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川柳的逍遥 人の世の一家言
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後戻り出来ぬ思いのひとり言  靏田寿子
 
 
 
上野戦争
徳川家の菩提寺・寛永寺に集まった彰義隊は、大村益次郎の作戦により、
わずか一日で壊滅した。
 
 
「青天を衝け」 彰義隊


「篤太夫がフランスへ出発する直前、友へ」
篤太夫は、渡仏の前に会っておきたい者がいた。
文久3年(1863)に血洗島村をともに出た渋沢成一郎である。
従兄弟である以上に、死生ををともにしようと約束した友人だった。
『自分は幸に、この命を受けたから誠に幸運だが、それについても貴契
の身上が思い遣られる。…中略…それにしても、ただ末路に不体裁な事
がないようにしたい。僕は海外に居り、貴契は御国に居て、その居所は
隔絶することになったが、この末路に関しては、共に能く注意して、恥
ずかしからぬ挙動をして、いかにも有志の丈夫らしく、死ぬべき時には
死恥を残さぬようにしたいものだ』と決別した。(『雨夜譚』ゟ)


百均の雑巾掛けの拭き残し  中岡千代美


フランスに向かう篤太夫にとり、心残りは、国内に残る成一郎のことだ。
最初は幕府を倒すため、故郷を出たはずだったが、運命のいたずらか、
その幕府に仕えることになった。
しかし、幕府の命運は尽きており、長くはもたないだろう。「互いに亡
国の臣となることは、覚悟しなければならないが、恥ずかしくない行動
をとり、死後に恥じだけは残さないようにしたいものだ」と述べ、篤太
夫は成一郎に別れを告げた。篤太夫は、3歳年上の成一郎のことを非常
に心配していたが、「これが現実のもの」となる。


2人分作ってしまう さみしいね  北原照子


「彰義隊・頭取・渋沢成一郎」
慶応3年(1867)2月11日、徳川慶喜が寛永寺の一室に謹慎した
前日のことである。
「慶喜公は尊王のために誠忠を尽くし、去年冬には、大政を朝廷に奉還
された。しかるに、奸徒どもの策謀に堕ちて、朝敵に転落したことは切
歯に耐えない。君辱められれば臣死する時である。一致団結して多年の
御恩に報いるのはこの時だ。ついては百般ご相談申し上げたくお集まり
いただいた」
慶喜の汚名をそそぐ意をもって、江戸郊外の鬼子母神の門前茶屋「茗荷
屋」に陸軍付調役並の本多敏三郎や同役の伴門五郎たちが、この「廻状」
の呼びかけに応じて集まった。この呼びかけに応じて集まった者たちが
「彰義隊」の始まりだった。


遠眼鏡虹の向こうを追いかける  藤村タダシ


この最初の集りには17人の参加だったが、三回目の集まりには、渋沢
成一郎天野八郎も参加した。当時、成一郎は奥祐筆格に昇格していた。
奥祐筆とは、幕府の機密書類を預かる重職であり、慶喜の信頼の厚さが
わかる人事だ。まさに慶喜側近の1人になっていた。成一郎は、慶喜の
後を追いかける形で、江戸に戻るが、本多たちの強い要請を受け、21
日の会合に参加したのである。当初、成一郎は渋っていたものの、江戸
に出てきていた尾高惇忠の勧めもあって参加を決めた。


しっかりと踵下ろして見る視線  津田照子


ーーーーーー
天野八郎             天野の恰好よすぎる錦絵


一方、天野八郎は、群馬県南牧村の名主・大井田家に生まれ、幼名を
井田林太郎といった。江戸に出て、学問や剣術に勤しんだが、慶応元年
に与力・広浜利喜之進の養子となって八郎と名乗り、幕臣となる。幕臣
といっても、その出自は多種多様だが、三河譜代の旗本などは、新参者
の幕臣に好感を持ち得なかったことは想像がつく。幕末には武士の身分
を買い、農民から武士になる裕福な農家もあったのだ。こうした「にわ
か幕臣」にすぎない者たちが、慶喜を奉じて「彰義隊結成」のレールを
敷いたのである。


