川柳的逍遥 人の世の一家言
なんたって僕にはママがついている 高橋謡々
世界遺産・国宝 二条城二の丸広間
二条城は1601年(慶長6)家康は関西の諸大名に課役して造らせた。
敵が攻めてきた時のことを考えて家康は、城も堀も「ぶりにせよ」など
細かいところまで深慮し図面をひかせている。
「二条城でついに実現」
家康が、禁教令を出す前年の1611年(慶長16)3月28日、後水尾
天皇の即位式に出席するため上洛していた「家康と豊臣秀頼の対面」が 実現した。秀頼には、加藤清正、浅野幸長が付き添った。 それに高台院も加わって対面は無事に終わった。
6年前、家康は秀忠の将軍宣下のときに秀頼に上洛するよう要請したが
淀殿の手痛い拒否にあっている。
今度は淀殿の叔父、織田有楽斎を使者にしての要請だった。
家康には、また拒否されれば、開戦も辞さず、との腹づもりがあったと
いわれる。 危機感を持った嫌がる淀殿を必死に説得し、ようやく対面を承知させた。
清正は秀頼を守るため、懐剣を懐に臨んだ。 帰途についた秀頼の船を見送ったあと、清正は懐剣をながめながら、 「これで太閤殿下のご恩に報いることができた」といって、 涙を流したという。 難しい話しに崩す冷や奴 荒木康博
善悪三拾六美人 淀君
家康ー淀殿は悪女か ――家康はなにを考えているのか。
関ケ原合戦のあと、驚くべきことが起こった。
「秀頼のため戦う」と宣言していたはずの家康が、豊臣家の領地を削減
してしまい、豊臣家の直轄地は、200万石から65万石へと激減して しまったのである。疑念を抱く淀殿に対し家康は、表向きあくまで秀頼 への忠誠を誓う態度をとった。 ――ご尊顔を拝し奉り 恐悦至極
頼りになる諸大名もなく、老獪な家康を相手に幼い秀頼を守り、たった
1人で城の主となった淀殿だが、そこに待っていたのは、武将たちに気 遣いながら、政治の舵取りをする気苦労の多い日々だった。 砂漠ですドラマなんかは落ちてない 上田ひとみ
「淀殿が若狭の武将・京極高次に宛てた手紙の一節」
『いつぞやは、わざわざ来てくださってうれしく思いました。
ご逗留のうちに細々としたこともありまして、私の応対が及ばなかっ
たに違いないと、申し訳なく思っています』 馴れない政治の世界に疲れた淀殿は、やがて体調を崩すようになる。
大坂城の御典医で淀殿の医師・曲直瀬道三(まなせどうさん)の記録 ・
『医学天正記』には、淀殿が気鬱の病にかかり、頭痛がひどく食事も
とれなくなっていたことが記されている。
シワの数歳の功だと言い換える 靏田寿子
1603年(慶長8)2月27日、こうした淀殿の心をさらに暗くする
出来事が起きた。徳川家康が、武家の棟梁の印である「征夷大将軍」に
任じられたというのである。
<家康は、やはり秀頼を蔑ろにし、天下の主となろうとしているのか>
この4ヶ月後、家康は、 転して思いがけない行動をとった。
亡き秀吉との約束を実行しようと言ってきたのだった。
その約束とは、家康の孫娘・千姫と秀頼との結婚だった。
この時、秀頼は11歳。千姫は7歳。
淀殿の心は、束の間の安らぎを取り戻した。
<やはり家康は、豊臣・徳川両家がともに栄えていく道を、考えていて
くれたのか>、という思いだったのかもしれない。
笑っても泣いても同じ時間経つ 前中一晃 翌年、家康の孫・家光が誕生した時に、淀殿が知人に宛てた手紙が残る。
『こちらは秀頼と二人、無事に暮らしています。どうぞご安心ください。
江戸でも和子が、無事にするすると生まれたとのこと、これもまた、 ご安心ください』
家康の孫の誕生をわがことのように喜ぶ淀殿。
その胸には、豊臣と徳川が、それぞれの役目を負って共存していく方策
が宿っていた。
カラカラと笑い話に昇華する 前岡由美子
京都の北の天満宮 秀頼の擬宝珠 豊臣秀吉は大茶会をするなど北野天満宮に寄進し、復興に努めた。
その遺子である秀頼も多くの寄進をし、拝殿の高欄擬宝珠には、
秀頼の銘が刻まれている。
秀頼が奉納した鏡
秀頼が奉納した青銅鏡が見つかったと発表された。
鏡の形状や包み紙から、本殿(国宝)の中央部に鏡を用いて、仏教的な 装飾が施されていた可能性が明らかになったという。 「安寧・平和を願うお袋様(淀殿)」
――全国に寺社仏閣を建立。 京都市の北野天満宮は、千年以上の歴史を持つ古い社であるが、長引く
戦乱のために、その修築は滞りがちだった。
そこで淀殿は、1607年(慶長12)、豊臣秀頼の名で天満宮のすべ
ての社殿を修築した。
神社本殿の高欄を飾る擬宝珠をみると、秀頼が寄進したことが刻まれて いる。 神からの忘れるという贈り物 西尾芙紗子
伊勢神宮の参道に旧慶光院も淀殿が造営した寺院 慶 光 院 幼い秀頼に代わり、淀殿が、神社仏閣復興の采配を振るっていたことを
示す当寺院に宛てた手紙。 『慶光院の建設のこと、こちらの心がけが悪く、なかなか進められず
申し訳なく思っています。客殿、庫裏、弁財天の塔の建築のこと、
また柱も長く耐えられるよう立派なものを選ぶようにと念入りに
申しつけ ました。 ご安心下さい』
こうして淀殿と秀頼が行った寺社仏閣の建立は、善光寺や出雲大社、
伊勢神宮など全国あわせて90余りにものぼるという。 過ぎたことそんな事より今日の雲 津田照子
淀 殿
淀殿は亡き秀吉が残した莫大な富を使って、寺社の復興に勤しんだ。 京都方広寺の大仏殿は修築中に、いったん火災で焼失したにもかか
