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川柳的逍遥 人の世の一家言
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見たことを全部話しなさいトンボ  みつ木もも花





         石田三成検地 (太閤検地)




「アレが名言に」
「One for all ,all for one.」(ワンフォーオール、オールフォーワン)
この有名な名言は、日本ではラグビーの精神を表す言葉とされる。
意味は、「一人はみんなのために、みんな一人のために」である。
石田三成の旗印は「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)
「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は、
 幸福になれる」という意味がある。
ラグビーの名言と、なんとなく似ていて通じるものがある。
三成の心情であったことは間違いない。
もとはインドの天文学や占星術で扱われていた九曜紋で、吉兆を占った
ものとしたことから三成が用いたといわれる。
しかし三成の旗印は、江戸時代前期の史料には見ることができない。
(一説によると、関ヶ原の戦いで勝利し天下を治めた徳川家康が、
人気のある三成を悪者として貶めるために情報を操作したのではないか、
とされている)


お蔭様日本にこんないい言葉  宮崎勝義




       戦場にはためく大大大吉の旗印




家康ー石田三成とはどんな人


石田三成は、1560年(永禄3)に近江国坂田郡石田村で誕生する。
父は浅井氏に仕えた豪族・石田正継。母は浅井氏家臣の娘・瑞岳院。
幼名・佐吉、色白で目の大きな目の美少年であったらしい。
そして、少年期を隣町の大原観音寺で過ごしたと伝えられている。
米原市朝日にある観音寺には、寺の小僧だった佐吉(三成)が、鷹狩り
で立ち寄った秀吉に茶を献じ「三椀の才」で、秀吉に見出されたという
逸話は有名である。
初対面の相手に完璧なおもてなしをするのはなかなか難しいもの。
しかし佐吉は、初対面の秀吉の心を掴み、家来にしたいと思わせるほど
の「おもてなし」を披露したのは14歳のときだった。


飛び越えておいで焚火はもう仄か  くんじろう




          観音寺総門 (国の重要文化財指定)
惣門は桟瓦葺の重厚な門で長浜城の裏門を移築したものと伝わる。

「三献の茶」
『ある日、長浜城主となっていた羽柴秀吉が、タカ狩りの帰りに、大原
観音寺に立ち寄り、出迎えた小僧に一服の茶を所望した。
その小僧は、大きめの茶盌に七、八分目ほど入れたぬるめの抹茶を、
床几に坐す秀吉の前にひざまずき手渡した。
喉が渇いていた秀吉は、その茶を一気に飲み干すと、その小姓の立ち居
振る舞いに興味を覚えた秀吉は、もう一杯の茶を所望した。
すると今度は、茶盌の半分に満たない量で、前よりも熱く点てられた茶
を持ってきた。それを飲み干した秀吉がさらにもう一杯の茶を所望した。
次に小僧は、小ぶりの茶盌にさらに熱く点てた茶を差し出した。
秀吉は、客の要望に応えて機転を利かせるこの小僧の才知に驚き、寺の
住職に懇願してこの子を家来としてもらい受けたという』


一口ちょうだいもう一口ちょうだい  酒井かがり




         石 田 三 成




「事務方に就任」
1574年(天正2)三成は、15歳の時に秀吉に仕えるようになった。
武士としての実務よりも、外交を担当する事務方としての任務についた。
三成が20歳頃の書状・「石田三成発給文書目録稿」にこのことが記さ
れている。秀吉に仕え、三成はまず事務方としての才能を発揮していく。


天才を生成している落し蓋  通り一遍


「25歳の出世道」
1585年(天正13)、秀吉が日本初の武家関白へと出世すると、三成
は従五位下・治部少輔という高い官位を受け、出世街道を駆けのぼる。
三成は、25歳の若さで官僚になり、豊臣政権下の「五奉行」一人に数
えられ、司法や行政を担当し、豊臣政権の中核を担うこととなる。
またこの年、上杉景勝直江兼続のところに信じられない話が飛び込ん
できた。「墜水(落水)の会」と呼ばれる。
まさに破竹の勢いで勢力を広げていた羽柴秀吉が、越後の国境・墜水
に三成を含む僅かな供を連れて、自らやってきたというものである。
秀吉が天下統一をするために上杉家も協力してほしいというゴリ押しで
あった。


流木の下にソドムの焼け野原  井上一筒





           忍 城




「三成の30歳、秀吉に「NO」を突きつけた」
1590年(天正18)三成30歳。「忍城の戦い」は、秀吉が北条氏を
討伐するため、豊臣秀吉の家臣であった三成らに命じ、北条氏の支城・
忍城を水攻めにした戦いである。
この戦いで三成は、はじめて大将に任命された。
秀吉から出ていた戦略は、城を洪水で孤立させる水攻めだったが、現場
を見た三成は「この城は水では落ちない」と判断し、長浜城にいる秀吉
に「もっと積極的に攻めるのはどうか」と手紙で進言した。
しかし水攻めにこだわる秀吉は、戦略を変えることはしなかった。
秀吉が持つ強大な力を示すには、手間もお金もかかる水攻めが、パフォ
ーマンスとして最適だと考えたからである。
だが結局は、忍城は、水では落とせなかった。


人生を背負って濁流を渡る  市井美春





          佐 和 山 城




「忍城の戦い」の翌年、三成31歳。三成は、近江国坂田郡にあった
「佐和山城」の代官として着任した。この佐和山は、畿内と東国を結ぶ
要衝であり、軍事、政治、経済的に重要な地域である。
この4年後、三成36歳の1595年(文禄4)に。天守を備える近世
城郭としての佐和山城が完成すると、19万石を拝領する城主となった。
こうしたことから近江の地域で囃された言葉がある。
「石田三成の身に余る物は2つある。島左近と佐和山城」
佐和山の支配や猛将の家臣の島左近は、石田三成にはもったいないと
いうのだ。しかし、三成による佐和山の統治は、領民思いの「善政」
敷いたことで領民から慕われた。そして三成は、領内で「十三ヶ条掟」
「九ヶ条掟」という掟を定め、年貢の計算に関する規定を取り決めた。


耕した土は正直花のいろ  津田照子





                      




