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川柳的逍遥 人の世の一家言
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干し大根祈りになってゆく途中  河村啓子



各国からパリ博へ来た人々を歓迎するナポレオン三世


「ナポレオン三世のパリ博における演説」
「この大博覧会には、世界各国より出品があって、太古の時代の事物よ
り最も進歩せる現代の事物に至る迄、一目瞭然と、之を識別することが
できる。加うるに各国の風俗習慣を知ることが出来る故、此の大博覧会
は、実に世界知識を向上せしむるものである」『青淵回顧録』渋沢栄一
(渋沢栄一は、フランス語がままならない中で、まさに万博の理念その
ものを理解できていた如に、要約した)


叫んでも鼻がこそばいフランス語  中村幸彦
 


1867年東京ドーム14個分のパリ博会場


「青天を衝け」 パリ大博覧会へ


慶応2年11月29日、渋沢篤太夫は原一之進から呼び出され、慶喜
内意として渡仏が打診された。君命とはいえ、外国人に激しい憎悪を持
っている篤太夫が、「このフランス派遣に果たして承知するだろうか」
と、原は不安を抱いていた。
将軍名代として14歳の徳川昭武に従って、水戸藩から御付きの7人の
藩士が随行するのだが、彼らはまた攘夷論者たちで、昭武を渡仏させる
ことに強い抵抗感を持っていた。幕府としては、御付きの水戸藩士たち
がフランスで問題を起こすのを危惧し、彼らを宥める役回りの者が必要
と考え、篤太夫を渡仏の一員に加えたのであった。


「できます」と言えばその気になる頭脳  川島良子


「栄一の処世談」
『私は夫れ迄と言ふものは、攘夷論者であつたが、然し四囲の状勢から
して、何時迄も鎖国主義を採つて居ることの不可能を知り、機会があら
ば西洋の事情も知りたいと思ふやうになつて居たからして、遂に意を決
してお供をすることになつたのである。…中略…一橋慶喜公に仕へた時
には、所謂、主従三世の誓ひを心に立て、飽くまで慶喜公と生死を共に
する決心であつたのだが、御令弟の民部公子が、仏蘭西に洋行せらるる
やうになるや、多少、私を用ふるに足ると思召されたものか、<今後の
時勢は如何変るか、逆睹し得るものでないから、渋沢の如き男をつけて
やれば心配で無い>といふので、私が民部公子に御供を致すことになっ
たのである。然し、当時、私の身分は極低かつたので、「御傅役」とい
ふわけに参らず、単に随従の名義で御供を致したのである』


鼻の穴広げて道の真ん中に  酒井かがり



パリ博日本館


このパリ万博に出展することになった日本だが、当然、彼らはその背景
など全く知らないまま参加した。駐日公使のレオン・ロッシュを通じて、
パリ万博への招聘が届いたのは、慶応元年(1865)のことである。
当時の幕府は、いずれ薩長と一戦交えるかもしれないという、危機感を
抱いていた。戦のためにはお金が必要だ。ロッシュは万国博覧会に参加
して日本の製品を展示すれば、商売につながると助言した。有田焼など、
日本の物が海外でも人気だ、と聞いた幕府は考えた末、大名や豪商らに
万博への参加を呼びかけた。これに応じたのが佐賀藩・薩摩藩と江戸の
商人だった。


乗り換えの耳にふわりと鼻濁音  加藤ゆみ子
 
 
 
スエズ運河開通
 
東洋と西洋の結婚式とも呼ばれる、地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、
明治 2 年(1869)11 月 17 日、開通した。


慶応3年(1867)1月11日、昭武一行(総勢29名)を乗せたフ
ランス郵船「アルフェー号」で横浜港を出港しヨーロッパへと旅立った。
海路→スエズ運河開削工事のため、途中陸路に変え→海路と繋いで、フ
ランスのマルセイユに到着したのは2月29日、そして3月7日にパリ
に入った。篤太夫に与えられた具体的な任務は、昭武の事務官としての
庶務・会計と書記だった。昭武の信書の代筆もし、御付きの幕臣や水戸
藩士への月給の支給、あるいは雑品の購入なども、篤太夫の担当だった。


開拓者たらんと挑む試験管  土方かつ子 


長旅にも、地中海と紅海を結び、ヨーロッパとアジアを最短距離で連結
するという「スエズ運河開削の巨大工事」を目の当たりにして、篤太夫
は、その技術と規模の大きさに最大級の関心を持った。
これだけ巨大な土木工事をするのに、資金は一体どこからでてくるのか
さらにスエズ運河会社が工事を担っていると聞き、篤太夫はさらに大き
なショックを受ける。会社とは何だ、これが渋沢の「株式会社」とのフ
ァーストコンタクトだった。
 
 
今日からは春だ私がそう決めた  居谷真理子 


船上では、フランス語の習得に勤しんだが、船酔いがひどく、思い通り
にはいかなかったようだ。しかし適応能力に優れていたため、西洋式に
全く馴染めない者たちをよそに、船で出されるヨーロッパスタイルの食
事にも早くから興味を持ち、受け入れることができた。