わらず、さらにもう一度建立されている。
「太閤秀吉がためた金銀は、この時なくなってしまった」
と、『当代記』には記されている。 寺社仏閣への寄進によって、
「豊臣と徳川が共存する平和な世を永遠のものとしたい」
というのが、淀殿の願いだったのかもしれない。 黒星の一つひとつをバネにして 青木敏子
慶長19年から家康は、「武家諸法度」とともに「禁中並公家諸法度」、
「寺社法度の制定」の準備を着々と進めはじめている。 これは家康側の法律によって、公家や寺社を封じ込めていこう、
法の網をかけていこうというものだった。
一方、淀殿は秀吉の行った寺社に対する政策をきちんと守り続けていた。
秀吉側の政策は、寺社に対しては所領は安堵し、寺社の修造を積極的に 助けていくという、今までの政権にはなかった方策を継承していた。
そういう淀殿の政策を家康は、逆に自分の側に取り込んでいって、
新しい見方で、寺社対策をしていこうと方針転換をしたのである。
淀殿にとっては、今までの自分が行ってきた秀吉時代からの政策の継承、
寺社に対する政策をストップせざるを得ないという状況にいたった。 おだやかな日々ポケットに溜まる砂 八上桐子 家康・秀頼の会見
1611年(慶長16)3月、突然訪れた家康の使者が、思いもよらぬ
ことを言いだした。家康の息子・徳川秀忠に祝いを述べるため、「二条
城の家康のもとまで、秀頼に出向いてこい」というものだった。 それは、豊臣に「徳川の家臣になれ」というに等しいものである。
淀殿は激しく反発したが、家臣たちに説得されて、ついに承諾した。
ニ条城への下向は、秀頼にとってはじめての遠出といえるものだった。
<亡き秀吉の遺言どおり大切に育てた秀頼。その晴れの行列の目が、
かつて秀吉の家臣だった家康に、頭を下げに行くものになるとは>
淀殿の心中は忸怩たるものがあったに違いない。
ほうれい線の深みに静かなる地雷 山崎夫美子
3月28日、秀頼は淀殿と別れ、京に向かった。
京で秀頼を待っていたのは、亡き秀吉の忘れ形見を一目見ようとする、
人々の熱狂的な歓迎だった。
豊臣の人気は、いまだ衰えていなかったのである。 二条城に到着した秀頼を、家康は丁重に出迎えた。
会見はおよそ二時間行われている。
成人してのち、はじめて会った秀頼の印象を家康は次のように評した。
『秀頼は賢き人なり、なかなか人の 下知など請うべき様子にあらず』
――秀頼は賢いやつだ。人の命令には容易に従うまい。
一コマを鳥取砂丘知っている 武智三成
秀頼の肖像画
10年前一般に公開された秀頼の20歳のころの肖像画。
秀頼は、堂々たる体編の美丈夫であったと伝えられ「老成人の風格を
備えた人物」と評されるほど、落ち着いた物腰の青年だった。
秀吉の遺児は淀殿の手によって、立派な若者に成長していたのである。
秀頼は家康との会見を終えて、無事、大坂に帰着した。
しかし、この頃から家康は、秀頼の存在は徳川家を脅かすもとと考え、
是が非でも「秀頼を亡き者にしよう」と考えはじめたといわれる。
――家康にしてみれば、秀頼というのは、過保護に育った二代目の
ぼんぼんぐらいに思っていた。
だが、会ってみると堂々たる美丈夫だった。
家康は、伏見城や大坂城で奥深く非常に大切に育てられてきた秀頼の
ことを知らなかった。
会見の場では「品定めをしてやろう」という軽い気持ちだったから、 家康はその成長ぶりに衝撃を受けた。 同時に、これまでの豊臣家に対する政策を見直していこうという気持ち
が家康の中に生じた。 このことが家康をして「融和」から「排他」へと方向転換させた。
どや顔を青木ヶ原へ捨てに行く 宮井いずみ
1614年(慶長19)7月29日、家康の使者が大坂城に見参した。
その口をついて出てきたのは、淀殿を仰天させる言葉だった。
淀殿と秀頼が、「鐘の銘文を使い、家康を呪い殺そうとしている」
というのである。
――こうして協調路線を捨て去った家康が送りつけてきた使者は、
とんでもないことを、淀殿に対して言いだしたのだ。
それは、淀殿がそれまで一所懸命になって行ってきた方広寺の修築に
関する言いがかりだった。
モザイクが邪魔で落ちない目の鱗 のぶよし
鐘に刻まれた銘文
徳川・豊臣の協調路線はもろくも崩れはじめた。 淀殿が大枚を投じ、修築を進めてきた京の方広寺に大梵鐘が吊るされた
のは、1614年(慶長19)6月28日である。 そして、「鐘に刻まれた銘文」に問題があるというのが、家康の言い分
だった。『国家安康君臣豊楽』――この銘文は家康の名を2つに分断し、 「豊臣が栄えるよう祈る呪文」であるというのである。
8月13日、驚いた淀殿は、すぐさま家康のもとに使者を派遣した。
弁明の使いに選ばれたのは、豊臣家家老・片桐且元だった。
土砂降りになり約束はそれっきり 片岡加代
【余談】 史実からちょっと離れて
「大河ドラマ、のぞき見」 関ケ原の戦いを経て、家康は江戸に幕府を開き「征夷大将軍」となった。
その後、大阪城で淀殿(北川景子)と秀頼(仲野大河)に戦勝報告を行
った。満面の笑顔で迎えた淀殿だったが、
「秀頼の代わりを頼みまする」
「千姫と秀頼の婚儀、大公殿下のご遺言通り、しかと進めましょう」
と、家康をけん制し続けた。そんな淀殿と家康のやり取りに……、
「女狐と古狸の対決よ」と、SNSの声が……。
聞こえていますよあなたを見てるから 市井美春
