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川柳的逍遥 人の世の一家言
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らしいという尾鰭を付けて飛ぶ噂  新家完司

上野の西郷隆盛銅像 (彫刻 高村光雲 犬 後藤貞行)

「西郷どんの知っているようで知らないこと」

クイズ番組で一枚の写真(西郷隆盛)がでてきて「この人物は誰か」の問いに

解答者は、何舐めてるんじゃねぇと言わんばかりに「西郷隆盛」と答える。

これは番組上では正解。だが実際は間違い。

「西郷隆盛らしき人」と答えなければ
正解とは言えない。

写真嫌いの西郷を証明する実物の写真は一枚も
残っていないのだから。

隆盛の孫・西郷吉之助の証言しています。

「明治天皇は自身の写真を二度も祖父に送り、写真を撮って差し出すように

仰せられたのにもかかわらず、陛下のために命を捨てるつもりでいた祖父が

お答えしていないのだから、写真は存在する訳がない」と。

正解は一つだけだと譲らない  津田照子

西郷隆盛の上野の銅像は、西郷が没して21年後の明治31年12月8日

に除幕式が行われた、これに列席していた西郷の妻・イトは銅像を仰いで

「宿んしは こげんなお人じゃなかったこてぇ」と洩らした。

それが直線的に伝わり、顔が違うとの誤解のまま世間に広まった。

彫刻家・高村光雲はもちろん西郷の顔は知らない。
                              しげみち
光雲が銅像製作のモデルに
使った素材は「弟の従道」

「キョッソーネの描いた肖像画」と言われている。


犬を連れ、短い筒袖の着物姿で立っている。
          へこおび
無造作に結んだ兵児帯に短刀を
一本さし、煙草入れを下げた草履ばき。

この気取りのない格好は、多くの人を驚かせ、西郷の人気をさらに高めた。

しかし、イトは喜ばなかった。

本件のわけ知り顔を陽にさらす  藤井孝作

「うちの人は、たとえ私学校の若い人がきても、袴をつけて会う人だった。

それがあんな無作法な姿では、見て下さるかたに申し訳ない」

と西郷の品格を落としめる姿格好に不満をもらしたのである。

当初のモチーフは、「陸軍大将軍服着用の騎馬像」の計画であったという。

しかしこのプランは、朝敵になった西郷が名誉を回復したとはいえ、

陸軍大将の官位で騎馬像を建立すると西郷人気を復活させてしまうという

理由から製造にかかる直前に沙汰止みになり、
最終的に現在の姿になった。

めんどうになってきたのでみな許す  橋倉久美子

そこには西郷の高い人気に、反政府的気運を醸成しかねない動向を逸らし、

西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害なイメージ

民衆に定着させようとする、政治的な意図が働いていたと見られている。


ところが考えてみれば、西南戦争終結から20年余りが経ったとはいえ、

庶民の西郷への人気は、絶大であったことを逆に証明したのだった。

ノックしてから三十七年待たされる  河村啓子


鹿児島の西郷像  高さ5.2メートル (彫刻 安藤照)

