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川柳的逍遥 人の世の一家言
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レレレレレ浴びて三年坂下る  森田律子
 

  
           遊 楽 図 屏 風     (桃山期  雲谷等顔画)
左隻「武家の鷹狩」/  右隻「庶民の花見」が描かれている。


「鷹狩」は放鷹とこ鷹野とも呼ばれ、特別に飼いならした鷹を拳に乗せ、
鷹狩場で放して、野鳥を捕まえる行事であり、武士の嗜みのひとつであ
った。その歴史は古く、大和朝廷時代からすでに行われていたという。
天正一八年(1590)関東に居を定めた徳川家康は、生涯に千回以上
の鷹狩りを行ったというが、鷹狩りにことよせて、未だ不安定な幕藩体
制固めとして、大名領の情勢を探り、領地の要所要所に、御殿や茶屋
を設置して脆弱な体制基盤の拠点とし、併せて農民の暮らしを視察し、
また、同行する家臣の武術の訓練の度合いを把握する狙いも持っていた。


 
駿府城本丸前で鷹狩り姿の家康



8代将軍・徳川吉宗も崇敬する家康に倣い、次のように言っている。
武家の遊楽には「鷹狩」が何よりである。それは狩りの獲物の多少を
競うからではない。いまのように、戦もしらぬ泰平の世に、家来たちの
心を確かめ、知略を知ることにおいても大いに役立つ。又、それよりも
尚、百姓たちの暮らしぶりや、野良仕事の苦労を目の当たりに知ること
ができて、何よりのことじゃ」と。


改行をきれいに終える平和主義  清水すみれ


「徳山五兵衛」 吉宗に見初められた男③


将軍御狩りの日、暗殺の陰謀を防ぐべく徳川・吉宗の身代わりとなった
徳山五兵衛は、危うく取りとめた一命を静かに養っている。
五兵衛は、10も20も、年をとったような気持ちになっていた。
医師の手当てを続け、日毎に五兵衛の傷所は回復しつつあったが、何と
も言えぬ深い疲労が消えずにいた。そういえば、あの頑強な小沼治作も、
事件直後に突然、高熱を発して、10日ほども寝込んでしまっていた。
小沼はようやく床を払い、五兵衛の寝所へあらわれた。
「もはや、よいのか?」
「大丈夫にございます。誠にもってだらしない始末で」
「なんの、わしを見よ。まるで死人のように疲れておるわ」
「殿には、まったくもって、大変でございました」


毎日が出たとこ勝負今日の無事  掛川徹明


それにしても伴格之助が指揮する蜻蛉組の活躍は、見事なものだった。
その活躍の実態を、五兵衛は、知る由もなかったけれども、自分があの
日のあの場所で、曲者どもに確実に狙撃されるところまで事を運ぶまで
には、並々ならぬ苦心があったろう。
その後、伴格之助からの連絡は絶えたままであった。
「お役にたてた」その安堵と疲労は別にして、これまでの息詰まるよう
な日々に、「もう出会うこともあるまい」
そう思うときの寂しさは、一体どういうことなのか。


まあいいかそんな言葉で今日もまた  津田照子



         竹橋御門跡
 

 
 
そのときから、一年に近い過ぎたころ、伴格之助から呼び出しがあった。
その翌々日、五兵衛は単身、江戸城へ赴いた。むろん「御意簡牘(ぎょ
いかんとく)」を懐中にして竹橋御門から城の内へ入った。北詰橋御門
の濠端に、ずんぐりとした体つきの、禿頭の侍が五兵衛を待っていた。
伴格之助だ。それと見て五兵衛が近づいて行くと、伴格之助も気づき、
「おお」と言うように口を開け、小走りに近寄ってきた。
「伴格之助殿」
「徳山五兵衛殿…」
おもわず互いに呼び合い、手と手を握り合った。


枯れるならこんな日がいい秋日和  下谷憲子


伴格之助は、徳山五兵衛が、「かほどに窶れていようとは…」思わなか
ったらしい。
「うっかりしておりました。お駕籠をさしむけるのでござった」
「いや、なに…」
「お一人にて?」
「さようでござる」
「まことに、気づかぬことを」
「何の。もはや大丈夫にござる」
などと言葉を交わしながら、伴格之助は、吹上の庭の一隅にある上覧所
の別棟へ、五兵衛を導いた。


それはもう昨日のことで秋の雲  前中知栄


今の度の伴格之助との会見は、将軍・吉宗の意向であったが、
「殿は、五兵衛殿に会うことを楽しみにしておられたが、折悪しく風邪
 をこじらせ、発熱が去らず、病間に引きこもっておられる」 という。
「それは、大事ありませぬか?」
「いや、ご案じなさるな。ただの風邪でござるゆえ」
「はあ…」
「いずれにせよ。近きうちに、上様へお目通りなさることも、めずらし
 きことではなくなりましょう」
「それがしが…」
「さよう」
「と申されるは?」
「新しきお役目に就かれましょうゆえ」
と、微笑を浮かべて、格之助は言った。
「どのようなお役目に…?」
思い切って、五兵衛は問いかけてみた。
「いや、それはそれがしも存ぜぬこと。総ては上様のお胸の内にござる」