「島左近」
三成に仕えた部下として「もったいなくも」で有名なのが嶋左近である。
「忍城の戦い」から間もなくのことであった。
三成が秀吉から4万石の領地を新たに与えられたとき、秀吉は三成に、
「何人家来を増やしたか」と尋ねた。
「一人です」と三成は答えた。
「4万石もの領地をもらって何故一人しか家来が増やさないのか」
と、疑問に思った秀吉は、
「どういうことだ?」
と、追及すると三成は驚きの事実が語った。
「なんと左近に領地の半分2万石を与えた」
と、いうのである。
「主君と家臣の禄高が同じとは、聞いたことがない」
「だが、そうでもなければ、左近ほどのものが部下にはなるまい」
と、秀吉は驚きつつも理解し納得したという。
さらに三成が19万石の佐和山城城主になった時、三成が島左近の禄を
加増しようとすると、左近は
「もう禄は十分だから代わりに下の人々に与えて下さい」
と断ったという。


肩書を外すと猫も寄って来る  笠嶋恵美子






                          大 谷 吉 継




「お茶が繋いだ三成と大谷吉継の友情」
三成には大谷吉継という盟友がいた。
吉継はやはり秀吉に仕える戦国武将である。
ある時、大谷吉継は、豊臣家の茶会に参加していた。
参加者は順番にお茶を飲み回した。
吉継に茶碗が回ってきたときに不幸なことが起きてしまった。
当時の吉継は「らい病」を患っており、ただれた顔から落ちた膿が茶碗
に入ってしまったのである。それを見た他の参加者達が、気味悪がって
吉継から茶碗を受け取ろうとしなかったところ、助け舟を出したのが三
成だった。「喉が渇いた」と言って茶碗を受け取ると、平然とお茶を飲
み干し、「もう一杯欲しい」と申し出たのである。
三成の優しさと気遣いに心を打たれた吉継は、「この男に命も惜しまず
ついていってやろう」と、決心した、という逸話が残る。。
(お茶を通じて、主君の豊秀吉、盟友の吉継を得た石田三成。
その生涯は、お茶が取り持つ不思議な縁があった)


そんな時チョットヒントをくれた人  竹内幸子


「天下の基準 ・検地尺」
三成は、全国の土地の大きさを測る基準になる「検地尺」を考えた。
「太閤検地」といわれるものーそれを三成が推し進めたのである。
三成は「検地奉行」として部下たちとともに日本中の土地をめぐり測定
にあたった。この「太閤検地」によって、それまでは村人や領主からの
申告制で過小申告も多かった石高(米の量)がより正確なものになった。
年貢の徴収が安定。百姓を喜ばせ、さらに豊臣政権の収入が増え、秀吉
の力をより強大にした、三成の知恵である。




       関ケ原の戦 この中に大谷吉継の旗印がある


「やがて」
豊臣家の尺を測り損ねた三成は、やがて、その真面目さ堅さから、加藤
清正ら武闘派とのあいだに確執を生み。又家康には「三成は邪魔」と思
わせる行動や言葉が、文知派の彼をして関ケ原の道へと誘い込んでゆく
ことになる。

砂時計つづく流れを容赦なく  梶原邦夫

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茹であがる刹那の蛸の溜息  酒井かがり




            関白秀吉主催の猿楽


関白就任の二日後、秀吉は天皇に拝謁したのち、御所の紫宸殿で大判振

る舞いの「猿楽」を主催した。
ところが、前久の子・信尹や前関白の二条昭実らは宴に出席したものの、
席順に不満を持つ親王や公家の多くがボイコットする。
その上、宴の途中で滝のような雨が降る始末。
秀吉の大セレモニーは、完全に水を差された形に終わった…宴だった。




てるてるぼうず本当は雨が好き  徳永 怜




「秀吉のど根性」
小田原攻め時、秀吉は鎌倉の白旗神社に詣で、鎌倉幕府を開いた源頼朝
の木像を見た秀吉は、頼朝像の背中を叩きながらこう語りかけたという。
「お前と俺とは、たった一人で天下を手に入れたことは同じだ。
 だが、お前さんは源満仲の子孫であり、王族と血縁がある。
 しかし、俺は違うぞ、卑賎の生まれで氏も系図もない。
 それでも天下をとったのだから、俺の功績のほうが、お前さんより高
 いことになる」
そんな秀吉も、関白になった後は、自分の素性を改めさせるべく、さま
ざまな伝説を流させている。
なかにはあたかも自分が「天皇の子である」かのように、記されたもの
もある。地位と相手によって、うまく切り換えているのだ。
いくら下剋上の戦国時代とはいえ、自分の壁は厚かった。
しかし、それをバネにするだけでなく、逆手にとって利用するほどの、
強かさを持っていたことが、秀吉が出世街道を驀進した理由だろう。




太陽は沈むわかっているんだよ  市井美春




      近衛前久




家康ー秀吉関白誕生の立役者・近衛前久




「史上初 関東に下った関白」
関白の近衛前久は、戦国乱世の主役や脇役たちと様々な交渉を持った。
当時の公家の中で、これほどまでに、武家と積極的に交わった人物は顔
を見ない。逆に、武家の側からすれば、天皇家に次いで高貴な彼の血は、
それだけ利用価値が高かったということであろう。
しかし、武士たちがわがもの顔で跋扈する戦国を起用に立ち回ってきた
はずの前久の前に、彼の思惑を超越する男が現れた。
24歳の若き関白・近衛前久は絶望していた。
天皇を補佐する重職にありながら、政治的実権がほとんどないことに気
付いたからである。将来に期待を持てない前久は職務をなげうち、西国
に下向しようと思っていた。その前久の眼前に頼もしい大名が出現する。
1559年(永禄2)、二度目の上洛を果たした越後の上杉謙信だ。




この一歩これが私の歩幅かな  津田照子




          謙信の起請文

近衛前嗣と長尾景虎は、そこである密約を交わした。
そのとき前嗣が血でもって「長尾(景虎)を一筋に頼み入る」と認めた
起請文が現存している。




室町13代将軍・足利義輝の要請を受けた前久は、「関東管領職」を望
謙信との交渉役を見事成し遂げる。
この交渉過程で意気投合した2人は、血を混ぜた墨で書いた起請文を取
り交わし、前久は謙信を、前久は謙信を頼り、東国へ下ろうと決心した。
さまざまな反対を乗り越え前久が越後へ下ったのは翌年の秋。
史上初の現職関白の東国下向であり、はた目には「かんぱくの東国出馬」
と映ったかもしれない。前久の遍歴の始まりであった。




そら豆の花が咲いたよあぶり餅  前中知栄




しかし鎌倉八幡宮社頭で関東管領襲名式を挙行したものの、謙信の関東
制圧戦は失敗に終わってしまう。
謙信の武力を背景に自らの権力回復をという期待が一挙に萎んだ前久は、
「血の盟約」を一方的に反故にして帰京、立腹した謙信との交流はその
後ぷっつりと絶える。




