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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ラの音が続くここでもあそこでも  宮井いずみ






            夜の王朝政治


10世紀ころまで政治は、朝に行われていたが、夜の公事が増えてきた
ことと。執政の場が天皇の日常居所が内裏に移ったため、会議も天皇の
生活に合わせて清涼殿や陣座、時には、後宮の殿舎で夜に行われた。
図は、仁寿殿における献詩披講後の宴で松明をかかげるのは近衛の舎人
たち。



まもなくはじまるドラマ「紫式部の光る君へ」の前に、--------紫式部
生きた時代へ、画像とともにタイムスリップiいたしましょう。
紫式部が生きた時代━
平安時代の貴族たちは、官位があがるたびに給料も上がり、大臣クラス
では、今のお金に換算して年収が1億円ほどもあったという。
有力な貴族たちは大きな邸に住み、豪華な衣服を着、贅沢な食事、また
占いや迷信を信じ、祟りを怖れた。





             陣座

座から東へ渡り廊下を行くと紫宸殿につながる。この紫宸殿に近いこと
から9世紀半ば以降、陣座は、公暁審議の場となった。




さらに正月の朝賀にはじまり、追儺(ついな)で終わる宴や年中行事は、
46回も行われた。いつ政治をしているのだろうと勘ぐってしまうほど。
また余暇には、恋に風雅にと身をやつした…時代なのであります。




今日もまたあやとりしりとり三輪車  和田洋子




光る君へー王朝貴族のライフスタイル





                                   源氏物語図屏風 断簡





① 平安美人とは
光源氏のハートを射止めた平安美人の多くは、眉毛を抜いて、白粉を塗
りたて、ぽってりした眉を描き、歯にはお歯黒、口元にはぽちっと紅を
さし、濡れたような黒髪の持ち主。ほの暗い寝殿造の室内で、ほんのり
浮かび上がり、貴公子の心をぐっと惹きつけて恋を射止める。





           恋 の 舞 台





② 雅な恋の舞台
殿方が愛しい姫の寝所に入るまで、長い道のりがある。
文や和歌で心を開かせ、お付きの女房を懐柔して、当時の住宅である
寝殿造りの簀子(すのこ)から廂(ひさし)、そして母屋へと日ごと
に近づき、やっとお簾のなかに入ることを許された。





少し時間下さい胸をうずめます  太田のりこ



 


          貴族の食事   考証・樋口清之





③ てんこ盛りの御馳走に
食膳には、蒸したこわ飯をこんもりと高盛にして、副菜も品数と量がた
っぷり。宴の食事ほどその傾向は強く、おもてなしとして並べられた。
はたして美味しかったのだろうか……少しの疑問も。






          興車図考附図





④ 恋の本気に競い合う車
上流貴族ともなれば、カスタムメイドの牛車を多数持ち、見栄と個性に
拘ったその造りは「動く寝殿造」と評されるほど。
牛車を見れば、その持ち主の身分やセンスが分った。
一つの恋に貴族も物入りで大変だったのである。




錆止めを塗って真面目に生きてます  谷口 義






           催馬楽(さいばら)

宴会では杯を片手に詩歌を吟じ、催馬楽(平安時代の宴歌)を歌い踊った。





⑤ 婿取りの大わらわ
新枕から数えて3日目の夜、将来有望な婿を得た舅は、盛大な宴を開い
て婿のお披露目をする。 
妻側の縁者や知人たちと婿とが、一緒に膳を囲み、婿側は、両親は参列
しないが、婿の衣装、結婚費用などすべて、妻の家が用意した。 
娘を持つ親は、今も昔も変わらず大変なのだ。





           住吉物語絵巻





⑥ 将を射んと欲すれば
姫君の評判を高めるのも、姫君に届く恋文をまず受け取るのも女房
恋文の代筆までもした。
男君もお目当ての姫君の女房に贈り物をしたり、かりそめの恋をしかけ
たり、恋の行方は女房次第だった。




重力を受け止めきれません右手  森井克子





      




⑦ 父も歩いた恋の路
まだ明けやらぬころ、愛の余韻あふれる「後朝(きぬぎぬ)の別れ」
時が訪れる。 男君は家に帰り着き、女君へ恋文を出す風習があった。
そして、その文を、女君の父親が読むこともあった。
やはりこの時代の父親も、娘の恋の行方が気になったのである。





        落語家と姫には扇が必需品





⑧ 扇の役目
深窓の姫君は、見知らぬ男性に見られまいと、扇で顔を隠した。
その仕草がまた、男君の心をいっそう惹きつけた。
恥ずかしいやら作戦やらで使う扇は、当時の姫君の必需品だった。





夢のつづき見たくて飛ばすシャボン玉  柴辻踈星





    源氏物語絵帖 末摘花





⑨ 垣間見てから------恋心
美しい姫君が住むという噂に惹かれて、姫君の邸を訪れ噂を確かめたい、
またお近づきになりたいと、垣根の間から覗き見する。
そこから恋しい恋しいが始まる。紫式部はそれを「末摘花」と名付けた。






          医 心 方





⑩ 医は仁術
日本最古の医学書に『医心方』という恋の手解きを書いた本がある。
そこには男女どちらかに「苦痛をともなう愛し方は邪」とされ
「し過ぎも しなさ過ぎ」もよくないと説き、さらに、暑い日寒い日、
悪天候の時、酔っている時、満腹の時、喜怒哀楽の激しい時は避けよ、
と書いてある。どの邸にも教本として一冊はあった。




自分でもしている父の悪い癖  広瀬勝博





「花の章ー風雅を楽しむ」






         葵の上と光源氏





① 姫君たちは、花の名にちなんで名づけられた。
桐壺、藤壺、葵の上、夕顔、末摘花、玉鬘--------紫式部の命名した姫君
たちの名には、花の名を冠したものが多い。 
紫式部は、花好きだったのだろう。





           源氏物語色紙絵 若紫




② 管絃の名手は憧れの的
情趣が細やかで深く、表現力が豊かで、洗練された美意識がそなわり、
おまけに美しい容姿-------それが、王朝人の理想の姿だったという。
芸事を行うのは、いつの世も変わらないもので、琴や笛などの
「管絃の才」に長けている人は、憧れの的だった。