沈黙のあなたに合わす周波数  御堂美知子


「さて徳山殿」
「何でござる」
「御意簡牘の木札を、御所持でありましょうな」
「持っております」
「お返しを願いとうございます」
「あっ…」
隠密のお役目が終わった後も、五兵衛が御意簡牘を所持しつづけるいわ
れはない。
「これは気づかぬことを」
懐中から、銀に葵の紋を彫り付けた桜材の小さな木札を、白絹に包んだ
まま取り出し、五兵衛は、伴格之助の前に置いた。
「ご苦労でござった」
この言葉を聞いた瞬間、五兵衛は何とも言えぬ寂寥を覚えた。


日が落ちて森も私も深呼吸  黒田るみ子


このあと例の狙撃事件の結末や首謀者について五兵衛は、伴格之助に思
い切って聞いてみた。
「それが浪人でござってな」
「浪人…」
「さよう、佐和口忠蔵と申し、その父親は、伊勢の桑名の浪人にて一刀
 流の剣客でござった」
そのことは佐和口忠蔵は剣術の師であるから、五兵衛もわきまえている。
「その佐和口は、父親の代から、尾張、屋源右衛門と懇意の間柄にて、
 それが縁になったのでござろう、佐和口忠蔵は源右衛門と心を合わせ、
 上様のお命を狙いたてまつることになったように、思われます」
むかし、恩師・堀内源左衛門道場にいたころからは、想像もつかぬ変貌
を遂げた佐和口忠蔵の心境の推移については、さすがの五兵衛も判断が
つかなかった。


絵にかいた餅を延々論じてる  西尾芙紗子
 




「さて徳山殿、名残り惜しゅうござるが…」
「格之助殿。ではこれにて…」
「あ、いや」
言葉は絶えていたが伴格之助は、名残り惜しげに一ツ橋御門外まで付き
添い、見送ってくれた。不思議なもので、五兵衛が伴格之助との関係を
持ったのは、わずか一年に満たぬ月日であったが、徒事ではない明け暮
れを過ごした所為もあってか、その印象は強烈であった。


歩きながら話そうサヨナラは辛い  西山春日子 


それからひと月ほど過ぎたころ、徳山五兵衛は新しいお役目に就くこと
を命じられた。その役目は「御書院番頭」であった。
この書院番というのは、戦時ともなれば小姓組と共に将軍を護る、つま
り将軍の親衛隊であって、平時は江戸城中の要所をかため、儀式に際し
ては小姓組ともども、将軍の介添えを務める。
そして将軍が外出の折は、駕籠の前後を固めなくてはという重い役目だ。
五兵衛はまさか、このお役目に就こうとは思ってもみなかった。
書院番の頭ともなれば、将軍吉宗の側近く仕えるわけで、五兵衛の胸は
躍った。だが五兵衛は自戒をした。今年の春、吹上の庭での伴格之助の
言葉を思い起こしたからである。
あの事件は、「闇から闇へ、葬り去られた」ことになっているのだ。


ふわり来てふわり戻っていくいのち  松延博子


いざ役目に就いてみると、吉宗の方でも、まるで新しい五兵衛に接する
ような態度でのぞんできた。去年のことは、気振りにもださぬ。それで
いて、何かの拍子に、五兵衛を見る吉宗の眼の色には、特別の親しみを
こめた感情がわずかに表れることもあった。
そのたびに、五兵衛は感激した。
<当然ながら、上様はあのときのことをお忘れになってはいない>
なればこそ尚更、五兵衛は身をつつしみ、心して役目を務めた。


気休めの言葉ときどき欲しくなる  成田智子


徳山五兵衛が、書院番頭を務めた期間は、足掛け5年にわたり、役目を
解任せられたとき、42歳になっていた。この5年間の短さは、五兵衛
にとって、これまでに覚えがないほどで、懈怠もなく、懸命にお役目を
務めるうちに経過した5年の歳月の、果敢なさをおもい、五兵衛は憮然
となった。また、この5年の間、将軍・吉宗としても緊迫の明け暮れが
つづいていたようである。
例えば、かの「天一坊事件」などというものが起こったりした。
もちろん、これも幕内で処理され、表に出ない事件であった。


波風を立てずに生きて顔がない  西谷 公造

無役となった徳山五兵衛は、特例をもって、「寄合組」に列せられた。
三千石以下の幕臣が、無役となったときは「小普請組」へ入るわけで、
五兵衛も父・重俊亡き後、家督したおり折には、小普請へ列していたの
である。それが今度は「寄合」入りとなった。
これは明らかに、五兵衛のこれまでの実績を認め、幕府が格を上げてく
れたくれたことになる。


