川柳的逍遥 人の世の一家言
それ以来意地も明日も揺れている 通利一遍
「赤穂義士真観」 長安雅山著 (赤穂市立歴史博物館蔵)
殿中松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた場面が描かれる。
内匠頭の後ろから慌てた様子で駆け寄るのは梶川与惣兵衛。 【政治・経済】 「江戸のニュース」 「元禄十四年三月十四日辛巳」
赤穂藩主浅野長矩 江戸城松の廊下で高家吉良義央に刃傷 播磨赤穂五万三千五百石の藩主で、勅使饗応役(馳走役・館伴役ともいう)の
浅野内匠頭長矩(ながのり)は、公式行事の最終日にあたるこの日の午前十一 時頃、高家肝煎の吉良上野介義央(よしひさ)に江戸城本丸御殿の松の廊下で 「この間の遺恨 おぼえたるか」と、いって小刀で斬り付けたが、留守居番の
梶川与惣兵衛に抱き止められ、義央の額と背中に傷を負わせただけであった。 義央の傷の手当と長矩への事情聴取が同時に行われ、事の次第が側用人柳沢
吉保から将軍綱吉に伝えられた。 綱吉は勅使・院使の勅諭奉答式直前の刃傷事件に激高し、長矩の陸奥一関藩主 田村右京大夫建顕に預けることと、饗応役を下総佐倉藩主戸田能登守忠真に変 えることを指示した。また義央にはお咎めなしということで呉服橋内の居屋敷 に午後一時頃、平川門から戻された。 長矩は平川門から出されて、愛宕下の田村家上屋敷に午後4時頃、着いた。
勅使・院使の公式行事が終わり、幕閣との協議の場で綱吉から長矩の即日切腹
という強い意向が示された。午後六時頃、大目付庄田安利と目付大久保権左衛 門忠鎮・多角源八郎重共が赴き、長矩の切腹が執行された。享年三十五歳。 赤穂大石邸に事件の第一報が、早水藤左衛門、菅野三平によって知らされたの
は、十八日の午後十時頃であった。 石をける以後の絵具が乾かない 前田芙巳代
松 の 大 廊 下
「松の廊下の刃傷」~「赤穂浪士討入事件」まで 元禄15年(1702)12月に起った「赤穂浪士の仇討」は、江戸の庶民の
みならず、将軍幕閣をも驚愕させる重大事件だった。 事件は、前年の元禄14年に、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家旗本の吉良上
野介義央に「遺恨」を持ち、江戸城松の廊下で吉良を斬りつけ、切腹・改易に 処されたことを発端とする。 この「忠臣蔵」と呼ばれる一連の事件には、分からないことが多い。
その一つが、「松の廊下の刃傷」に至った経緯。
大石内蔵助良雄らが討ち入りした際に、幕府に提出した「浅野内匠頭家来口上」 は名文だが、刃傷については「当座遁れ難き儀御座候か」と、あるだけで家臣 ですら、主君の心中はわかっていなかったことが知られる。 息詰まるシーンにびっしりの毛玉 山本早苗
浅野を取り押さえた留守居役の梶川与惣兵衛の日記によると、
この日の朝、御使の刻限(勅使登城の時間)が早くなったと聞き、梶川は高家
肝煎の吉良上野介義央を探して奔走する。
やっと見つけた吉良と立ち話をしている時に、吉良の背後から「この間の遺恨
覚えたるか」と、言って斬りつけたのが、勅使饗応役の浅野内匠頭長矩だった。 「この間の遺恨」とは何か。
浅野は取り押さえられた後、大声で「上野介のことはこの間から遺恨があった から今日打ち果たしてやったのだ」と何度も叫んでいる。 また、田村邸での切腹にあたっては、側近の家臣に宛てて、「この段 兼ねて 知らせ申すべく候えども、今日やむを得ざること候ゆえ、知らせ申さず」との 言付けを番人に託している。 意味不明だが「この間の遺恨」と「今日やむを得ざること」の両方が重なった ということなのか。ともあれ、浅野は、本気で怒っていた。 そして周囲の誰も怒りの内容が理解出来ないまま、浅野は切腹をしたのである。
