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川柳的逍遥 人の世の一家言
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6Bの一色で描く童話  くんじろう
 
 

火付盗賊改方の与力・同心


 「名奉行」と「名火付盗賊改」
火付盗賊改は、寛文期(1661-73)の水野小左衛門にはじまって、
幕末(1860)まで、約200年の間に、延べ248人が就任した。
それに対して、町奉行は、江戸時代260年を通じて95人にすぎない。
ところで「名奉行」といえば、すぐに名があがるのは、大岡忠相遠山
景元であろう。もう一人加えて「三名奉行」を選ぼうとすると根岸鎮衛、
筒井政德、矢部定謙など、意見が分かれる。「火付盗賊改」も同じで、
中山勘解由長谷川平蔵の二人は、衆目の一致するところだが、第三の
男となると、248人もいる中で、適切な人物がみつからない。


ええ、あの子は乾燥機の中よ  山口ろっぱ


国学者の大野権之丞は、第三の男として幕臣の執務上必携の『青標紙』
に於いて矢部彦五郎をあげている。青標紙は、天保11年(1840)
に300部出版された。しかし『武家諸法度』『御定書百箇条』など
の禁令を載せていたため「発禁処分」を受け、大野は流罪となった。
ところが、青標紙は300部限定ではなく、実際には、もっと多く刷ら
れて、幕臣は、役目でミスを犯さないために密かに熟読した。その中に
名高い「三人の火盗改」として、伝説的な中山勘解由長谷川平蔵と並
んで、身近な同僚である矢部謙彦彦五郎の名があり、幕臣たちは驚いた。


「ねばならぬ」重さに耐えている家紋  靏田寿子


「火付盗賊改」 矢部謙彦(さだのり)彦五郎


矢部が先手筒頭に任命されたのは、文政11年(1828)8月で10
月には「火付盗賊改」助役を命じられた。矢部が御頭になった先手組は
中山勘解由(かげゆ)が率いた「先手筒組五番組」であるが、すでに1
40年も過ぎていて中山勘解由の名残りはない。
矢部が大手柄をあげるのは、天保元年末に「火付盗賊改」に再々任され
たときである。腐りきっていた前任の火盗改の御頭・与力・同心を一掃
するのである。


紆余曲折をただ真っ直ぐに突き進む  蟹口和枝


犯罪を取り締まるはずの組織の根幹が、犯罪に汚染されていることは、
古今、珍しいことではない。火付盗賊改では、8代将軍・吉宗のとき、
山川安左衛門組の与力・同心が、目明しの鬼子儀兵衛に汚染され、鬼子
と与力2人、同心5人が死罪になった。しかし、文政・天保期(181
8-44)に警察組織を汚染した部屋頭・三之助の仕掛けは、幕府にと
って、はるかに重大・深刻で、鬼子儀兵衛の比ではなかった。


満腹の腰の刀が錆びている  上嶋幸雀 



口入屋


「部屋頭・三之助」
三之助は、表向きは、商家や武家に奉公人を斡旋する口入屋(人宿)を
営む主人であるが、実状は、武家屋敷の中間部屋を博打場にしている元
締めであった。「人宿」の経営者なので、いつでも求人に応じられるよ
うに「寄子」をたくさん抱えているが、ほとんどが子分とか義弟と呼ば
れる男たちで、奉公先はもっぱら武家、それも大名・旗本屋敷へ中間・
小者を周旋するのを生業にしていた。特に慢性的に家計に苦しんでいた
旗本は、三之助が屋敷内に博打場をひらいて、多額の礼金を納めてくれ
るのを喜んだのである。


北風も音符に変えるミュージシャン  奥山節子


三之助は、人宿の主人だから本来は、町方に居住しなければならないの
だが、奉公人の周旋より博打の胴元で稼いでいたから、自身も武家屋敷
に住みついていた。それが常に、火盗改めの屋敷であった。悪党の親玉
ともなると、ふつう異名があるが、三之助にはそれらしい通り名はなく、
旗本屋敷の中間部屋の頭を隠れ蓑にしていたので、「部屋頭三之助」
呼ばれていた。


ちゃんと名はあります花も咲かせます  八田灯子


博打を取り締まる役所を根城にして、博打をやっていたのだから、これ
ほど安全な賭場はない。三之助は、火付盗賊改のお頭はもちろん、その
用人、また与力・同心に至るまで、寺銭をたっぷりと贈った。付け届け
は町奉行所の内与力や廻り方の同心にも渡されていて、町奉行所と火付
盗賊改という江戸の警察組織の一部は、遅くとも、矢部が火盗改に就く
10年ほど前には、三之助の手に握られていた。火付盗賊改の頭が交代
すると、三之助は前任者に紹介されて、新任者に大金を持って顔つなぎ
の挨拶に訪れ、その中間部屋の頭におさまってしまう。ところが、矢部
彦五郎が就任したときは危険だと感じたのか、近づかなかった。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子
 


捕り手


老中・大久保忠真は、町奉行と火付盗賊改が、三之助に汚染されている
のを憂え、火盗改に再々任になった矢部を呼んで、内々に三之助の捕縛
を命じた。ふつう老中の命令は、「御下知」となり、命じられた役人は
張り切って大々的に捕物にするのだが、「御内意」となると誰にも知ら
れぬように事を仕遂げなければならない。配下の与力・同心の中には、
三之助に通じている者がいるので、捕える前に逃がしてしまいかねない。
おびき出して捕まえるしかない。