秋澄むや若紫という少女  徳山泰子





        源氏物語絵巻 柏木三





③ 季節を装う光の君
光源氏が20歳の春。花の宴に表が白、裏が紅の桜襲(さくらがさね)
の薄手の唐織物を装う源氏はひときわ美しく輝いていた。
それから28年後、源氏が身につけるのは、同じ桜襲でも、色味の薄い
装い。渋くダンディーな貴人の姿だった。     





      源氏物語画帖 夕顔





④ あるがままの花を愛して
寝殿造りの前栽で四季の草花を楽しんでいる風情が、源氏絵によく描か
れている。平安貴族たちは、自然にあるがままの花、咲くがままの花を
美しいとしていた。





もう一品菜の花添える春うらら  津田照子





             雪 月 花





⑤ 日本の美意識
冬の月光に雪が照り映えた風情の中で、この世にいない理想の女性、
藤壺との-------どうしようもない隔たりを感じる源氏の姿を「朝顔」
の帖に見る。
日本人独特の「雪月花」の美意識は、光源氏の時代から広まった。






          平安時代の風呂事情





⑥ 風呂へ行くのは吉日に
王朝貴族の縁起かつぎは、入浴も例外ではない。
源氏物語の少し前に記された「九条流の生活作法の書」に、
入浴は5日に一度、さらに、日を選んで入浴するようにとある。
ほかにも洗髪から爪切りまで。タブーの日があったという。





過ぎた日々時々思う寂しがり  荒井加寿






   ボスの物忌みにかこつけて




⑦ ズンドコ貴族
1,帝の御物忌みの夜、男子貴族は内裏につめて宿直がお役目。
その夜、退屈しのぎに「雨夜の品定め」のように女性談議に花を咲かせ
たり、女房の部屋を訪れたり……。
  物忌みを口実に---------
2,人によっては年平均80日、ひどい場合は、1年の3分の1があた
った。 その期間はひたすら謹慎。しかし、物忌みを口実に欠勤したり、
物忌み札を提げて意にそまぬ相手の訪問を、方違えにことよせて愛人宅
に居座ったり、という人もいた。





ほがらかが一番たとえお通夜でも  青砥たか子






           陰陽師の活躍





安倍晴明がいた
⑧ 現代では想像もつかないほど平安時代は、「祟りやタブー」が人々
の生活や意識を縛っていた。物の怪がとり憑き、都での百鬼夜行が信じ
られていた時代である。 したがって何事につけ、人々はその吉兆をま
ず占い、頼りとしたのが陰陽師だった。





          『宇治拾遺物語』




⑨ 宇治拾遺物語
鎌倉前期の説話物語集である。
平安朝の宮廷や貴族に関する説話も多く収められており、編者は不明だ。
が、文体が王朝和文脈であり、貴族階級に属する人がかかわったものと
考えられる。内容は愚かしい人間とそのかもし出す事件を寛容に愛情を
もって見守り、軽妙に描出し、健康な「笑」の文学である。
平安時代の面白い人間模様もここから探すことが出来るかもしれない。
 収録されている内容は、大別して次の三種に分けられる。
世俗説話(滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など)
民間伝承(「雀報恩の事」など)
仏教説話(破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など)





彗星の尾からしじまへ散る花弁  くんじろう

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さよならは空耳だった気もします  美馬りゅうこ






      神として描かれた徳川家康画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)





「大阪の陣が終わって……」
「向後、自分の力で戦は起こさせない」
―そう強く思った家康は元号を変えた。
慶長から「元和」-------「元ははじめ。和は平和」
近隣の外国とは、善隣友好姿勢、政治の模範となる君臣の言行を集めた
中国の本の翻訳命令を出したり、「源氏物語」を公家衆に配ったり…、
子や孫には自分の持っている本を惜しみなく配ったり……。





蟻踏んで悔やみつづける足の裏  森井克子





家康ー神になった家康




         「東照社縁起絵巻」巻三第二段 

元和2年4月17日、徳川家康75歳で薨去。
遺言により久能山へと埋葬される。





「鷹狩りから発病する」
そんなこんなで、明けて元和2(1616)年の正月21日。
家康は駿府城にほど近い田中へ鷹狩りに出た。
家康は、その日は駿府城に戻らずに、その田中城で、ある人物と夕食を
摂った。丁度、京から当代一の豪商、家康の経済ブレーン、蛸薬師の呉
服商・茶屋四郎次郎清次が来ていた。
朱印船貿易などの秘密の会話を交わしたあと、家康は、茶屋四郎次郎
「最近上方では、なにか珍しいことはないか」と、訊ねた。
茶屋は
「あります。最近京や大坂では、鯛をカヤの油で揚げて、その上にニラ
 を擂りかけたものが流行っており、わたしも頂きましたが、大変よい
 風味でした」と、答えた。
折よく榊原清久から能浜の鯛が献上されたので、家康はすぐそのように
調理を命じ食した。
「あれはうまかったが、ちと食いすぎたな」と、
満足気に食後感を述べていたが、その夜から、腹痛に苦しみ、駿府城に
戻って、御殿医の興庵法印(津田秀征)の診察を受けいれ療養に入った。
一旦は容態が落着いたようにみえたが、75歳という年齢の所為もあり、
ぶりかえし再度、苦痛にさいなまれ、順調に回復とはいかなかった。





エンドマークつけて肩の力抜く  吉岡 民





家康の病状は日ごと悪化していく。2月の末頃、本多正純が興庵法印に
調合させた薬を飲むと、家康は、盥を引き寄せると全部吐いてしまった。
そこで家康は、傍に控えていた将軍・秀忠
「今回は私の死期がすでにやってきており、天が定めた寿命はここで
 最期だ。どうして草の根や木の皮でできた薬などで、うまく寿命を
 止めておくことなどができようか。従って、最初から薬は飲まずに
 おこうと思っていたが、無理に勧められるので、できるだけ飲もう
 としたが、このように無意味だ。もはや薬は飲むまい」
その後、家康は決して薬は飲まず、側におくこともしなかった。