決心のついた玉子を裏返す  下戸松子


3回目の会合に成一郎が参加したことで、同志の結集には弾みがついた。
初回からみて4倍に増えた同志は、次回の会合の参加者はかなり増える
とみて、本多たちは場所を浅草本願寺に変更する。実際、さらに2倍の
130名にまで増えた。この日、会合名が「尊王恭順有志会」と名付け
られる。尊王の志が厚い慶喜が、恭順の意を示していることを踏まえた
名称であったが、隊の名前も付けることにした。そして試行錯誤の結果、
「彰義隊」と決まる。頭取、副頭取、幹事も決まる。成一郎が頭取に、
天野八郎が副頭取におされた。彰義隊は「同盟哀訴申合書」を作成して
徳川家に提出したが、こうした一連の幕臣たちの間で広まったことで、
彰義隊への参加者が急速に増え、たちまち千人ほどに達した。


止まぬ激論びっくり水を注いでやる  柳川平太
 
 
 
東叡山文珠楼焼打之図(横浜市歴史博物館)

 慶応4年2月に結成された彰義隊は、5月15日に2千名程が上野の山
にたてこもり、約2万の薩長連合軍と戦った。朝から昼過ぎまで砲撃を
受け、その砲声は、江戸市中にとどろいたといわれる。

 
彰義隊が寛永寺に移ってきたのは、4月3日のことである。当所に謹慎
する慶喜にとり、その存在はあまり好ましいものではなかった。
当時、境内には、徳川家の指示を受けて、護衛の幕臣たちが、多数駐屯
していた。護衛の幕臣の数は、千5百から千6百。境内が広大とはいえ、
彰義隊が寛永寺に移ることで、慶喜護衛の幕臣たちとトラブルが起きる
恐れがあった。彰義隊が徳川家の命を受けて駐屯したわけではなかった
からだ。


その辺に私の声が落ちている  高田佳代子


「成一郎が晩年に語ったところによれば」
彰義隊が千人以上にも膨れ上がったことで、隊内の規律が乱れ、統制し
きれなくなったという。東征軍に反感を抱く血気盛な幕臣たちが次々と
加わり、過激な言動に及んだという。過激な言動とは、「東征軍との戦
いも辞さない」という主張だ。恭順路線を強いられた幕臣たちの不満の
表れであり、いつ暴発するかもわからなかった。江戸城開城に先立って、
東征軍の兵士が続々と江戸に進駐しており、市中は、一触即発の状況に
あった。


吠えまくる奴が一匹輪の中に  相田みちる


しかし慶喜の懸念は杞憂に終わる。4月11日、江戸城開城の日、実家
水戸藩のお預けの身となった慶喜は、粛々と水戸へ向かった。寛永寺で
護衛していた幕臣のうち500人が水戸までお供をした。彰義隊も見送
りの形で、千住まで御供したが、成一郎は、さらに松戸まで慶喜を見送
っている。15日、慶喜は水戸に到着し、藩校・弘道館での謹慎生活に
入る。

ひっそりと生きる余生の持ち時間  佐藤后子


「彰義隊分裂」
慶喜の寛永寺退去を受けて、今後どうするのかが、彰義隊の課題となる。
慶喜を守護する目的だけならば、もはや寛永寺に駐屯する理由はない。
成一郎は寛永寺を退去し、別の場所に移ることを幹部に提案した。慶喜
から「くれぐれも軽挙妄動しないように」と懇論されており、隊員が暴
発して、東征軍と戦争になるのを恐れたからだ。しかし、成一郎の江戸
退去の提案は、隊内から猛反発を買う。