木もれ日やハートマークのそこかしこ   松浦美津江


享保17年(1732)に、「本所深川出火之節見廻り役」を拝命した
翌年、徳山五兵衛44歳のときである。上野山下を小沼治作と散策して
いると、対面から歩いてくる蜻蛉組の片桐平之助を、小沼がみかけ五兵
衛に促すと。五兵衛は「おおー」と言い、「久しいのう」と声をかけた。
懐かしさに思わず声をかけてしまってから、五兵衛は、片桐が徒(ただ)
の侍でないことに気づいた。「何の 何の…」片桐は、別に困った様子
でもなく「おなつかしゅうございます」と応じてくれた。


海が凪ぐ君が笑っただけなのに  糀谷和郎


意外に片桐平之助は、そういう、どちらでもいいことに拘わらない人物
のようで。こうなると、どうしても尋ねたいことがある五兵衛は、片桐
を道角にある蕎麦屋へ誘ったところで、椅子に坐すなり五兵衛は訊ねた。
「ときに、伴格之助殿は、お達者か」
何気なく問いかけたのに対し、片桐の顔が沈んだ。
「いかがした、片桐ど…。何か伴格之助殿に変事でも?」
言いさした五兵衛へ、片桐が呻くようにいった。
「身罷りました」
「何…亡くなられた、と…」
五兵衛の手から盃が落ちた。
「そ、それは、あの…病にかかられてのことか?」
片桐は声もなく、かぶりを振った。
「では、では、お役目の上のことにて…?」
片桐平之助が頷いた。
もはやこれ以上の問いかけに、片桐が答えてくれぬことを、五兵衛は、
わきまえている。


ひと言が過ぎたようです遠花火  津田照子
 

 秘図絵に没頭する五兵衛 秘図

 
それから4年、享保20年の秋、21歳の長男・頼屋が妻を迎えた。
3千50石の旗本服部保貞の養女・が17歳で、徳山家へ嫁いできた。
享保が改元されて元文元年となった翌年、早くも琴が頼屋の子を生んだ。
男子であったから五兵衛「でかした でかした」と、大喜びであった。
こうして五兵衛は、47歳にして初孫を得たことになる。
 琴は温順で美しい嫁であったが、病勝ちで子を生んだ翌々年に病没し
てしまった。気に入りの嫁だっただけに、五兵衛の落胆は、非常なもの
であった。
五兵衛は琴を失った悲しみを紛らわすため、ふたたび秘戯図を描くこと
に没頭しはじめた。五兵衛の秘戯図の制作は、なおも数年の間、続けら
れていくー。


何もかも忘れたいときフラメンコ  秋山博志


寛保2年(1742)の年が明けて、徳山五兵衛は、53歳になった。
そして、この年の正月早々に、おもいもかけぬ台命が、五兵衛に下った
のである。五兵衛は「お使番」に任ぜられたのだ。
このお役目は、戦場へ出れば将軍直々の命令を伝えたり、戦功者の監査
にあたってりするのだが、平時は、諸大名の治績や動静を視察したり、
将軍の上使をつとめたりする。徳山屋敷では久しぶりの慶事であるから、
親類方はじめ、諸方からの祝いの声や贈り物が次々に寄せられ、賑やか
な事になった。これで五兵衛は、ふたたび江戸城中において将軍・吉宗
に接することもあるようになった。


満月に叱咤激励されました  奥山節子


吉宗は59歳になっていた。60に近い老躯にしては、実に逞しいが、
さすがに鬢髪も薄く、白くなり16年前のこの将軍の全身に満ち溢れて
いた精気は、ほとんど感じられなかった。
将軍は五兵衛を見ても、往年の事件について「 曖気(おくび)」にも
出さぬことは、以前、五兵衛が「書院番頭」を務めたときと同様である。
それでいて、五兵衛をみる眼差しは、優し気で、微笑は暖かい。そして
五兵衛に「布衣(ほい)着用」が許された。幕府の許可する布衣の着用
、「六位相当叙位者」と見なされることである。将軍と幕府が、いか
に五兵衛を重く視ているかの表現である。
久しぶりに、五兵衛の顔が崩れたのも当然であった。


ふんわりと生きてカボチャもタコも好き  平井美智子


そして、寛保4年は、延享元年(1744)正月11日。
徳山五兵衛54歳、「御先手組・筒頭(鉄砲頭)」に再任する。
その再任の役目とは、「火付盗賊改」であった。
このお役目が五兵衛の晩年を思いがけぬ激動の日々が見舞うことになる。


いずれ死ぬ時を悟らず生きている  清水久美子

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