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川柳的逍遥 人の世の一家言
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らしいという尾鰭を付けて飛ぶ噂  新家完司

上野の西郷隆盛銅像 (彫刻 高村光雲 犬 後藤貞行)

「西郷どんの知っているようで知らないこと」

クイズ番組で一枚の写真(西郷隆盛)がでてきて「この人物は誰か」の問いに

解答者は、何舐めてるんじゃねぇと言わんばかりに「西郷隆盛」と答える。

これは番組上では正解。だが実際は間違い。

「西郷隆盛らしき人」と答えなければ
正解とは言えない。

写真嫌いの西郷を証明する実物の写真は一枚も
残っていないのだから。

隆盛の孫・西郷吉之助の証言しています。

「明治天皇は自身の写真を二度も祖父に送り、写真を撮って差し出すように

仰せられたのにもかかわらず、陛下のために命を捨てるつもりでいた祖父が

お答えしていないのだから、写真は存在する訳がない」と。

正解は一つだけだと譲らない  津田照子

西郷隆盛の上野の銅像は、西郷が没して21年後の明治31年12月8日

に除幕式が行われた、これに列席していた西郷の妻・イトは銅像を仰いで

「宿んしは こげんなお人じゃなかったこてぇ」と洩らした。

それが直線的に伝わり、顔が違うとの誤解のまま世間に広まった。

彫刻家・高村光雲はもちろん西郷の顔は知らない。
                              しげみち
光雲が銅像製作のモデルに
使った素材は「弟の従道」

「キョッソーネの描いた肖像画」と言われている。


犬を連れ、短い筒袖の着物姿で立っている。
          へこおび
無造作に結んだ兵児帯に短刀を
一本さし、煙草入れを下げた草履ばき。

この気取りのない格好は、多くの人を驚かせ、西郷の人気をさらに高めた。

しかし、イトは喜ばなかった。

本件のわけ知り顔を陽にさらす  藤井孝作

「うちの人は、たとえ私学校の若い人がきても、袴をつけて会う人だった。

それがあんな無作法な姿では、見て下さるかたに申し訳ない」

と西郷の品格を落としめる姿格好に不満をもらしたのである。

当初のモチーフは、「陸軍大将軍服着用の騎馬像」の計画であったという。

しかしこのプランは、朝敵になった西郷が名誉を回復したとはいえ、

陸軍大将の官位で騎馬像を建立すると西郷人気を復活させてしまうという

理由から製造にかかる直前に沙汰止みになり、
最終的に現在の姿になった。

めんどうになってきたのでみな許す  橋倉久美子

そこには西郷の高い人気に、反政府的気運を醸成しかねない動向を逸らし、

西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害なイメージ

民衆に定着させようとする、政治的な意図が働いていたと見られている。


ところが考えてみれば、西南戦争終結から20年余りが経ったとはいえ、

庶民の西郷への人気は、絶大であったことを逆に証明したのだった。

ノックしてから三十七年待たされる  河村啓子


鹿児島の西郷像  高さ5.2メートル (彫刻 安藤照)

上野の西郷像から39年後の昭和12年に建立した鹿児島の西郷像は、

陸軍大将の正装を着用している。

すでに完成当時は、軍服姿に
クレームがつく時代ではなくなっていた。

モデルは西郷の孫・隆治と言われ、西郷に最も近似した顔つきであるという。

実際の顔が不明というのに、「最も近似した顔」というのも可笑しな話だが、

西郷の顔を知るものが、よく似ていると言うのだからそうなのだろう。

うんうんうん決して反対はしない  立蔵信子


山形県酒田『南洲神社』の西郷座像

南洲神社は、南洲と呼ばれた西郷隆盛を祀る神社で、鹿児島県下竜尾町、

沖永良部島、宮崎県都城市、山形県酒田市、全国に4箇所存在する。

戊辰戦争において庄内藩は、官軍に激しく抵抗したため重い処分を覚悟

していたが、西郷の公明正大な極めて寛大な処分となった。

この徳に感じいった庄内藩の菅実秀(臥牛)は、明治8年自ら旧庄内藩士と

共に鹿児島を訪れ、西郷に感謝するとともに敬愛の教えを受けた。

鹿児島県武西郷屋敷にある両者が、凛と向き合う座像は、その時の

「徳の交わり」
を表したものである。

後にその教えを受けた人達の手記を集め『南洲翁遺訓』を発刊した。

パッチワークのひとつに亡母を語り継ぐ 田中博造


沖永良部島で犬と散歩する西郷隆盛像

沖永良部島は鹿児島県に属しているが、鹿児島から約450km、沖縄から

約60kmにある離島である。

西郷は薩摩藩の時の権力者・島津久光との確執から、この沖永良部島へと

流され、1年7ヶ月に及ぶ牢獄生活を余儀なくされた。

そのため、実際には犬と散歩など出来る環境にはなかったわけで、牢獄での

生活に体重は半分ほどに落ち、無残に痩せ細り生きる希望も失いかけていた

西郷だが、島民の暖かさに救われた。それを表すように銅像の西郷の表情は、

ふくよかで優し気で、この地の人の暖かさがにじみださている。

そして島に滞在中は、島民たちに世話になったお返しにと、西郷は島の若者に

聖賢の
道について教えたり、飢餓の時のために豊作時に穀物を高倉に保存して

おき、凶作時に皆に支給する「社倉法」なども伝授した、と伝わる。

この時に、西郷のモットーとなる「敬天愛人」の心を体得したと伝わる。

蟻と目が合った蔑んだ目だった  大海幸生

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