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川柳的逍遥 人の世の一家言
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二条城の鶯張りは江戸訛り  岸井ふさゑ



『子供遊世直し祭り』 (慶応4年・作者不明)

と書かれた酒樽の横で子供が天子の菊紋の扇子を広げ踊る、その神輿
を担いでいるのは「丸に十の字紋」の薩摩と「一文字三星紋」の長州。
先頭
の衣冠束帯の子は有栖川宮。その後ろでたじろいでいるのが和宮
篤姫
オレンジの腹がけの子は、徳川慶喜という設定。


渋沢篤太夫たちがパリへ旅立った後も、引き続き徳川慶喜は、幕府の立
て直しに取り組んでいたが、長州藩の処分や兵庫開港などの問題を巡り、
薩摩藩と対立する。西郷大久保が主導権を握っていた薩摩では、慶喜
を将軍の座から引きずり下ろし、天皇をトップとする政体の樹立を目指
そうという声が日増しに大きくなった。そのためなら慶喜との武力対決
も辞さないという気運も高まる。


正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝



慶喜の処遇で会談する勝海舟と西郷隆盛

 
「青天を衝け」 慶喜、その後


「鳥羽・伏見の戦い~」
西郷隆盛たちは天皇による政治、つまり、王政復古の実現を唱える公家
岩倉具視とはかり、「慶喜追討」の天皇の命令書の交付を朝廷に願い
出る。慶応3年10月14日薩摩・長州藩主宛に倒幕の密勅が下ったが、
同じ14日に慶喜が「大政奉還」の上表を提出、すなわち政権を朝廷に
返上したことで、西郷たちが打倒を目指していた幕府は倒れた。24日
に慶喜は将軍職を表明し、諸侯の列に下りた。260年余、政権の頂点
にあった徳川は、一介の大名になったのである。


甘い夢すてよとドクダミの臭気  銭谷まさひろ


むろん慶喜は、転んでもただで起きるつもりはない。慶喜は幕府をみず
から消滅させるという奇策により、政局の主導権を握ろうと企んだので
ある。「長らく政権から離れている朝廷に政治は行えず、自分(慶喜)
を頼って来るだろう」という算段があったのだ。
こうした意を受けて親幕派から、慶喜を新政府のリーダとして、擁立し
ようとする動きが盛んになりつつあった。「倒幕はなったが、徳川政権
が形を変え存続しかねない」という、討幕派の思惑とは異なる事態を受
けて、西郷らは、危機感を覚え、慶喜をはじめ親幕派の会津藩を排除し
ようという計画が企てられる。


正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝


以後1ヶ月近く、双方は睨み合いを続けるが、翌4年1月3日、京都南
郊の「鳥羽と伏見で開戦」となる。はからずも慶喜はこの戦いに敗れて
しまい、「朝敵」に転落した。禁門の変での長州藩の立場となったのだ。
形成を展望していた諸藩は雪崩を打って、朝廷軍の旗印「錦の御旗」
掲げられ、今や官軍となった薩摩・長州藩の側に付いた。
ここに相次ぐ敗報、さらには朝敵とされたことで、慶喜は戦意を失う。
6日夜、密かに大坂城を脱出すると、海路江戸に向かった。7日、朝廷
、「慶喜追討令」を発した。


人波に漂いたいと思う今  石橋直子
 

ーーー


大坂城を脱出した慶喜が、江戸城に戻ってきたのが同4年1月12日の
ことである。それから約1ヵ月、徳川家では和戦をめぐって激烈な議論
が交わされるが、慶喜は諸般の情勢を分析した結果、新政府に反省の意
を示すことで、寛大な処置を願う恭順路線を選択する。
以後、勝海舟をして新政府との交渉にあたらせた。


如才なく凍土に埋めておきました  加納美津子



弘道館 至善堂


2月12日、慶喜は、江戸城を出て徳川家菩提寺の上野・寛永寺に入り、
子院大寺院の一室に謹慎した。身をもって恭順の姿勢を示したが、これ
に反発する幕臣は多かった。そうした反発が「彰義隊」の結成へとつな
がっていく。慶喜が寛永寺に入って1ヵ月後の3月13日、江戸の薩摩
藩高輪屋敷で総督府参謀の西郷勝海舟との会談が始まる。14日の再
会談で15日に予定されていた「江戸城総攻撃」は延期され、慶喜の助
命も決まる。4月11日、「江戸城明け渡し」が行われ、その日、慶喜
は寛永寺を出て水戸へ向かい、今度は水戸・弘道館 至善堂での謹慎生活
が始まる。