あちこちにある文句言いのスイッチ  中野六助






 家康と対座する天海





秀忠とともにその場に控えていた南光坊天海僧正は、発言の許可を得て
「日本でも中国でも、非常に優れた英邁な君主は、あらかじめ、自らの
死期を決定して、自分の死後のことを前々から言い残しておくものです。
わたしも少し前からお側にいて、恐れ多くも、お言葉を承っております。
今回はとても、ご回復されるとも思えません」
と、言うと、将軍はただ涙にくれていた。
4月2、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を呼び、自らの死後の対応
を指示した。





弔問客用に落とし穴を掘る  井上一筒





       「観古東錦 将軍家日光御社参之図」 東洲勝月画

江戸時代、歴代将軍は大勢の供ともを引き連れて、日光東照宮に参拝し、
家康の霊廟に詣でた。


日光東照宮の奥宮にある宝塔。
通説では、家康の遺骸はこの中に葬られているとされる。





「家康、久能山に葬ることを遺命する」
4月17日、家康の病状がだんだんと重くなった時に、本多正純を呼び
「将軍家に早く来るように」と、言ったが、「それには及ばない…」と、 
すぐに取り消し、さらに続けて
「わたしが死んだ後も、武芸に関しては、少しも忘れてはいけない、と
 申し上げよ」
の言葉を最後に、榊原清久の膝を枕に冥府へ旅立っていった。
この清久は、清正の三男で、早くから家康の側近くに仕えて、その寵愛
は浅くなかったという。家康病中も日夜傍で看病し、様々の遺言を聞き
「わたしが死んだならば遺骸は久能山に納めるように。墓はこれこれと
 するように、お前は末永くこの地を守って、わたしに生前と変わらず
 仕えるように」と、言い置かれた。
この遺言で、榊原清久家は代々「駿州久能山惣御門番」を務めることに
なった。





生きてゆく重さ海月にある重さ  前中知栄





「家康、西国大名を憚り、その像を西向きにせしむる」
さらに家康は、
「東国の方面はおおよそ、譜代の者なので謀反の心があるとは、思われ
 ない。西国の方は、不安に思うので、わたしの像を西向きに立てて置
 くように」と、
言い置き、あの三池の刀も、峰を西にむけて立てて置いたという。
「家康の辞世句」
先に行くあとに残るも同じこと 連れてゆけぬをわかれぞと思う
<先に亡くなるのも、後に亡くなるのも同じことだ。いずれみんな
 あの世に行く。だから、私の後を追って死んだりしないように。
 ここで一度別れよう>





永遠にさよならでもありがとう  福尾圭司





      南光坊天海           金地院崇伝





「神号」
大御所家康を支えたブレーン中のブレーンといえば、金地院崇伝・南光
坊天海・林羅山の3人である。徳川幕府の諸体制は、この3人の頭の中
から生まれたといってもよい。
崇伝は、1608年(慶長13)家康に召し出された。
京都南禅寺の住持で、仏教界のエリートだった。外交文書の他、キリシ
タン禁令、公家諸法度、武家諸法度や各寺院法度を起草している。
家康の信頼厚く、権勢を欲しいままにし「黒衣の宰相」と、呼ばれた。
南光坊天海については、家康は、
「残念なのは天海と相知るのがおそすぎることだ」とまで言っている。
宗教界で活躍し、政治の表面には出なかった。
あるとき天海は、家光の前で柿を賜り、食べ終わると種を懐に入れた。
「持ち帰って植えよう」と、いうのだ。家光は、
「僧正のような高齢の人が無益なこと」
と、言ったが、天海は
「一天四海をお治めになるかたは、そのような性急な考えをしてはなり
 ません」と言い、数年後実った柿を山盛りにして家光に献じたという。





つまんで引っ張って引っ張ってつまむ  雨森茂樹





家康の死後、問題となったのは「神号」だった。
「明神」号を主張する金地院崇伝「権現」号を主張する南光坊天海
の間で激論になったが、秀忠による裁定で「権現」号に落ち着いた。
その後、幕府は朝廷に神号を奏請し、朝廷からは、「東照大権現、日本
大権現、威霊(いれい)大権現、東光大権現」の4つが示され、幕府は、
「東照大権現」を選び、家康の「神号」が決定した。
天海の弟子である胤海が記した書(1789年(寛政元・刊)に天海は、
家康の神号について、
「亡君豊国大明神のちかきためしを覚して…」
と、豊国大明神の悲惨な末路を引き合いに出し、「権現」号を主張した
と解明している。





メトロから炎は降りて来ましたか  くんじろう






           絢爛豪華な日光東照宮





「家康、もうひとつの遺言」
「わたしが死んだ後、将軍家(秀忠)は必ずわたしの廟所を威儀正しく
 建造することだろうが、それは無用のことだ。子孫の末までも初代の
 廟所を超えぬようにするためにも、わたしの廟所は簡素にせよ」
と、遺言した。秀忠はこれを聞いて
「先代ご自身にとっては謙譲の美徳であり、この志を受け取るべきだが、
 つつましやかすぎるのもいかがか」
と、言い、おおよそ荘厳といえる程度におさえ廟所を完成させたが、
三代将軍・家光は、その遺言を破り1636年、祖父・家康が祀られる
日光東照宮の全面的な改築を命じた。
これにより、社殿の規模は大きくなり、その様式も、穏やかな和様から、
絢爛たる唐様へと変貌した。





凡人が心を乱す遺言書  靏田寿子

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一服しなはれうどんがのびてます  和田洋子






          金の鯱が載る五重の天守閣
将軍の居所であり、同時に幕府政治の中枢である江戸城本丸は、政務を
執る将軍を中心に、将軍夫人をはじめ、大奥に勤める女性たちの生活の
場である。





          江戸図屏風絵 (国立歴史民俗博物館蔵)