本気かと聞いてくるのは向かい風  柳本恵子





流浪の公家・前久の自筆新古今和歌集 松平不昧公正室蔵




「放浪後、信長の交渉役に就任」
前久にとって従兄弟で姉の夫でもある将軍・義輝が暗殺されて3年後―
1568年(永禄11)9月、義輝の弟でその後継者を自任する義昭
織田信長に守られて上洛する。
ほどなくして三好党が担ぎ出した14代将軍の義栄が病死し、幸運にも
義昭が将軍職を継ぐことになった。
「信長の軍事力を背景に京の治安を回復し、新将軍の義昭と関白の自分
 とで政権に関与できる」
ついに念願のときが到来した、と、前久は考えたかもしれない。




ゴミ箱の底で蚯蚓のスクワット  岩根彰子




しかし運命は暗転する。
同年11月、前久は、突如、京都を出奔、関白職を剥奪されるのである。
原因はよくわかっていないが、義輝の暗殺以来協力的でなかったことを
義昭に恨まれたためともいわれている。
いずれにせよ京を出た前久は、石山本願寺を頼り、河内の三好義継のも
とに立ち寄ったのち、丹波へと流れていった。
この間、隠密裏に越前の朝倉義景をも訪ねた、というから、反信長勢力
の間を渡り歩いていたことになる。




本気かと聞いてくるのは向かい風  柳本恵子




しかし、帰郷できたのは、その信長のお蔭だった。
1575年(天正3)前久は、7年もの放浪生活に別れを告げて京都に
戻る。
前久の出奔後信長と対立した義昭は、すでに京から追放されていた。
案に相違して、信長は前久を優遇する。もちろん信長流の理由があり、
五摂家の筆頭・近衛家の当主というサラブレッドの前久は、対公家のみ
ならず武家との交渉にも利用できる、と見ていたからである。
(五摂家=摂政・関白に任ぜられる五つの家柄)




言いたい事言えぬ男の傍に居る  中川伊都子





近衛家・旧邸




「秀吉に狙い撃ちされた名門・近衛家」
本能寺の変後、主君・信長を討った明智光秀との仲を羽柴秀吉らに疑わ
れた前久は、またもや苦境に陥って、三河の徳川家康を頼る。
家康には以前、松平から徳川への「改姓申請」の折に骨を折ってやった
貸しがあったからだ。
一方、信長の後継者としての地位を確定した秀吉は、源氏である前将軍・
足利義昭に自らを猶氏(仮の養子)とすることを願い出た。
源姓を名乗ることができれば、将軍となることができるからだ。
しかし義昭は、この申し出をきっぱりと拒否。
そこで秀吉は、藤原姓(五摂家)の関白・太政大臣として、政界に君臨
することにしたのである。




釦より少し小さなボタン穴  平井美智子




ちょうどその時、前久とその子・信尹(のぶただ)にとって不幸な出来
事が起きる。
当時、内大臣の秀吉はまず左大臣を望んだ。
そのときの左大臣は信尹である。
無官になりたくない信尹は、関白になろうとして、現職関白の二条昭実
に譲ってほしいと相談した。昭実が応じるはずがない。
2人が、関白職をめぐって押し問答しているうちに、事態は思いもかけ
ない方向へと進む。2家の仲裁を口実に、自らが関白になろうと秀吉が
策動し始めたのだ。




くちびるにツンツン春を試し食い  青砥たかこ





    近衛信尹・柿本人




秀吉に関白就任への同意を求められた信尹は、当然、「関白は五摂家の
職だ」と突っぱねる。ならばと秀吉は条件を出した。
それは、秀吉がまず前久の猶氏になり、関白職はやがて信尹に譲る。
また近衛家に千石、他の4摂家には、各五百石の知行を贈る、というも
のだった。さらに秀吉は追い打ちをかける。自分の提案を突っぱねても、
一条家から関白職を譲られる保証はないぞ――
秀吉の権力を考えれば、要請というよりは恫喝に等しい。
苦慮の末、前久親子は秀吉の提案に屈した。
彼らが条件を飲めば二条家も同意するしかない。
昭実は関白を辞任した。




「ん」と言えば流れは変わるはずだった  郷田みや




こうして羽柴秀吉藤原秀吉となり、関白に任官、公家筆頭の近衛家が
武家筆頭の秀吉に呑み込まれたのは、1585年(天正13)7月11
日のことである。
この年、50歳になった前久だが、数十年間、さまざまな有力武将と積
極的に関わってきた。それもこれも公家の政治力が衰退することに歯止
めをかけたい一心である。
その結果、公家社会が武家に併呑される事態を招来するとは、想像もし
なかったであろう。前久にしてみれば、秀吉が関白に就任したこの日は、
生涯最大の屈辱にまみれた日であった。
前久は関東から九州まで、全国各地へ下向するなど精力的に活動したが、
晩年は、慈照寺(京都市左京区)の東求堂に隠棲した。




人恋しくなるシュガーレスな日暮れ  清水すみれ





           「観能図屏風」  神戸市立博物館藏


観能会ー秀吉は後陽成天皇を聚楽第にまねき、能会をひらいた。
秀吉は聚楽第にきていた大名たちに、
「朝廷にたいして二心はいだきません。また秀吉の命令にもそむきま
せん」という誓いの文をかかせた。徳川家康もそれを記した。




1587年(天正15)に落成した聚楽第で、豊臣秀吉主宰の能楽の会が
開かれた。錚々たる武将の見守る中で秀吉をはじめ、信長次男・信雄や、
信長の弟・有楽斎らも舞い、家康「船弁慶・源義経」を舞った。
その時の逸話が『徳川実紀家康公伝』にある。
「君(家康)は、舟弁慶の義経を演じられたが、元より太っておられ、
 舞曲の節々にそれほどまで御心を傾けていらっしゃらないので、
 とても義経には見えないと諸人はどよめき笑った」





      「見立船弁慶」(3世歌川豊国・東京都立中央図書館)




『名将言行録』には、
「加藤清正・黒田長政・浅野幸長・石田三成・島津義弘らは『さてさて
 常真(織田信雄のこと)は馬鹿者よ。見事に舞ったからとてなんの益
 があるのだと』と、いって嘲った。 家康のことは、
『あの古狸が、作り馬鹿をして太閤様をなぶっている。
 あの姿をみろ。さてさて兵者(心臓男)よ。とにかくいけ好かぬ。
 恐ろしいことだ』と、みな心中に舌を巻いたという」 