上野の西郷像から39年後の昭和12年に建立した鹿児島の西郷像は、

陸軍大将の正装を着用している。

すでに完成当時は、軍服姿に
クレームがつく時代ではなくなっていた。

モデルは西郷の孫・隆治と言われ、西郷に最も近似した顔つきであるという。

実際の顔が不明というのに、「最も近似した顔」というのも可笑しな話だが、

西郷の顔を知るものが、よく似ていると言うのだからそうなのだろう。

うんうんうん決して反対はしない  立蔵信子


山形県酒田『南洲神社』の西郷座像

南洲神社は、南洲と呼ばれた西郷隆盛を祀る神社で、鹿児島県下竜尾町、

沖永良部島、宮崎県都城市、山形県酒田市、全国に4箇所存在する。

戊辰戦争において庄内藩は、官軍に激しく抵抗したため重い処分を覚悟

していたが、西郷の公明正大な極めて寛大な処分となった。

この徳に感じいった庄内藩の菅実秀(臥牛)は、明治8年自ら旧庄内藩士と

共に鹿児島を訪れ、西郷に感謝するとともに敬愛の教えを受けた。

鹿児島県武西郷屋敷にある両者が、凛と向き合う座像は、その時の

「徳の交わり」
を表したものである。

後にその教えを受けた人達の手記を集め『南洲翁遺訓』を発刊した。

パッチワークのひとつに亡母を語り継ぐ 田中博造


沖永良部島で犬と散歩する西郷隆盛像

沖永良部島は鹿児島県に属しているが、鹿児島から約450km、沖縄から

約60kmにある離島である。

西郷は薩摩藩の時の権力者・島津久光との確執から、この沖永良部島へと

流され、1年7ヶ月に及ぶ牢獄生活を余儀なくされた。

そのため、実際には犬と散歩など出来る環境にはなかったわけで、牢獄での

生活に体重は半分ほどに落ち、無残に痩せ細り生きる希望も失いかけていた

西郷だが、島民の暖かさに救われた。それを表すように銅像の西郷の表情は、

ふくよかで優し気で、この地の人の暖かさがにじみださている。

そして島に滞在中は、島民たちに世話になったお返しにと、西郷は島の若者に

聖賢の
道について教えたり、飢餓の時のために豊作時に穀物を高倉に保存して

おき、凶作時に皆に支給する「社倉法」なども伝授した、と伝わる。

この時に、西郷のモットーとなる「敬天愛人」の心を体得したと伝わる。

蟻と目が合った蔑んだ目だった  大海幸生

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補助線はリハビリ中でございます  河村啓子


   国生みの絵

伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二神は淤能碁呂島(おのごろじま)
に続き、大八島国を産み、山の神、海の神など様々な神を産んだ。

しかし、火の神を産んだ時、イザナミは火傷を負い死んでしまうのです。

「女尊男卑」

一般に日本は男尊女卑で、欧米の文化は女性を大切にするというイメージ

あるが、それは誤解でむしろ逆なのである。

伝統的に欧米は徹底した男尊女卑で、
逆に日本では女性の地位が高かった。

戦後、女性と靴下が強くなったといわれるが、今日の状況はもともと伝統

に高い女性の地位が、戦後欧米から入ってきた男女平等やフェミニズム

など
のイデオロギーが加わって一層高くなり、もはや「女尊男卑」とでも

言ってい
いものになっている。

食べ尽した男をゴミに出しました  渡辺富子 

旧約聖書によれば、イヴはアダムのあばら骨から「アダムを慰める」もの

として神が
創ったとされる。

ここには男性の絶対優位と女性の絶対服従が示されている。


その意味では、キリスト教国は基本的に男尊女卑の文化を持っている。

実際、今
でも夫が財布の紐を握っていて、妻は夫から生活費をもらうのが

普通で
妻の職業従事の自由が認められたのは、1965年のこと。

今でも家のインテリアや壁の色は、夫が決めるのが常識という。

このような文化が背景にあったからこそ、女性の自由の獲得をスローガン

にウーマンリブ運動やフェミニズム運動
が起こったのは頷けるだろう。

芥川の鼻読んでから横道へ  小林満寿夫

神が天の沼矛で海原をかき回す絵
                                     いざなぎのみこと
これの対して日本の場合は、「古事記」に出てくる男神・伊邪那岐尊
    いざなみのみこと
女神・
伊邪那美命は平等な存在である。

