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川柳的逍遥 人の世の一家言
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本物の大御所今日も野良仕事  新家完司
 
 

目黒行人坂の火事  (武士と市民が力を合わせ消火にあたっている)

江戸の街は、窮民が増え、盗人や物取り目的の放火や衝動的な放火が相
次いだ。これは僧の真秀が起こした放火で即時、捕らえられ市中引き回
しののち、小塚原で火刑に処された。


「松平定信」
松平定信は、八代将軍・吉宗の孫。天明3年(1783)26歳で白河
藩主になり。天明7年、松平定信が老中首座へと抜擢されると、天明の
江戸打壊しを頂点とする深刻な幕政批判に対処すべく、「寛政の改革」
を断行。新政権の陣容をがらりと入れ替えた。
田沼派の大老・田沼直幸・松平康福・水野忠友らは追い出され、定信に
忠実な松平信明・松平乗完・本多忠壽を老中に据えた。諸奉行も田沼色
に染まっていない「清廉潔白」を目安にして選ばれた。
そのため多くの役職で、清潔だが仕事が出来ない役人が生まれた。
その分、江戸は無政府状態に陥り、札差・米屋・酒屋・質屋・など暴利
を貪っていた豪商・商家約8千軒が襲撃された。江戸は悪党が好き放題
にできる無法の町になった。


真夜中のアッで始まる無神論  森田律子


「火付盗賊改」 よしの冊子&堀帯刀秀隆
 

 
 奢侈禁止令に抗う「よし」


寛政の改革を断行した老中・松平定信が城中・市中の動静をつかむため、
隠密を用いて情報を収集した『よしの冊子』という記録がある。
定信が老中を勤めた天明7年~寛政5年まで、定信の家臣・水野為長
統括役になり、定信の老中首座就任と同時に「諸役人の人物柄から勤務
ぶり、同僚間の評判、また、市中の動静を見聞、探索させた」。為永は
三日から十数日ずつ、隠密の報告をまとめて筆記し、主人の定信が上覧
できるようにした。一段落ごとに「そのようだ」という伝聞を意味する
「よし(由)」とあることから「よしの冊子」と呼ばれるようになった。


辞書は字が本屋は本が多すぎる  中野六助


定信は30歳という若さで老中になり、その翌年には、幼い将軍家斉
補佐として政務を執り仕切ることになる。多くの場合、京都所司代や若
年寄などの要職を経た人が、老中になるのが筋道だが、田沼意次の穢れ
た賄賂時代許せなかったこともあり、それまで政府の要職に就いたこと
がない、それだけに清廉潔白な人物であり、8代将軍吉宗の孫にも当る
ことから、老中の首座に担ぎ上げられた。
しかし、裏を返すと、政府の内部事情をほとんど知らなかった。
ゆえに「よしの冊子」というものを必要とした。


世界一内気だと思う・・たぶん  河村啓子


「よしの冊子」が執筆された期間、世情の真っただ中にいたのが火盗改
長谷川平蔵であり堀帯刀であった。ゆえに平蔵については、比較的多
くの記述がある。が、定信も為永も、反田沼意次が政治的出発点だった
ので、意次に近かった平蔵に対しては、過度な敵意と中傷から始まって
いる。その後、頻繁に届く平蔵の日々の活動振りを知るにつれ、為永は、
平蔵に対する悪感情を強めていった。しかし、8代将軍の孫である定信
には、そんな気遣いはなく、正確な情報は届かない。


ブルータスあんたも海鼠型の耳  井上一筒


「よしの冊子」は、長谷川平蔵を次のように書いている。
「長谷川は山師・利口者謀計ものの由。当春御加役中も、すわ浅草辺出
火と申し候えば、筋違御門近辺にも、自分定紋の高張提灯二帳に、馬上
提灯四、五帳も持たせ人を差し出し、浅草御門近辺にも、同様にいたし
…中略…金銀の入り候事は何とも存ぜず、人が提灯三十帳拵え候えば、
自分は五十も六十も拵え申し候よし、甚ださえ過ぎた事をいたし申し候
ゆえ、危なきと申し候ものも御座候よし」


猫の目の義眼を入れた狙撃兵  宮井いずみ



奢侈禁止令に抗う 「猫のせかい」(歌川芳艶)