さらに、家康が退出するや否や、淀殿は幼い秀頼に顔を近づけ、 にらみを利かせながら、
「わかっておるな。あのタヌキ。決して信じるでないぞ」
とすごんだ。その表情があまりに鬼気迫るものだったため、
「秀頼が泣いちゃわないか心配でした」
「目力すごくてゾッとしました」
「あれは子どもに見せちゃならん顔だった……」
「もーぅ怖すぎ」「鬼の形相の表情にアッパレ」
との声が寄せられたが、本性はどちら! 景子さん。
真空管テレビは分解できたのに 寺島洋子 PR 結局はサイコロ振って決めました 合田留美子
『ウィリアム・アダムス─日本での最初のイギリス人』
日文研所蔵洋書 (ウイリアムダルトン・ダルトンの挿絵)
1600年(慶長5)3月、豊後国の海岸にオランダ船籍のリーフデ号
が漂着した。救出されたイギリス人・航海士・ウイリアム・アダムス、 オランダ人の貿易家・ヤン・ヨーステンが、大坂で家康に謁見している。 家康は、2人に江戸に住居を与え、外交問題の相談役にした。 ウイリアム・アダムスは、三浦按針という日本名をもち、地理学や造船
学を日本人に教えた。家康に重用され、日本橋の屋敷のほか、横須賀に も250石の領地を与えられている。帰国の許可が出たが、日本の土に なることを選び、1620年(元和6)に平戸で死んだ。 ヤン・ヨーステンは、江戸に住みながら、東南アジア各地での貿易活動
を行い、その往復の途次、船が難破して溺死した。 (東京駅の周りに残る「八重洲」の地名は、彼の名に由来する)
異邦人の瞳でふるさとへ帰る 吉川幸子
オランダ共和国の商船・リーフデ号
船名の「リーフデ」はオランダ語で「愛」を意味する。
元はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの名を冠した
「Erasmus(エラスムス号)」という船名であった。 リーフデ号の船尾飾り、エラスムスの木像
エラスムスはオランダが生んだルネサンス最大の人文主義者。
オランダ東洋遠征艦隊の一隻「リーフデ号」が豊後沿岸に漂着したのは、
西暦1600年3月16日、関ケ原の戦い前夜であった。 ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは強く帰国を願ったが、2人
は家康に請われて日本に残り、世界情勢や科学技術を教えた。外交顧問 として重用されたアダムスは青い目の日本人・三浦按針の名で生涯を終 えることになる。 涙一滴ホットミルクが溢れだす 大内セツ子
家康ー1600~1604年(慶長5~9)
アリの巣そっくりの坑内 「大江戸ゴールドラッシュ」 佐渡金山では、坑道を掘って金鉱石を採取していたが、採掘、運搬、排 水、通風などはすべて人によるものであった。金鉱脈に沿ってまるで蟻 のように延びた坑道のなかで、魚油を使った明かりをたよりに作業が行 われた。なにしろ地面の下での作業で、昼も夜も関係がないから採掘は 24時間の交代制だった。 「佐渡では小判の鋳造もおこなわれた」 小判は江戸と大坂の金座で鋳造された。金座は、勘定奉行の管理統括の もとに後藤庄三郎初代とする後藤家が請け負っていた。この後藤の手代 が1617年(元和3)に佐渡に渡り、佐渡小判が鋳造されるようになった。 「家康が貯め込んだ幕府の資産」
1601年(慶長6)佐渡の相川で金鉱が発見され、採掘がはじまった。
佐渡では坑道掘りによる採掘が、同時に、選鉱、精錬、鋳造までの一貫 した生産体制がとられたので、これらにかかわる職人、管理する役人、 生活物資を売買する商人などが島外からやってきた。 鉱山町ができて人口は、一気にふくらみ、島は金景気にわくことになる。
江戸幕府は佐渡を天領すなわち直轄地とし、佐渡奉行をおいて統括した。 その後も伊豆の大仁金山などが発見され、大判小判を派手に使いまくっ
た秀吉とは対照的に、家康は、地味な生活で質素倹約に徹し、非常用の 備蓄を怠らなかった。コツコツと貯め込んだ金銀は、記録にあるだけで も江戸城に400万両、駿河に約200万両、合わせて600万両。 一両を現在の価格に換算すると2兆1000億円に及ぶ。
これが徳川幕府260年の財政を支える礎となった。
金塊は重いし傘は小さいし 森田律子
改易・転封
「関ケ原ー戦後処理」 1602年ー04年、幕府の最初の大仕事は大名の整理統制、つまりは
リストラだった。次から次へと改易や領地替えなどの処分を断行した。 なかでも標的にされたのが外様大名とくに豊臣恩顧の大名である。
関ヶ原の功など関係がないのだ。
福島正則は無断で城を修理した罪に問われ、加藤清正の子・忠広も謀反 の罪で改易になった。 一門・譜代といっても容赦なかった。
家康の4子の松平忠吉、5子の武田信吉、譜代の平岩親吉、大久保忠佐、 本田忠刻、鳥居忠恒などは、跡継ぎがなくて廃絶された。家康の6子、 松平忠輝はその驕慢な性格ゆえに改易され、孫の松平忠直も乱行を理由 に改易された。 喋るのも泣くのも笑うのも薬 平尾正人
西軍の総大将となった毛利輝元は周防二か国に削減。旧領120万石の
うち、36万石だけが残された。 宇喜多は57万石没収。上杉は120万石のうち、米沢30万石のみ。
その他、ことごとく領地は没収された。 こうして西軍に属した大名のうち廃絶が87家、没収所領は414万石。
それに毛利上杉らの削減所領分221万石を足すと640万石に達した。 豊臣家は所領没収の対象外だったはずだが、いざ戦後処理が終わると、