蓋をする指に花柳流が出る  きゅういち

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出られない回転ドアに惚れられて  岡田幸男




            本多忠勝vs加藤清正


徳川四天王の本多忠勝と秀吉子飼いの加藤清正による一騎打ちは、なか
なか決着が付かず、最終的には槍を手放しての組み打ちになった。
そこへ馬を駆って「それまで!」と叫ぶ者があった。それは清正の主君
羽柴秀吉だった。



  
              甲   冑
   本多忠勝        榊原康政      井伊直政




徳川家康「徳川四天王」をはじめ、多くの優れた家臣に恵まれている。
故郷である三河国からの家臣団は、特に忠義に篤いことで知られる。
三河武士達は、命も惜しまぬほど家康に最大の忠義を持って仕え、
家康も家臣団に対して、最大の誠意を示していた。
あるとき、豊臣秀吉が諸大名を集めて
「自分は天下の宝というものの大半を集めた」
と、自慢をし、徳川家康に対して、
「どのような宝物を持っているか尋ねた」
これに対して家康は、
「自分は田舎者だから、これと言って秘蔵の品は持っていない」
と、答え、続けて
「自慢といえば、私のために命を懸けてくれる部下が五百騎ほどおり、
それを1番の宝と思っている」と返したという。




笑い声の高さを競い合う遊び  平井美智子



家康ー徳川四天王ー② 本多忠勝・榊原康政




--
      本多忠勝            山田裕貴




本多忠勝 直轄軍の司令官
天文17 年(1548)~慶長15年(1610)
『徳川家康いるところに 平八(本多忠勝)あり』と、言われるほど、
本多忠勝は、主人家康と信頼が厚い主従関係を築いた。
徳川家臣団でも比類のない猛将。
鹿角の兜をかぶり、初陣以来57回の合戦を経験しながら、一度も刀傷
を負ったことがないという天下無双の槍使い、武勇の士であった。
忠勝の家系は、松平家臣の本多氏のなかでも宗家に近いといわれる。
忠勝は、幼少の頃から家康に仕え、永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」
の前哨戦となる「大高城の攻防戦」で初陣を飾った。
このとき家康は18歳、 忠勝は11歳。



人参を抜くとき無無と声がする  斉尾くにこ




     天下の名槍 「蜻蛉切」・天下三名槍


忠勝が愛用した槍 「蜻蛉切」ー その名は、 「刃の上にとまったトンボ
が真っ二つになって落ちた」と、いう逸話に由来し、 「福島正則の日本
号」「結城晴朝の御手杵(おてぎね) 」とともに「天下三名槍」のひとつ
に数えられている。 当初は、柄の長さが6メートルあったが、忠勝が
晩年になって3尺 ほど切り詰められている。




       本 多 忠 勝

忠勝は生涯で何人の敵を斃してきたのか?
肩からかけた大数珠は、自らが討った敵を弔うためのものである
 



「忠勝の武勇伝ー①」
一言坂の戦い忠勝25歳。元亀3年(1572)10月、遠江国二俣城を
めぐり、武田信玄徳川家康の間で偶発的に起こった戦いである。
これに徳川方は敗走。このとき武田方の猛将・馬場信春がしつこく追撃
してきたが、忠勝は殿を務めて一手に引き受けると、坂下という不利な
地形であったにもかかわらず、忠勝の奮闘で武田勢を押し返し、家康の
本隊は難を逃れることができた。一言坂の戦いのあとに「家康に過ぎた
るものが二つあり 唐の頭に本多平八」
という本多忠勝の武功を称える
狂歌・落書が登場したのである。
「忠勝の武勇伝ー②」
天正10年(1582)6月、忠勝35歳。信長明智の奇襲によって本能寺
に倒れた折には、窮地に立った家康が、放心状態で、「京都に戻り明智
光秀の軍勢と戦って切り死にする」と、言いだした。
そのような家康を忠勝「ここは一度、三河に戻り、態勢を整えてから
明智を討ちに出るのが得策」と、諫め、体制を立て直すために帰国を進
言したが、家康は、その進言を聞いてもなお、落ち着かない状態だった。
それでも忠勝は、主人を励まし続け、服部半蔵の助勢を得て、わずかな
兵士とともに「家康の伊賀越え」を成功させている。



足跡をわざと残した骨密度  靏田寿子




「忠勝の武勇伝-③」
以後、家康が経験した戦のほぼすべてに参加し、戦功を重ねた。
とくに天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」での奮闘ぶりはよく
知られるところである。
小牧山の家康本陣で、留守居役を任されていた忠勝は、秀吉勢の本隊が
小牧山を狙っていることを知ると、僅か五百の手勢を率いてこれを妨害。
堂々たる忠勝の姿を見た秀吉勢は進軍をあきらめたという。
(戦後、秀吉までが忠勝の働きを称賛している)
同18年の小田原戦役後、家康が関東へ移封となると、忠勝は房総半島
の抑えとして上総大多喜城 10万石を与えられた。



今ここが居場所と思うよき目覚め  津田照子
  





      「桶狭間の戦い」  歌川豊宣
桶狭間の戦いの前哨戦「大高の攻防」が忠勝13歳のときの初陣だった。
忠勝辞世の句。それから50年。猛将にも死は訪れる。

「死にともな嗚呼死にともな死にともな深き御恩の君を思えば」


「忠勝の武勇伝-④」
慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、戦目付 (軍監・監査役) として
四百余名の兵を引き連れて参戦、家康本陣のある桃配山にも近い後方に
陣取った。しかし,
西軍の猛攻により前衛が崩れ始めると、みずから最前線に赴いて指揮を
執り、自兵を連れて敵陣へ突撃するなど、獅子奮迅の活躍をみせた。
東軍の最前線に陣取っていた福島正則は、戦後に忠勝の見事な采配ぶり
を絶賛している。
戦後、10万石は据え置きで伊勢桑名へ移封となる。
が、その抜群の貢献ぶりに応えるため、次男の忠朝にあらためて大多喜
5万石が与えられた。晩年は病を得て隠居し、同15年に桑名で死去。
63歳だった。



海色に染みゆく散骨が希望  中野六助



【余計なひと言】ー「おつむ」の方はいまひとつ
戦場での働きは抜群だった忠勝だが、学問は苦手だったようだ。 
家康に招聘された朱子学者の林羅山に、忠勝は「学者というと天神様と
どちらが賢いのだ」 と尋ね、苦笑された。
それを家康に伝えると、家康もまた苦笑したという。
真偽は不明だが、忠勝が「武勇一辺倒の人物」として知られていたこと
がよくわかる。