その2人の神が協力して「国を生む」という
話になっている。

そこにはどちらが上でどちらが下かといった上下関係、支配・
服従関係

もない。そればかりではない。

産後の肥立ちが悪くて亡くなった妻を
追いかけて黄泉の国に行き、

「帰ってきてくれ」と懇願する夫の伊邪那岐尊に
伊邪那美命は、

黄泉の国の神と相談してみるけれども、

「その間、私をご覧に
なってはなりません」と述べる。

あまりにも帰りが遅いので伊邪那岐尊はつい
中を覗いてしまう。

死後の醜い姿を見られた伊邪那美命は「恥をかかせた」
と言って

鬼の形相になり追いかけてくる。

夫の不実を鬼の形相でなじる現代の
妻の原型が、ここに示されている。

耳鍛え妻の小言に耐えてます  上田 仁

さて次は、家庭の実態をとらえたサラリーマン川柳を少し覗いてみよう。

「寒いよね ママ目で合図 動くパパ」

「”めし””ふろ”に 下さいついて 妻動く」

「力関係 躾けてないのに 分かる犬」

「ゴミだし日 捨てにいかねば 捨てられる」

「円満は 見ざる言わざる 逆らわず」

「ぼくの嫁 国産なのに 毒がある」

その顔はトイレ掃除をサボったな  ふじのひろし

平安時代中期に飛んでみる。
         おおえなりひら
文章博士である大江匡衡が妻で歌人の赤染衛門との
間で交わした歌がある。

「果かなくも 思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の 乳母せむとは」匡衡

乳は掛詞で知識のこと。

要するに自分の家に乳母を雇ったが、その乳母に乳が
出ない。

インテリの博士の家の乳母をするのに、

「それしきの知識がなくていいのか」
と嘆いてみせた。

これに対して妻の赤染衛門は、次のように返した。


「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳に附けて あらずばかりぞ」

そんなことどうでもいいではありませんか。

大和心すなわち美しいものを美しい
と感じる心、

情緒があれば十分ではありませんか、と
夫の主張を跳ね除けたのである。

これが平安時代の家庭における力
関係の実態である。

あの世ではあなたと出会いませぬよう  楠本晃朗

次は古典落語「芝浜」から。

亭主はだいたいボンクラ、女房はしっかりものというのが相場だ。

呑兵衛の亭主がある夜、大金の入った財布を拾う。

その金をあてにして亭主が
働かなくなることを心配した女房は、

「あれは夢だった」のだと嘘をつく。


亭主は「怠け心からそんな夢を見るようにまでなったのか」と自分を責め、

心を入れ替え
て働くようになった亭主はその結果、店を持つほどになる。

三年後の大晦日の
夜、女房は、「あれは夢ではなく、本当のことだった、

これがその時の財布だよ、
嘘をついて悪かった」と謝る。

「いやお前のお陰でこうして店を持てるようになった」

亭主は女房に感謝するお話。

ここにも妻が主導権を握り、夫をリードする姿が垣間見えるのである。


くしゃみ二つ言った言わない物忘れ  山本昌乃


  明治時代の女性

はたして明治時代はどうだったか。

家制度で女性は家に縛られ、自由がなかったのでは、という指摘がある。

しかしわが国の家制度はヨーロッパの家父長制と違って戸主の権限は

もともと
弱いもので、その分、女性の地位も高かった。

明治期、日本に滞在した英国の写真家・ハーバート・ポンティングは、

日本の家
庭の様子を次のように語っている。

「日本の妻は独裁者だが、大変利口な独裁者である。

妻は実際に支配している
ように見えないところまで支配しているが、

それは極めて巧妙に行っているの
で、夫は自分が手綱を握っていると

思っている。妻が導くままに従っているのを
知らないのだ」

ポンティングさんよく観察していらっしゃる。

ぬるま湯にどっぷりつかるのも処世  丸山不染

『古事記』によれば、大八島は次の順で生まれたそうです。

    淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
    伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
    隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
    筑紫島(つくしのしま):九州
    伊伎島(いきのしま):壱岐島
    津島(つしま):対馬
    佐度島(さどのしま):佐渡島
    大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州

春ですね笑い袋の紐を解く  須磨活恵

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踊りの輪にあえて残留する覚悟  竹内いそこ


源氏物語を執筆する紫式部(月岡芳年『月百姿』)

「紫式部こぼればなし」

紫式部が生まれたのは973年前後。幼い頃から漢文の覚えが早いなど優

れた才能を見せていたようです。年齢が20歳を過ぎたころ、父・為時が

越前
守となり父とともに越前に赴くも、1年余りで単身で帰京する。

その後親子
ほど歳の離れた藤原宣孝(宣孝50歳)と結婚。結婚後すぐに賢子

という娘
を出産すると間を置かず、夫の宣孝が死去してしまう。紫式部が

27歳のこと
で、夫との死別の悲しみを癒すため源氏物語を書き始めたと

いう。思えば結構、遅咲きの作者だが1005年頃には、時の天皇はじ


多くの公達たちや女房たちの愛読書になった。


撫でて下さい耳たぶが冷めるまで  岡谷 樹
                           しょうし
丁度この頃に、紫式部は、藤原道長の娘・彰子に仕える女房になる。