17世紀前半の江戸の姿を書き留めた江戸図屏風絵で江戸を見る。
江戸城の修築改築工事は、1603年(慶長8)から本格的に進められ、
1612年(慶長17)に、ほぼ完成をみた。
さらに城郭を境にして山の手に武家地が、下町に町人町がつくられた。
江戸図屏風絵は、明暦の大火(1657年)で、焼失する以前に描かれ
たもので江戸初期の町の姿を再現している。
(金の鯱の載る五重の天主閣は、2代秀忠によって1623年(元和9)
 また、江戸城が最終的に完成するのは1636年(慶長13)である)





砂時計どこへも行けぬ時刻む  山口美千代




家康ー江戸を建てるー③









徳川家康がはじめて江戸入りしたのは、1590年(天正18)8月1日
のこと、江戸を建てる①でも述べたが、家康入国当時の江戸は、どこま
でも丈なす草原がつづく武蔵野の原野であった。
その草深い江戸は、関ヶ原の戦いで天下人の座を勝ち取った家康であっ
たが、はたして彼はこれほどの大都市に発展すると想像し得ただろうか。
16世紀末の江戸は、関東240万石の大大名である「徳川氏の居城」
としてはいかにも「みすぼらしい」ものであった。
よって家康は、文禄~慶長(1592-1615)にかけて、大名を総動員して
城郭の整備拡大と武家町、町人町の造成を進めた。
(また、この江戸城拡充工事によって、廓内や旧城門前にあった宝田村
千代田村、平河天神・山王社、神田明神・日輪寺といった寺院・神社を
周辺に移転させている)
この大工事は、大名千石につき一人づつの増員、俗に「千石夫」と、呼
ばれた人夫たちが、江戸に集まり活況を呈し、江戸に繁栄をもたらした。 
いわゆる「慶長の町割」である。




発想の煌めき脳は多面体  森井克子





            高石垣の石積工事





「天下の江戸の城造り」
石垣工事は技術に優れている西国大名が担当した。
石垣を組むのも大変だが、巨石を伊豆から運ぶのも難事で、石船が大風
のため一度に数百隻も沈没したことがある。
これらの石高合計530万石にのぼり、10万石に付き、百人持ちの巨
石1120個を課せられた。
(福島正則の場合、4.982×1.120=5.580個となる)
3千艘の運搬船に1艘あたり2個積み、江戸と伊豆の海路を月2往復と
定められた。




もう石になったことさえわからない  竹内ゆみこ




大名にキツイ負担」
いよいよ1603年(慶長8)、江戸の大改造・拡張工事がはじまった。
福島正則、浅野長政・加藤清正ら外様大名を中心に70家の大名がこの
プロジェクトに参加した。
1606年(慶長11)3月1日からの江戸城の大修築には、将軍の住ま
いに、城を築くため、32の大名に普請が命じられた。
この事業は「天下普請」と呼ばれ、全国の大名には諸工事「御手伝普請」
が賦課された。おもに西日本の大名に対しては、千石夫といって、所領
千石につき人夫10人の労役供出が原則だったが、外様大名たちは幕府
への忠誠を競って、想定以上の人数を供出したので、4万人もの労働者
が集まったという。




まな板の平行根は沖である  清水すみれ





伊豆から石材が運ばれ、石高10万石につき100人持ちの巨石が11
20玉という基準で調達された。
幕府は、総額1万両あまりの補助を行ったが、人夫・水夫の賃金、食糧
などは自弁で準備しなければならず、動員された外様大名には、大きな
負担だった。
それでも大名たちは競うようにして自ら陣頭指揮に立ったという。
翌慶長12年には、5層6階の天主閣も完成。
江戸城は、将軍の住まいとする城としての体裁を整えた。




この時とばかり職人腕が鳴る  三輪幸子





        百人持ちの石垣運搬用舟入堀




1606年(慶長11)月から築城石運搬船の造船、石切出場の調査、運
搬準備が行われた。賦役を課せられた主な西国の外様大名は、浅野幸長
(和歌山藩37万5千石)、福島正則(広島鞆藩49万8千2百石)、蜂須賀
至鎮(徳島藩25万7千石)、細川忠興(中津藩39万9千石)、黒田長政
(福岡藩52万3千石)、尼崎又次郎(堺の豪商ら運搬船100隻献上)で
あった。




この波をやり過ごす三角すわり  三つ木もも花





             石 曳 き





運搬船より江戸で陸揚げした巨石は、砂利道に蝦夷産の昆布を敷き詰め、
丸太を円滑に回転させて人力で運んだ。
これらの巨石は百人の人夫を必要としたことから百人石と呼ばれていた。




炎天下大八車鞭と馬  原  茂幸





                                            石 材 の 切 出 し





石材の切出し方法は、寸法に見合う石の目を読める石工が墨壷でケガキ
を入れ、その線に沿って石工がノミと玄翁で小さな箭穴(やあな)を
一定の間隔で穿つ。その箭穴に張り廻しでクサビを打込むと石が割れた。
それでも割れない場合は、樫の木の楔を打込み、水を入れて一晩置くと
木が水を含んで膨張し自然と割れる。




変身をじっと見ていた百度石  柳本恵子





 
           日 本 橋 (民族博物館蔵)
家康の都市計画事業に伴い、水路を東に延長して架けられた。


「日本橋大拡張工事」
江戸は湿地帯が多く、早くから「埋立工事」が進められたが、駿河台か
らお茶の水に至る丘陵地、神田山を掘り崩して、砂洲や干潟等の低湿地
を埋め立て、浜町から新橋にかけての、町々となる広大な市街地を造成
した。
この工事では、城郭拡充用の水路を東に延長して、堀川(今の日本橋川)
を開き、橋が架けられ、自然に「日本橋」と呼ばれるようになった。
1604年(慶長9)この日本橋は、五街道の基点となり、ここから新
橋にかけて町屋(町人が住む街)が広がって、この界隈は物と人が集散
する経済の中心地となっていく。




