐ろしさ  古田哲也

関東・東日本の地震に被災された方々に心より、お見舞い申し上げます。

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できごころ「ニーチェの言葉」買うてもた  浜田さつき

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     現在の余呉湖      

「北ノ庄城終焉」

戦国の常として、敗北した柴田勝家軍からは、

見限った家臣たちが、どんどん脱落していった。

天正11年(1583)4月21日のうちに、勝家本人は北ノ庄城に帰還したが、

勝家の主力1万5千の将兵は、わずか3千ほどにまで減っていた。

もっとも、武田勝頼が滅亡したときには、

手勢数名ほどだった、ことから見れば、

勝家はかなり人望が、厚かったというべきかもしれない。

おむすびの転んだ方について行く  本多洋子

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加藤清正対山路将監の組討ち

4月22日、秀吉は越前府中の前田利家のもとを訪れ、

彼を秀吉隊に合流させた。

そして翌日の4月23日、秀吉は北ノ庄城を包囲し、軍議を行う。

秀吉は、

「勝家が投降するのを待とう」

と家臣たちに、はかったが、

「池に毒蛇を放つがごとく、庭に虎狼を飼うがごとき所業」

と反対され、断念した。

情報にかきまわされぬように生き  上山ヒサヲ

勝家は同日の夜、覚悟の酒宴を行った。

股肱(ここう)の臣のみ80人ほどで、

天主から織田信長からの下賜品などを、引き出して陳列したという。

これは一ヵ所に整理することで、

秀吉方の足軽たちが乱入した際に、

略奪で散逸するのを避けるためだろう。

繰り返し進行形を消している  清水すみれ

酒宴は盛大で、

「珍肴珍菓(ちんこうちんか)、山のごとく前に置き、

 身分や男女の上下なく、酒を酌み交わした」 (柴田退治記)と、

秀吉サイドの記録にも残されており、

秀吉側とは、夜間の「休戦協定」ができていたと見られる。

今日という一日だけのショータイム  北原照子

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   賎ヶ岳・武将の像

勝家の最後の晩餐は深夜には終わり、各人は、勝家お市を残し、

それぞれの持ち場に戻った。

お市の方は

「勝家と秀吉の和睦の人質」
といった立場でもあるので、

両者の和睦が破棄されれば、勝家と一緒にいる義務も理由もない。

勝家も、

「そなたは城を出て生きてくれ」

と説得したが、市は拒んだ。

市は自分の意思で、わずか9ヶ月、一緒に暮らしただけの、

柴田勝家とともに、死ぬことを望んだのだ。

悔いのない今日を重ねてから逝こう  有田晴子

なぜお市が勝家と死ぬことを望んだか?

確かなことは不明である。

「秀吉を嫌悪した」と説明されることが多いが、

「秀吉が嫌い」から「勝家と一緒に死ぬ」では、

話がつながりにくい。

そこまで秀吉が嫌いならば、出家すれば済むことなのだ。

正解はチンして混ぜるだけのこと  藤本秋声

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市の喉仏が納められているという稲増家の土蔵

『さらぬだに 打ちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそう  郭公かな』

もう一度、お市の辞世の句を検証してみる。

「郭公(ほととぎす)」 とは秀吉のことをさす。

ホトトギスが、雛をウグイスに育てさせる『托卵(たくらん)』については、

万葉の時代からよく知られていた。

「われわれは、子供たちを秀吉に託して、ともに死のう」

といった意味になる。

原点に戻り小さい方を取る  山本早苗

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       市の碑

”夏の夜の、夢路はかなき、あとの名を 雲井にあげよ、山ほととぎす”

不思議なのは、

「夢路」を、勝家が受け継いでいるところである。

「夢路」とは、夢の中で、ゆきかう道」の意味である。

夢で行き交うもなにも、

市と勝家は、その場で、向かい合っているのだから、

本来の贈答歌の常識から考えると、この箇所はおかしい。

踏み切りで向き合っているモアイ像  北村幸子

つまり、

「市と勝家が共通して知っていて、しかもこの世にはいない人物を詠っている・・・」

とみるのが、妥当な解釈である。

二人はこの贈答歌では、誰を念頭においているのだろう・・・か?

