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川柳的逍遥 人の世の一家言
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終わる旅はじまる旅の影絵かな  前田扶巳代



小枝橋にて激突する幕府軍と新政府軍。
 幕府陸軍の日の丸と桑名藩の九曜紋。


右側に薩摩藩の旗  右下に長州藩の旗 。


「青天を衝け」 帰国それから


「振武軍」「東征軍」の攻撃を受けて壊滅した翌日にあたる慶応4年
(1868)5月24日、新政府は、懸案だった徳川家への処分を公表
する。その処分内容とは、
慶喜の水戸での謹慎・隠居を受けて、徳川宗家の16代目を継いでいた
田安徳川家の亀之助(徳川家達)に、駿府城と駿河・遠江国70万石を
与えるというものだった。ここに「静岡藩」が誕生する。
だが、徳川家からすると江戸城は取り上げられた上に、それまでの身上
からすると大減封を強いられるものだった。天領とも称された徳川家の
所領は400万石である。旗本に与えた所領を含めれば、約800万石
にも達するとされた。駿河・遠江70万石への移封とは、10分の1以
下の大減封である。5月15日、一日も要さずに、彰義隊を壊滅させた
ことで徳川家は完全に牙を抜かれた格好である。徳川家は、この処分を
甘受したが、徳川家家臣にとっては、転落への始まりであった。


腹切る時はゴボ天で一文字  井上一筒
 


 
箱館五稜郭の戦い (幕府、新政府、最後の戦争)

5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河・遠江70万石への減封
というものであった。これにより、約3万人の幕臣を養うことは困難と
なり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、
蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の開拓にあたらせようと画策した。
 
旗本が約6千人、御家人が2万6千人で、幕臣の数は優に3万人を超え
ていたが、70万石の大名が抱えることが出来る可能な数は、5千人と
見積もられた。徳川家は2万人以上のリストラせざるを得ず、同年6月、
家臣に対して3つの選択肢を提示した。

① 新政府に出仕する。
② 徳川家にお暇願いを出し、新たに農業や商売を始める。
③ 無禄覚悟で徳川家達とともに静岡に移住する。
藩としては、①か②の新しい自活の道を探ってほしいとの願望があった
が、無禄でも静岡藩氏であることを望むものが多く、5千人をはるかに
超えるものだった。(『静岡県史』)


その中の一葉は踏絵かも知れぬ  笠嶋恵美子


 そして8月9日、徳川家達は、江戸改め、東京を出発して静岡に向かう。
入れ替わるように、9月20日、明治天皇一行が京都を出発して、東京
に向かう。10月13日に天皇一行は、江戸城改め、東京城に入城した。
以後、東京城は、皇居と定められ、11月3日には、慶応から明治へと
元号が変えられた。


分かった振りするしかない地動説  三宅保州
 


家康、江戸を建築する
以後、江戸は260年続いた。


一方、篤太夫昭武一行は、新政府から帰国命令を受け、慶応4年9月
4日、マルセイユ港でベリューズ号に乗り、フランスに別れを告げた。
そしてベリューズ号が香港・上海に寄港してのち、横浜港に入ったのは、
明治に改号された11月3日のことである。11年と10ヶ月ぶりの日本
だった。
篤太夫は、上陸して横浜にいた友人に函館の様子を尋ねた。が、なんと
成一郎が、榎本武揚艦隊に身を投じて、函館へ向かったという。大いに
失望した篤太夫は、成一郎に向けて書状を送った。
「そんな烏合の衆に加わっても、先は見えている。もはや、生きて会う
ことはないだろう」という趣旨であった。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子


昭武らと別れた篤太夫は、横浜で帰国事務に忙殺されるが、11月7日
には、東京へ向かう。東京では、日本不在中の様々な出来事を知る至る。
見るもの聞くもの、すべたが不愉快であった。ヨーロッパ諸国を歴訪し
たものの、フランスでの留学は中止となり、満足に学ぶことも出来ずに
帰国を強いられた。帰国すると、親友たちの多くが、命を落としたか、
離散したかのどちらかであることを知った。有為転変の世の中であると
嘆息せざるを得なかったのである。