のどの奥あれこれそれが出てこない  長谷川崇明




    
                        榊原康政                                   杉野遥亮



榊原康政=右筆も務めた秘書
天文17年 (1548) ~ 慶長11年 (1606)
家康の側近中でも際立った勇武で知られ、「徳川四天王」の一角に数え
られる。榊原家の出自は源氏に連なるという。 康政の祖父が伊勢国から
三河に移住したといい、康政は、最初に松平家の臣・酒井忠尚に仕え、
その後、酒井が松平家を離反すると家康に召し抱えられた。
そして、永禄6年 (1563) の「三河一向一揆」で初陣を果たし、家康の康
の字を与えられる。
その活躍により、翌年には本多忠勝・鳥居元忠とともに旗本先手役(部
隊長) にとりたてられた。


                 小牧・長久手の戦いでの榊原康政(楊洲周延) 
       
榊原康政の旗印の「無」の意味は?




元亀元年(1570)の「姉川の戦い」では、縦に伸びた浅井・朝倉の軍勢を
側面から衝き、勝利に大きく貢献したとされる。
同4年の「三方ヶ原の戦い」では、家康を浜松城 に逃がした後、夜襲を
成功させたという。その後も「長篠・設楽原の戦い」などでも戦功を挙
げるなど、本多忠勝らとともに、常に戦場で先頭に立って躍動した。



額縁を突き破ってくる黒豹  徳山泰子



天正18年 (1590) に家康が関東へ移封されると、北方の抑えとして上野
館林10万石を得た。そして2年後には家康の嫡男・秀忠付きとなった。
慶長5年 (1600) の「関ヶ原の戦い」では、その秀忠が率いる中山道勢に
参加。しかし真田昌幸・信繁親子が守備する「上田城の戦い (第二次) 」
で秀忠は苦戦し、関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態をみせる。
康政は補佐役としての責任から、自ら家康に陳謝し、秀忠への勘気を和
らげたという。また戦後は、論功行賞を補佐するなど、政治的な面でも
家康の信頼が厚かった。その後、秀忠は康政の娘を養女とし、 徳川家と
姻戚関係を結ぶまでになった。
しかし、康政はあくまでも武断派と目され、太平の世になると次第に政
治の第一線から遠ざかっていく。 晩年には本多正信・正純親子ら文治派と
対立、秀忠らに惜しまれつつ館林で病死。59歳だった。



完走の一歩手前で蹴躓く  大島美智代



【知恵蔵】ー「その後の館林藩主家」
康政は、館林藩の藩祖として数えられているが、 嫡子の康勝は継嗣なく
死去したため康政の系統はまもなく断絶。 康政の功績により、 その孫に
あたる大須賀忠次が藩を継承した。 やがて忠次は、陸奥白河藩に移封と
なり、館林は幕府直轄地となった。 そしてその後、この幕領館林から、
徳川綱吉が輩出されることとなる。


吉報なのに鈍行でやってくる  東川和子




番外ー鈴木久三郎




     
    軍配              家康の旗印



「軍配の軍配」
長さは44センチ、幅19センチ。団扇部分は皮で、漆の下地に金泥を厚く
塗り、表に朱色で日を、裏は銀箔で月を表す。
柄は竹を2枚合わせて漆を塗り「三葉葵」の紋が鍍金で施されており、
握りには藤が巻かれている。



「ここにも一つ、どうする家康」
鈴木久三郎ー岡崎城にいた若い頃(17-27) の家康に切り捨て覚悟で
物申した家臣がいた。
家康は、信長から貰った酒や鯉などを大切な客人をもてなすために大事
に保管していた。
 徳川家康が岡崎城に在った頃、勝手に鷹場で鳥を取った者や城の堀で
を取った者たちが家康の怒りを買い、牢に閉じ込められてしまった。
これを聞いた鈴木久三郎は、勅使に馳走するための鯉や織田信長から貰
った酒を、家康から拝領したものとして勝手に持ち出し、皆に振舞って
しまった。家康は烈火の如く怒り、薙刀を手にして久三郎を呼びつけた。
すると久三郎は、「魚や鳥を人に替えて、天下が取れるか」と吠えた。
これに家康は心を打たれ、久三郎や捕らえていた者たちを赦したという。
トップとボトムの間にも「刎頸の交わり」がここに生まれた。                                            (岩淵夜話別集)


尖らずに正道をゆくいい笑顔  宮原せつ

鈴木久三郎に、窮地に陥った家康の軍配を奪い、身代わりとして敵軍へ
突っ込み家康を救い、その後、無事生還した話が伝わる。
武田軍と徳川・織田軍が激突した「三方ヶ原の戦い」で…。

ア行から始まる地球の歩き方  笠嶋恵美子




     窮地の家康の前に敵と対峙する鈴木久三郎




「鈴木久三郎&家康の物語」
鈴木久三郎は「殿っ!」と叫び、窮地に陥った家康の元へ駆けつけ家康
が手にしている采配を指し示し、
「それがしが三河守 (家康) を名乗り、殿が逃げる時を稼ぎ申す。采配を
私目に御貸し下され」
采配は、軍勢を指揮する道具。これを持っていれば、敵も「こいつが総
大将の家康だ」と勘違いするだろう、言うのだ。
「何を申すか。そなた家臣を見捨てて逃げるなど、出来ようものか!」
渋る家康を、久三郎は叱りつける。
「このどたぁけが!殿がご無事なればこそ、捲土重来も叶いましょう」
久三郎は、下級武士で教養もあまりないから言葉遣いがあらっぽい。
「しかし……」 
躊躇する家康に
「えぇから寄越さんかい!」
興奮と緊張で久三郎は、上下見境のない言葉を連発し、家康から采配を
引ったくって、武田軍に向かって駆け出して行く。
「久三郎、必ず生きて戻れよ!」
「任せとけ!、えぇからクソ漏らさんウチにとっとと帰れ!、このどた
 ぁけが!」
このとき家康も30歳になっていたが、久三郎は自分の倅に話しかけて
いるように言葉遣いも無礼千万、滅茶苦茶だ。