為永は、大量の提灯を買い付ける平蔵の金の出所を「やばく(危く)な
いか」と見当違いの邪推をし、こんな風に、平蔵の悪評を定信にインプ
ットしているのだ。これにより定信は、平蔵に対して、最後まで嫌悪感
を持ち続けた。為永の記す「よしの冊子」では、平蔵に対して、「山師」
「姦物」「術者」「利口者」「謀計者」「追従者」などと口汚く悪評し
ており、定信のプライベートの記録文書だけに、一度吹き込まれた下僚
の旗本に対する偏見は、権力のトップにある者にとって、修正されるこ
とはない。田沼意次に近かったこともあるが、根も葉もないことを書か
れて、定信に嫌われるのだから、心の広い平蔵とはいえ、たまったもの
ではない。


右の頬ぶたれ左の頬を出す  中村秀夫


「よしの冊子には、寛政元年の夏の噂として、こんな話も。
「将軍家斉にお姫様が生れたのを祝って、178歳の男が137歳の妻
とともに、自分の白髪を献上したよし」
というのである。どう考えてもホラ話である。こんな情報をなんの衒い
もなく流す「よしの冊子」は、いい加減度もかなりのものがあった 由。


思い切り顔を拭いたらずんべらぼん  木本朱夏  
 


横田松房の取り調べ方


「火付盗賊改」 堀帯刀
火付盗賊改は、役高1500石、役料40人扶持であるが、出費が多い
役目なので、2~3年も務めると実入りのよい遠国奉行に役替えになる
のが通例であった。
長谷川平蔵から三代前の贄正寿(にえまさひさ)は、堺奉行に転出した。
この堺奉行への出世は、彼の職務における評判の良さと「火盗改」とし
ての活躍が評価されものであった。贄が堺奉行に転任後に「火付盗賊改」
の本役を任されたのは、贄とは対照的な「荒者」として名高い横田松房、
通称源太郎である。「火盗改」には、中山勘解由山川安左衛門・藤懸
伊織など名高い猛者が何人もいるが、横田は彼らとは異質の苛烈な取り
調べで恐れられた。この横田松房の助役を務めたのが、堀帯刀である。


あんな奴の吐いた空気を吸うている  居谷真理子


「十一月十五日先手組頭・堀帯刀秀隆盗賊考察の事承る」
横田松房に代わって火付盗賊改に就いた堀帯刀は、4年前に冬季の助役
(補佐役)を務めたことがあり、再任して天明5年11月から同8年9
月までの2年10 ケ 月と比較的長い間、本役に就いた。「火盗改メ」
いうと江戸市中では「泣く子も黙る」と恐れられた猛者揃いであったが、
数多い火盗改の中には、先祖の武勇は薄れ、凶悪な悪党と渡り合う気迫
に欠ける者もいた。
「帯刀は寒中に綿入れを着てコタツで震えているのに、用人は身代豊か
で女を囲っている。帯刀はひたすら気がよくて、用人が私腹を肥やして
いるとは思いもよらない」よしの冊子)


影がないクリームソーダ飲んでから  酒井かがり



代官所執務風景


堀帯刀の火盗改メ・本役就任を知った長谷川平蔵は、2年後に自分が堀
本役とともに火盗改メ・助役を務めることになろうとはおもいもしなか
った。というのも、火盗改は、先手組頭から選抜されるしきたりで、平
蔵は西丸・徒頭に抜擢されてまだ1年経っていなかったからだ。


内臓にドン・キホーテがもう一人  通利一辺


「肌はあさぐろくずんぐり、声のみが高かった、無遠慮な、あのご仁が
なあ」平蔵は4年前、九段坂東の中坂下の席亭・美濃屋で、火盗改本役
に就任した贄正寿の傍らにいた助役・堀帯刀秀隆の印象を思いうかべな
がら細く呟いた。とりもなおさず、贄正寿の引きあわせで面識ができて
いた堀帯刀が、先手頭に指名されたというので、平蔵は、酒の角樽を用
意して祝辞をのべに裏猿楽町の屋敷を訪れた。玄関の式台に用人と名乗
った貧相な男があらわれ、角樽を受けとり、「主人がよろしくと申して
おります」と、挨拶もなく不愛想な表情を残して、立ち去った。


