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川柳的逍遥 人の世の一家言
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文明にさらして吊るして腐らせて  山口ろっぱ




飯田町中坂九段・火付盗賊改の役宅があった周辺図


長谷川平蔵は、寛政7年4月、とつぜん病に倒れた。病気が何かは不明
だが、病勢は日ごとに重くなった。このことは将軍家斉の耳にも達し、
5月6日に、将軍家秘蔵の高貴薬・「乩瓊玉膏」(けいぎょくこう)が届
けられた。しかし、快方に向かうことなく、4日後の5月10日に死去
した。
平蔵の死があまりに急であったために、長谷川家では、家督継承を無事
にすませるため、その死を秘匿し、5月14日になって「大病に相成り
候につき御加役御免」を願い出た。16日に辞職が聞き届けられるとと
もに、永年の勤続に対して、金3枚と時服二領が下賜された。
嫡男の辰蔵宣義が父の「死亡届」を若年寄・京極高久に差し出したのは
5月20日で、その届には、「寛政七年五月十九日病死」とあった。
 

 枯れ蓮の侘びは輪廻を知っている  美馬りゅうこ
 
 
平蔵の死を受けて、その一年後の寛政8年6月に「火付盗賊改」の役に
付いたのが、森山源五郎孝盛である。この森山は、平蔵のことが嫌いの
ようで、何かあると悪口を吹聴し、自著『蜑の焼藻』(あまのたくも)
に平蔵の悪口を書きのこしている。
『(長谷川平蔵は)八年が間、さまざまの奇計をめぐらしたるにより、
世上にては、口々に長谷川がことを批判したりけり。元来、御制禁の目
明・岡引というものを専ら使いたるゆえに、差し掛かりたる大盗・強盗
なんどは、忽ち召し捕って手柄を顕わあしたれども、世上は却って穏や
かならず。大火も年々絶えずけり…中略…然るに翁(森山自身)思いよ
らず、捜捕の職を命ぜられければ、つくづくと考うるに…』と、。


煎餅が薄くなったと奈良の鹿  嶋田捨一



役人は奉行所から両国橋を渡り八丁堀へ通った
長さ94間(約170m)、幅4間(約7m)



「両国橋・納涼」 広重

千人が手を欄干やはしすずみ  其角
このあたり目に見ゆるものみなすずし  芭蕉



「京橋 広重」

 
 この橋の袂から八丁堀がのぞめる。


  「火付盗賊改」 森山孝盛の肝っ玉


長谷川平蔵ののち、対照的な2人の先手頭が相次いで「火付盗賊改」
なった。森山源五郎孝盛、次いで池田雅次郎政貞である。
平蔵と森山・池田の3人は、いずれも10代将軍・家治のお目見をはた
し、田沼意次から松平定信へ移った両政権下で、番方の役人として役目
を競い合って昇進してきた。
平蔵と森山の家禄は、ほぼ同じ400石。ただし家祖の活躍からすると
長谷川家が格上であった。森山家は甲斐武田氏の家来であったが、武田
勝頼の死後に家康に臣従した。この家格の差は、旗本の子息が最初につ
く役目に直結する。平蔵のスタートが書院番士であったのに対し、森山
は大蕃士であり、その後の出世・昇進のコースとスピードで差が広がる。


鰓呼吸はじめました夕まぐれ  酒井かがり


平蔵の出世がずば抜けて早いのは、父の平蔵宣雄の余慶で、松平武元
田沼意次という2人の有力な老中の信任が厚かったせいである。森山も
全盛期の田沼意次の屋敷へ熱心に挨拶に伺っているが、いっこうに要職
にめぐまれなかった。松平定信が老中になってから、ようやく芽が出た
のである。そして、普通ならば、隠居してもいい58歳という高齢で、
しかも平蔵の後任として「火付盗賊改」に就任したのである。