いつだってあなたの杖になる覚悟  広瀬勝博


浜松城へ戻った家康は、音のない声で呟いた。
「今ごろ久三郎は、武田の兵らに膾切りにされているだろうのぉ」
悲しみにくれている家康の頭上から、聞き覚えのある声がした。
「…どたぁけ」
家康が顔を上げると、ボロボロで傷だらけの久三郎が立っていた。
「すわっ、亡霊か!」
「どたぁけ。ちゃんと足はついとるわい。殿が『必ず生きて帰れ』と
 言うただろうが」
「…よくぞ戻った!」
感涙にむせぶ家康に、久三郎は采配を渡しながら、
「あんな連中、大した事はないわい…それはそうとこれで『借り』は返し
 たからな!」
家康が受け取った采配は、ボロボロだ。
久三郎の潜り抜けてきた死闘を代弁しているように…。


今が今であればそれでいい夕陽  市井美春

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茹であがる刹那の蛸の溜息  酒井かがり




   東大寺四天王ー広目天・多聞天・増長天・持国天
仏教に由来する東西南北の守護神である持国天・増長天・広目天・多聞天
「徳川四天王」は、本家四天王から総称を引用されたものである。



「徳川四天王」
本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は、1590年(天正18)の徳川
氏の関東移封から、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いまでの時代に
徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となっ
て活躍し、幕府の基礎固めに功績があり、又1586年(天正14)9月
に、徳川家康の名代として上洛した上記の3名を、上方の武将たちが、
「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。(『榊原家譜』
その後、本多・榊原・井伊の3名は翌月、徳川家康上洛に随行していず
れも叙位され、これに徳川家最古参の家臣である酒井忠次を加えた4名
「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになった。


それはもういい人でした知らんけど  加藤田君子



家康ー徳川四天王ー井伊直政・酒井忠次



ーー
   井伊兵部少輔直政         直政-板垣李光人




「徳川の赤鬼・井伊直政」
永禄4年(1561)ー慶長7年(1602) 
裏切り、寝返りが、当たり前に行われていた戦国時代に、鉄の団結力を
誇ったのが徳川武士団である。
直政は、今川氏の家臣だった直親の子である。
直親が、家康信長に内通した嫌疑をかけられて殺されたとき、直政は
2歳だった。今川氏政は直政も殺そうとしたが、助命を願う者が現れ、
以後家康に取り立てられるまで、寺から寺への流浪の生活を送っている。
そして天正3年 (1575)、浜松城下で家康に謁見。
自身も今川の人質となり、8歳で父を暗殺された家康に親近感をもたれ
たのか、直政は家康に小姓として仕えることとなる。
このとき直政15歳。その翌年には、遠江・武田勝頼勢を相手に初陣を
果たすなど、「新参の譜代にも拘らず、屈指の忠臣ぶり」と、勇猛さが
評価され、のちに「徳川四天王」の1人に数えられる出世を遂げた。


すごーく泣いて湖ができた朝  福尾圭司

その後は、本多忠勝・榊原康政らとともに旗本先手役(常備軍の部隊長)
に任じられ、常に最前線に立って躍動した。
同10年の天正「壬午の乱」の後、武田の遺臣の処遇が問題となるが、
直政はその解決に奔走する。
これが家康に認められ、22歳にして直政は、他の重臣を差し置いて、
家康が採用した武田の遺臣74騎と名のある坂東武者43騎、それに
武田の「赤備え」を継承することを命じられた。
直政の、政治と軍事の手腕を高く評価した家康が、子飼いの臣を持たな
い直政のために、戦国最強軍の遺臣をつけたのである。


巡りくる春へと命立ちあがる  平井美智子


その力量は「小牧・長久手の合戦」ですぐに表れた。
なんと敵方の秀吉が、「赤備え」で戦場を駆けめぐる直政と、榊原康政
本多忠勝の3人を絶賛したのである。
これを伝え聞いた家康が、「彼らが喜ぶだろう」と、3人に伝えると、
一人直政だけが、
「股肱之臣を貶め敵将を褒めるのは主将たる人の道ではない」
と、秀吉を批判し、秀吉に自分たちを誘惑する底意があることを指摘、
さらに
「たとえ天下を賂うとも、この兵部(なおまさ)は他人の禄を貪るべく
 もござらぬ」
と、言い放ち、家康を感激させたという。


9号線筋の通った話です  斉尾くにこ


そして、同18年に家康が関東移封になると、上野箕輪城12万石を与え
られている。30歳にして家臣団中最高の石高を得たのであった。
その後は、次第に最前線から遠ざかり、慶長5年 (1600) の「関ヶ原の戦
い」では、家康の四男で、直政の娘婿でもある松平忠吉の後見人として、
参戦する。忠吉は、東軍の最前線で福島正則と先陣を激しく争い、関ヶ原
の本戦が開始された。
このとき、西軍奥深くに陣取っていた島津勢が、形勢をみて強引な敵中
突破を図る。直政はこれを見るや追撃し、島津勢の若き猛将・島津豊久
を討ち取った。
この功績により、近江佐和山城18万石に栄転となるが、追撃戦の際に
受けた銃創が災いし、2年後に佐和山城で死去した。享年42。

シャッターを下ろす時計を駆けあがる  高橋 蘭




井伊直政所用と伝わる甲冑。 (彦根城博物館蔵)
戦国最強といわれた武田軍の「赤備え」は、井伊軍に引き継がれ、常に
徳川軍の先鋒を務めて「井伊の赤備え」と恐れられた。


「直政の赤備え」
旧武田領をめぐって勃発した「天正壬午の乱」の際、直政は小田原北条
氏との交渉役となり、家康は、信濃と甲斐 を得た。
この功績により家康は、武田遺臣120名を直政配下に所属させるととも
に、山県昌景「赤備え」を継承させた。 以後、 井伊家(彦根藩) 当主
の戦装束は、 常に赤で統一されることとなる。


齧りかけのりんごが何か言いたそう  みつ木もも花


井伊家と 「城」 のその後
直政が得た佐和山城といえば、前の城主はあの石田三成であり、中世的
山城の印象が濃かった。 そのため直政は、新たな城と城下町を整備しよ
うとしたが、 志なかばで早逝。 事業は後継の直孝が引き継ぎ、 彦根城
を新造した。
城は彦根藩の藩庁となり、 彦根藩主はときに大老職を担いつつ、明治の
世まで栄えた


