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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ピース缶開けたらベルが鳴り響く  酒井かがり
 


幡随院長兵衛を襲う旗奴。旗本奴の傾奇者で初代福山藩主・水野勝成
の孫である水野成之は大小神祇組を束ねた。


「火付盗賊改」 中山勘解由 & 八百屋お七


明暦3年(1657)「明暦の大火」は、江戸の町が、火事とそのさな
かに跳梁跋扈する盗賊に、まったく無防備であることを露呈した。
幕府は火事に対しては、翌年の万治元年、4代将軍・家綱のとき旗本4
人に火消し役を命じて「定火消」を設けた。「町火消」が組織されるの
はさらに60年後、8代将軍・吉宗のときである。


あれこれと出来ない儘の走馬灯  西陣五朗


一方、「強盗・放火」といった凶悪犯罪に対しては、既にある南北の町
奉行所だけでは手に負えないことが明らかとなり、寛文5年(1665)
「盗賊改」が新設された。放火犯を取り締まる「火付改」「盗賊改」
に加えて置かれたのは「盗賊改」から18年後、明暦の大火からは26
年も過ぎた、天和元年(1683)1月である。


今生のまだ染み抜きが終わらない  清水すみれ



 捕縛の図 撃ちこみ 寄せ棒 鉤縄
 
 
「中山勘解由」
このころ江戸では、押込み強盗の前後に放火する凶悪な犯行が頻発した。
「町奉行所」「盗賊改」が取り締まったが、犯行に追いつけない状態
で、ついに、放火を取り締まる専任の役職を設けることになった。
最初の「火付改」には3千石の旗本、先手筒頭の中山勘解由直守が命じ
られた。徳川綱吉が5代将軍になって2年後である。これによって江戸
の治安警備体制は南北の町奉行、盗賊改、それに火付改の4人となった。
本来ならば総合に連携し合って、江戸の平安を実現するところなのだが、
中山勘解由は独り突出して取り締まりを行い、江戸庶民だけでなく武士
にも恐れられた。


ゴマ塩がそれぞれ歌うローレライ  井上一筒


中山勘解由は、仏心の篤い男であったが、火付改を命じられると、2人
の息子を前に、「今日からは慈悲では治まらぬ!」と、父祖代々の位牌
をまつる仏壇を叩き壊したという。そして、配下の与力・同心・目明ら
総勢50人余りを様々に変装させ、江戸市中に潜行させた。いわゆる後
の鬼の平蔵の変装での町散策の先駆けである。
『中山組の与力・同心は火事場で捕えるだけでなく、江戸中で怪しい者
とみれば捕まえ、「誤認逮捕」がおびただしい。そして尋問(拷問)が
きびしく死ぬまで攻めるゆえ、火付をしていない者も苦痛を逃れるため
「火付けした」と言い、科人でないのに処刑される者が数多いというこ
とである』(『御当代記』)


無農薬野菜食べてもいつか死ぬ  くんじろう





勘解由の詮議には、犯罪人を無理やり作りだすところがあった。しかも
見込み逮捕や誤認逮捕と拷問によるでっち上げが多く、人々は、中山勘
解由を「鬼勘解由」「鬼勘」と呼んで恐れた。中山組の与力・同心は怪
しいとみるや、町人・無宿者に限らず武士も捕えて詮議した。
普通ならば、管轄違いで、役所間の縄張り争いになるのだが、勘解由に
対しては、町奉行も勘定奉行も目付も恐れて、異議を唱える度胸はなか
ったという。このため町奉行も勘定奉行らの火付改に対する反感が鬱積
していって、中山退任後には、火付改に対する町奉行らの逆襲があって、
「火付改」は一時廃止されるのだが、のちの話である。


身のうちの角を落として春を待つ  津田照子


  
男の中の男・幡随院長兵衛       水野十郎左衛門
 
 
「勘解由、市中の旗本奴ら二百数十人を処刑」
貞享3年(1686)、勘解由「火付け改」に就いて4年目に入って
いた。綱吉の初政は「天和の治」と呼ばれる文治政治で「町奉行」には、
北条氏平甲斐庄正親という穏健な名奉行が勤め、助役の「盗賊改」
能吏の山岡十兵衛であった。
そのため、江戸の火付け、盗賊さらに傾奇者(かぶきもの)と呼ばれる
無法者の取り締まりは、勘解由がおのずと一手に引き受ける形となった。