その辺に私の声が落ちている  高田佳代子


成一郎への反発が強まる中、対照的に副頭取の天野が支持を集めていく。
天野は、学問も武術も秀でていたが、もともとは農民出自であるために、
武士であることに強いこだわりを持っている。義を重んじ、直情怪行な
性格の持ち主でもあった。
「男なら決して横にそれず、ただ前進あるのみ」と言って、将棋の駒の
香車を好んだという。武士であることに誇りを持つ天野にしてみると、
成一郎の言動や行動は反発せざるを得なかった。さらに、2人は慶喜
対する思い入れがまったく違っていた。ついには渋沢派の隊士は、天野
派の隊士と決別。渋沢派の隊士は寛永寺を去った。


ためらえば過去も未来も黄昏れる  平尾もも子


寛永寺を出た成一郎は、栄一の従兄弟である須永伝蔵、尾高淳忠、養子
渋沢平九郎ら、渋沢派の隊士を伴い西へ向かい、多摩郡田無村に拠点
を置いた。田無村は、江戸から5里ほどの距離にあったが、成一郎たち
が本拠を置くと、人数もおいおい集まり始める。彰義隊を抜けた隊士や
水戸藩士などで300~400人にまで増えた。成一郎は、彰義隊から
分派した部隊を「振武軍」と名付け、大寄隼人(おおきはやと)という
名で隊長となる。振武軍は、前軍、中軍、後軍の三隊から構成されたが、
中軍頭取の下で組頭を務めたのが渋沢平九郎だった。実兄でもある淳忠
榛沢新六郎と名乗り、会計頭取を務めた。


つまづいた石を布石に立ち直る  高矢芳加津


振武軍は、田無村から東征軍の動静を展望することにしたが、軍資金や
兵糧が足りなくなる。そこで振武軍は、田無地域のほか、府中・日野・
拝島、所沢、扇町谷地域の村々に対し、御用の筋があるとして、田無村
西光寺への出頭を命じた。御用の筋こそ軍資金調達の要請であった。
ミニエー銃を装備した振武軍の軍事力に恐れをなした格好で、多摩郡の
村々は合わせて三千六百~三千八百両もの大金を献納する。軍資金を手
に入れた振武軍は、さらに田無村から西へ5里離れた箱根ヶ崎村へ移動
を決める。東征軍の奇襲を避ける距離を考えたものである。


運も又運次第だと運が言う  下林正夫



彰義隊の戦い①
右端下、戦の様子を見る天野八郎



一方、天野率いる彰義隊への参加者は、最盛期には2千人とも3千人に
とも膨れ上がった。譜代大名の家臣たちも加勢した。
越後高田藩の「神木隊」若狭小浜藩「浩気隊」などである。彼らは新政
府に帰順した主家に反発し、脱藩して馳せ参じてきた面々だった。徳川
家内部の抵抗勢力が彰義隊として結集し、有栖川を戴く東征大総督府が
入城した江戸城に、東から威圧をかける形であった。


風の音なのか大地が軋むのか  新家完司



彰義隊の戦い②
 
 
危機感を強めた新政府は兵力不足に悩みながらも、彰義隊の武力鎮圧を
決意する。その勢いで、徳川家への過酷な処分を公表することも決める。
5月15日朝、東征軍は寛永寺に籠る彰義隊に総攻撃を開始。午前中の
戦況は一進一退だったが、午後に入り、佐賀藩砲兵隊が最大な射程を持
つアームストロング砲で、寛永寺の堂社の数々を焼き討ちにすると、彰
義隊は浮足立つ。これを機に形勢は一気に東征軍に傾き、勝敗は決した。
上野戦争ともいう彰義隊の戦いは、一日もかからず終わった。