手招きですぐに靡いて行く尻尾  百々寿子


『寛政7年5月、加役つとめ居たりし長谷川平蔵重病にかかりて、危う
かりければ、翁(森山自身)を召して捜捕の役を命じられぬ。彼長谷川、
小ざかしき性質にて、8年の間、加役勤めるうち、さまざまの計をめぐ
らしけり…森山がいう平蔵の「小賢しい』とは、何のことを言うのか。
『火事現場に、長谷川平蔵組の高張提灯が、いち早く掲げられたのを、
「愚かなるものの目には、はた長谷川の出馬せらたると、驚き思わせる
ためなり』…、『奸計だ』と、言うのである。
しかし、混乱と雑踏の火事場に火盗改めの提灯を立て、同心が見張って
いれば、犯罪や事故の防止になる、のだが。


啄木鳥の巣に不都合をひとつ置く  くんじろう


さらに平蔵は、自分が刑死させた罪人については、寺に墓塔をたてて菩
提を弔ったり、また、路上に物乞いに銭をめぐんだりもしたが、このこ
とも森山の目には、「小賢しい奸計」と映って、悪口を浴びせている。
森山は、そんな風に勘ぐる肝っ玉の小さい、性格の人物であった


つぶやきは第2犬歯に絡ませて  井上一筒
 



森山孝盛の日記


森山孝盛「火付盗賊改」として盗賊・火付けなどの凶悪犯と対決したり、
市中に屯する無宿者の取り締まりを、率先して行うタイプではなかった。
和歌を京都の冷泉家に学び、自ら歌人・和学者としてふるまい、日記も含
め大量の著述を遺した。松平定信は、森山が武人というより、文人肌のと
ころを評価して抜擢したのである。森山は、平蔵を書くとき、平常心を失
って過激に非難してしまい、そのため独りよがりの自慢と自己弁護を書き
連ねることになる。


切れ味の鈍いナイフがよく馴染む  成田智子


森山平蔵が世間から批判されていたように書いているが、一部の幕臣
の間では平蔵の批判はあっても、「世上」では、むしろ逆の評価をされ
ていた。平蔵の悪評を「よしの冊子」に表した定信の側近・水野為永
さえ『殊に町方にでも一統相服し、本所辺りにては、将来は本所の御町
奉行になられそうな、どうぞしたい』と、町人から町奉行への就任が期
待されるほど、人望があったことを伝えている。一方、為永は森山孝盛
については『いずれ一体根生むずかしき男のよし』と、根性が曲がって
いる男といっており、旗本屋敷の隣人間で、トラブルメーカーであると
書いている。


完璧のはずへまさかの平手打ち  西尾芙紗子


森山が老中に上申した「御仕置伺い」は18件あるが、彼が行ったこと
で重要なのは、犯罪の取り締まりや、犯人の捕縛・裁判よりも、後任の
ために火盗改めの職務内容を書きまとめたり、職務上備えるべき物品を
リストアップした「控帳」を整理・記録したことである。火付盗賊改の
役宅内に設ける仮牢や白洲の仕様も、書き残している。
こうした記録がこれまでなかったので、自分は現場の仕事に取り掛かれ
なかったと、前任者の平蔵への非難も忘れずに書いている。
(因みに、平蔵の「御仕置伺い」は8年間で201件)


鏡を見ない一日だった独り部屋  瀬川瑞紀



日本橋の賑わいの様子

日本橋はこの混雑を利用して、盗人が大きな顔をして、入り込み
また仕事を終えて逃亡を助ける、大都会の玄関口なのである。


森山は寛政8年6月、1年で役替えになったが、これが余程悔しかった
ようで、自分に取って代わった後任の塩入利恭(しおいりとしのり)を
老中・戸田氏教のコネで火盗改めになった『大兵にて無芸無学」(大男
の大バカ)と口をきわめて、罵詈を浴びせている。その塩入は、7ヶ月
後に病死し、後任になったのが池田雅次郎である。


木枯らしがこの一年を問うてくる  靏田寿子

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