忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[994] [993] [992] [991] [990] [989] [988] [987] [986] [985] [984]

生きてゆく重さ海月にある重さ  前中知栄



目黒行人坂之図 広重
行人坂を登りきったところに富士を眺める茶屋がある。


「江戸っ子のわらんじ(草鞋)をはくらんがしさ(騒がしい)」
江戸っ子とは、江戸ことばを話す根生い(江戸生まれで江戸育ち)の
人々のことで、明和8年(1771)この川柳に詠まれた「江戸っ子」
が最初とされている。句は江戸の男が旅立つとき、やたら大騒ぎする
のを皮肉ったもの。
この年は60年ぶりに「お蔭詣り」が流行した年でもあり、4月から
8月までの四ヶ月間に、諸国から200万をこえる人が、伊勢神宮へ
おしかけた。
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、「火付盗賊改」を命じられたのは、
この狂熱がようやく沈静へむかったころ、同年10月17日である。
53歳であった。


ペアルックでした魔法が解けるまで  三浦蒼鬼
 

「火付盗賊改」 長谷川平蔵宣雄


 
目黒行人坂之図 
<目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建
立し、大円寺と号す>
富士見茶屋(左上)から行人坂を下って太鼓橋(中央下)までの中ほど
に、木々に囲まれた「大円寺」がある。


明和9年2月29日、江戸には南西の寒風が吹く荒んでいた。
午後1時を過ぎたとき、江戸郊外の目黒行人坂の大円寺から出火した。
折からの強風に煽られて猛火は、麻布・芝・桜田へと広がり、和田倉・
馬場先から江戸城曲輪内の評定所や、老中らの屋敷が並ぶ大名小路をも
襲った。さらに火勢は、日本橋から神田・下谷・浅草・千住にまで燃え
広がり、ようやく翌日夕刻にいたって、鎮火したのも束の間、新たに本
郷菊坂から出火があり、この火は駒込・千駄木・谷中、そして寛永寺も
焼き尽くして、夜半に鎮火した。「目黒行人坂の大火」と呼ばれ、明和
の大火に匹敵するものだった。しかし、明暦の大火のときにはなかった
「火付盗賊改」が生れており、その役にあったのは就任間もない長谷川
平蔵宣雄、つまり平蔵宜以(のぶため)の父親であった。


チャンネルを回すと死者が増えてゆく  河村啓子


平蔵宣雄は、この大火は付け火とみて、大円寺一帯の聞き込みに与力・
同心を投入した。すぐに同心の1人が、大円寺周辺をうろついている武
蔵熊谷無宿・潮五郎を捕らえ、追及すると、放火を白状した。潮五郎は
真秀と名乗る願人坊主であった。ところで火付け犯が、火盗改の同心に
早々に捕まることはよくあることだった。疑わしい者を片っ端から捕縛
するからで、中山勘解由山川安左衛門のように、十分な取り調べをせ
ずに拷問をして、早々に自白で決着をつける乱暴な火盗改が少なくなか
った。かなりの数の者が冤罪で火あぶりになっていた。
しかし、平蔵宣雄は違っていた。


何処となく秋風に舞うクエスチョン  渡邊真由美



太鼓橋



真秀の自白を聞くと、真偽を確かめるために大円寺へ連行して現場検証
をした。境内へはどの道から入ったのか、付け火をしたのは何処かなど、
詳しく実地で尋問したのである。宣雄は、自供だけで火罪にすることを
ためらい、老中・松平武元に町奉行の判断を願い出ている。宣雄の一連
の取り調べには、優れた配慮があり、事実認定に並々ならぬ真摯さがあ
るとして、武元は、町奉行に判断を求める必要はないとした。
結果、真秀は町中引き廻し、5カ所に科書・捨札を建て浅草において、
火罪の判決が下された。


形式の鎖を根気よく解く  下谷憲子


この目黒行人坂の大火」「明暦の振袖火事」文化期の「車町火事」
とともに「江戸の三大火事」と呼ばれるが、火事の原因がはっきりして
いて、しかも犯人が捕らえられた唯一の大火である。おのずから火付盗
賊改・平蔵宣雄の評判は高くなった、が、平蔵は淡々としていた。


金太郎飴は依怙贔屓をしない  平井美智子



京都町西町奉行所跡
江戸時代、千本通押小路東入ル北側一帯西町奉行所があった。


幕府は11月16日、人心を一新するため、「明和」「安永」と改元
した。この改元が行われる1ヵ月前の10月15日、平蔵宣雄は「火付
盗賊改」を免じられ、京都町奉行に抜擢された。この父に従い、京都に
暮らした宣雄の嫡男・平蔵宜以が、のちに火付盗賊改として活躍するが、
京都町奉行としての父の姿を、つぶさに見ていたことが役立っている。
京都には東西の両町奉行所があったが、平蔵宣雄が就任をした西町奉行
所は、東町奉行所よりも格上と見られていた。ともに、市政全般を担当
しているが、京都特有の門跡寺院や古い寺社がかかわる訴訟は、西町奉
行所が専管することになっていた。