余白まで炎で埋める日記帳 蔵原希和
「討 ち 入 り 絵 馬」
事件の13年後の正徳5年に、但馬の織物屋たちが天橋立の智恩寺に奉納した
絵馬。討入りの様子が生々しく描かれている。
「お家断絶から討入りまで、家臣団は一丸ではなかった」
とりわけ弟・大学による「浅野家再興」を第一に考える大石内蔵助らと江戸在
住で仇討決行を急ぐ堀部安兵衛らは、戦術をめぐって対立する。 ここで重要な役割を果たしたのが、吉田忠左衛門だ。
吉田は、堀部らに自重を求めるため大石の意を受け、一足先の元禄15年3月
には江戸に入り、芝松本町の前川忠太夫店に身を寄せていた。 ここには前年11月に、大石が最初に江戸入りした時も投宿している。
吉田は、7月に新麹町6丁目に転居し、ここが次々と江戸入りする同志の取り
敢えずの落ち着き先となる。 片足が抜けないままの迷い道 宇治田志寿子
町人に姿を替えて潜伏する赤穂義士 赤穂浪士らの、江戸での主な潜伏先を見てみると、
吉良邸に一番近い本所相生町には、前田伊助(小豆屋五兵衛)と神崎与五郎。
本所林町には、堀部安兵衛(長江長左衛門)の道場。
本所徳右衛門町には、杉野十平次ら。
両国橋を渡った西側の米沢町には、堀部弥兵衛。
新麹町6丁目には、吉田忠左衛門(篠崎太郎兵衛、後に田口一真ら)
新麹町5丁目には、富森助右衛門(山本長左衛門)一家。
新麹町4丁目には、中村勘助(山彦嘉兵衛)ら、
南八丁堀湊町には、片岡源五右衛門ら。そして、
日本橋石町に大石内蔵助(垣見五郎兵衛)らが変名を使い隠れ住んでいた。
こうして商人に化けたり、公事(訴訟)での長期滞在を装いながらの潜伏は、
本当にうまくいったのか。
8月に同志を離れた酒寄作右衛門の大石宛の手紙によると、
吉田忠左衛門のいた柴松本町には、上杉家の忍びもいたという。
大きな衝突があったという記録はないが、両者が地下で、火花を散らしていた
ことを物語る。 メビウスの帯の局面として生きている 内山雅子
大石内蔵助の手紙 (正福寺蔵 赤穂市立歴史博物館蔵)
討入り前夜の元禄15年12月13日に、内蔵助が、赤穂の花岳寺恵光和尚、
神護寺に宛てて書いた暇乞い状。 江戸での経緯、近々討入ること、同市は48人であること、討入りの正当性
の主張など、本文だけでも104行が書かれた長編である。 仇討決行前へ話を転じると、
大石が求めたのは、このころ上杉邸にいることが多かった吉良義央の在宅情報
である。 やがて、お茶会が催される日には、本所の屋敷に戻ってくることがわかる。
お茶会の宗匠は、山田宗徧で、吉良義央とは茶の師匠を共にする間柄である。
宗徧は老中・小笠原長重に仕えていて、この小笠原家と吉良家も礼法を司る
家同士で交流があった。 宗徧には、中島五郎作という町人の弟子がいたが、中嶋の借家には羽倉斎
(荷田春満)という国学者が住んでおり、羽倉は、和歌の添削で吉良家に出 入りしていた。 こうした吉良人脈に大石三平と大高源五という浅野人脈がつながってくる。
大石三平は、大石一族の一人で、中嶋五郎作の友人であり、羽倉とも交流が
あった。また大高源五は、宗徧の弟子になっていた。 奴は役者舞台裏でも表でも 木村良三
最初のお茶会の情報は、12月5日だったが、これは将軍の柳沢邸御成りに重
なって直前に中止される。しかし、次の情報はすぐ来た。 14日の昼、大石三平が羽倉の手紙に「彼の方の儀は、14日の様にちらと承