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の歌に

見る
ように自信家の道長は、彰子を12歳で一条天皇の後宮に入れている。

彰子が男の子を産んでくれればその子は皇太子になり、やがて天皇になる。

そして自分は天皇の外戚になる。ところが時の一条天皇は、数多い後宮の
                      ていし
妃たちのなかで、藤原道隆の娘・定子という年上で才色兼備の皇后を
熱愛。

しかも定子のところには、才気煥発で随筆を書ける清少納言がいるから、


面白い話を聞きたい公達たちは、天皇と一緒にやってきて、定子のサロンは

大いに賑わった。

ありふれた話でいいのもう少し  阪本こみち

焦った道長は、定子に負けないように彰子のサロンを盛り立てるため、向こ

が随筆ならこちらは小説でいこうと、源氏物語の評判も上々、名前も売れ

めていた紫式部を彰子の教育係として採用した。

平安中期といえば、女流文学の花が咲き誇った時代である。権力者たちは、

自分の娘などに教養をつけさせるために、文学に秀でた女官を集めサロン

を形成。いわばカルチャースクールの開講である。これにより教師の女官

たちは、切磋琢磨して高質な作品を作り上げていくのである。こうして紫

式部
は宮仕えをしながら「紫式部日記」を著し、源氏物語を書き続けた。

ちゃんと名はあります花も咲かせます  八田灯子

一条天皇は文芸に深い関心を示し、音楽にも堪能で本を読むことが好きな

人であった。紫式部の「源氏物語」を
楽しみに、しだいに彰子のサロンに

足を運ぶようになる。その効果もあって
彰子が成熟すると一条天皇の元へ

入内し、やがて敦成親王を生む。すべてが道長の
思惑通り、彰子の生んだ

後一条天皇の即位を実現して、道長は摂政となる。


この結果、紫式部は不要の存在になる。紫式部は敏感な人だから、道長が

自分を必要としなくなったことを察したのだろう。プライドの高い彼女は、

「41
巻ー幻」を執筆した後、読者の夢を奪うように光源氏を雲隠れさせ、

数年後に
再び登場させると、たちまち出家させ、殺してしまう。

紫式部もこの頃に出家している。

紫式部は1014年前後に死去、享
年40歳前後であった。

無理ですよ昨日はやって来ないから  太下和子

【エピソード】

清少納言と紫式部とのライバル関係は、後世おもしろ可笑しく喧伝されて
いるが、実際のところ、紫式部が中宮・彰子に伺候した時期と、清少納言
が宮仕えした時期に、2、3年のずれがあり2人に面識はないはず。

(また1000年に中宮定子が出産時に亡くなって、まもなく、清少納言
は宮仕えを辞めている)


うなぎの寝床で法螺貝吹いてます  和田洋子

清少納言の性格を紫式部は、「紫式部日記」に次のように書いている。
「清少納言は。高慢な顔をして、まことにいやな女です。
利巧ぶって、いかにも学問に優れているようなことを、言っているけれ
ども、よく見れば、まだまだ不充分な者です。それなのに、何かにつけ、
人とは違うところを表そうとばかりする。そんな人は必ず、ぼろを出し、
やがては、ろくでもないことになるでしょう・・・」


実弾を一発隠していた日記  くんじろう

紫式部と同じ「彰子サロン」の所属する 和泉式部は、平安女流文学者中、
美人度、好色度ナンバー1で、関白・道長から大勢の前で、「浮かれ女」
と揶揄された女性。人妻であるにも関わらず複数の皇子とのスキャンダル
に始まり、公家僧侶から牛飼に至るまで、言い寄る男を「もののあわれ」
で、包み込んだという。  (
そんな中のエピソード)
和泉式部の二番目の夫は藤原保昌
保昌は、「新しい情夫はつくるなよ」
と意見したものの、和泉はどこ吹く風で男を漁りまくり。それでも保昌は
根っからお人好し、洛内外の境の九条辺りまで迎えにいったとか・・・。
とにかく、活発な和泉式部なのだ。

