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川柳的逍遥 人の世の一家言
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教えてください虹の端の描き方  高野末次



高田馬場の仇討

元禄7年、堀部安兵衛菅野六郎左衛門らの助っ人として村上庄左衛門
らと決闘した高田馬場。徳山五兵衛がこの決闘を目のあたりにし、安兵
衛を心の師
にして剣術に打ち込み、後々、日本駄右衛門と刃をまじえ…。
 
 
「鬼平犯科帳」でお馴染みの池波正太郎氏に質問を投げかけた。
「日本の泥棒で、ナンバーワンは誰でしょう?」
その質問に池波氏は、間をおかず、「日本左衛門でしょう」と答えた。
ならば「火付盗賊改」のお頭は、誰がナンバーワンになるのだろうか。
中山勘解由でも長谷川平蔵でもなく、日本左衛門と正面対決し、捕らえ
徳山五兵衛が、ナンバーワンのということにならなければならない。


こだわりの一つ一番鶏が鳴く  岩城富美代
 


    徳川吉宗 vs 尾張宗春


「徳山五兵衛」 将軍・吉宗に見初められた男ー①


時は元禄――旗本・徳山重俊の一子・徳山五兵衛(権十郎)は、妾腹の
子ゆえに父から疎まれていた。剣の修行に明け暮れる14歳の初夏の事、
侍女への無謀な振舞いがもとで、父子の不和は決定的となった。
ある日、権十郎は、たまたま高田の馬場の堀部安兵衛の仇討を見、その
勇ましい姿に憧れ、剣の道に活路をみいだす。やがて権十郎は、父との
不和の修復は不可能とみて京都へ出奔した。それから…、


終点か出発点かひと区切り  青木敏子


宝永五年(1708)の春、権十郎が本所石原町の徳山屋敷を出奔して
から、約八ヶ月が過ぎ去った。唯一、権十郎が信頼する実の祖父・駿河
屋又兵衛に異変が生じた。又兵衛が危篤になったのだ。徳山家の男色の
気を匂わせる若党・小沼治作は、すぐさま東海道を上り、大阪・京都と、
権十郎の行方を探しまわった。が、その行方は沓として知れない。
又兵衛が死を迎え、時を同じくしたように父・重俊も危篤に陥った。


ごめんねとラストページの字の乱れ  小野雅美
 


   徳山権十郎と小沼治作


 用人・柴田宗兵衛、「今こそ権十郎様に戻ってもらうべき」と真摯に
説き、徳山家を継承し得るものを持たない重俊は、跡継ぎに権十郎を据
えることを了承した。江戸から権十郎を探しに来た小沼治作が、ようや
く権十郎を見つけ出し、事情を訥々と話し、権十郎は江戸の屋敷へ帰る
ことになった。権十郎が江戸に帰った翌年、五代将軍・綱吉の死を追う
ように、反目しあった父・重俊が病没する。


空席ができたと閻魔から誘い  青木敏子


徳山家も無事、権十郎家督を継ぎ、権十郎は名を五兵衛秀栄と改めた。
結婚を間近にひかえたある日、若き日に剣術の指南であった佐和口忠蔵
の現況を知った五兵衛は、見えざる糸で佐和口と結ばれているのを知る
ことになる。将軍位をめぐる紀伊家と尾張家の暗闘がささやかれる中で、
佐和口忠蔵は、尾張家の暗躍に加担する刺客になっていた。
徳川吉宗の影として生きる御庭番の伴格之介の言葉によると、将軍吉宗
の暗殺計画は「これまでに絶え果てたことがない」という。
「では何者が、そのような大それたことを企むのか」そこへ話がくると
格之介は口を噤んでしまう。推察は推察であって、確証ではないからだ。


曖昧な返事を残すねこじゃらし  美馬りゅうこ
  
 
 
  徳川吉宗像  築土神社蔵(永嶋孟斎筆)
 

「吉宗について」
貞享元年(1684)吉宗は、紀州藩主徳川の4男として誕生。紀州は、
御三家とはいえ吉宗は四男。出世の道は既に閉ざされていた。ところが、
宝永2年(1705)父、長男、三男が次々と急死。吉宗は思いも寄ら
ない形で、紀州藩主の座につくこととなった。
さらに大きな運命が吉宗を待ち受けていた。