あの橋は杭が一本足りません  くんじろう






     日本橋界隈に並ぶ商店





「日本橋界隈の風景」 上の日本橋図
日本橋は繁栄の象徴でもある。橋の左上には幕府の高札場があり、高札
を眺める人々がたむろし、橋の右下には魚河岸があって、船荷を下ろす
様子がいきいきと描かれている。
日本橋、日本橋高札場、小網町、江戸の町屋(本小田原町の魚店)、
江戸下町の河岸(米俵の荷揚げ)




幾つかの窓は希望であるらしい  中野六助





         日本橋附近の魚市場




不意の客もてなす腕の見せどころ  竹尾佳代子





         神田の町筋の商店街

左から竹屋、檜物屋(ひものや)、酒屋




箱は四角で一ミリも無い隙間  藤本鈴菜





         品 川 宿 の 木 戸

幕府は治安維持のために大きな街道の分岐点に木戸を設けた。
この木戸は東海道を上下する人々を取り締まった。




跳ね橋をじぐざぐ帰る渡り鳥  藤本鈴菜






           大 名 屋 敷





松平伊予守の屋敷
結城秀康の次男。徳川家康の孫・松平忠昌
大坂の夏の陣において大坂城に越前軍として槍を片手に騎馬に跨り一番
乗りで突入した。もはや落城必至の大坂城だったが、その時、忠昌に、
大坂方の剣術の達人と伝わる「左太夫」という侍が襲いかかった。
忠昌の危機に越前家中の者5、6名が駆けつけて、後に笠持の高瀬某
左太夫の腕を切り、忠昌を救出した。
左太夫は数人がかりでやっと討ち取られた、という話が伝わる。




好き勝手生きて迷惑掛けぬ意気  高橋太一郎





      伊達家屋敷の正門前


外様大名の門構えー外桜田には松平陸奥守(伊達家)の御成門の前には、
門の豪華さに見とれる女性たちが描かれている。
隣の櫓門は松平長門守(毛利家)の屋敷である。




私の昔に興味無い他人  戴けいこ





     外桜田門の上杉弾正の屋敷





大名の数は時代によって異なるが、大体260~270ぐらいの間を上
下していた。大名は、徳川氏との縁故によって親藩・譜代・外様に大別
されて、譜代・外様の大名は、城地の有無、領地の大小により国持・
国持並・城持・城持並・無城の五階級に分かれていた。
国持とは、一国以上の大領地を持つ大名、国持並は、これに準ずる大名
であるが、必ずしも、一国以上の領有ということでなく、一種の格式で
もあった。
城持は中級の大名で城地を構えるもの、城持並は、陣屋住いながら城持
大名の格式を許されたものである。




猫町の猫の額を分譲中  井上恵津子





「江戸図屏風に描かれた江戸のにぎわい」






              京 橋

             京 橋 日 比 谷 門        
    
               日 本 橋





ついでに名古屋のにぎわい





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           源 太 夫 社




「名古屋城も建てた」
1609年(慶長14)家康は9男・義直のために、織田信長が若いころ
居城とした那古野城の地に、新しい城・名古屋城を築城することにした。
もちろん天下普請で行われ、西国の外様大名ら20家が指名された。
江戸の町普請からはじまって、江戸城築城に付き合わされるだけでも
大変なのに、度重なる課役に大名たちも不満がつのり、福島正則などは
「末っ子(義直)の城まで手伝わされるのはたまらん」
と、つい愚痴になる。
それを聞いた加藤清正が「大御所に謀反する踏ん切りがつかないのなら
まぁ黙って仕事をすることだな」とからかった。
諸大名は競って工事を急ぎ、慶長15年9月には概ね完成にこぎつけた。
規模は江戸城についで2番目の大きさ、金の鯱で知られる名城の完成である。




鵜匠に尋ねる働き方改革  赤松蛍子





【おまけ】



宇喜多秀家最期の言葉
江戸の町づくりが本格化した1603年(慶長8)、自首して出てきた
関ヶ原の敗将がいた。備中57万石の太守・宇喜多秀家である。
彼は少年のころから秀吉に可愛がられ養子になったぐらいで、五大老の
1人でもあった。
関ケ原に敗れ兵が四散した西軍の将のうち、無事に逃げ延びたただ1人
の男である。
伊吹山山中をさまよううち、落ち武者狩りの頭目・矢野五右衛門という
ものに救われた。
その後、密かに大坂に潜入した秀家は、船を雇って脱出に成功。
島津家に約3年間潜伏していたが、島津と家康の間に和議が成ったので
島津家にはいられなくなり、自首してでたのである。
1606年(慶長11)八丈島に流刑。
島での生活は苦しかったようで、偶然寄港した加藤清正の家来に、酒を
無心した逸話などが残っている。
実に50年の歳月を流刑囚として暮らし、1655年(明暦元)11月
20日、84歳で没した。
「八丈実記」によれば秀家の最期の言葉は「米の粥を食って死にたい」
だったという。



二日酔いするほど飲めぬ養命酒  月波与生

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目玉焼き荒ぶる海を従えて  蟹口和枝






            大坂夏之陣屏風絵
逃げ惑う市民達、乱暴される婦女、夜盗が家々を荒らし、落武者を追い
かけ首を狙う者が描かれている。




講和事件顛末記
交渉の結果ー大坂城は本丸のみを残し、二の丸、三の丸を取り壊すこと、
織田有楽、大野治長から、家康へ人質を出すこと等を条件として、講和
することになった。
ところが、大坂方は惣構えの壕、三の丸の外側の壕を埋める」と解釈し
埋立が始まったとき、すったもんだが起きるが、後の祭。
大坂城は本丸を残して、丸裸に‥‥実際は本多正純が、
「大御所が自ら兵を出して何も戦果がないのでは過去の名声に傷がつく。
 そこで大御所の出馬記念に城の外側を取り壊してはどうか」
と言ったのが、事の真相らしい。
大坂方はうっかり承諾を与え、江戸方は拡大解釈をした。
何事も政治である。言った言わないは力関係で決まる。ご用心ご用心。