≪不倫こそ文化≫と言いたげな、平安のとんだ女丈夫であった。

トリセツが欲しい不倫の進め方  松下和三郎

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近頃は顎の線まで崩れだす  山本昌乃


薫と僧都と小君

法の師と たづぬる道を しるべにて 思はぬ山に 踏み惑ふかな  

横川の僧都を、仏道や心の師と仰いで訪ねてきた道ですが、
思いがけない恋の山道に迷い込んでしまったようです。

「巻の54 【夢浮橋】」

明石中宮が言っていた浮舟生存の話を確かめるため、

浮舟の弟である少年の小君を連れて、横川の僧都を訪ねた。

そこで薫は、僧都から浮舟の様子を聞き、浮舟に違いないと思った薫は、

「私が心を寄せていた人で、突然、消息を絶ち訳も判らず葬儀を

   してしまった人がいます。それが尼君のお世話になっている人です。

   きちんと確認できたら、母親はじめ家族に合わせてあげたいのです」

と言う。


恋してるうちに雨は本降りに  森田律子

それを聞いた僧都は、深く考えず浮舟を出家させてしまったことを悔む。

が、引き合わせて欲しいという薫の要望は、頑として受け入れなかった。

一度出家した者を破壊者(戒律を破る者)にする訳にはいかないからである。

そこで薫は、僧都に事情を記した手紙を書いてもらい、

「お前の姉様は、死んだと諦めていたのだが、生きておられたんだよ。

    姉様は他の人には、知られたくないと思われているようだから、

   お前が行って、この手紙を渡してきておくれ」

と言って手紙を
小君に託す。

翌日、小君は僧都と薫の二つの手紙を持って小野の庵を訪ねた。

夜桜の優しさごっこ受け入れる  前中知栄


浮舟への手紙を書く僧都

簾越しに弟の姿を見た浮舟は、動揺をしていた。

門前にいる小君は、自殺の決心をした夜にも、恋しいと思った弟である。

一緒に住んでいた頃は、まだ腕白で、両親の愛に驕って憎らしかったが、

宇治へもよく遊びにきて、姉弟の愛を感じ合うようになっていた。

逢いたい、会って、何よりも母がどうしているのかと聞きたい。

他の人々のことについては、誰からともなく噂を耳にはするが、

母の消息は知ることができなかった。

それを思うと、目の前にいる弟を見ていると、何とも悲しくなり、

浮舟は涙をおさえられなかった。

左手の手袋ばかり見失う  三村一子

尼君は小君と話すように促すが、浮舟は首を横に振らない。

本心は弟に母の様子を聞きたくてたまらないが、

出家した身だからと
強く自制して「人違いだ」と言い張って、

顔を見せることすら拒み続けた。


仕方なく尼君が対応に出て、僧都の手紙を受け取る。

薫からの手紙は受け取るものの、浮舟は見ようとしないので、

尼君が開いて浮舟に手渡した。

紙の匂いは昔のままで芳ばしく、薫の懐かしい筆跡に涙が零れる。

のぞき見をして風流好きな尼君は、美しいものと思った。

僧都の方の手紙には「薫の執着心を取り除いてあげなさい」とある。

過去のことを知らない尼君は、その手紙を見て、薄々事情を知る。

耳掃除ばかりしている春の欝  笠嶋恵美子    


夢見心地に姉を待つ小君

泣いてひれ伏したままの浮舟の様子に尼君は困って、

「折角来てくれた弟さんに どう返事をすればいいのです」

と浮舟を責めると


「今は気持ちも落ち着かず、心がかき乱されています。


  それに昔のことを思い巡らせても、思い当たることがありません。

  落ち着きましたら手紙の意味が分かることもあるでしょう。

  ひょっとして手紙の受け取り人が、違っていたりしては迷惑なことです。

  このまま手紙を持って帰らせてください」

と浮舟は言い、手紙は拡げたままで尼君のほうへ押し返した。

ひらり来てひらりと去った冬螢  合田瑠美子

尼君はふたたび小君の話し相手に出て、

「物怪の仕業でしょうかね。お姉様はずっと御病気続きでね。

   わざわざご主人様も近くに来ていらっしゃるというのに、

   碌な返事もできずお詫びのしかたもないのですよ」と言う。

小君は姉に再会できる喜びを心に抱いて来たが、落胆して帰ることにした。

薫は小君の帰りを今か今かと待っていたが、

しょげて帰ってきた小君の様子
から、ことを察した薫は、

文を出さねばよかったと気落ちし、
自分がかつてそうしたように、

誰かが浮舟をかくまっているのではないか
と思い悩むのだった。

少しおしゃまなフライングして青蜜柑 美馬りゅうこ

【辞典】 最後に

「夢浮橋」は、源氏物語最終話で宇治十帖の締めくくりの巻になります。
この宇治と言う地名は、
<わがいほは 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と
ひとはいふなり>
という
歌を喜撰法師が詠んで以来、「憂し」を連想させる
地として知られるようになります。
その憂愁のイメージはこの宇治十帖全体
特に政治の内紛に巻き込まれ
没落した八宮や、いつまでも思い悩む薫の心の
様にリンクして物語に重量感
を与えています。また、この物語は、この後に
どのようなことが起こるのかを明確
には示さず、読者の想像にゆだねる形の
終わり方をしています。
それを「開けたままの終結」と呼ぶますが夢浮橋は
作者の紫式部が意図
して「開けたままの終結」にしたと伝えられています。