り候」とあったことを伝える。 また大高源五も吉良がお茶会開催の準備に帰宅するとの情報をもたらす。 大石内蔵助は、2つの情報から判断して、14日夜の討入りを決断した。
人生の横にもちゃんとある手すり 宮本美致代
炭置き小屋に隠れていた上野介を召し捕った義士 【事件・災害】「江戸のニュース 十二月十四日壬午」 十四日の夜頃から赤穂浪士本所松坂町吉良上野介邸に討入る 旧家老で四十四歳の大石内蔵助良雄の指揮のもと、七十六歳の堀部弥兵衛金丸
から、十五歳の大石主税良金までの四十七人の旧赤穂藩出身の浪士は、この日 の夜から、翌十五日の早暁にかけて本所松坂町の吉良邸に表門・裏門の二手に 分かれて討入り、吉良義央の首を取り、当主左兵衛義周に傷を負わせ、吉良家 家臣十六人を斬り殺し、二十人に手傷を負わせた。一方浪士側には一人の死者 も出さなかった。 火消装束の出で立ちは、三十年前の、寛文十二年に起きた 「浄瑠璃坂の敵討」を見習ったものという。 泉岳寺への道のり 主君故浅野長矩の恨みを晴らした一行は、徒歩で品川の泉岳寺を目指した。
途中で吉田忠左衛門と富森助右衛門の二人を、大目付千石伯耆守久尚の屋敷に
派遣し「浅野内匠家来口上」を持参させた。 一行は泉岳寺に到着すると、長矩の墓前に義央の首を供え、討ち入りの報告と 焼香を済ませた。大目付から報告を受けた幕閣は、上杉家に討ち手を出すこと を禁止するとともに、泉岳寺に待機していた浪士四十六人(足軽寺坂吉右衛門 は除外)を肥後熊本藩細川家と伊予松山藩松平家と長門長府藩主毛利家と三河 岡崎藩水野家の四家に分けて預けた。 ともあれ、大石内蔵助ら47人の赤穂浪士は、1年9カ月の雌伏の末、本所の
吉良邸に侵入し、上野介を討って主君の無念を見事はらしたのである。 首一ッ五万石余のカタに取り 江戸川柳
浪士への処分は幕閣内でも意見が割れていた。識者の意見も二分した。
朱子学の室鳩巣は「武士道の清華である」と賛美し、大学頭林信篤も『復讐論』
を著して義士を評価した。古学派の伊藤東涯、水戸学の三宅観蘭なども同意見で あった。 一方、柳沢吉保のブレーンでもあった荻生徂徠は「この事件は、この事件は仇討
事件ではなく、主君の恥をそそぐものであっても、私の考えでしたことであり、 大義名分からいえば不義である」と述べた。 将軍綱吉や柳沢ら幕閣首脳部は、「喧嘩両成敗」の論理も戦国時代の遺風であり、
平時の幕藩体制下には古い考えとみなし、徒党を組んだ復讐を否定する法治主義 の立場から切腹と結論付けたのである。 伸び切った輪ゴムの様だと見る政治 杉浦多津子
【政治・経済】「江戸のニュース 元禄十六年二月四日癸未」 吉良邸に討ち入った赤穂義士に切腹の沙汰 浪 士 切 腹 の 図 「幕府はなぜ、赤穂浪士を切腹させた?」
将軍のお膝元である江戸市中を騒がせ、松の廊下事件についての幕府の裁定に
異を唱えた、などと理解されている。 しかし、このとき幕府が問題視したのは、47名の浪人が武器を携えて集まり、
大石内蔵助の指揮で組織的に行動した点にある。 江戸の治安機構で、大名や高家の監督役は大目付であった。
討入り後、赤穂浪士は内匠頭の墓がある高輪・泉岳寺へ向かう途中2名が隊を
離れて、大目付の仙石伯耆守久尚の元へ報告に向かっている。
仕組みと手続きを十分承知していた大石の差配である。
仇討ちは、儒教道徳にかない賛美できる一挙だったが、先に「浅野切腹吉良お
咎めなし」という処分を下した手前、死刑か助命か幕府は頭を悩ませた。 結局、仇討は認めなかったが、浪士に配慮した切腹に落ち着いたのである。
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