串カツの串抜きカツの衣抜き  きゅういち




家康ー大坂夏の陣・豊臣家絶滅





            日本史新聞




「難攻不落の城もわずか三日ほどで攻め落とされた」
――和睦から三か月後
家康はまたも秀頼に謀叛の疑いありとして、使者を送りつけてきた。
「断罪を免れたくば、秀頼が大坂城を出るか、牢人たちを放逐するか、
 いずれかを選べ」
それはいずれも堀の埋め立ての代わりに、家康から許されたはずの条件
だった。
その夜、淀殿の胸には、さまざまな思いがよぎっていた…。
――自分が人質になるとまで申し出たのに、家康はそれを無視し、
あくまで秀頼に狙いを定めて、無理難題を吹き掛けてくる。
 <秀頼を大坂城から出すことは、亡き秀吉の遺言に背くこと。
断じて受け入れることはできぬ。かくなるうえは、再び戦うしかない>
淀殿と秀頼は、大坂城内に兵を集め、武器をとって「家康と戦う」こと
を宣言した。




なまくらな私に黴がほくそ笑む  新井曉子





真田父子犬伏密談図 (上田市立博物館蔵)
右は真田昌幸、相向かいはその長男・信之、その間で下を向いてじっと
聞いているのが次男幸村




一方、名古屋城で義直の婚儀を終えた家康は、
「大坂城に召し抱える浪人を追い出せ」と、最後通告を出した。
かくして1615年(慶長20)5月6日、「大坂夏の陣」が始まった。
家康は30万の大軍で大坂城を包囲。
さらには三浦按針に用意させたイギリス製大筒を配備した。
堀を失った大坂城と豊臣方は、もはや、徳川方の敵ではなかった。
裸同然の大坂城に籠っては戦にならず、初めから野戦に出る他にない。
窮鼠猫を食む如く大坂方の戦意は凄まじく、しばしば家康軍を圧倒した。
とりわけ真田幸村は、茶臼山の家康本陣を急襲。旗本衆を三里ほど追い
散らし、気が付くと家康の側には、金地院崇伝(こんちいんすうでん)
と本多三弥しか、いなくなっていたという。




どのページ開いて見ても砂嵐  黒田弥生




「家康、秀頼母子の助命を説く」 (徳川公伝)
『大阪城落城ののち秀頼・淀母子は芦田曲輪に立て籠っており、
 姫君(千姫)は城をお出になり母子(秀頼と淀)の助命を、本田政信
 を通じてお願いなさると、(家康)は「姫の願いであるならばそれに
 任せよう。秀頼と淀母子を助けておいたとしても、大したことはない。
 お前が岡山に行き将軍(秀忠)にも申し上げてみよ」と、仰った。
 正信は岡山へ行き、そのことを申し上げると、将軍はもってのほかの
 ご様子で、「どうして(姫君は)余計なことを言わずに、秀頼と同じ
 ところで死なないのか」と、仰った。 正信はこれを聞き、
 「ともかく大御所(家康)のお考えにお任せになるべきです」
 と、申し上げて、姫君の方へも行き、同様に申し上げた』




一粒の涙に負けている台詞  平井美智子




 さて、八日の朝になり、両御所(家康秀忠)がお会いになり、暫く
 の間ひそかに話し合われた。諸大名が話を伺っている場で、大御所は
 将軍にむかわれ、
 「必ず秀頼の命をお助けになってください。ここが将軍の思案どころ
 です」と、仰ると将軍は「お言葉ではありますが、数回に及ぶ反逆も
 あり、これ以上は、助けるのは難しいです」と、仰った。
 大御所は、「老人であるわたしが、ここまで言うのを聞き入れてもら
 えないのであれば、これ以上はできることはない。あとはお心にお任
 せになってください」と、おっしゃられ、大変ご機嫌の悪いご様子で
 座をお立ちになった』




シャム猫のどっちつかずの毛繕い  宮井元伸




豊臣家滅亡‥‥
大坂夏の陣がはじまって翌日の、
5月7日、井伊の陣営から芦田曲輪へ鉄砲が打ち込まれ大坂城炎上。
 紅蓮の炎が天を焦がした。
5月8日、秀頼淀殿は、天守閣下の倉で自害。
2人の最期の場所は、若き日に淀殿が秀吉と遊んだ思い出の場所、山里
曲輪にある蔵のなかだった。大野治長も殉じている。
弱冠8歳の国松は、六条河原で処刑され、豊臣氏は残らず息絶えた。
淀殿47歳。 秀頼23歳だった。




終章の宴はいらぬ曼珠沙華  赤松蛍子





          瓦版 「大坂安部之合戦之図」
          瓦版 「大阪卯年図」




大坂落城の瓦版の発行
この年、大坂夏の陣を題材とした二枚の瓦版が発行された。
「大坂安部之合戦之図」「大阪卯年図」で伝存最古のものとされる。
(版木作成年次については不明な点が多い)
「大坂安部之合戦之図」は、江戸後期の狂歌師・戯作者として名声の高
かった太田南畝が紹介して以来、多くの模本が作られた。
瓦版とは、街頭で読み売られていたニュース性のある題材を内容とする
1~数枚の木版ないし土版木による印刷物で、古くは読売と呼ばれ
「瓦版」の称は江戸末期からである。
土版木は瓦を作る粘土を干し固めて軽く焼いて版木としたものといわれ、
瓦版の名はここから来たという説もある。
形式は絵入りのものが多く、内容は心中・風水害・地震・火災・仇討・
珍談奇聞が主であったが、幕末になると政治色を帯びたものが増加した。




過去からの10カウントがまた響く  くんじろう




「どうする家康」
家康は感無量である。
かつて今川義元織田信長に惨殺されたとき、家康は自分も追い腹をと、
故郷三河にある三河松平の菩提寺・大樹寺に赴き、その決意を登誉上人
に話した。しかし、その場で上人から、
「あなたには、戦も穢れもない、浄土のような世界を作る使命がある。
だから生きよ」
と、諭された日のことが思い出されたからである。
「登誉上人が仰った『争いのない世界』というのはこういう景色だった
のか」という思いである。