言う人を間違ったようですかしこ  宮井元伸


「なんですね、あの態度は!」
 門を出たところで平蔵の付き人の松造が、唾をはきながら呟くほど礼儀
を知らない用人だった。
「松、言葉をつつしめ。まあ、ああいうのを虎の威を借りるやからとい
うのだ」
 「しかし、殿。堀さまは、殿の先達でもなければ、引き立て人でもあり
ません」
「そう、怒るな。腹を立てた分だけ腹が減って、損をみるのはこっちだ。
もっとも、堀様は家禄が1500石、先手組頭の格も1500石だから、
足高なしの持ち高勤めで、足が出ているのがご不満なのであろうよ」


いつだって敵の一人として愛す  相田みちる


帯刀は家禄1500石で、平蔵の400石よりはるかに多いが、同僚の
間では、極貧として名高かった。それというのも、家政を取り仕切って
いる用人に、家禄の多くを横領されていたからである。このような帯刀
の日常に、「よしの冊子」
「堀帯刀は先手の組頭たちの中でも一体に正直者だが、用人が悪いから、
自然と世評も悪くなっている。解任されても仕方がないのに、お役を続
けていられるのは、ありがたいことと思わねば、との評判が立っている
よし」と書いている。


底のない財布が悲鳴上げている  菱木 誠
 
 
「強将の下に弱卒なし」というが、こんな頭だったから帯刀の先手弓組
一番組は、士気があがらなかった。あるとき、堀組の同心が麹町の路上
で無法な陸尺(駕籠かき)を縛ろうとしたが、逆に押さえつけられて縛
れなかった。同心はこのことが表沙汰になるのを恐れ、謝った上に詫び
証文を書いた。が、この同心後にこのことが知れて入牢されている。
 「帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいい
よし。だから用人や組下の者にもいいように利用されているよし」
                          (よしの冊子)


蒟蒻の裏と表の間柄  新海信二


とにかく堀帯刀は、やる気がなかった。
労多くして得るところは少なく、そればかりか、私財を投入しなくては、
とても務まらない役職である。
「このお頭は、盗賊改方の特別手当として、幕府から支給される役料ま
でも、<あわよくば、己の懐へ>という人物であり、平蔵のように私財
を投げだしてまで、お努めする気などさらさら感じられないよし」
帯刀は最初の夫人(松平正淳の次女)は、1女1男を産んあとまなく亡
くなり、後妻をつぎつぎと4人も迎えている。「秀隆(帯刀)は、自分
の人生のはかなさ、家族との縁の薄さ、ツキのなさに嫌気がさしていた
のではないだろうか」と、こんな同情の声もなくはない。


コンニャクに似た悪友の立ち姿  大下和子



奢侈禁止令に反骨精神で挑んだ浮世絵「猫の戯れ」 歌川国芳


帯刀は天明8年9月、三年近く務めた「火付盗賊改」を役替えになった。
ふつう次には、家計がうるおう遠国奉行、なかでも、堺奉行や奈良奉行
などや役得の多いポストに任命される。帯刀も奈良奉行への転役を打診
されたが、「江戸を離れては、年老いた母が嘆く」と辞退して、先手頭
から「持筒頭」を命じられた。火盗改から持筒頭に昇進しても、
 「堀帯刀は、組下が差しだした願い書なども、上へ取りつがない。とに
かく世話をやくのが嫌いらしい。与力たちが、頭の帯刀へ願いを差しだ
しても上へ進達しないので、この三、四年が間、与力たちは帯刀を恨ん
でいるよし」よしの冊子)と、悪口が書かれている。


もうすでに尻尾は北の枯れ芒  井上一筒


この役替えの時に、漸く、横領を続けていた用人に暇を出した。
「なんでもっと早く解雇しなかった」のかと、同僚は他人事ながら悔し
がっている。
「堀帯刀はいたって貧窮のよし。御先手から持筒頭になったので、幕だ
けでなく他にも物入りが増え、その幕もつくりかねているほどに極貧の
よし。先手組頭時代の用人は、悪者だったのでこの際、暇をだしたよし。
惜しいことだ、もうすこし早く暇をだしていたら、新番頭か遠国奉行に
なれたものを、といわれているよし」 よしの冊子)


