忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[985] [984] [983] [982] [981] [980] [979] [978] [977] [976] [975]

カラスならカアで終わりにする悩み  山下炊煙



フランスのマルセイユにて撮影された徳川昭武一行
中央に昭武、後列左端に渋沢栄一(篤太夫)


「青天を衝け」大沢事件と徳川昭武とパリへ 


慶應2年7月20日、第二次長州征伐失敗のあと、14代将軍・徳川家
が亡くなった。幕閣には人材がおらず、慶喜に将軍の座が回ってきた。
篤太夫は、慶喜の将軍継承を猛烈に反対したが、引き受けるしかなかっ
た。おのずから篤太夫も成一郎も幕臣に格上げになった。倒幕は非現実
的になり、もはや幕府内部から体制を大転換をして、新しい世界を切り
開くしかない。しかし、幕府という巨大組織の中に組み込まれると、篤
太夫は動きがとれなくなった。周囲は、保守派ばかりで、何かというと
「農家の出」と軽んじられる。苛立ちのあまり、もはや浪人にもなるか、
いつそ割腹して相果てようかとまでに一時は思ひ詰めもしたが、それで
は犬死になるからと、暫く苦痛を忍んで幕府の「陸軍奉行支配調役」
いふものに仕官した。


床から入り煙突を出るはめに  森田律子
 


 
徳川昭武
 

そんな矢先、慶喜の側近のひとり、原市之進から渡欧を打診された。
パリで開催される万国博覧会に幕府が出展し、慶喜の弟・徳川昭武が使
節団を率いていくことになった。万博閉会後も、見聞を広めるために長
く滞在するという。その会計担当として随行し、篤太夫自身も日本が学
ぶべき点を探ってこいと、慶喜からの命令だった。


秘書は有能水増しを匙加減  山口ろっぱ   


篤太夫の苦しい立場を見かねて、慶喜が新しい分野へと仕向けてくれた
のだ。確かに、使節団のような小さな集団の方が、篤太夫の能力は発揮
しやすい。そんな配慮に頭が下がった。
当初は平岡円四郎に誘われるまま、行きがかり上、一橋家の家臣になっ
ただけだったが、これほど目をかけてもらえるとは身に余る光栄だった。


花びらを数えて一日を終える  竹内ゆみこ


「渋沢栄一の処世談ゟ」
其のころはもう、幕府の前途も六ケ敷(むつかしい)と云ふ時で、今迄、
幕府の家臣であつたものは、誰も彼も、一種悲痛な気分に掩はれて居た。
恰も此の幕府の前途の困難なる時に当つて、私共の今迄仕へて居た慶喜
公が、一橋家を去つて将軍となられると云ふことになり、私共は非常に
心配したのである。何故なれば、斯うした場合であるから、政府側から
、「国賊のやうに」云はれ、幕府方からは、「亡国の君」と云はれる
ことは到底免れぬことである。寧ろ将軍職につかれるよりも、一橋家に
居られた方が何れ丈け無難であるか知れぬ。


直線ごときに翻弄されている  雨森茂樹


と、斯う思うた私共は、是非ともお諫めしたいと思ふことは屡〻(しば
しば)あつたが、既に一橋家を去られた後のことであつて、今迄のやう
に容易にお目に懸ることも出来ず、又私自身二君に仕へると言ふことは、
甚だ心よからぬことで、殆んど嘆息の余り、昔の浪人にでもならうかと
思ふに至つたのである。丁度其時、「民部大輔が仏蘭西にお出でになる
につき、私も共をして行け」と云ふ命が出たのである。


誘われて明日の台詞を口ごもる  皆本 雅


私は此際ほど困つたことはない。これまで、倒さう〳〵と心懸けて来た
幕府であるから、仮令(たとえ)是まで仕えて来た君――君というのは
少し穏かでないかも知らぬが――が将軍になられたからとて、オメ〳〵
幕府に仕へて幕吏となるわけにもゆかず、さればとて、今更、浪人して
見たところで仕方が無いのみならず、甚だ危険である。
…中略…その中、仏蘭西留学を仰付かる事になつたが、此時ほど、又私
の嬉しく感じたことは無い。これで、進退維に谷まる(しんたいこれに
きわまる)憂いも、先づ無くなつたと思ふと、実に嬉しかつたのである。
慶応3年の正月3日に京都を出発し、仏蘭西郵便船のアルヘー号で横浜
を出帆したのが、正月の11日である。