マウスコロコロ自分探しの果てしなく  みつ木もも花










「淀殿感傷」
やがて、徳川家の天下のもとで「淀殿」「淀君」という貶められた
呼び名を付されて、悪女のように書物に登場するようになる。
江戸時代に出版された『太閤記』のなかで、淀殿は淫乱で嫉妬深く、
秀吉の正室おねと権勢を競った女性として描かれている。
江戸中期に出版された歴史書『翁草』では、秀頼は淀殿の浮気によって
できた子どもであり、豊臣家の滅亡も、原因は淀殿の淫乱さにあると
記された。
政治に口出しをする悪女、上流社会にあるまじき蛇のような女性。 
それが淀殿に張りつけられたレッテルであった。




非通知で過去から石を投げられる  中林典子






      大阪天守閣施工記念写真 (昭和6年10月)




大坂の陣のあと、燃え尽きた大坂城の上に、徳川家は新たな城を築いた。
それが現在の大坂城である。
我が子を愛し、平和を願った淀殿の真実の姿は、秀吉の大坂城とともに、
徳川家によってつくり替えられ、永遠に葬り去られてしまったのである。




シャッターを下ろす時計を駆けあがる  高橋 蘭

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その猫背アイロンかけてやろうかな  磯野真理






             大 阪 炎 上


 国家安康君臣豊楽の銘文





「方広寺鐘銘事件」
『国家安康君臣豊楽』―この銘文は、「家康の名を2つに分断し豊臣が
栄えるよう祈る呪文ではないか」と南禅寺の金地院崇伝が言い出した。
もちろんこれを聞いた家康は激怒した。
この梵鐘の文章を書いたのは、豊臣氏とは縁の深い、文英清韓という金
地院崇伝と同じ南禅寺の僧で、彼の弁明によると、
「敢えて家康・豊臣という名を入れて、その威光が現われることを願っ
 た…決して悪い意味ではない」
ということだったらしい。
が、当時は、貴人を実名では呼ばず、家康ならば「内府」など、官職で
呼ぶのが常識だった。にもかかわらず清韓は、この「隠し八文字」に加
えて、『右僕射源朝臣家康公』とも書いており、「右僕射」林羅山
「源朝臣(家康)を射る」とした解釈に合わせて、豊臣への恩義に報い
る思惑があったのではないかと疑われた。
のち清韓は、南禅寺を追放され、住坊も一時廃絶されている。
8月13日、驚いた淀殿は、すぐさま家康のもとに使者を派遣した。
弁明の使いに選ばれたのは、豊臣家家老・片桐且元だった。




ワンマンが陰で胃薬飲んでいる  三好聖水






    一魁随筆 淀之君    月岡芳年





家康ーお袋様、ご決断





「片桐且元と大蔵卿」
方広寺梵鐘問題の弁明に赴いた且元は、家康に会ってももらえなかった。
それどころか城にも入れてもらえず、待たされること二日。
ようやく現れた徳川家の家臣は、且元の弁明を一蹴し、
「豊臣家の陰謀に疑いなし」と頭ごなしに断定したのだった。
一方、そのころ、大坂城では淀殿が待てど暮らせど、はかばかしい返事
を寄越さない且元に業を煮やしていた。
<豊臣になんの邪心もないことは明白なのに、なぜ、家康殿にそれが通
 じないのか>
思いあまった淀殿は、乳母の大蔵卿を家康のもとにつかわし、なんとか
して誤解を解こうとした。
なんと大蔵卿に対する家康の態度は、且元の時とは打って変わったもの
だった。




素面でも小石にこける今の僕  靏田寿子




「秀頼は千姫の婿であるから、我が孫に等しい。
 秀頼に自分への害心などあるはずもないことは、よくわかっている」
家康の優しい言葉に感激した大蔵卿は大喜びで大坂へ帰り、淀殿に首尾
を報告した。それは、
「家康は豊臣家を取りつぶすつもりは、まったくない。
 かえって秀頼との仲が疎遠になることを懸念している」
ということであった。
ほっと胸を撫で下ろす淀殿
しかし、それも束の間のことにすぎなかった。




引力にとても素直な砂時計  青砥たかこ





   片桐且元① 絵本大坂軍記 (岡田霞船編)





家康のもとから帰った且元が、大蔵卿とはまったく逆のことを言いだし
たからである。且元の話によると、
家康は、なんとしても豊臣家を取りつぶす気でいる。
「それが嫌なら次の三つの条件のうち、どれか一つを聞き入れよ」
というのが、家康から伝えられたことであるという。
その条件とは、
大坂城の明け渡し
2、秀頼の江戸参勤
3、淀殿の江戸への下向   の三つである。
淀殿は、この且元の報告を聞いて仰天した。




キソウテンガイ私の砂漠埋め尽くす  和田洋子




――<城を出るか、秀頼を差し出すか、あるいは自分が人質となるか>
どれもとうてい受け入れがたい条件である。
それにしても、且元の言うことと大蔵卿の言うことは、かけ離れすぎて
いる。 一体、どちらが嘘をついているのか。
大坂城内は疑心暗鬼の巣となった。
――<且元は豊臣家を害そうとしている>
そういう噂が広まり、片桐且元は、味方であるはずの豊臣家の武将たち
に襲撃された。そして、且元は自分の屋敷に閉じこもってしまった。
なんとか城内を一つにまとめたいと願った淀殿は、且元に書状を認めた。




家中の時計微妙にちゃう時間  高田佳代子






   片桐且元②  絵本大坂軍記





豊臣家随一の忠臣
『なんやかやと噂が立っているようですが、親子ともども、
 そなたのことは少しも疎かに思っておりませぬ。 
 長年のお世話はどうして忘れられましょうか。
 なんとしてもそなたをひとえに頼みにしております。
 明日もおいでにならないようなら、またお手紙差しあげることに
 いたしましょう。お返事お待ちします』
淀殿の説得にもかかわらず、且元は出仕しようとしなかった。