出し抜いて四月の馬鹿という眺め  岩田多佳子


これまで旗本奴は、鶺鴒組(せきれい)・吉屋組・山手組・大小神祇組
などの徒党を組み、町奴も唐犬組・笊籬組(いかき)を組織して対抗し
ていた。勘解由の使っていた手下には、やきもち九兵衛・なんぴん四郎
右衛門といった異名もちの者がおり、江戸のあぶれ者たちの動静をぬか
りなく掴んでいた。貞享の9月、勘解由は奴連中の一斉検挙を断行した。


一発で天狗の鼻を叩き折る  池部龍一


大小神祇組は、町奴の幡随院長兵衛を殺した3千石の旗本・水野十郎左
衛門が首領だった旗本奴の徒党である。水野は22年前に切腹させられ
ていたが、徒党はまだ残っていたのである。勘解由は神祇組にかぎらず、
旗本奴、町奴をとわず、配下の与力・同心に捕縛を命じて、片っ端から
しょっ引いた。リーダー各の11人を斬罪にしたという。


胸底のドカンドカンが鳴り止まぬ  山本昌乃


家康のときから百年近く一掃できなかった傾奇者・旗本奴・町奴の首を
勘解由はポンポン斬って落としたのは、貞享3年9月。そして三か月後
に勘解由は、火付改を退任した。その10ヶ月後の7月2日、55歳で
没している。鬼より恐ろしい勘解由にして「火付盗賊改」の役職は、重
く、厳しいものであったようだ。
 その後、「盗賊改」「火付改」「博打改」の三者が合体して、正式に
「火付盗賊改」となる。先にも述べたが、八代将軍・吉宗のときである。


遺言を書いてはまたもシュレッダー  下谷憲子
 



 
(※1, 中山勘解由は容疑者をかなり厳しく取り調べ、勘解由が着任
している間は、放火の罪で処刑される人数が増加している。「海老責」
という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは冤罪も
多かったであろうと推定されている。
しかし、史実とは反対に「八百屋お七」の事件では、お七の命を何とか
救おうと努力する奉行として登場する。
狩野文庫『恋蛍夜話』では、奉行の勘解由がお七に「お前は15歳だな」
と聞き、もしもお七が「はい」と答えれば、助けられたものを、奉行の
真意が読めないお七は、正直に「いいえ」と答えてしまった。そのため
お七は定法に則り「火炙りの刑」宣告することになってしまった。

※ 馬場文耕の『近世江戸著聞集』のなかでも、お七の年齢をごまかし
助けようとする奉行・中山殿の名前が出てくる。
余談だが、勘解由とお七は、「お隣りさん」というほど、互いの家は、
近かった(歩いて5分)ことを書き加えておく。


飛び込みの下手な蛙の水の音  宇都宮かずこ


(※2 「天和の大火」で、八百屋お七が焼け出されたのは、天和2年
(1683)12月28日の火事で、勘解由が火付改を命じられる一か
月前、そして、お七が捕まったのは、2か月後の翌年3月2日で、勘解
由は火付改になったばかり。鬼と化して、放火犯を追っていたさなかで
ある。この日、勘解由が「放火の賊あまた捕えしをもって金五枚給う」
(『徳川実紀』)とあり、逮捕者の中には、お七もいた、のだろう。)


愚かさの先で待ってる蜘蛛の糸  岸井ふさゑ


(※3 幕府の公式記録には、「八百屋お七」の名はどこにもないが、
「駒込お七付け火の事、この三月の事にて二十日時分より晒されしなり」
『御当代記』と書き加えている。
また、お七の恋を仲立ちした遊び人の吉三郎(喜三郎)が3月29日に
火罪になった判決記録『御仕置裁許帳』は残っている。)


悔い残し余白残して綴ず暦  上田 仁


(※4 「八百屋お七の物語」は、恋人の名や登場人物、寺の名やスト
ーリーなど設定はさまざまで、井原西鶴『好色五人女』で八百屋お七
の物語を取り上げており、また、江戸で頻発した大火の見聞記『天和笑
委集』では、お七処刑の天和3年(1683)のわずか数年後に出され
た実録体小説としてお七事件も取り扱っている。それが、これ!と ↓ )


マッチ一本月下美人の乱れ跡  山口ろっぱ



お七と庄之助


『天和笑委集』(お七事件)
江戸は本郷森川宿の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は、
小さい頃から勉強ができ、色白の美人である。両親は、身分の高い男と
結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日の火事で、八百屋市左
衛門は、家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17
歳の美少年がいた。庄之介は、お七を見て心ひかれ、お七の家の下女の
ゆきに文を託して、それから2人は手紙のやり取りをする。やがてゆき
の仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋に
ゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせて同衾させると引き
下がった。