200万石ほどあったはずの所領が65万石になっていた。 これは、直轄領の明示がない領地が多かったために削減されてしまった
わけで、事実上の処分に等しい。結局、摂津、河内、和泉の三か国分、 65万石に削減となった。 山門をくぐれば秋の風に会う 森 茂俊
「征夷大将軍への道」 関ケ原の戦いに勝利した時点で家康は、実質的な諸大名の支配権を手に
入れた。しかし、名目上は豊臣家の筆頭大老のままである。 この主従関係を覆すには、家康が「征夷大将軍」になるしかない。
征夷大将軍とは、もとは平安時代に蝦夷を征伐するために職だったが、
源氏が平家を滅ぼして以来、武門の最高権力者の職名になっていた。 ただし、この職を得るには「諸大名を統制する実力があり、源氏の家系
であり、朝廷から官位をもらっている」という3つの条件を満たすこと が必要であった。(秀吉がこの職を渇望したが叶わなかったのは、源姓 ではなかったためである) そして家康は、「諸大名の統制」に関し問題を一つ残していた。
家康が、島津義久・忠恒父子か義弘本人に上京・謝罪するよう、求めて
いたが、なかなか実現していなかったことである。 過去形で語るカーブミラーのゆがみ 山崎夫三子
「島津家 vs 家康」 1602年(慶長7)3月、島津義久は、従兄弟忠長を上京させ、本田
政信宛、義久・忠恒連名の「起請文」を提出したので家康も「起請文」 を送り、薩摩・大隅・日向諸県(あがた)の本領を安堵、忠恒相続を承 認した。やがて12月末、上京した島津忠恒は、家康と面会。和解して 帰途に着いた。 紆余曲折の末、本領安堵された島津忠恒が家康に謁し、兵は出さぬまで
も豊臣氏と親しく、徳川牽制の役をした佐竹義宜・秋田実季を大幅厳封 移封して、関ヶ原の戦後処理の終わった。 梱包のすきまを埋める紙おむつ 下谷憲子
「家康征夷大将軍になる」
そして、1603年1月21日、内裏の勅使より内意を受けた後、
2月12日、伏見城を会場として、徳川家康の「将軍宣下の式典」が
執り行われることになった。 衣冠束帯に威儀を正した勅使が「家康を征夷大将軍になす」と宣旨を
伝えた後、源氏長者、淳和・奬学院別当への補任、牛車、兵仗許可、 右大臣転任の宣旨が渡された。 かくして家康は、その地位に相応しい権力を得ることになった。
足利幕府の崩壊以後、絶えて久しい征夷大将軍に就任である。
家康は、名実ともに天下人となり、江戸に幕府を開くことになる。
わがままはゆるしまへんと血糖値 古崎徳造 空き缶のところどころに負傷兵 峯島 妙
三成の頭蓋骨から復元した顔 と 遺骨を分析して描かれた肖像画
骨格が語る石田三成の性格 1907年(明治40)京都の大徳寺三玄院で、石田三成の墓地が改葬
され、三成のものとみられる発掘されて話題になった。 京都大学解剖学の足立文太郎教授が、その頭蓋骨から三成の顔を復元し
ようと試みた。当時は、頭蓋骨からもとの顔を復元するなど例がなく、 注目されたが、残念ながら展覧会に出品されたまま行方不明になってし まった。 当時の記録によると、三成の骨格は、ちょっと見ただけでは男か女かは
っきりしないほど華奢で生前には腺病質(神経過敏で身体が弱い体質) だったと推定される。 顔は当時としては細面で、ひどく反っ歯であった。
その点を除けば、鼻筋の通った繊細で知的な顔立ちで、かなり現代人に 近い形質だったといえる。 なお、改葬のときに骨といっしょに一本の小柄が出てきた。
打ち首になった人を埋葬するとき、胴と首とをつなぐのに使われたもの
で、三成が打ち首にあったことが実証された。 遺影写真あなたと出会う前の顔 月波与生
家康ー関ケ原合戦・屏風図で見る+合戦のあれやこれ
関ケ原合戦図屏風 (狩野梅春→翫月亭峨山 関ケ原町歴民族資料館蔵)
画面全体に関ヶ原の主戦場が広がり、上部に西軍諸隊、下部に東軍諸隊
を配し、右から左へ戦いの推移を表している。 午前8時にはじまった戦闘は西軍優位のうちに推移した。
三成は何度か「勝てる!」と思ったに違いない。
しかし、正午にいたって小早川秀秋の軍が動いた。
奮戦中の大谷吉継勢に襲いかかったのである。
小早川の裏切りで、遂に西軍の一角が崩れた。(6扇)
午後1時を過ぎる頃には、小西行長、宇喜多秀家ら西軍の有力部隊が、
次々に逃走をはじめる。(4・5扇) 毛利・島津は最後まで動かなかった。三成は敗北を悟った。
投げ返す言葉探しに匙を投げ 靏田寿子
第 一 扇 ① 三つ葉葵の陣幕が徳川家康の本陣。家康が最初に陣を構えた桃配山
だろう。ちょうど「伍」の指物をつけた使番が戦況を報告している。 周囲を固めているのは家康の旗本諸将。
本陣上部を進軍しているのは、細川隊などの東軍右翼。
仏壇の隣で汗をかくテレビ 河村啓子
第 二 扇
② 下から上に向かって突進している赤の軍旗が「赤備え」の井伊直政 隊、「本」と三つ団子の旗は本多忠勝隊。 陣幕上に日輪金扇は家康の大馬印。その上は、首注文を書きつける 武将たち。 その上には石田三成の前衛・島左近を攻撃する黒田長政隊で、豪傑・
後藤又兵衛も描かれている。
島左近は、小山の上から長政の鉄砲隊に狙撃され、部下に担がれて
戦線を離散中。
さよならと言える余力は持っている 平井美智子
第 三 扇
③ 中央部の落馬した武者は、合戦終盤に、島津隊を追撃中に撃たれて 負傷した本多忠勝。 上部の小西行長、三成の陣は東軍の猛攻にさらされ劣勢にある。