左脳だけ使って錆びて来た右脳  伊藤良一


解雇された用人とは、別の用人の証言によると。
「思いもかけず持筒頭を拝命しましたが、これはありがたいことです。
それゆえ、主人もどんなことがあっても、2、3年はこの役をつづけた
いものだと申しております。せっかく任命されたのだから、「どんなに
貧乏をしようとありがたいご処置を忘れないように勤める」と私どもへ
も話しております。まことに主人は加役中、先の用人が心掛けが悪かっ
たために、周囲での帯刀の評判を損なっていました。しかし、主人帯刀
はそんな人物ではございません」


悲しいのに笑う悔しいのに笑う  日下部敦世



平蔵の市中見回りのスタイル


堀帯刀に代わって火付盗賊改の本役に就いたのが、それまで帯刀の助役
を務めていた長谷川平蔵であり、代わって平蔵の助役になるのが、上役
の平蔵より5割ほど多く給料を取っていて、ちょっと変り者の松平左金
である。ここからの平蔵の主な活躍の一部は、先に書いたので、ここ
では割愛する。


歴戦を語ることなき火縄銃  木口雅裕


「長谷川平蔵の役替えについて」
寛政3年12月ころ長谷川平蔵の役替えについては、町奉行就任の話が
幕閣で議論された。
「大阪(町奉行)へは是非平蔵が行きそうなものだ。アレもせめて大坂
へでも行かずば腰が抜けようときた仕り候よし」 (よしの冊子)
抜けるとは、火盗改役を真面目に勤めれば役高・役料以上の出費が嵩み、
「腰が抜ける」即ち、貧窮する役職と言われた。そのため2~3年勤め
たら、余禄の多い堺奉行や大阪町奉行などの遠国奉行に転任させること
が普通は行われた。が平蔵の場合には、そうした配慮が一度もとられな
かった。


パーフェクトに咲いて散れなくなりました 岩田多佳子


幕閣の議論の中で最も可能性の高い候補として、空席になった大坂町奉
行に、平蔵が任命されるかと見られたが、この転役もなかった。
転役・栄進の話がいつも立ち消えになるのには、平蔵を強力に推薦する
人物がいなかったからである。大坂町奉行は、無論のこと、町奉行への
抜擢も決まったであろう。
定信自伝『宇下人言』に平蔵を「左計の人(山師的)にあらざれば」
「長谷川何がし」のように冷たく記すところに、定信の清廉な性格にみ
る平蔵を忌避する気持ちが表れている。
「長谷川平蔵転役も仕らず、いか程出情仕り候ても何の御さた、これ無
く候に付き、大いに嘆息いたし、もうおれも力が抜け果てた。しかし、
越中殿(定信)の御詞が、涙のこぼれるほど忝(かたじけ)ないから、
そればかりを力に勤める外には何の目当もない。是ではもう酒ばかりを
呑死であろうと、大いに嘆息、同役などへ咄合い候よしのさた」 
                         (よしの冊子)


吊るされてドライフラワー夢を見る  合田留美子



奢侈禁止令に反骨精神で挑んだ浮世絵 ・「亀喜妙々」歌川国芳
 

最後の「よしの冊子」
「長谷川平蔵は、いついつ迄も御役仰せ付けられ、さぞ困り申すべくと
取り沙汰仕り候由。一説に、他の加役は勤め候と身代を微塵に致し候え
ども、平蔵ばかりは身代をよく致し候に付き、身上の悪くなる迄御遣い
成される思召しだ。と取り沙汰仕り候ものも御座候よし」
ほかの旗本は火盗改を勤めると家産が逼迫・困窮するが、長谷川平蔵
金策の能力に長けていて、使い減りしないので、転役・昇進が行われな
かったというのである。上がこんな考えでは、従う者は報われない。
平蔵にとって、定信の傍に水野為永のような男がいたことが不幸だった。

この記録が「最後」になったのは、定信が失脚(寛政5年7月23日)
して老中を解任されたからである。そして同時に、密偵の探索も悪意の
ある水野為永の筆記も終わった。
                    「火付盗賊改の正体」参照
 
 
  お待ちくださいと忘れられたままで  岡谷 樹

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