信長かあるいは、市の前夫・浅井長政か・・・

いずれにせよ市は、勝家に対して、

先に極楽浄土へ行った者への想いを、歌で伝え、

勝家はその想いを歌で、答えたということになる。

さざ波をつまんで捨てるピンセット  井上一筒

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 炎上する北ノ庄城(CG)     

ちなみに柴田勝家と秀吉との間で、

お江たち三姉妹は、

秀吉が引き取って、育てることで合意が成立していた。

そして、天正11年4月24日、

秀吉方の総攻撃が始まった。

勝家は天主に放火して、お市とともに自害したのである。

別れ住むひとよいくさのない国に  森中惠美子

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              勝 家 出 陣

『「お江ーわかれ」・あらすじ-第10回の見どころ』

北ノ庄城では、勝家(大地康雄)が、市(鈴木保奈美)と三姉妹との、

最期の別れをしていた。

勝家  「・・・すまぬ。そなたたちとの約束を守れず、

     小谷の時と同じ思いを味わわせることになってしもうた・・・。

     思えば、この半年が、わしの人生の花であった・・・。

     思いもかけず、美しき妻に恵まれ、娘を三人も持つことができた・・・」

そういうと、勝家は市と三姉妹の顔をみつめると、

「さらばじゃ」 と部屋から出ていった。

市  「追うでない!・・・武士にとり、敵に首を挙げられるほどの恥はないのじゃ・・・!」

後を追おうとした三姉妹を、市が制する。

係累を断ってさまよう武士の剣  上田 仁

勝家は、家臣たちと天主の最上階で、最期の宴を賑やかに催した。

部屋に残った市、茶々(宮沢りえ)、初(水川あさみ)、江(上野樹里)は、

秀吉(岸谷五朗)からの遣いを待っていた。

茶々  「小谷と同じことになるのでございますね・・・。」

  「こたびは違う」

茶々  「・・・・・え?」

  「小谷の時と異なるのは、そなたたちは城から逃れ、母は残るということじゃ」

市の言葉に泣き崩れる三姉妹。

適当な言葉が出ない日の焦り  森口美羽

市  「母の生きる場所は・・・もうどこにもない。

    たとえ生き延びたところで、猿の側女にされるだけ」

茶々  「猿の側室・・・」

  「生き地獄よりも、死ぬ道を選びたいのじゃ」

市は、小刀を抜いてプツリと髪を切ると、

文箱から桐の箱を出して、姉妹の前に置く。

その箱のふたを開けると、中には、

姉妹それぞれの好みの帯を使って縫った、袋が出てくる。

死に際の態度笑顔が美しい  竹森雀舎

  「『浮島』・『空蝉』・『東大寺』・・・そなたたちが好きだと言うた香が入っておる」

市はそれぞれの箱の中に、切った髪を三つに分けて置いた。

そして、茶々には浅井長政から賜った刀を、

初には、姉と妹をまとめて欲しいとの願いから、元結を形見に渡す。

そして、江には信長より賜った『天下布武』の印判を渡す。

市  「兄より賜りしものそなたには織田家の誇りを守ってもらいたい。

    ・・・そして、兄上様がそうであったように、そなたはそなたらしく、思うまま、

    生きたいように生きるがよい」

横波を受けて睡蓮の沈黙  森田律子

やがて、迎えの輿と一緒に石田三成(萩原聖人)がやってくる。

市は、三成に三人の娘を頼むと言うと、

自分は残ることを伝える。

  「秀吉に伝えるがよい。娘たちに指一本ふれることあらば、

    この市と、信長が許さぬとな!」

娘たちは泣き叫ぶが、市の覚悟は変わらない。

三人は家臣たちに、部屋から引きずり出されるしかなかった。

決心はダイヤモンドの堅さほど  高田美代子

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江は最期の力を振り絞って家臣の手から逃れると、

母の近くに駆け寄る。

江  「母上・・・」

市  「江・・・」

江  「私が死んだら・・・また母上に会えまするか?」

  「ああ、一番にあえるぞ」

  「では、その日を楽しみにいたしまする」

  「江・・・そなたは希望じゃ。それを忘れるで・・・ないぞ。

    江・・・母を許せよ・・・許せよ・・・」

市は、家臣に江を戻すように目で合図すると、情を断ち切るように、

ピシャリと扉を閉めさせる。

チクタクの音が私を追い抜いた  黒田忠昭

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死に装束に着替えた市の前に、勝家がやってくる。

勝家  「これで良かったのか?」

市  「はい・・・」

勝家  「まことなら、浅井長政殿と逝きたかったであろうにの・・・」

市  「共に命を散らせることを選んだ相手は、あなた様でございます」

勝家  「そうか・・・」

そう言うと、勝家は大刀を抜いて構える。

市は短刀を胸に当てる。

  「茶々・・・初・・・江・・・。さらばじゃ!」

一定の距離の間に深い溝  ふじのひろし

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輿に乗って城から出て行く三姉妹。

突然、大音響とともに天守閣が爆発する。

ふり返ると、天守閣は消え失せており、

激しい炎と煙が、吹き上げていた。

城のほうに駆け出そうとする三姉妹。

だが、四方から伸びる家臣の手が、その行く手を遮る。

その手を振り払って互いに抱き合い、

声を振り絞って号泣する茶々、初、江の三姉妹だった。

江  「(泣きながら)母上・・・!」

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      余呉湖夕景

夢でしか逢えなくなった父と母  中村 和

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