女郎花ポンデリングのような雲  前中知栄


正徳6年(1716)3月。7代将軍・徳川家継が病にかかり危篤状態
に陥る。家継はまだ8歳。当然子はなく、徳川宗家の血が途絶えてしま
う一大事。次期将軍候補は、尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、紀州の
吉宗。御三家筆頭である尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。
しかし、時の老中・間部詮房が将軍に指名したのは、紀州の吉宗だった。
正徳6年6月26日。吉宗は、江戸幕府・八代将軍に就任した。


雨上がりキツネに道を譲ります  下林正夫


当然、将軍家になると考えていた尾張藩は、後継者争いに負け落胆した。
数年後、その尾張から吉宗にとって不倶戴天の敵、継友の弟、徳川宗春
が現れる。宗春は、元禄9年(1696)、尾張藩三代藩主の20番目
の子として誕生。当然、跡取りの望める様な状況ではなく、宗春は江戸
の町に毎夜くり出し、芝居見物や遊郭で遊ぶ気儘な日々を過ごしていた。
ところが宗春もまた、大勢いた兄たちが次々と死去し、存命の兄も他家
を継いでいた為、宗春が藩主の座を継ぐ事になる。
享保15年(1730)宗春35歳であった。片や4男、片や20男。
出会うはずのない二人が、同じような道を辿り、将軍と御三家筆頭藩主
として、歴史の表舞台であいまみえることになる。


あれこれと深読みさせる波の音  奥山節子
 


  外出もままならぬ吉宗


吉宗が八代将軍の座に就いてから、これまで5度にわたって暗殺者の襲
撃を受けている。このため吉宗は近年、大好きな狩りにも、野遊びにも
気軽に出かけられなくなった。そうした噂は1度耳にした覚えがある
兵衛だが、「まさか、それほどのものとは…」考えていなかった。
徳山五兵衛は、凡そ3ヵ月ほどのちに、ふたたび「本所見廻り方に就任
することになるであろう」と、伴格之介が言った。
それから五兵衛の秘密のお役目が始まることになる
その秘密の任務を遂行するためには、「ぜひにも、本所見廻り方を相務
めていただかねばなりますまい」と、伴格之介は言い足した。


風は気儘凹む私を遣り過ごす  石田すがこ


将軍暗殺の異変を吉宗、「可能な限り、隠密裏に葬りたい」として
いる。というのも暗殺団曲者どもの背後にある、徳川家御三家の一つ
尾張家のことを慮ったからである。この事件を、白日のもとに晒して
しまっては、どこまでも相手方を追求せねばならぬし、そうなれば、
天下が騒然となること、いうを待たない。将軍とその親族とが忌わし
い暗殺事件の中心として対決するようなことになれば、「わが治政に
汚点を残す…ことにもなろう」 尾張家が曲者どもへ、あからさまに
「将軍を暗殺せよ」との指令を下したのではない。
だが、曲者どもの暗躍するための費用・隠れ家の設置その他について、
尾張家が、相応の援助していたことは推察できた。


気がつけば刃の上を歩いてる  木口雅裕
 



 
「尾張宗春の無念・遺恨」
兄・継友の跡を継ぎ、徳川御三家の一つである尾張名古屋61万9千石
の太守となった尾張宗春の将軍への反抗ともとれる批判は、吉宗が予想
もせぬかたちをとって表れるのである。
宗春は、尾張藩主となって間もなく『温知政要』と題した政教の書一巻
を著した。これは、尾張藩の施政のあらましと家来たちの心得を説いた
もので、家臣たちへ分かち与えた。その一冊が、吉宗の目に止まった。
吉宗は「温知政要」を見るや、たちどころに内示をもって「絶版破棄」
を命じたという。
 