人恋しくてたそがれの髭を剃る   西山春日子



新選組副長・町田啓太


「大沢源次郎事件」
パリへ旅立つ前年の9月頃のこと。
「京都見廻組の者、300から400人が徒党を組み、謀叛を企んでい
るらしい」と京都町奉行所から陸軍奉行に御書院番士・大沢源次郎が、
「不定浪士と共謀して、兵器を集め、容易ならざることを企てている」
という連絡があった。やむなく幕府は朝廷に働きかけ、「将軍の喪中」
であることを理由に、長州藩と休戦協定を結んだ。喪中休戦は口実にし
て、幕府の失態を繕ったことは明白で、幕府の威信は、ここに地に墜ち
たものである。そんな矢先に、京都で不穏な噂が流れた。


さもしくて一気飲みするホテルバー  ふじのひろし


大沢の肩書きは、禁裏御警衛番士で陸軍奉行・溝口伊勢守の配下となる。
即ち、大沢の捕縛は、篤太夫の所属する陸軍奉行方務めのこととなった。
しかし、大沢は剣の腕もめっぽう立つという、ことで皆、尻込みをして、
だれもやりたがらない。そこで篤太夫が適任ではないかという、ことで
お鉢が回ってきた。「どうだ篤太夫、行ってはくれぬか。いや無論、貴
公一人でかせるわけではない。護衛に新選組をつける。なあに、造作も
ないことだ」と組長は、たまたま「陸軍奉行支配調役所属」の篤太夫に
押し付けてきた。


重力の悪さなんでしょ秋の鬱  銭谷まさひろ


ーーーーーーーーー


「大沢源次郎の捕縛」(栄一の処世談ゟ)
慶応2年、私が27歳の時であつたと思うが、麾下で禁裡番士を勤め京
都に駐在して居つた大沢源次郎といふ男が、薩州の者と手紙を往復した
とかで、当時、非常に薩摩を怖がつてた幕府から、不軌を企てるものと
見做され、その頃、大阪に政庁を置いてた幕府の陸軍奉行より、同人へ
御不審の廉(かど)あるに付、江戸へ護送して吟味致すべき旨、申渡し、
其場で同人を召捕ることになつたが、その時の陸軍奉行調役組頭は臆病
な男で、大沢が撃剣に達して居るといふ事を耳にし、自ら出かけるだけ
の勇気無く、私へ其の役を転嫁して来た。私が新撰組の者数人と共に、
大沢の寓居であつた紫野大徳寺の境内へ、陸軍奉行からの申渡状を持参
して赴く事になつたのは此の時である。
 
 
 どっしりとそれが一番むつかしい  後藤宏之
 
 
その際、近藤勇、「本来ならば自分で同道する筈だが、所用の為同道
し得られぬから、代理として土方歳三を遣はす」とのことで、同人は四
人ばかりの壮士を率いて、私の護衛に来たのである。同日午後、探偵を
放つて大沢源次郎の動静を窺はせると、まだ寓居へは帰つて居らぬとの
事で、一同は晩餐の為、小さな飲食店に立寄り弁当を食べてから、大沢
の帰宅を確めて、紫野大徳寺境内なる同人の寓居へ赴いたのだが、「私
が申渡しをしてから同人を縛るか、縛つてから私が申渡しをするか」
就て、私と新撰組の壮士との間に意見を異にし、遂に、私の意見に従ひ、
私が陸軍奉行よりの命を伝へてから後に、大沢の大小を取り上げ、同人
を新撰組壮士の手に引渡すやうにしたのである。


飲みながら言うけど奢りでっしゃろな  一階八斗醁



大政奉還図 (邨田丹陵)


「将軍継承そして大政奉還へ」
徳川昭武に随行して、パリ万国博覧会へ出発をして、まもなくの10月
14日に、慶喜は政権を朝廷に返上した。「大政奉還」である。
それにより、徳川幕府は260年続いた歴史の幕を閉じ、鎌倉幕府が開
かれ約700年続いた武士による政治は終わりを告げた。


純粋の純を捩ると鈍になる  新家完司


「篤太夫、述懐する」
慶喜公が一旦将軍に御成りになつてしまへば、幕府が倒れた時に如何とも、
天下の政治に志の叙べようが無くなつてしまう。そこで私は飽くまで、慶
喜公を一橋家に引き留めて置いて、将軍職には、御就かせ申すまいとした
のである。
しかし、これは後年に至り、御面会を致した際に、始めて承つて知つた事
であるが、慶喜公には、此時既に大勢の赴く所を御察知あらせられ、当時、
私共の想い及ばなかつた御深慮を御持ちになり、大政を奉還して御親政の
道を開きたいとの御志望から愈々、将軍職に御就きになることになつたの
である。


別宅に馬本宅に牛を置く  井上一筒

拍手[5回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開