トクトクトクはーといつしか琥珀色  雨森茂樹

源氏物語はこれにて終結しました。次は話の種などを書いていきたいと
思っています。これからも続き、お付き合いよろしくお願いいたします。

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金不足で戻されてきたわたし  桑原伸吉


 庵の浮舟と稲を刈る人

身を投げし 涙の川の 早き瀬を しがらみかけて 誰かとどめし

涙からできたような流れのはやい川に身を投げた私。
誰がその流れを止めて、私を助けたのでしょうか。

「巻の53 【手習】」
     よかわ  そうず
比叡の横川の僧都の母尼妹尼、弟子の阿闍梨ら一行が、大和の初瀬詣の

帰る途中の奈良坂という山を越したころ母尼が病気になった。

一行はこのまま京まで行くのは無理だと判断し、

近くの宇治の院に宿泊することにした。


そこで異様な気配を感じた阿闍梨が、人の入れそうもない庭の方を見回り

に行くと、気味の悪い大木の下の辺りで、揺れる白いものが目に入った。


「幽鬼か神か狐か木精か、高僧のおいでになる前で、

   正体を隠すことはできないはずだ、名を言ってごらん、名を」 

と言い、阿闍梨が着物を引くと、その者は襟に顔を隠して泣きはじめた。

出生はどこの星かと問いかける  油谷克己


阿闍梨らと白い着物の女

付き添いは誰もおらず、打ちひしがれているその者は、

若くて美しく、白い綾の一重を着て、紅の袴をはき、薫香の匂いも芳しく、

気品も高そうな美しい女であった。

尼君は女房に言いつけ自身の室へ、その女を抱き入れさせた。

女は、依然失心状態が続いていて、衰弱もひどかった。

「この人を死なせてはいけません。加持をしてください」

と尼君は言い、僧都の妹の尼は、死んだ自分の娘が帰って来たように思った。

あの夜の冬桜なり女なり  徳山泰子

尼君は親の病よりも、この人をどんなにしても生かせたいと、

親身に付き添い夢中で介抱をした。

知らない人ではあったが、容貌の非常に美しい人だから、

このまま死なせてしまうのも惜しいと、女房たちも皆、必死に世話をした。

それでも時々目をあけて空を見つめる眼を見ると、いつも涙を流している。

その黙りこくって悲しげな女の様子に尼君が、

「黙って泣いてばかりいる貴方を見ているのは、こちらも悲しい。

 宿縁があればこそこうして出逢うことになったのだから、

    少しでも何かものを言ってくれないかね」

懇願するように言うと、病人はやっと、

「生きることができましても私はもうこの世にいらない人間でございます。

   人に見せないで、この川へ落としてしまってください」 

と低い声で言う。


心にも無い返事うっすらと雪  山本早苗

女は「川へ落としてほしい」と言った一言以外、その後は何も言わない。

尼君にはそれが物足りなかったが、いつまでも起き上がれそうにもなく、

このまま衰弱して死んでしまうのではないかと、無関心にはおれなかった。

宇治で初めから祈らせていた阿闍梨に、
以来ずっと尼君は祈祷をさせた。

早く健康を戻して家族として、暮らしたいと尼君は願っているのである。

やがて大尼君の病気も癒え、方角の障りもなくなったことから、

怪異めいた場所に
長居するのもよくないので、僧都の一行は、

比叡の坂本の小野へ帰ることにした。


こんなにも無口が似合う春霞  清水すみれ

小野までは長い道中だったが、夜ふけになって草庵に帰り着いた。