間食に風のうわさの二つ三つ  清水すみれ




ーー
   酒井右衛門尉忠次          忠次ー大森南朋



徳川軍団のリーダー 酒井忠次 
大永7年(1527)~慶長元年(1596)
忠次の妻は、家康の祖父母の娘で、家康とは叔父・甥の関係になる。
初期徳川家第一の宿老。家康と苦楽をともにして、その覇業を支えた家
臣団のなかでも別格の存在であった。
忠次は家康の父・松平広忠に仕え、1549年(天文18)幼少の家康が
今川・織田の人質となった際にはそれに同行している。
そのまま、幼少期、青年期の家康の側近をつとめ、東三河の旗頭として、
荒ぶる忠勝・康政・直政や三河の猛将らをまとめた。

精進を重ねゴリラになれました  きゅういち


1560年 (永禄3) の「桶狭間の戦い」で、今川義元が敗死し、家康
独立すると、忠次は筆頭家老となった。
同6年の「三河一向一揆」では、酒井一族の多くが、一向一揆勢に付く
なか、窮地に陥った家康にあくまでも付き従っている。
同7年には、今川氏支配下の「吉田城攻め」に参加、城将の小原鎮実
降伏させる功を立て、代わって吉田城主となり東三河の旗頭と称された。
民族のガチンコの音骨の音  峯島 妙

その後家康は、織田信長の同盟者として、数々の戦闘に参加するが忠次
は,そのすべてに同行し、多大な戦功を挙げることとなる。
1570年(元亀元) の「姉川の戦い」では、先陣を切って浅井・朝倉
合軍に突撃、同3年の「三方ヶ原の戦い」では、劣勢のなかで小山田信
の部隊と戦い、これに勝利した。
1575年(天正3)の「長篠・設楽原の戦い」では、信長「鷲ヶ巣
山砦の早期奇襲」を提言して採用され、信長からも絶賛された。


不可逆な時間のなかの無知無害  斉尾くにこ


こうして順調に武勲を重ねていった忠次だが、同7年に家康の長子・
が謀反の嫌疑を受けると、忠次は、交渉役を担うも、その弁明に失敗。
(この一件が後々まで響き、晩年の不遇に繋がったといわれる)
同12年の「小牧・長久手の戦い」では、鬼武蔵の異名で知られる猛将・
森長可を敗走させている。
こうした武勲によって、豊臣秀吉からも激賞され、京都・桜井に屋敷を
拝領するなど厚遇を得たが、康家からは次第に冷遇されるようになった。
晩年は眼病を患い、同16年には、嫡子の家次に家督をゆずり隠居。
1596年(慶長元)に京都・桜井の屋敷で病没。享年70歳。


見つめないでください私の嘘の裏表  柳本恵子


「年齢のうえでも別格だった忠次」 
歴史上の人物たちの人間関係を計る際に失念しがちなのが、 その年齢差
である。 忠次の場合は、家康より16歳年長であり、四天王と呼ばれる
宿老のうち、 もっとも若い井伊直政にいたっては、34歳もの開きがあ
った。 晩年は、他の家臣たちとの不和も目立った忠次だが、 世代格差も
大きな理由だったのだろう。
因みに、本多忠勝・榊原康政より21歳上になる。
「世代間に生ずる、知識・関心・考え方などの違い」いわゆる、ジェネ
レーションギャップは、今も昔も変わらず存在したようだ。
【一筆知恵蔵】
(天正7年 (1579) 、家康の長子・信康が、信長への謀反を企んだという
嫌疑をかけられ、 忠次が弁明のため安土城の信長のもとへ赴いた。
このとき忠次があっさりと嫌疑を認めたために「信康は切腹を命じられ
た」と、いうのが通説となっていたが、近年は 「濡れ衣である」という
異説も多く唱えられている)


ア行から始まる地球の歩き方  笠嶋恵美子

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ドライフラワーだったとしても薔薇に刺 美馬りゅうこ




           「家康及び徳川十六将図」 久能山東照宮博物館蔵
鉄壁の結束を誇ったといわれる三河武士団だったが、「石川数正出奔」
という「あり得ない事実」に動揺が走った。



家康ー石川数正の背信





        石 川 数 正
石川数正とは、剃刀のような切れ味鋭い頭脳の持ち主で、遠慮なく正論
をぶち、 外交役も務め、戦国武将と渡り合う度胸の持ち主。家康独立
の後も股肱の臣として支えた
家康が最も信頼する古参の家臣である。




「数正のヘッドハンティングに走る秀吉、秀吉に奔る数正」
石川数正は、主君・徳川家康が今川家の人質だった時代から、随従して
いた譜代の重臣だ。彼は家康が自ら行った徳川軍団再編成のとき、三河
東部の旗頭である酒井忠次と並び、西三河の旗頭に任じられた。
この2人は「両家老」と呼ばれ、徳川家臣団の双璧として三河譜代衆の
尊敬を集めていた。



友達のまんまで鬼灯は熟す  安藤哲郎





   戦場を馬でかける数正




その石川数正が、1585年(天正13)11月13日の夜、妻子や一族、
家臣など100余名を引き連れて岡崎城を脱出し、大坂城へ赴いて豊臣
秀吉に臣従した。
家康にとって、重要拠点である岡崎城代を務めるほどの数正が何故、また
突如出奔し、敵対する秀吉に臣従しなければならなかったのか。
「二君に仕えず」という、儒教一辺倒の考えが定着する江戸時代と異なり、
戦国の世は、むしろ複数の主君を渡り歩く武将の方が優秀であり、美徳だ
とされてはいた。
しかし、それにしても、三河衆の柱石である石川数正の出奔は、鉄壁の団
結を誇る徳川家臣団にとっては、衝撃的な出来事だったのである。



岩盤のひびわれ仄かな反逆  森井克子



数正が出奔した直後、家康は小田原の北条氏直に書いた手紙のなかで、
数正の背後には、「秀吉の勧誘の手が伸びていた」と、言明している。
数正は秀吉の誘いに篭絡され、家康を裏切ったというのだ。
この裏切り行為によって受けた損害は、計り知れないものがあった。
家康が最も恐れたのは、三河軍団の戦術軍法が、敵側に筒抜けになるこ
とである。そこで家康は、急遽、武田信玄の軍法を研究させ、武田家の
軍法を取り入れた、新たな徳川軍団を再編成せざるを得なくなる。