漂っているだけなのに腹が減る  橋倉久美子



渋沢が妻千代から顰蹙を買ったスタイル


渡仏中、故郷の父や妻・千代、成一郎惇忠とも書状を交わしているが、
千代には自分の写真を送っている。羽織袴で草履を履き、腰には両刀を
帯びた姿でフランスへ向かったものの、フランスでは髷を切って洋服姿
となり靴を履くようになった。郷に入れば郷に従ったのだが、篤太夫は、
写真館で西洋式の正装姿を撮らせている。フランスの散髪屋で髷を切り、
シルクハットをかぶり、燕尾服を着て、手には、ステッキを持つ姿だっ
たが、この写真が大顰蹙を買う。「こんな情けない姿はやめてほしい」
と、妻の千代が手紙で訴えてきたほどである。


雲ぷかり私もぷかり梅雨晴れ間  雨森茂樹



世界の驚愕の展示品


パリ滞在中は式典に出席し、各国の出展品を見学する一方で、凱旋門な
どパリ市街の様々な施設を視察した。フランス政府の賓客として、皇帝
主催の舞踏会にも出席し、皇帝からの招待を受けオペラ座で観劇もした。
外務大臣官邸で開催された舞踏会に招待されたときのことである。
そこで大胆に肌を露出したドレス姿で華やかに踊る女性に、一同は驚愕
する。「けしからん」と侍たちは眉をひそめたが、篤太夫だけは、なぜ
彼女たちがこのような格好をするのか、疑問に思った。舞踏会だけでな
く、篤太夫は「社交」の目的について、深く理解していた。
例えば、万博の時にナポレオン三世とロシア皇帝が、競馬で賭けをする
場面があった。普通なら皇帝が賭け事なんて思うところだが、篤太夫は、
これも一つの社交場の嗜みなのだろうと理解した。


そういえばそうねとしっぽ揺れている  宮井いずみ



フランスの床屋で髷を落とした渋沢


さて、昭武の留学期間は5年の予定であり、篤太夫のフランス滞在も数
年に及ぶはずだったが、本国の情勢は、それを許さない大変動があった。
「大政奉還」である。この衝撃的な情報をパリにいる渋沢たちが目にし
たのは、慶応4年正月ことだった。日本から船便で送られてきた幕府の
御用状に、慶喜「大政奉還」したことが書かれていた。
御用状とは幕府や藩が発した公的な書状のことだが、日本との書状のや
り取りはどうしても、2ヵ月ぐらいの月日がかかった。


カンガルーの最短距離のジャブ  井上一筒


「栄一の処世談」
 『然るに、彼地に着いてから幾何も無く日本には、愈々、大変動が行は
れ、殆ど凡ての人が呼び返される、と云ふことになつたので、期せずし
て私一人が、民部大輔の百事のお世話をする、と云ふことになつたので
ある。斯に於て私は、恰も六尺の孤(りくせきのこ)を託されたやうな
気分で、其命を全うすることに努めたのである』
(六尺の孤=誰からも助けられることなく、一人で事に当たること)


十字架の形の飴をなめている  くんじろう


しかし、渋沢たちは、その情報はすでに知っていた。フランスの新聞に
掲載されていたからで、続報も掲載中だった。
江戸には、各国の公使館があり、横浜や長崎などの開港場には領事館も
あり、外国商人たちも大勢いる。公使館、領事館、外国商人からもたら
された情報が先行し、新聞記事になったわけである。
渋沢たちは日本から御用状が届く前に新聞で日本の情勢を知ったものの、
虚脱して誰も記事を信じなかった。確報を得たのが、皮肉なことに故国
からの懐かしい知らせだった。大政奉還から二ヵ月以上も経過した慶応
4年1月2日の夕刻に御用状が届いたのだ。知っていたとはいえ、改め
て知らされた真実は、青天の霹靂であった。


生臭いものは新聞紙で包む  森田律子


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日本へ帰る数日前に昭武に贈呈されたスイスの時計


この翌日の3日に「鳥羽伏見の戦い」が始まった。
政権返上から、「鳥羽伏見の戦」で幕府が薩長に敗れ、敗軍の将となっ
徳川慶喜は、朝敵に転落、亡国の臣となってしまったのである。
昭武一行の留学期間は、5年の予定であり、篤太夫のパリ滞在も数年に
及ぶはずだったが、本国の情勢がそれを許さない。留学など続けられる
状況ではなく、パリ滞在はおよそ1年半で突如、終わりを迎える。
そして、慶応4年9月4日、昭武一行はマルセイユから、来た時と同じ
ベリューズ号に乗り、フランスに別れを告げた。


ミカン剥きながら別れのタイミング  真島美智子


「栄一の処世談」
私が初め出発に際しては、少くとも五ケ年位は彼地に留つて大いに勉学
するつもりであつたが、国元に於ける幕府の変動からして費用も途絶え、
実家の方から取り寄せようとして居ると、遂に帰国せよとの命があつた
ものであるから、初志を果たさずして僅か一年余りで帰国したのである。


お祭りに迷彩服は似合わない  菊地良雄

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