転がっていった淋しい音だった  居谷真理子


 一方、パリにいる篤太夫は、フランスの新聞記事で、慶喜が鳥羽・伏見
の戦いで敗れて、江戸城に逃げ戻ったことが書かれていたが、篤太夫は、
<虚説であろう>と言って、一向に信じなかった、と、使節団の世話役
をしていたビレット中佐が語っているが、3月16日到着の御用状には、
フランス新聞と同じことが書かれていた。この時、慶喜が朝敵になった
ことも知った。篤太夫たちが、徳川家や慶喜の有様に嘆き悲しんだのは、
言うまでもない。そして自軍への怒りも隠そうとはしなかった。


生真面目な方の自分が邪魔をする  中村幸彦


その篤太夫の悲憤慷慨は、昭武信書の名目で慶喜に送った書状でわかる。
 『殿下がさきに大坂を御立退になって関東へ御帰城になったのは実に
頼もしくない思し召しである。また、たとえ御帰東なされたとて、なぜ
速やかに兵を挙げて京都に向かう御手配はなされぬのであるか、今日の
朝廷というは、つまり薩長二藩であるから、これを討滅するにおいてさ
まで困難ということもあるまい、もし、また最初から真に<朝意を遵奉
して恭順を事とする>の思召しならば、何故、伏見下鳥羽の戦争を開か
れしや、既に先端を開いた以上は、万やむを得ざることであるから…、
いわゆる<強き者の申分は、いつも好くなるもの>というフランスの諺
に従って断行したならば、勝遂げぬということはあるまい』『雨夜譚』


スッポンに噛みついたまま9秒9  宮井元伸
 


弘道館 至善堂で謹慎中の慶喜
 

「要約」
大坂城を退いて江戸に戻ったのは、実によくないことである。大坂城を
動かずに薩長両藩と戦うべきであった。たとえ、江戸に戻ったとしても、
兵備を整えて京都へ攻めのぼるべきである。朝廷を奉じて官軍を名乗っ
ているとはいえ、薩長両藩の討滅など、さほど難しくないだろう。すで
に開戦となったのであるから、今さら恭順の姿勢など取るべきではない。
「強者の言い分はいつもよくなる」勝てば官軍)というフランスの諺
も引用し、篤太夫、「戦い抜けば勝てないはずはない」のだと、決戦
を迫った。


日本がアルカリ性に変わるまで  田久保亜蘭



弘道館至善堂二の間・三の間で謹慎する慶喜の下絵
 羽石光志が慶喜の肖像画制作のために描いた構想下絵


パリで歯噛みしていた篤太夫たちに、新政府から帰国命令が下ったのは、
3月21日のことである。慶喜が恭順の姿勢を示すため、江戸城を出て
寛永寺に入ったことを、篤太夫たちが知ったのは、4月13日である。
帰国の命令書が届いたのは、5月15日だが、慶喜の処遇が決まった旨
が記された御用状もこの日に着く。江戸城開城と引き換えに助命され、
水戸での謹慎となった。遠くから何を言っても「今は信じるしかない」
フランスの新聞記事で、17日に、慶喜が水戸へ向かったことも知る。
江戸城も明け渡された。7月15日には、江戸で彰義隊の戦いが起き、
18日には、敗北も知った。9月4日、昭武一行はフランスを離れる。
一行を乗せた船・アルフェー号が横浜港に入ったのは11月3日のこと
だが、篤太夫は、日本不在中に起きていた衝撃の事実に茫然自失となる
のであった。


にんげんをジワリ崩してゆく月日  新家完司


「慌ただしい慶応4年の出来事をまとめてみると」
慶応3年1月11日 昭武一行パリへ立つ。
10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古
慶応4年 / 明治元年(1868)
1月03日 鳥羽・伏見の戦い
1月12日 慶喜江戸城に帰城
2月12日 慶喜、寛永寺の子院大慈院の一室で謹慎
2月15日 東征軍、京都を進発
2月23日 彰義隊誕生
3月14日 江戸城総攻撃中止(海舟、西郷会談)
4月03日 彰義隊、寛永寺に移る
4月11日 江戸城開城
4月19日 振武軍、田無村駐屯(隊長・成一郎)
5月15日 彰義隊の戦い
5月23日 振武軍、飯能で壊滅(渋沢平九郎、自刃)
5月24日 徳川家が静岡70万石に封ぜられる。
9月04日 昭武一行、帰国の途へ
9月22日 会津藩降伏
10月13日 明治天皇、東京に入る
11月03日 昭武一行、帰国
「帰国後の篤太夫の行動」
12月01日 血洗島村に帰郷
12月23日 静岡・宝台院で慶喜に拝謁
12月27日 静岡藩勘定組頭格御勝手懸りに


海側の一面 山側の三面  くんじろう

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