地獄ですからすっぽんぽんでいいのです 大島都嗣子
第 四 扇
④ 中央で戦っているのは、宇喜多秀家隊と福島正則隊。
二度三度と押しつ押されつの激戦を繰返した模様を描いている。 笹の指物をつけ、馬から降りて戦況を見ているのが、可児才蔵。
落とした首は17,いずれの口にも、笹を含ませたという。
その左に大野治長がいる。のちの「大坂の陣」では豊臣側についた
武将だが、「関ケ原」では東軍に参加した。 上部は勝敗が決まり、敵中突破で戦線を離脱しようとしている島津
隊。先頭に鉄砲隊を配置している。 一番後ろに写るだーれも知らない人 蟹口和枝
第 五 扇
⑤ 手前は藤川を渡る藤堂高虎と山内一豊隊。 上部の陣所では、敗戦を悟った大谷吉継が、敵の首を前に悄然と肩
を落とす。 十字架がこんな近くに見えている 市井美春
第 六 扇
⑥ 小早川秀秋の裏切り後のシーン。脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠ら 東軍に寝返った吉継の軍を襲っている。 その戦いを小山の端で見ているのは、「秀秋の裏切り」命令を拒み、
戦闘に加わらなかった小早川の侍大将松野主馬。 後ろから押してやりたいカタツムリ 辻部さと子
小早川秀秋 (高台寺蔵・京都博物館寄託)
小早川秀秋は秀吉夫人・寧々の甥にあたる。
思慮の浅い、あまり出来のよくない甥っ子だった。
毛利懐柔策の一環として、毛利の重臣・小早川家と養子縁組をさせられ
たので、思いもかけず名家・小早川家の当主となった。 秀秋は三成を嫌って家康に近づく。
家康は「小僧」と馬鹿にしながらも、小早川家の動員力は、馬鹿にでき
ないことを知っていた。 一方、石田三成が秀秋の鼻先にぶら下げたニンジンは「関白」であった。
秀頼が15歳になるまで関白の地位が約束されたのである。 ところが叔母の寧々は、家康側につくよう強く進言した。
関ケ原――踏ん切りのつかぬまま秀秋は、松尾山の上から戦況を見守る
ことになった。 眼下では大谷吉継が鬼神と思うばかりの働き。
どうやら西軍有利のうちに推移しているらしい。
びり乍ら今も懸命走ってる 津田照子
小早川秀秋 突撃
その時、しびれを切らした家康が、秀秋勢に向かって脅しの鉄砲を撃ち 込ませた。その鉄砲の音に尻を叩かれるように、 「われらが敵は大谷刑部(吉継)ぞ!」
秀秋はとうとう、采配を大きく振った。
関ケ原に参陣した最大級の兵力1万6千が動き、大谷吉継の部隊目がけ
て殺到した。 勝利が東軍に傾いたのはこのときである。 秀秋が陣を構えた松尾山は、6扇左下に、吉継の隊はその上部にある。
小早川秀秋は関ケ原の戦いの功によって、宇喜多秀家の旧領・備前岡山
51万石を得た。 しかし、西軍を裏切ったという負い目があったのだろうか、関ケ原から わずか2年後の1602年(慶長7)、狂を発して死んだという。 フラスコに罪を8割 水2割 みつ木もも花
石 田 三 成
「三成が見せた生への執着」 関ヶ原の戦いに敗れ、死罪を言い渡された三成は、京の支柱を引き回さ
れる。檻になっている輿に乗せられ、六条河原の刑場へと向かった。 途中で喉が渇いた三成は、搬送役に「湯がほしい」と頼む。 護送役が「湯はないが柿ならある」と柿を差し出したところ、三成は、
「柿は腹をこわす」と言って食べなかった。 それを聞いた人が、「これから死刑になる人間が腹のことを心配しても
しょうがないではないか」と嘲ると、三成は 「一世のことは小智ではわからない。今の今、何が起こるか、天のみが 知っている。だから死刑を目前にしても身体に気をつかうのだ」と、 答えたという。 懸命に生きよと先祖から叱咤 柴辻踈星
石田三成は関ケ原の敗戦の結果がはっきりすると、伊吹山に逃げ草津の
駅に出たが、運命が尽きるところで丁度、腹の病を患いだして仕方なく、
身をきこりの姿に変えて、みすぼらしい衣を着、腰に鎌を挟んで隠れて
いるところを捕まった。この様子に御前に参上している者たちは、 「このような人の道にそむく悪質な行為を企てる者が、死から逃れよう
とするとは情けないことだ」
と、口々に言うので家康は、 「そもそも人は生き抜いてこそ、何事も成し遂げるのである。
大望を思い立つ身には、一日の命も大事である。
未練というのではない。早く衣類を与え、食事なども食べられるように
して与えよ。もし病気ならば、医者にも診せて、十分な力添えをして、
すべてに不自由がないように取りはからえ」
と、仰られた。(家康公伝)
この後三成は、9月28日に市中引き回しのうえ10月1日、京都六条
河原で斬首される。享年41歳。
敗者ゆえの運命を回避することはできなかった。
ジョーカーのように扱われている黒 下谷憲子
可 児 才 蔵
「笹の才蔵」 可児才蔵という初老の浪人がいた。
福島正則の隊に陣借りして関ケ原に臨み20の首級を得た。家康の首実検 にはそのうち3つを持参した。 「残りの首には笹の葉をかませておきました。お確かめください」
調べてみると果たして才蔵のいう通りだった。
家康は、この才蔵の働きが気に入って「笹の才蔵」の名と兜を一つ与えた という。才蔵は福島家に500石で召し抱えられ、待望の仕官が叶ったが、 主家改易の数年前に60歳で死去する。
(可児才蔵の奮闘は、屏風絵・4扇の右中段にみられる) つるかめつるかめ今日も酒二升 宮井いずみ
小早川秀秋さんお電話ですよ 湊 圭伍