ひとりずつこの世を抜ける喪の知らせ  梶原邦夫



彰義隊の戦い③
 
 
振武軍に「彰義隊開戦」の一報が入ったのは、その日の夜のことである。
開戦の折には、別動隊として東征軍との戦いに参戦するつもりで、振武
軍は、彰義隊の助勢に向かったが、朝も明けるころ、高円寺村まできた
ところで、彰義隊の敗北を知る。振武軍は、そのまま引き揚げてきた田
無村には、敗走した彰義隊の残兵が続々と集まってきた。今となっては、
破れかぶれで江戸に突入しても仕方がなかった。成一郎は箱根ヶ崎から
2里ほど北に位置する一橋家の領地があった飯能村へ転陣し、能仁寺に
本営を構え、ほか四ヶ寺に兵士を駐屯させ、追撃にくるだろう東征軍を
迎え撃つことにした。


百鬼夜行見張りの役はろくろ首  前中一晃


一方、彰義隊の戦いの前から振武軍の動向をキャッチしていた東征軍は、
彰義隊の残敵掃蕩もかねて、討伐軍を派遣することを決める。振武軍は、
東征軍の一隊が迫ることを知り、迎え撃つため出陣、両軍は同日夕方、
入間川で小競り合いが始まった。そして、飯能を戦場とした振武軍は、
彰義隊を破ったばかりで勢いに乗る東征軍のもはや敵ではない。
数時間の激戦の末、振武軍は、東征軍の前に敗れる。


雑草に残る轍の後を追い  宇都宮かずこ


勝敗が決すると、生き残った振武軍の面々は、血路を開き、戦場を次々
と脱出していく。成一郎淳忠は北に向かう。上野国まで落ち延び、伊
香保や草津に潜んだ。その後、淳忠は故郷へ戻るが、成一郎は榎本武揚
率いる徳川家の軍艦に乗って蝦夷地へ向かう。翌明治2年(1869)
まで、新政府への抗戦を続けた後、みずから軍門に降り、東京へと護送
された。


災の字を思う見たくない忘れない  市井美春
 


振武軍のイケメン・渋沢平九郎


 「渋沢平九郎の最期」
さて、篤太夫のもう一人の従兄弟、平九郎である。
飯能での乱戦の中、平九郎は成一郎惇忠とはぐれ、山中に逃げ、越生
(おごせ)の境にある顔振峠(こうぶうりとうげ)に辿りついた。
峠の茶屋の女主人は、すぐに平九郎が、旧幕府軍の隊士であると見抜き、
新政府軍の目の届かない秩父へ抜ける道を教えた。それなら農民に変装
して落ち延びようと、平九郎は、大刀を茶屋の女主人に預け、何か考え
があってのことなのか、茶屋の女主人に、逃げ道を指南されたものの…
平九郎は別の道、越生方面へと下りていった。


道しるべ判別できず赤トンボ  山本早苗
 


越生にて激闘する平九郎。
中央の平九郎、広島の斥候と刀を交わすも銃弾に倒れる。
 
 
越生町黒山村に下った平九郎は、新政府方の広島藩・神機隊四番小隊の
藤田高之一隊の斥候と遭遇する。平九郎は、腰に一本だけ手挟んでいた
脇差で斬り結ぶことになった。敵方3人に小刀で応戦し、1人の腕を切
り落し、1人にも傷を負わせたが、右肩を斬られ、足には銃弾を受けた。
平九郎の気魄に恐れをなした斥候隊の一人が、仲間を呼び戻ってくると、
平九郎は川岸の岩に座して、観念の自刃を遂げていた。東征軍の兵士た
ちは、すでにこと切れている平九郎に向けて、銃を乱射した後、その首
を刀で打ち落としたという。5月23日午後4時だった。
首は越生の法恩寺門前に晒され、その後、境内裏の林の中に埋められた。
 その後、遺骸は黒山村・全洞院に葬られる。享年22歳だった。



全洞院黒山・平九郎の墓参に訪れた渋沢家一家
 明治7年年12月、渋沢平九郎の骸は、法恩寺に埋葬されていた首と
ともに、東京谷中の渋沢家墓地に改葬されて、栄一は2度参っている。
 
 
四季おりの便りは枯れ葉にてかしこ  山本昌乃

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