お手玉の一つがずっと雲隠れ  井上恵津子




<やはり謀叛人であったのか>
そう疑った淀殿は、10月1日ついに、且元に大坂からの退去を命じて
しまった。同じ日、駿府にいた家康のもとに、大坂城内のようすを知ら
せる使いが到着した。
「且元が襲われた」と知った家康は、満足げなようすを浮かべたと記録
されている。
<家康の意志を伝えに帰った且元を、襲撃したことは、とりもなおさず、
 家康に対し叛旗を翻した>と、見なすことができるからである。




想い出をモノクロにする落葉焚き  原 洋志





           真田丸の攻防





徳川・豊臣両軍の戦い
迫りくる家康の脅威に対し、淀殿は、かつて秀吉の恩を受けた大名たち
に手紙を送り、秀頼への応援を頼んでいる。
ところが、返ってきたのは驚くほどの冷たい仕打ちだった。
生前、秀吉が最も頼みにしていた前田家は、返事もよこさず、秀吉が我
が子同然に可愛がっていた福島正則は、「いまさら話すことはない」
使者を追い返した。
 池田利隆にいたっては、使者を家康に引き渡してしまった。
家康は、使者の指を切り落とし、額に烙印を押して追放したとも言われ
ている。




約束無しのお別れになる沙羅双樹  藤本鈴菜




――<かつて、あれほど太閤の恩を受けた者たちだというのに……。>
あまりといえばあまりの無情さに、淀殿は愕然とするばかりだった。
孤立無援となった豊臣家が頼りとしたものは、関ヶ原の合戦以後、
世にあふれていた牢人たちだった。
戦いの準備を進める淀殿の様子を記してれている『当代記』には、
「お袋様は女ながら武具をつけ、城内を見回り牢人たちを叱咤激励
 している。さらに、淀殿は軍議にあっても万事、指図をしている」
という史料もある。
「……秀頼公の立場を確かなものにするのです。そなたたちの力が頼り
 じゃ」
淀殿が率先して、奮起をうながさざるを得なかった心中がうかがえる。
一方、家康は諸大名に対し、ただちに出陣を下知。 
知らぬ間に家康の術中に陥った淀殿には、もはや弁明の余地すらも与え
られていなかった。





錆び付いた顎で指図をされている  新海信二




       日本史新聞 大坂冬の陣ー和睦の罠




【大坂=一六一四年十二月】 大坂冬の陣
大坂城を包囲する徳川幕府の軍勢は、総計二十万。
大僧正義演の日記によれば。
「日本残らず前陣後陣ことごとく供奉(ぐぶ)す」という。
ただし福島正則・黒田長政・加藤嘉明は江戸に残し、加藤清正の子忠広
蜂須賀家政を国に帰らせている。
そして大坂城を蟻の這い出る隙間もなく包囲した。
しかし、いつまでたっても攻撃命令が出ない。
血気にはやる松平忠直、前田利常、井伊直孝らは我慢し切れず真田幸村
が守る出城真田丸に、無暗な攻撃をしかけたりするなど、苛々がつのっ
ていた。
ところが家康はその翌日、早くも和睦の使者を大坂城につかわしていた。
太閤秀吉が自ら設計した大坂城が、難攻不落であることを熟知していた
家康は、当初から早期に「和睦をはかり、またもや淀殿を罠にかけよう」
としていたのである。




数独に数字ひとつも書いてない  井丸昌紀





      家 康





「秀吉、大坂城の難攻不落を説く」
「家康公伝」には次のように記されている。
太閤秀吉がはじめて大坂城を造りだしたころ、前田利家、蒲生氏郷らの
人びとを集めて、
「このたびの新しい城は、実に金城湯地といえるものである。
 たとえ何万の兵で攻撃しようとも、簡単に落城することはない。
 お前たちはこれをどう思うか」と、聞かれると、
「仰せの通りです」と答えた。 
さらに秀吉は、
「この城を攻めるには、二つの方法がある。大軍をもって年月をかけて
 城を取り囲み、城中の糧食が尽きるのを待つか、そうでなければ、
 一日講和を結んだ後、堀を埋め塀を壊してから、さらに攻め込めば、
 落城するだろう」と、おっしゃった。
その際、君(家康)は、その話の場にお座りになっており、太閤の自画
自賛をお聞きになっていらしゃったという。




あたためたものがこぼれてゆく斜線  平井美智子











今回の戦いで、将軍秀忠「必ずや総攻撃をかけて落城させましょう」
と、二度までも進言なさったが、君(家康)は、
「わたしは、何度も城攻めを経験したが、敵の様子や地形によって攻撃
 の仕方は一様ではない。ただ天の与えてくれる時期を待たれるがよい」
と、仰られ、総攻撃をお許しにならなかった。
毎日金鉱などを掘る採掘人夫を集めて、城攻め用の梯子を作らせ、さら
には、大砲を城中へ打ち込ませるなどして、城中の人びとに十分恐怖を
与えた上で、最後に講和を結ばれたので、その話合いは速やかに整った。
家康は秀吉ご託宣の城攻めを実践した。
淀川をせき止めて天満川の水位を落とし、城内へ地下道を掘る。
毎夜の如く鬨の声をあげ、そして、大砲と大筒を連続射撃して威嚇した。
あるとき、大砲の弾丸が天守閣に命中。




この月の月を煮て食う焼いて食う  雨森茂樹





      丸裸の大坂城





12月15日、淀殿「和睦」を受けることを申し出た。
「自分は家康の人質となってもよい。その代わり秀頼を守るために戦っ
 た牢人たちには、縁を与えてやってほしい」
それに対する家康の答えは、大筒による一斉射撃だった。 
砲弾は天守閣に命中し、一瞬にして侍女たちの命を奪っている。
――<このままでは秀頼にも砲弾があたるとも限らない>
亡き秀吉の手前、秀頼の命だけは失うわけにはいかない。
動転した淀殿は、家康の言いなりになっての和睦に応じざるを得なかっ
たのだ。
和睦の条件として大坂城の堀の埋め立てが決まると、徳川方は豊臣方の
止めるのも聞かず、二の丸三の丸の堀まで自分たちの手で埋めてしまい、
大坂城は裸同然の無力な建造物と成り果てた。




もう悪女には戻れない腰まわり  片岡加代

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