身もとの知れない若い女の病人を伴って来たというようなことは、

僧として
噂になってはいけないので、尼君は同行した人達に口留めをした。

もし捜しに来る人があったならばと思うことさえ、尼君を不安にしていた。

どうしてあのような田舎に、この人が零されたように落ちていたのであろう。

初瀬へでも参詣した人が、途中で病気になったのを継母のような人が、

悪意で見捨てたのであろうかと、そんな想像もするのだった。

価値観のちがう女とたそがれる  桜 風子

小野の草庵に帰ってからも皆、女を懸命に介抱した。

救われた女には物の怪に取りついており、阿闍梨が交替で加持をした。

物の怪が女の身体を去る時に、僧都の弟子に取りついて告白を始めた。

物の怪の告白によれば、美女たちが住む家に住みついて、一人殺した後に、

死にたいという女がまた一人いたので、取りついたということであった。

聞くところを察すると、どうも大君と浮舟のことのようである。

一人殺したというのは、おそらく大君で、もう1人は浮舟のことである。

幽霊にいつでもなれる洗い髪  佐藤美はる

その甲斐あって取り憑いていた物の怪も退散し、

意識を取り戻した浮舟は、死ぬことも叶わぬ自分の身の不運を嘆き、

読経などの勤行や、書をつれづれにしたためる「手習い」などをして

日々を過しながら、ひたすら出家したいと願った。

しかし、妹尼は浮舟の若さゆえに首を縦に振らない。

そんなこと聞くから愛が風邪を引く  河村啓子 


 出家をした浮舟

九月になって尼君たちは、ふたたび初瀬へ詣ることにした。

今まで苦しくも、心細くも死んだ娘のことばかりを考えていた自分に、

あのような可憐な姫子と知り合えた縁は、、観音のご利益であると信じ、

お礼詣りをしようと思い立ったのである。

そんな尼君らの留守の間に、浮舟は妹尼の亡くなった娘婿である中将から、

またまた疎ましく恋の告白を受ける。

中将と浮舟が結ばれることを、尼君もそうなればと願っている縁だったが、

思い出すのも辛い
恋の行き違いから、このように漂泊する身になった自分

なのだから、それを恥じて
浮舟は中将の告白を無視し続けた。

そんなある日、浮舟は妹尼らの不在の折に立ち寄った横川の僧都に懇願して、

出家をしてしまう。

帰ってきた尼君は嘆き悲しんだが、すべてはあとの祭りだった。

鋭角に座り直して来た敵意  都司 豊

年が明け、浮舟の手習いは、仏勤めの合い間にも続けていた。

そんな所へ法要のための衣装を縫って欲しいという仕事が庵に寄せられた。

薫が主催する浮舟の一周忌に使う衣装である。

浮舟も手伝うように言われるが、自分のための仕事はできるわけがない。

その一周忌の仏事を終え、薫は挨拶かたがた中宮の御殿を訪ね、

儚い結末になった浮舟のことを薫は偲び、中宮と話しこんだ。

そんな中、薫が可哀想に思った中宮は、僧都から聞いた話を思い出し、

小宰相にそっと、


「薫の話を聞いていると今も、あの人のことを恋しがっている。

   それが可哀想で、ついあの話をしてしまうところだったけれど、

   私の口からは気づつなくて、言ってあげることができませんでした。

   あなたも僧都の話を聞いていたのだから、ほかの話のついでに

   僧都の言っていたことを話してあげなさい」

と言う。これは匂宮に関わりがあるために、

中宮自らは言わなかったのだと小宰相は思った。


茄子焼いて聞いてる主語のない話  山本昌乃

