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川柳的逍遥 人の世の一家言
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踊りの輪にあえて残留する覚悟  竹内いそこ


源氏物語を執筆する紫式部(月岡芳年『月百姿』)

「紫式部こぼればなし」

紫式部が生まれたのは973年前後。幼い頃から漢文の覚えが早いなど優

れた才能を見せていたようです。年齢が20歳を過ぎたころ、父・為時が

越前
守となり父とともに越前に赴くも、1年余りで単身で帰京する。

その後親子
ほど歳の離れた藤原宣孝(宣孝50歳)と結婚。結婚後すぐに賢子

という娘
を出産すると間を置かず、夫の宣孝が死去してしまう。紫式部が

27歳のこと
で、夫との死別の悲しみを癒すため源氏物語を書き始めたと

いう。思えば結構、遅咲きの作者だが1005年頃には、時の天皇はじ


多くの公達たちや女房たちの愛読書になった。


撫でて下さい耳たぶが冷めるまで  岡谷 樹
                           しょうし
丁度この頃に、紫式部は、藤原道長の娘・彰子に仕える女房になる。

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の歌に

見る
ように自信家の道長は、彰子を12歳で一条天皇の後宮に入れている。

彰子が男の子を産んでくれればその子は皇太子になり、やがて天皇になる。

そして自分は天皇の外戚になる。ところが時の一条天皇は、数多い後宮の
                      ていし
妃たちのなかで、藤原道隆の娘・定子という年上で才色兼備の皇后を
熱愛。

しかも定子のところには、才気煥発で随筆を書ける清少納言がいるから、


面白い話を聞きたい公達たちは、天皇と一緒にやってきて、定子のサロンは

大いに賑わった。

ありふれた話でいいのもう少し  阪本こみち

焦った道長は、定子に負けないように彰子のサロンを盛り立てるため、向こ

が随筆ならこちらは小説でいこうと、源氏物語の評判も上々、名前も売れ

めていた紫式部を彰子の教育係として採用した。

平安中期といえば、女流文学の花が咲き誇った時代である。権力者たちは、

自分の娘などに教養をつけさせるために、文学に秀でた女官を集めサロン

を形成。いわばカルチャースクールの開講である。これにより教師の女官

たちは、切磋琢磨して高質な作品を作り上げていくのである。こうして紫

式部
は宮仕えをしながら「紫式部日記」を著し、源氏物語を書き続けた。

ちゃんと名はあります花も咲かせます  八田灯子

一条天皇は文芸に深い関心を示し、音楽にも堪能で本を読むことが好きな

人であった。紫式部の「源氏物語」を
楽しみに、しだいに彰子のサロンに

足を運ぶようになる。その効果もあって
彰子が成熟すると一条天皇の元へ

入内し、やがて敦成親王を生む。すべてが道長の
思惑通り、彰子の生んだ

後一条天皇の即位を実現して、道長は摂政となる。


この結果、紫式部は不要の存在になる。紫式部は敏感な人だから、道長が

自分を必要としなくなったことを察したのだろう。プライドの高い彼女は、

「41
巻ー幻」を執筆した後、読者の夢を奪うように光源氏を雲隠れさせ、

数年後に
再び登場させると、たちまち出家させ、殺してしまう。

紫式部もこの頃に出家している。

紫式部は1014年前後に死去、享
年40歳前後であった。

無理ですよ昨日はやって来ないから  太下和子

【エピソード】

清少納言と紫式部とのライバル関係は、後世おもしろ可笑しく喧伝されて
いるが、実際のところ、紫式部が中宮・彰子に伺候した時期と、清少納言
が宮仕えした時期に、2、3年のずれがあり2人に面識はないはず。

(また1000年に中宮定子が出産時に亡くなって、まもなく、清少納言
は宮仕えを辞めている)


うなぎの寝床で法螺貝吹いてます  和田洋子

清少納言の性格を紫式部は、「紫式部日記」に次のように書いている。
「清少納言は。高慢な顔をして、まことにいやな女です。
利巧ぶって、いかにも学問に優れているようなことを、言っているけれ
ども、よく見れば、まだまだ不充分な者です。それなのに、何かにつけ、
人とは違うところを表そうとばかりする。そんな人は必ず、ぼろを出し、
やがては、ろくでもないことになるでしょう・・・」


実弾を一発隠していた日記  くんじろう

紫式部と同じ「彰子サロン」の所属する 和泉式部は、平安女流文学者中、
美人度、好色度ナンバー1で、関白・道長から大勢の前で、「浮かれ女」
と揶揄された女性。人妻であるにも関わらず複数の皇子とのスキャンダル
に始まり、公家僧侶から牛飼に至るまで、言い寄る男を「もののあわれ」
で、包み込んだという。  (
そんな中のエピソード)
和泉式部の二番目の夫は藤原保昌
保昌は、「新しい情夫はつくるなよ」
と意見したものの、和泉はどこ吹く風で男を漁りまくり。それでも保昌は
根っからお人好し、洛内外の境の九条辺りまで迎えにいったとか・・・。
とにかく、活発な和泉式部なのだ。

≪不倫こそ文化≫と言いたげな、平安のとんだ女丈夫であった。

トリセツが欲しい不倫の進め方  松下和三郎

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