物隠す神は眼鏡が好きらしい  前中一晃


「まずは三之助がどこに潜んでいるのか」、腹心の同心を使って前任者
たちの屋敷を探らせてみると、6代前の火盗改・松浦忠右衛門の屋敷内
に住んでいることがわかった。矢部は一計を案じ、支配の若年寄に病気
と届け出て、屋敷から一歩も出なかった。
時の火付盗賊改がまったく外に出ないので、「役立たず」と市中の噂に
なった。一方、配下の与力・同心は、御頭が病気といいながら、医者が
一人として往診に来ないのを不審に思った。


出来すぎた話に塩のひと握り  安土理恵


矢部はある日、三之助と結託している与力2人を居室に呼び寄せ、
「わしは長病なれば、お役を辞すべきかと思っておる。されど皆も知っ
ての通り、医者も医薬も用いずにいる。病は四百四病の外にあり、お役
を退くのが無念でならぬ」
与力は畏まって、「お頭 病気は何でしょうか」と、障子越しに尋ねた。
「恥ずべきことながら、貧の病だ。札差(蔵宿)からもほかからも借り
つくして、もはやわしに金を貸す者がない。聞くところによると、部屋
頭の三之助なる者はすこぶる金満家の由。内々に借用できぬものか」
聞き取りづらく、いかにも、か細い声で、矢部は答えた。


なまの声忘れてしまいそう あなた  下谷憲子


与力らは驚いたが、念を入れて、お頭のいかにも心なげな話し声を聞き、
「三之助にお話を伝えましょう」という。
三之助は、かねてから矢部を取り込みたいと思いながら、近づけずにい
たので喜んだ。火盗改のお頭・与力・同心の関係は、一体と思われるが、
与力・同心は、お頭しだいで勝手にふるまう。三之助は、
「貴公らを疑うわけではないが、願わくば殿様にじかにお会いして話を
承りたい」という。


野心家のヒゲは左にカールする  上田 仁



三之助逮捕


日ならず、与力は三之助の返事を持って、お頭の座敷前の縁に座し、
「三之助は、借金に応じるが、さきに面会を願っている」ことを伝えた。
「相分かった。ただ面会は苦しくないが、座敷に通すわけにゆかないの
で、庭先で会おう」矢部は応えた。
当日、矢部は、奥座敷に出ると三之助が庭前に畏まって頭を下げている。
矢部が縁先に出て二言三言何か言うと、手筈しておいた同心たちが駆け
寄って捕縛した。どこからも邪魔の入る暇のない電光石火の逮捕劇であ
った。


逃げ道をふさぎ昨日を帰さない  中野六助



高山陣屋
本来は与力が犯罪者の取り調べ・拷問などをここで行った。
 

早々に、はじめられた三之助の取り調べは、町奉行も火付盗賊改も担当
から外し、公事方の勘定奉行・曽我助弼(すけまさ)が受け持った。
判決は次の通り。
『この日、先手頭・松浦忠右衛門、その忠僕・三之助はじめ家人ら罰せ
らるるにより、咎められて職解かれ、御前をとどめらるる。
先手頭・奥山主税助(ちからのすけ)その前の従僕・三之助が事により、
その家人ら同じく罰せらるるにより、咎められて御前をとどめらる』
(御前をとどめる=出仕をも許さず)


フラスコに罪を8割 水2割  みつ木もも花  


約10年前、火付盗賊改の屋敷を根城にして、町奉行所と火付盗賊改の
役人をカネで牛耳っていた部屋頭・三之助が遠島になった。
当然、八丈島へ送られると思いきや、新島であった。賭博の胴元の刑は
ふつう八丈島へ流される。三之助の場合は、火盗改の屋敷内で賭場を開
帳していたのだから、死罪でもおかしくないと思うのだが新島であった。
幕府内部の与力・同心の腐敗をさらけだすのを避けるため、三之助の処
罰に手心を加えたのだろうか。
三之助は、新島に流されて15年後、弘化3年(1846)に病死する。


サンダルを洗う潮騒きいている  三村一子   


一方、松浦奥山の先手頭2人が罷免・出仕差控の処罰を受け、このほ
か、処分を受けた先手組の同心と町奉行所の同心は、28人に及んだ。
火付盗賊改の矢部彦五郎は、三之助捕縛が評価されて、この年10月、
43歳で堺奉行の転役した。この後の栄進はめざましく、45歳で大坂
西町奉行、48歳で江戸に戻って勘定奉行、53歳で南町奉行に就任し、
北町奉行の遠山の金四郎は、相役であった。しかし、最後は老中・水野
忠邦に反目し、約8か月で罷免された。主因は、水野と対立したために
目付・鳥居耀蔵(ようぞう)の策謀により罷免されたとみられている。
 矢部は、その処分を不服として絶食し、それが原因で死去した。
54歳だった。


いろいろとあって迷子になる時間  清水すみれ


エピソード・「新参者いじめ」 
矢部彦五郎は、剛直な性格で、新参のころ、先輩が定謙をいじめようと
弁当の残りで、お粥を作ることを命じた。彦五郎は、鍋を火にのせたが、
そのままほったらかしにしていた。そのうち焦げ臭くなった。
「小僧、粥が焦げているのがわからぬか。早く何かでかきまぜろ!」と、
偉そうなことをいう。腹を立てた彦五郎は大きな声で、
「それがし小身とはいえ、飯炊きなんぞをしたことがない、火加減など
わからぬ!」と言い、怒りにまかせ、かたわらの大ロウソクを握ると、
力任せに鍋をかき混ぜた。古参の者たちは驚き慌てた。
咎めるものがなかったのは、この新参の若者に怖れを感じたからだろう。
このことが上司に知れて、彦五郎は辞表を出したが、かえってその態度
が立派であるとして許され、先輩の方が処罰された。
老中・水野忠邦との喧嘩も、こうした若いころの性格が、老いても健在
であったことの現れだろう。それにしても、水野は相手が悪かったか。


忘れぬようトゲは刺さったままである  雨森茂樹

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