大垣城 (大阪市立博物館蔵)
大垣城=石田三成はこの城を拠点にするつもりだった。
家康が恐れた長期戦を狙ったのである。
「家康勝利の秘密に迫る」
関ケ原の戦いの年、1600年(慶長5)に入ってから、家康は諸大名
あてに大量の手紙を書いた。とくに決戦直前の7月から9月にかけての
3カ月間だけで1800通を越えている。
この徹底した手紙作戦のおかげで、家康シンパの大名を次々に獲得し、
三成の動きは一挙手一投足が家康に筒抜けであった。 挙兵の際に「人質をとったこと」や「大名の家族がすでに何人か脱出」
していることなどまで、家康は詳細な情報を握っていたのだ。 そして集めた情報は、巧みに利用した。
関ヶ原の戦いの直前、これらの情報をすべて明らかにしたうえで三成と
自分のどちらに味方するかを諸大名に選ばせた「小山評定」である。 その点、三成は、作戦のほとんどを自分の頭のなかだけで、完結させて
しまい、いざその段になってから、事前の相談のないことを他の大名に 攻められることもあったという。 物差しの目盛り大きくして暮らす 前岡由美子
「豊臣へこころざしあるものは、大坂に帰られよ。家康はそれを恨みに
思わぬ…」これは小山評定で打った家康の一世一代の大バクチだった。 決断を迫られる大名たち、もし誰かが「軍を返す」と言い出せば、三成
憎しの思いだけで、ここまで従ってきた武将たちが、我さきに帰ってし まうことにかねない。しかしそのとき、 「これは豊臣への謀反ではない。三成の討伐である!」
と叫んだ者がいた。 武断派の福島正則だった。
静まり返っていた場内は、次の瞬間、堰をきったように三成への非難の
大合唱となった。こうなると異議を唱える雰囲気ではなくなり、列した 大名たちは皆、家康への忠誠を誓ったのだった。 実はこれは、狡猾な家康が、前もって福島正則に口火を切るよう根回し
をしてあったものだった。 人間を引き取りますと気になるチラシ 木戸利枝
家康ー東軍の大勝利。
日本史新聞ゟ
正味七時間の激闘 勝敗分けた小早川の裏切り 激 突
【関ケ原=一六〇〇】 秀吉の死後、その覇権を争って緊張が続いていた石田三成のグループと
徳川家康陣営。いずれ、合戦での決意は避けられないと見られていたが、 遂に両陣営が関ケ原で大激突、壮絶な戦いを展開した。 ●布陣 午前五時
関ケ原が合戦場となったのは、家康が、大垣城に籠城する西軍を野戦に
引き出すために三成の佐和山城を攻撃。続いて、大坂城を攻める気配を 見せたためだ。三成は、十四日深夜、慌てて大垣城を出て関ケ原盆地の 西北端に陣取った。 ●激突 午前八時
午前五時頃ー、東西四キロ、南北二キロの狭隘な関ケ原に西軍八万五千、
東軍七万五千、合計十六万もの大軍が集まった。 午前八時前、両軍が相対峙する最前線に向かって移動する一団があった。
赤備えの井伊軍団三十騎、井伊直政が選抜した精鋭だ。 福島正則の前に出ると、西軍島津隊に発砲した。
●乱戦 午前九時
銃声が鳴り響いたとき、関ケ原には、濃霧が立ち込め、お互いに陣形や
兵力も明確には把握できず、細かい作戦は決められていなかった。 とにかく、目前の敵を叩くだけ。 そのとき、攻撃目標となったのが西軍の石田隊だ。
東軍諸将は我先に襲いかかり、石田隊も大筒で応戦。
怯んだ隙に切り込んだ。
●変化 午前十二時
一進一退を重ねる両軍を見下ろす松尾山に陣取る小早川秀秋。
とうとう裏切りの下知を下す、「目指すは大谷刑部の陣なるぞ」
一万五千の大軍が、松尾山を下り西軍の脇腹に突進した。
ここですとオハグロトンボ右を指す 上坊幹子 ●決着 午後一時
大谷吉継は、少しも慌てず、待機させていた兵に迎撃させ押し返す。
ところが、その味方のなかから脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が裏切る。
大谷隊が壊滅すると情勢は一変。 隣の小西隊が浮足立ち、宇喜多隊も混乱の極に達し、支離滅裂となる。 ●終局 午後四時
初戦より傍観していた島津隊は東西両軍に義理も利害もない。
戦場を離脱する決意を固め、敵中突破をはかる。
戦場に残るは東軍だけであった。 ●家康大坂城に入る 【大坂=一六〇〇年九月末】
関ケ原合戦には勝ったが、大坂城の毛利輝元が、秀頼母子と共に健在で
ある限り、家康は安心できなかった。 そこで輝元の大坂城退去をはかる一方、中央政府軍の統帥権者として、
自ら大坂城西の丸に入城する。 これによって、秀頼母子とは気まずい関係になるが、関ヶ原の勝利者と
いう家康の立場と力に相応しい形を与えられた。 シャッターを下ろす時計をかけあがる 高橋 蘭
三成はこの城を拠点にするつもりだった。 家康が恐れた長期戦を狙ったのである。 「戦争は作戦通りにはいかない。誤算がつきもである」
誤算は、勝った徳川家康にも敗れた石田三成にもあった。
家康の誤算はなんといっても三男・秀忠軍の遅参だ。
秀忠は三河時代以来の譜代の家臣らと中山道を上った。
つまり、徳川軍の首領部隊を率いていたのである。
その結果、予備部隊を率いて東海道を上った家康は、主力抜きで決戦に
臨まなければならなかった。 家康が関ケ原の決戦場に投入した軍事勢力の半分は、亡き豊臣秀吉に恩
義を感じている大名たちの部隊だ。 「家康のために戦う」気迫は譜代よりも劣る。
いざとなれば3万の旗本を督戦隊とし、前面に展開する豊臣恩顧の大名