引っ張ればずるずる解けるクモの糸  宮井いずみ


中でも、兄貴分だった尾高長七郎の死は痛恨の極みであった。この年に
ようやく出獄したものの、4年にも及ぶ牢内の生活は長七郎の体を蝕み、
情緒不安定に陥っていた。自由の身となった後は、故郷で療養したが、
11月18日に悲運の生涯を終える篤太夫は、帰国していたが、再開
をはたすことはできなかった。長七郎は、横浜焼き討ちを主張する自分
を、必死の思いで諫めてくれた命の恩人であった。文武両道に優れた偉
丈夫が郷里に埋もれたまま、生涯を終えたのは、何とも痛ましいことだ
った。それも幕府が倒れて新時代が到来した年なのにである。


葬式と墓のCM目立ちすぎ   村上玄也



栄一の血洗島村の実家


篤太夫は、文久3年(1863)冬に故郷を出て以来、領主安部家との
関係がこじれたこともあって、帰郷を躊躇していたが、もうほとぼりも
覚めたことで、血洗島村に帰郷しようと考えていた。篤太夫は、帰郷の
予定を知らせる書状を実家に送ったが、父・市郎右衛門のほうから上京
してきた。当時、篤太夫は、神田明神下に住んでいたが、11月23日
に、神田向柳原町で武具問屋を営む横浜焼き討ち計画以来の友人である
梅田慎之助から、父・市郎右衛門が来ている、と報せが届いたのである。
篤太夫は、父と6年ぶりに対面する。市郎右衛門は、息子の無事な姿を
喜ぶとともに、亡国の遺臣となった篤太夫に身の振り方について尋ねた。
「お前は、これからどうするつもりなのか」と。


型崩れしてもでっかい父の背な  高東八千代


勘当を申し出た時に言われた言葉と同じ切り出しだ。それに答えて。
『今から函館へいって脱走の兵に加わる望みもなければ、また新政府に
媚びを呈して仕官の途を求める意念もありません。せめてこれから駿河
へ移住して、前将軍家が御隠棲の傍らにて、生涯を送ろうかと考えます。
それとても、彼の無禄移住といって、その実は静岡藩の哀憐を乞い願う
旧旗本連の真似は必ず致しませぬ。何か生計の途を得て、その業に安ん
じて余所ながら旧君の御前途を見奉ろうという一心である』と、言った。
                         (『雨夜譚』)


跳んでみて年相応の水溜り  下林正夫



静岡城

篤太夫は、新政府に仕える気はなかった。幕臣の大半が選択した静岡藩
氏への道を選ぶつもりもなかった。静岡に移住して、新たに農業や商売
を始める決意だった。静岡藩の禄を食まず、あくまでも自活するという
もので、静岡に移住すると決めたのは、恩寵を受けた慶喜様の行く末を、
近くで見守りたいという信念からだった。静岡に行けば何か仕事がある
かもしれない。何もすることがなければ、農業をするまでのことと割り
切っていた。


言い訳が済むまで生きることにする    いわさき楊子


27日、篤太夫の父・市郎右衛門は、血洗島村に戻る為東京を離れたが、
篤太夫が帰郷したのは、12月1日夜のことである。篤太夫が帰ってき
たのを知ると、親戚縁者や知り合いが次々と集まり、篤太夫は、久々に
我が子を胸に抱き、悲喜こもごものことを千代や母、尾高惇忠ら皆と朝
まで語り明かした。こうした久方ぶりの故郷を堪能すると、7日朝、家
族たちの見送りを受けて、血洗島村を出立した。この後、篤太夫は、東
京で残務整理したのち、慶喜のいる静岡に向かった。


ふるさとは僕の漬け物石である  岩崎雪洲  

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