相聞の愛は中心まで赤い  秋田あかり


翌朝、ゆきはまだ早い時間に、眠る両親の部屋にお七をこっそり帰した
ので、この密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を
重ねるが、やがて正月中旬新宅ができると、お七一家は、森川宿に帰る
ことになった。お七は庄之介との別れを惜しむが、25日ついに森川宿
に帰る。帰ったあとも、ゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄
之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれ、お七の思いは強く
なるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日に
お七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、家の近くの商家の軒の板間
の空いたところに炭火とともに入れて、放火に及ぶが、近所の人が気が
付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだ
ったのでその場で捕まった。


マッチ擦る十五の夜の路地裏で  河村啓子


奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火
などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身
で誰を恨んで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?
正直に白状すれば、場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うが、お
七は、庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず、「恐ろしい
男達が来て、得物を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば
害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく
尋ねると、要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ない
とお七は、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑が決まる。


好奇心忘れることに忙しい  美馬りゅうこ



鈴ヵ森にひかれるお七

 
お七は3月18日から、他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装
は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ、蒔絵のついた玳瑁の櫛
で押えた髪で、これは多くの人目に恥ずかしくないように、せめてもと
下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪に
なる6人は、3月28日、やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り
囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。
大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎は、おとなしく
処刑されている。お七の家族は、縁者を頼って甲州に行きそこで農民と
なり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は、4月13日夜にま
ぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている。
(※5 「天和笑委集」柳亭種彦豊芥子などの評論などによって、
各種の作品の中では、事実に近いであろう物として評価されている。)


紫の雲に隠れた夜半の月  宇都宮かずこ
 


お七と吉三郎


『好色五人女』八百屋お七物語
元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は、類の無い美人
であった。天和元年、丸山本妙寺から出火した火事で、八百屋太郎兵衛
一家も焼け出され、小石川円乗寺に避難する。円乗寺には、継母との間
柄が悪く、実家にいられない旗本の次男で、美男の山田左兵衛が滞在し
ていた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲
になっていた。


愛憎のその真ん中は震度三  中島 華


焼け跡に新宅が建ち、一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていた
あぶれ者で、素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、
自分が博打に使う金銀を要求する代わりに、二人の間の手紙の仲立ちを
していた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して、吉三郎は、
「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす。
吉三郎はお七に火事をおこさせて、自分は火事場泥棒をする気でいる。


火を借りて口説き文句を考える  中村幸彦


お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する
気になったお七吉三郎、「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、
恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。
風の強い日にお七は、自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚き
お七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけて
きた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は、
「火を付けたのは自分では無く、八百屋太郎兵衛の娘お七だ」という。


ひだりむねの肋骨辺りから失火  清水すみれ



土井利勝


中山勘解由が、お七を召しだして尋ねると「確かに自分が火をつけた」
と自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。
そのときに幕府の賢人・土井利勝、「悲しきかな。罪人が多いのは政
治が悪いからだ」とも言い、又「放火は大罪で火あぶりにするべきだが、
か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろ
しい国だと笑われるだろう」と言い、中山勘解由に「15歳以下なら
ば罪を一段引き下げて遠島(島流し)にできるではないか。もう一度調
べよ」と命ずる。


逃げ道をそっと残して責めてやる  奥野健一郎


井大炊頭の意を汲んで勘解由は、お七が14歳だということにして牢を出
し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は、自分だけが処刑さ
れるのを妬み、奉行中山を糾弾する。中山は怒り吉三郎と口論するが、吉
三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺
の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので、中山も仕方なく天和
2年2月、吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする。


今ならば助けてやれた深い悔い  細見さちこ


  
     井原西鶴              馬場文耕
 
 
実は古来より、お七の実説として、『天和笑委集』『近世江戸著聞集』
(馬場文耕)が、「恋のために放火し、火あぶりにされた八百屋の娘」
伝えて
いるが、実は、お七の史実はほとんどわかっていない。
お七時代の江戸幕
府の処罰の記録『御仕置裁許帳』には、西鶴の好色五人
女が書かれた貞享
3年(1686)以前の記録には、お七の名を見つける
ことができない。

「お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も」事実として知る事はできず、
それどころか「お七の家が八百屋だったのか」すらも、それを裏付ける確
実な史料はない。真相は「闇」の中、いや「炎」のなかなのである。


千の葉の千の散り方秋深む  合田留美子

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