たちを戦闘に駆り立てることも考慮したに違いない。 約束はあじさい色の気がするわ 岡谷 樹
だが家康は、西軍の総大将・毛利輝元軍を分断する手を打っていた。
吉川広家と小早川秀秋を味方に引き入れたのだ。
しかし、内応の誓詞を交わしていても万全ではない。
勝負の流れによっては、合戦途中から2人とも西軍に加担する可能性も
残っている。家康がもっとも恐れていたのは、このことだったし、事実、 それが現実のものになりそうになった。 あらすじの通りに進んでいる不安 青木敏子
合戦前日
14日午後、杭瀬川の戦いでは西軍が圧勝し、士気を持ち直す。 14日昼前、赤坂へ進む家康。 西軍は家康の動きをまったく知らず、突然の出現に動転した。 一方、三成はほとんど1人で動き回って、輝元をはじめ9万余の兵力を
動員した。参加した大名たちの思惑はそれぞれ異なり、意思統一もなか ったとはいえ、大兵力である。 家康が驚倒したのは当然だろう。 これも家康の誤算だった。
そして三成は三段階の迎撃案を考えていた。
1,三河と尾張の境で迎え撃つ。
2,岐阜と大垣の線で迎え撃つ。
3,関ケ原に最終陣地をつくり、大垣に籠城、長期戦にする。
だが2案は、岐阜城が陥落して消滅。
3案を予定していたときに思わぬことが生じた。
9月14日の午後、小早川秀秋が松尾山に布陣したのだ。
松尾山には三成が、長期戦に備えて密かに修築していた松尾新城がある。
三成は、ここには南雲山に布陣した毛利秀元・吉川広家らか西軍総大将 の毛利輝元に入ってもらうつもりだった。 その要の城に大垣入城要請を拒んだ、西軍の中でももっとも信頼できな
い小早川秀秋が、城番の伊藤盛正を追い出して入城したのだ。 人参を抜くとき無無と声がする 斉尾くにこ
15日正午頃、西につくか東につくか、小早川秀秋の心は揺れていた。
だが家康に鉄砲で威嚇された秀秋は、ついに東軍へ寝返り、大谷隊の
攻撃に踏み切る。 これで三成の戦略は大きく崩れる。
この日9月2日以来、関ケ原西端の山中村に布陣している大谷吉継から
「松尾山の秀秋の動きが不審だ。全軍関ケ原に集結し、家康を迎撃しよ
う」との手紙を受け取っている。 南雲山の広家の動向も怪しいし、それに動揺したのか安国寺恵瓊も戦意 に欠けている。 さらにいえば、立花宗茂らの別動隊も、大津城攻略にかかったまま関ケ
原に到着していないうえ、毛利輝元は大坂城から動かない。
私とナマケモノとはいい勝負 下林正夫
15日午後1時過ぎ、東軍の猛攻撃で炎上する西軍の陣。
上から石田、島津、小西の陣所。左上には切腹する武士がいる。
このような状況下に入手したのが、東軍の「佐和山城攻略」の情報だ。
こうなれば、東軍よりも早く、最終戦城予定地の関ケ原の要地を確保 するしかない。 ここで支えることができれば、長期戦に持ち込める。
それならまだ勝利の目は残っている。
こう判断した三成は、暗闘の雨のなか、大垣城の主力を関ケ原へ転身
させたのである。 しかし、三成の目論見は、翌15日、秀秋の裏切りと広家の中立で脆
くも崩れ、西軍は大敗する。 民族のガチンコの音骨の音 峯島 妙 ハエトリ紙に父の咳払い 河村啓子
日本史新聞 伏見城攻防戦・小山会議
1588(慶長3)8月18日、豊臣秀吉は世を去った。 時代はたちまち激動の時を迎える。
秀吉亡きあとの天下の覇権をねらう家康と、それを阻止しようとする豊
臣家の重臣・石田三成の対立は激しくなり、やがて天下分け目の決戦へ とつながっていった。 秀吉の死から2年後の1600年(慶長5)のこと家康は、会津の上杉
氏の討伐を名目に、福島正則・山内一豊など秀吉子飼いの武将たちを率 いて北上した。その途中、家康は、石田三成の挙兵を知った。 三成、毛利輝元や宇喜多秀家など、西日本の武将たちを集めて、
「家康征伐」を宣言したというのである。 投げられた言葉反復まだ続く 柴辻踈星
家康ー伏見城攻防戦~関ケ合戦戦
『小山会議』
7月19日、まだ江戸城に滞留していた家康のもとへ、一通の密書が届
いた。 「一筆、申し入れ候。今度、垂井において大刑(大谷吉継)両日相煩ひ、
石治少(石田三成)出陣の申分、ここもと雑説申し候。 なほおひおひ、申し入るべく候。恐々謹言」
密書の送り主は増田長盛であった。
石田三成が謀議を凝らした相手である。
五奉行の謀反秀吉知らぬまま 越後朱美
家康は、驚いたが、慌てない。
予定通り江戸を経って下野小山に向かう。
7月24日、伏見城の鳥居元忠から、下野小山に届いた知らせを見て、
初めて随行した諸将八十余名に事情を明かし、評定に委ねることにする。
「小山会議」である。そこで家康は、
「このまま家康と行動をともにして三成を討つか、それとも家康を離れ
て三成のもとに参ずるか…三成に味方する御仁は遠慮なく陣払いして よい」 と言下した。 満月になるまで面取りに徹す 山本早苗
史跡小山評定跡 小山評定跡由来 居並ぶ武将たちは、 清洲の福島正則、三河吉田の池田輝政、掛川の山内
一豊など、ほとんどが秀吉恩顧の諸将だった。 生前、秀吉は万が一、家康が叛旗を翻して、上方に攻め上ってきた時、
途中で迎え撃つために関東と関西のあいだに、これらの武将たちを配
していたのである。 亡き秀吉の思惑としては、ここで武将たちは家康に対抗して、その進
撃を阻止する役を務めるはずだった。 ところが、結果はまったく逆に出たのである。
誰一人として、席を立つ者はなかった。
元忠の書状から翌日の7月25日、豊臣系大名である福島正則はじめ、