蘭鋳は忘れぬ黒子だった過去  森山盛桜






数正は家康からの贈り物「初花肩衝」を秀吉を届けにきた。



「両雄の板挟みに苦しんだ数正」
数正が初めて秀吉に接触したのは、1583年(天正11)5月21日の
ことである。賤ケ岳合戦の戦勝の賀詞を述べるために近江坂本を訪れ、
家康からの贈り物「初花肩衝」の茶壷を持参した時だった。
秀吉はこれを喜び、数正を厚遇した。
『…十一年五月豊臣太閤に初花の茶壷を贈りたまふのとき、数正於使を
つとむ。十二年四月長久手合戦のとき、仰によりて酒井忠次、本多忠勝
とともに小牧山の御陣営を守り、六月前田甚七郎長種が前田の城をせめ、
城兵降をこふて引しりぞく…』



海 海 海 現場から以上です  兵頭全郎



2度目は、翌年の3月、「小牧山の陣」においてであった。
数正の部隊が掲げる金の馬蘭の馬標(うまじるし)を望見した秀吉は、
それを気に入り、使者を遣わして譲ってほしいと所望する。
数正が請われるまま馬標を秀吉に贈ると、秀吉は返礼として黄金を届
けてきた。
数正にそのことを告げられた家康は、「もらっておけ」と答えたが、
結局、数正は返却したという。



ノーヒントですとほほえむ地蔵さま  新家完司





       家康が秀吉と信雄の仲立ちをした書状
1584年の小牧・長久手の戦いでは、秀吉、家康の両雄が激突した。
書状は翌年10月14日付で、家康が重臣を秀吉へ派遣したことに関し
「今後について相談することはとても結構なことだ」と記述。
「秀吉も慎重に事を進めるだろうから安心してほしい」として、
再戦を避けて秀吉に従うよう望んでいる。




つぎの会見は同年11月16日。
「小牧長久手の合戦」において、家康の形式的な主将である織田信雄
秀吉と講和したとき、家康は数正を遣わして「和議」の成立を祝賀させ
たのである。
このとき、家康との「和議」をはかろうとしていた秀吉は、家康の子を
養子にしたいと申し入れてきた。この場合の養子とは、実質上の人質と
考えてよいだろう。家康の2男で11歳の於義丸(のちの結城秀康)を
差し出すための使者もまた数正であった。
同年12月12日、数正は自らの子・勝千代(のちの康長)らを同伴し
大坂城へ向かったのである。



記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗




家康・秀吉の板挟みに悩む数正・松重豊




1585年(天正13)秀吉は、紀伊の根来衆雑賀衆を討ち、四国の
曾我部元親、越中の佐々成政を降伏させ、家康を孤立無援に追い込んで
いった。その上で秀吉は、まず数正を上洛させ、彼を通じて家康の上洛
を求めてくる。
しかし、長久手での実質的な勝利で自身を持っている三河衆は、「秀吉
との手切れも辞さず」と、主張するばかりで、数正は、天下の情勢を説
いて「和議」を唱える。
『…秀吉天下の半を領して諸将おほく其下風にたつ。今御麾下の士彼に
 比すれば其なかばにもたらず、かつ北に上杉あり東に北條あり、三方
 の敵を受ば、たとひ一旦利を得るとも永く敵しがたし…』




手の平で豆腐を処刑して  ひとり  平井美智子




秀吉に洗脳されてしまったという声が囁かれ始めた頃、ひとり浮き上が
ってしまった数正は、悩みを解き決意をするのである。
『…十三年十一月数正かつてより岡崎の留守たるのところ、ゆへありて
 岡崎を出奔し、大坂にいたりて太閤につかふ。のち、従五位下に叙し、
 出雲守にあらたむ。十八年七月小田原落城の後、信濃国松本の城主と
 なり八万石を領す。文禄二年卒す』
そして同年12月12日、数正は自らの子・勝千代(のちの康長)らを
同伴し大坂城へ向かったのである。
1585年(天正13)53歳の時、徳川家を去り、秀吉に仕える。
1590年(天正18)信州松本に8万石を与えられ大名になる。
1593年(文禄2)61歳で死去。



はじかれてスマートボールの一日  中野六助





     法螺を吹く秀吉 (月岡芳年)



「秀吉の人心収攬術」
数正の背信行為の真相はなお謎とされているが、これまで、その出奔に
ついては、さまざまな憶測が語られてきた。
 数正は家康が秀吉のもとへ送り込んだ、というスパイ説
 秀吉強硬派である本多忠勝らが、数正が秀吉と内通していると猜疑
  し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したため、という説。
 秀吉との間で「秀吉のところに行けば家康との戦を回避する」とい
  う密約があった、とされる説。
 わが陣営に来れば1、0万石の知行をとらせると度々、秀吉に言われ
  数正がその気になった、という説。
 家康が他の大名と別格であることを見せつけるため、つまり「数正  
  ほどの者が出奔して、やっと腰を上げた」と見せつけるために仕組
  んだ芝居だった、という説。 等々である。




封筒の厚さにころり軟化する  木口雅裕




数正の本心は、彼自身に聞いてみなければ分からないが、1つ確かなこと
は、秀吉「人心収攬術」に数正が嵌ったということだろう。
秀吉は敵陣衛のキーマンに狙いを定めると、その人物と友好的情報交換
を繰返すうちに戦わずして、隠れた味方変身させるという高等戦術を編
み出していたからだ。一種の洗脳である。
さすがの石川数正も「人たらし」と呼ばれる秀吉の前では、冷静にいら
れなかったのでは……ないだろうか。



胸奥を覗きましたねラフロイグ  宮井元伸






    優しく理知的な御面相の結城秀康



【一筆知恵蔵】 結城秀康の奔放ライフ
家康の二男・秀康は「小牧長久手の戦い」の後、人質同然の身で秀吉の
養子となった。しかし案に相違して秀吉は、この養子を可愛がっている。
下総の名家・結城家を継いだのも秀吉の計らいによる。
関ヶ原の時は、宇都宮に軍を止めて上杉勢を牽制。
その功で越前国67万石の太守に任じられた。しかし秀忠が2代将軍と
決まったころから、秀康にわがままな行状が多くなる。
「徳川より太閤に受けた恩のほうがずっと深い」と公言して、大坂方を
贔屓にしたり、鉄砲を持ったまま関所を押し通ったり。
家康は秀康を責めなかった。
誰が見ても、弟の秀忠より優れている秀康を、将軍にしなかったことを、
すまないと思ったのかもしれない。
家康にしてみれば、器量抜群の秀康よりは、親の言うことを何でも素直
に聞く秀忠の方がコントロールし易かったのである。
秀康は、慶長12年(1607) に34歳で急逝した。
容態を案じた家康が、「病気が治ったら百万石やるぞ」と、励ましたが
その知らせは間に合わなかった。



薄味に慣れて性格まで変わる  瀬戸れい子

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