それとなく線が一本引いてある  嶋沢喜八郎


由緒のある係争者は、平安・鎌倉時代からの権利書や慣習を持ち出して
きたりして、裁きには難題が多かった。しかも寺社には、弁論・口論の
達者がおおく、日頃から自己の利益・理屈を押し通すのに熟達している。
平蔵宣雄の行き届いた取り調べぶりをよく知っていた老中・松平武元が、
適任者とみて白羽の矢を立てたのだろう。宣雄は従5位下・備中守とい
う大名並みの官位を与えられて赴任した。


気位の褪せないように青を足す  美馬りゅうこ


宣雄は審理のとき両者の言い分を十分に言わせ、無言で耳を傾けている。
双方の弁論が終わると、争論の筋道を整理し、証拠の品を一つづつ道理
をもって検証し、その日のうちに毅然と裁決した。
その裁きぶりは快刀乱麻を断つごとくで、東町奉行所が4,5件の事件
を処理する間に、西町奉行所は20件も裁くと評判になった。


まあるい人だ寒さを知っている人だ  徳山泰子


また宣雄は、質素な暮らしが身についており、これは、京都でも変わる
ことなく、地付きの与力・同心は、宣雄に心服・感化されて奉行所内の
奢侈の風が改まった。ところが、赴任8カ月後、安永2年(1772)
6月22日、宣雄は病を得て、突然亡くなる。病が何だったのかは不明
である。55歳であった。
宣雄は、「客死をしていなければ、江戸の町奉行に進んでいただろう」
と囁かれる痛い死であった。(客死=旅先での死)


般若心経左折する赤トンボ  藤本鈴菜


宣雄の急死で、嫡男・平蔵宜以への家督相続の末期願いについては、
京都東町奉行だった酒井善左衛門忠高が円滑に処置してくれた。
酒井は宣雄より10年先に「火付盗賊改」を務めあげ、奈良奉行を経て
3年前から京都東町奉行に就いていた。30歳年下の平蔵宜以のために
「判元見届」を無事にすませている。宣雄の後任の京都西町奉行には、
山村良旺(たかあきら)が決まり、平蔵宜以は妻子・家臣を引き連れて
江戸に戻ることになった。
(判元見届=武家から、末期養子(後継者)の申請が出された際、幕府
の役人が派遣されて行う確認作業)


ためらった父の仕事を歩む今  本田智彦


いよいよ西町奉行所を立ち去るというとき、与力・同心らが見送りに出
たところ、先輩でもある彼らに平蔵は、面と向かって演説をした。
『各々方(おのおのがた) 御堅固に御在勤あるべし。後年、長谷川平
蔵と呼ばれては、当世の英傑と世に言われんことを思う。…中略…。
各々方御用として参府あらば、必ず訪わせらるべく候、と、暇乞いいた
しける』
京兆府尹記事』(けいちょうふしん)』


鶏頭は空の高さへ背伸びする  くんじろう


奉行の平蔵宣雄には敬服していたものの、28歳の若造といってもよい
息子から別れ際にいきなり、「わしはいずれ当代の英雄豪傑となるから
、江戸に来たときは、屋敷に参られよ」
と言われたので見送る者たちは、
あっけにとられた。
平蔵宜以が京都町奉行所に暮らしたのは、わずか8カ月だったが、大き
「自負」を言い放つほどに成長して江戸へもどった。
尚、平蔵宣雄の「火付盗賊改」退任から、子の平蔵宜以の火盗改(助役)
就任の間には、15年の間がある。この館、延べにして26人の火盗改
が次々と入れ替わった。


京都から歩いて帰ることはない  森本高明


【余談】
 
 
  
目黒行人坂の火事
 
 

  <火事と喧嘩は江戸の華> 江戸は火事が多く、ほとんど毎日のように
発生していた。そして、江戸三大大火と呼ばれる一つに、「目黒行人坂
の火事」
がある。真秀という願人坊主が、盗み目的で目黒行人坂の大円
に、明和9年2月29日正午過ぎに、忍び込み放火したのである。
火は西南の強風にあおられ、千住まで、江戸の三分の一を焼き尽くし、
翌日の午後になってようやく鎮火した。死者1万5千人にもおよんだと
いう。(真秀は、間もなく火付盗賊改方に捕縛され、小塚原で火刑に処
せられた)



あかんから生まれて僕がいてあかん  藤井孝作
 


「行人坂の中途の大円寺に慰霊の五百羅漢石像」
 
 
目黒行人坂の火事の折、大圓寺の仏像は、坂の下を流れる目黒川に沈め
て無事であったが、幕府は、火元である大円寺の再建を嘉永元年(18
48)まで許可しなかった。その間、仏像の類は隣の明王院(雅叙園)
に仮安置され、大圓寺の焼け跡には、大火で犠牲になった人々の霊を鎮
めるために、五百羅漢像が石彫で造られ、並べられた。羅漢像は、石工
が2代3代と継いで、50年の歳月をかけて完成したといわれている。


愛憎の絵文字が宙をとんでいる  木戸利枝

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開