武将たちは口を揃えて、家康に味方することを誓ったのである。
シュールな話だ 冬へと伸びてゆく 赤松蛍子
その背景には、武将たちの石田三成に対する強い反感があった。
家康は、豊臣家の家臣たちの内部対立をうまく利用して「関ヶ原合戦」
の意味合いを「三成打倒」のため、という目的にすり替えてしまったの である。 7月26日には、福島正則を先鋒として家康方の軍勢は進撃を開始。
9月14日には、三成方およそ8万2千余と家康方およそ7万4千余は、
岐阜県南西部の「関ヶ原」で対峙した。
払っても払ってもある嫉妬心 柳田かおる
【episode】 「8月末、豊臣系大名の優柔不断を叱る」
評定の場で、
「余人は知らず。拙者は妻子を捨てても内府殿にお味方仕る」
と、真っ先に発言した福島正則は、翌日早く、西に向かって出立した。
これが7月26日のことである。 しかし、肝心の家康が江戸城に帰城すると動かない。
東軍諸将は、尾張清州城に集結して軍令を待つが、具体的な指示が何も
届かない。 19日、ようやく
「諸将が未だに戦線を開かないのは、何事か」
と、咎める家康の使者が清州城に到着する。忠誠の証を見せろ、と。
包丁は切れないし砥石は無いし 森井克子
9月15日、戦端は開かれ、「関ヶ原の合戦」がはじまった。
戦いは石田三成方に裏切りが相次いで、家康の圧勝に終わった。
天下に並ぶもののない武将として、家康の覇権は定まり「将軍になる」
という夢も目に見えるほど近づいてきた。
ところが、家康は意外に慎重であった。
「もはや将軍宣下の儀をも仰せ出されるだろうと下々では噂しています」
合戦ののち、家康方の武将・藤堂高虎がこう言ったとき…、
家康は次のように答えたのである。 「将軍成りはまだ早い」
将軍になるためには、まだやらねばならないことがある。
それが家康の考えであった。
もう少しこのままそっと寝かせとこ 津田照子
鳥居元忠壮烈な最後
『伏見城攻防戦』ー徳川家の鳥居元忠、善戦も西軍四万に屈す。 話は関ケ原開戦の8日前に戻る。
戦いの火蓋は7月18日、西軍勢力圏に打ち込まれた楔(くさび)=
伏見城の攻防戦で切って落とされた。
島津義弘・小早川秀秋、毛利秀元ら四万の西軍が包囲するなか、忠義一
徹の三河武士・鳥居元忠率いる千八百の兵が籠城する。 籠城兵が全員玉砕の覚悟で待ち構えているとき、包囲側の腹が決らない
ので、なかなか勝負はつかない。
あっと言う間に29日になった。
苛立った三成は督戦にかけつけたが、それでも落ちない。
ようやく城内の甲賀者を脅して内応させ、攻略の糸口を掴む。
8月1日、伏見城は陥落。続いて、丹後・伊勢・美濃尾張の各方面を
次々に制圧するが、足並みの揃わない西軍としては上出来だった。
この「伏見城攻防戦」は、9月15日に行われることになる関ヶ原本戦
の前哨戦である。 過ぎ去れば思い出ばかり風ばかり 靏田寿子
鳥居元忠 音尾琢真
『鳥居元忠』 「人たらし秀吉の毒牙を逃れる」 元忠とは=その死に様から、古くから忠臣として顕彰された。
派手な戦功こそないものの、無私・実直に家康の覇業を支えた武将だ。
その武功――家康の側近として数々の戦に参加している。
元亀3年(1572)の「三方ヶ原の戦い」では、斥候として敵陣深くに潜入 するも片足に深手を負い、その傷がもとで、歩くのもままならぬように なったという。 天正10年 (1582)、信長横死後の「天正壬午の乱」では、北条方の軍勢
を寡兵で撃退し、戦後に郡内を拝領した。 サバイバルゲーム百歳から佳境 植田のりとし
しかしその3年後、信州上田城の真田昌幸が上杉景勝方に付いたため、
大久保忠世とともに、上田城を攻める「第一次上田合戦」は、あえなく
撃退された。 家康が秀吉へ臣従後、1586年(天正14)に上洛した際、秀吉は家康
の重臣たちに官位を授けようとしたことがある。 そのとき元忠は、 「不才ゆえ二君には仕えられず、しかも粗忽者 ゆえ、殿下に出仕する器
ではありません」 と言い、丁重に断っている。 その後も秀吉は、元忠に執着したようだが、 元忠はすべて断った。
立ち去って行く姿まで美しい 山田 仁美
源光庵の血天井①
源光庵の血天井②
養源院の血天井 秀吉による天正18年の「小田原攻め」では、相模築井城や武蔵岩槻城
の攻略に功績があった。戦後に家康が関東へ移封されると、重臣たちは、 周辺諸国への備えとして要衝に配置。 鳥居元忠は、東北勢の抑えとして下総矢作城 4万石を得た。 しかし、ここでは厳しい検地と過酷な収奪を実行し、領民からは忌み嫌 われた、という。 そして、「関ヶ原の戦い」をひかえた1600年(慶長5)6月、上杉
討伐のため東下した家康の命により、元忠は、伏見城の守備を任された。 そこに西軍の石田三成らの軍勢が襲いかかった。 元忠はわずかな城兵で
これを迎え撃つが、衆寡敵せず、壮絶な討ち死にを遂げた。享年62歳。 首は、大坂城京橋口に晒されたという。
元忠とともに戦った侍たちの、血潮に染まった床板が後に、京都市内の 養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵などの寺に移築され、今も「血天井」 として現存している。 消えてしまった天国への階段 藤井孝作 |
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