 
価値観の違いと心裂けてくる  山本昌乃


その本の内容は、吉宗と幕府政治を辛辣に批判したもので、例えば、
「和漢古今ともに、武勇智謀千万人にすぐれし名将…が、いざ、権力の
座につくと、たちまちにして、慈仁の心なく、私欲さかんにんして栄耀
奢りきわめ、人民の救うの本意なかりしゆえなり」と書き、
更に宗春は、
「人には好き嫌いのあるものなり。しかるに、我が好くことは人にも好
ませ、わが嫌いなることは、人にも嫌わせ候ようにするは、甚だ心狭き
ことにて、人の上たる者、べっしてあるまじき事なり」と、つらつら吉
宗の「吝嗇のすすめ」を諷しているのである。


人間国宝級の大バカになってやる  くんじろう
 


猩々緋の装束・鼈甲笠と長い煙管を持つ宗春


宗春の前の尾張藩は、「倹約第一」の将軍に背いてはならぬというので、
藩士たちが遊所へ赴くこと、芝居見物もきびしく禁じていたが、宗春は、
「つまらぬことよ。芝居見物までも封じてしもうては、心にゆとりがな
くなり、いつにても刺々しゅうなって、物を見る目もせまくなり、いざ
というときの用にたたぬものばかりとなってしまうではないか」と、
芝居見物のみか、遊所への出入りも自由にさせてしまった。そして宗春
みずから、猩々緋の装束に、鼈甲笠という姿で、長さ二間の金の煙管
茶坊主の肩に担がせ、これで煙草をふかしながら、寺詣りだの、物見遊
山などをやってのけ、「遊女町などは、どしどし設けさせるがよい、町
が栄える」などと言い、城下町は以前と見違えるばかりに賑わい始めた。


果し状軽く下地に酒二合  上田 仁


夏の盆踊りでは、61万9千石の殿様が白い牛にまたがり、紅提灯を手
にした供回りの家来を従え、城を出て、町中の盆踊りへ繰り出してくる。
ついには「みな、まいれ。まいれ」とばかり、町民を下屋敷の庭へ入れ、
笛や太鼓で大さわぎしたあげく、「ほうびを、つかわすぞよ」と金銀を
ふり撒く。
「余は金を使うが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるか
ら使う。口だけの倹約とは決して異なるものぞ」と、いって憚らない。


修飾語とるとのっぺらぼうの僕   永井 松柏


 
    歌舞伎『傾城夫恋桜』   
町へ繰り出しちやほやされる大人気の宗春

 
 
この振舞に、宗春の人気は急速に広がる一方で、「近々、尾張公が公儀
を相手に、一戦挑むそうな」といった不穏な噂までもがでる始末。
この噂は、尾張藩士たちに強い危機感を与えた。
また、その宗春の振舞の結果、宗春が藩主を継いだ享保16年は、総差
引2万7千両もの赤字に転じ、隠居前年の元文3年(1738)には、
総差引14万7585両の赤字となっていた。赤字補填のために領民に
多額の借上金を命じて、庶民の暮らしを圧迫することになっていた。
こうした諸々のことで、尾張家の藩士に分裂はじまり、宗春が参勤交代
の留守の間に、反宗春派によるクーデターが起こったのである。


世の中も吾も矛盾ののどぼとけ  石丸弥平


行政を無視した尾張の当主が、このような体たらくでは、治政をあずか
吉宗も、将軍として黙っているわけにはいかない。
「藩主宗春、行跡常々よろしからざる故もって隠居謹慎せよ」
尾張で起こったクーデターの責任をとらせる形で、吉宗は、将軍の威令
をもって宗春をしりぞけ、尾張家の分家にあたる松平友著(ともあき)
の嫡男・宗勝に本家を相続させたのである。吉宗としては、耐えに耐え
やむを得ない決断だった。


もう敗者なのだよ君も吊革も   樋口 仁


宗春の蟄居が決まると側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。
宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。
「おわり(尾張)初もの」。自らの藩主人生の「終わり」、「御三家
筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせたという。
幽閉中の仕打ちとは、基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列する
ことは許されなかった。宗春は、明和元年(1764)、歴史の表舞台
に戻ることなくこの世を去る。69歳であった。
今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか宗春在命中
の正式な記録は闇に葬り去られた。       つづく


食べ尽した男をゴミに出しました  渡辺富子

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