小宰相は世間話などをする合間に薫に、僧都が残していった話を始めた。

「横川で僧都が山の庵に立ち寄った折、女性を一人尼になすったそうです。

   患っている間も、皆若さを惜しんで尼にはさせなかったのだそうですが、

   その女性が強く願うので、出家させたとその僧都は言っておりました」

場所や時期をその時の様子を考えると皆、符合することばかり。

薫は、これは浮舟が生きていることではないかと推理した。

死んでしまったと思っていた人が、漂ってこの世にまだいるかも知れない。

そんなことがあるはずはないと思う反面、自殺などできる強い性質では

なかったことを考えると、話のように人に助けられ生きているのが

性格に似合っていると思う、薫だった。

生きていてくれと言われて生きている  永井 尚

薫は突然の話に驚くとともに、比叡詣の折に横川を訪ねてみることにした。

母とか弟とかには知らせず、供には浮舟の異父弟を連れて行くことにした。

都合ですぐに尼の家を訪ねることになるかもしれない。

夢の再会を遂げるその時に、気兼ねのない者がいる方が良いと思ったのだ。

その人と分かった後で、そこの尼たちから予期せぬ事実を聞かされることが

あっては悲しいだろうなどと、薫はいろいろと配慮をめぐらせるのだった。

手櫛にてさきおとといのもつれ髪  下谷憲子

薫の配慮は、匂宮のことでもそうである。

浮舟が生きてみつかり、宮がまだあの関係を続けようとしているのであれば、

どんなにあの人を自分が愛していても、もうあの時のまま死んだ人と思うこと

にしてしまおう、生死の線が隔てた二人と思い、いつかは黄色の泉の辺りで

風の吹き寄せるままに逢い得ることがあるかも知れぬのを待とう、

愛人として
取り返すために、心を使うことはしないほうがよかろうなどと

思う薫なのである。


落書きが美しいすぎてまだ消せぬ  桜 風子

ところが、今の課せられた境遇の中で浮舟の考え方は違った。

あの方(匂宮)のために自分はこうした漂泊の身になった。

変わらぬ恋を告げられたのを、なぜ嬉しく思ったのかと疑われてならない。

匂宮への愛も恋もさめ果てた気がする。

はじめから淡いながらも、変わらぬ愛を持ってくれた薫のことは、

あの時、その時と、その人についてのいろいろの場合が思い出されて、

匂宮に対する思いとは、比較にならぬ深い愛を覚える浮舟なのである。

もう少し濁ると僕も棲めるのに  薮内直人

【辞典』  本物の高僧

これまでの巻の源氏物語に登場する僧侶の殆どは、軽口であったり、人情味
がなかったりと否定的なイメージで語られてきた。しかしこのラスト二巻目
にきて、やっと僧侶らしい人徳を備えた人物が登場する。それが横川の僧都
である。何より心の深さが違う。源氏物語の登場人物の多くは世間の評判を
気にして、悪い噂が立たないよう行動しているが、この横川の僧都は違った。
浮舟の加持祈祷のため山を下りるとき、弟子が朝廷からの要請にも山から出
なかったことを引き合いに出し「何を言われるかわかりません」と進言する
が、横川の僧都は「言わせておけ」とお構いなしに素性も判らぬ浮舟を助け
に行くのである。
実はこの横川の僧都には実在のモデルがいたと言われている。
後の法然や親鸞にも大きな影響を与えたとされる源信である。
かれは平安時代中期の天台宗の僧侶で、紫式部と同時期に生きた人物である。

山吹の花で野良犬を染める  井上一筒

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