川柳的逍遥 人の世の一家言
火遊びの煙ゆらゆら心電図 みつ木もも花
家康 築山殿
徳川家康の正室。築山殿の実名は不明である。 テレビドラマや小説など、現代の創作では「瀬名の名」があてられるが、
当時の史料はもちろん、江戸時代前期に成立した史料にも、瀬名の名は みられない。江戸時代中期の元文5年(1740)成立の『武徳編年集成』
巻三に「関口或いは瀬名とも称す」と、記載されている。
一般的には築山殿、「築山御前」、または「駿河御前」ともいわれる。
「築山」の由来は、岡崎市の地名である。
たんぽぽも私もここが着地点 吉道あかね
松本潤 (家康) 有森架純 (築山殿)
家康ー築山殿事件の疑問点 ① 「家康はなぜ正室・築山御前を引き取ったのか」
1557年(弘治3)家康の最初の正室となった築山殿は、今川一門の
関口氏純の娘で、母は義元の妹と、いわれる。
1559年(永禄2)には、嫡男の松平信康を、翌年には、亀姫を産ん
でいる。父・関口氏純は「桶狭間の戦い」の後、今川から離反した家康 と「通じているのではないか」と義元の嫡男・氏真に疑われ、妻ととも に自害に追い込まれる。 今川家に人質のような形で身柄を拘束された築山殿は、子どもたちを守
り続けていたが、やがて人質交換で母子三人そろって岡崎に引取られる。 だがなぜか築山殿は、岡崎城には入らず、城外の西岸寺に居住した。
このことから、すでに築山殿は、家康に離縁されていた、あるいは二人
の関係が悪くなっていたと見る人もいる。 そうであれば、なぜ人質交換によってわざわざ築山殿を引き取ったのか。
信康と亀姫だけを引き取るということもできたはずである。
偏頭痛雨の匂いもする序章 加納美津子
関口氏純 (渡部篤郎) 妻・真矢みき
② 「信康の正妻・徳姫がもたらした悲劇」 家康は、築山殿の両親である関口夫妻に対する罪の意識を持っていた
のではないだろうか。自分が今川と手切れをしたために、彼らは命を落
としたわけだから…。その贖罪意識もあって、築山殿と離縁することも なく、人質交換で手元に取り返したのではないのだろうか。 1570年(元亀元)、家康は、遠江の浜松城を新たな居城とした。
嫡男の信康が岡崎城に入ると、築山殿も生母として追従する。
家康が浜松城で築山殿が岡崎城で、離れて暮らしているなか、
1579年(天正7)7月16日、家康にとって寝耳に水の事件が起る。
信長から家康に、「築山殿と信康に謀反の疑いがある」と通告してきた
のである。
訴え出たのは、信長の娘で信康の正室・徳姫だった。 さまざまな憶測が飛び交うなか、徳姫の訴状に正誤はなかったのか。
同年、築山殿は処刑され、まもなく信康も二俣城で自刃という、
大きく忌わしい結末が一つの「謎」を投げかけてくる。 悪口はビフィズス菌で中和する 新家完司
③ 「4年前の大賀弥四郎事件が…」
信康の家臣が甲斐・武田家と内通し、信長の逆鱗に触れたことがある。
この内通事件の張本人とされているのは、信康家臣の中根政元だった、
と言われている。
その父・中根正照は、二俣城を守っていて武田勢に城を開け渡した後、 「三方ケ原の戦い」では真っ先に討死にをした 武勲で誉れ高い人物だ。この正照の娘が、大賀弥四郎と結婚した。
つまり、中根政元と大賀弥四郎は義兄弟になる。
その後武田勢を岡崎城に引き入れようと画策した弥四郎が失敗すると
その4年後に義弟の政元が、弥四郎の遺志を継いで築山事件が起きた。
この一連の事件が「築山事件」に結びつけられたとも考えられる。
壁障子すり抜け陰口が届く 大久保眞澄
五徳 (久保史緒里)
徳川家臣団内部では、浜松の家康に近侍して、対、武田戦争に積極的だ った層と、岡崎の信康に近く、武田との対決に消極的だった層があり、 両者の間で意思の疎通が図られていなかった。
そうした家臣団内部の動揺を受けて武田方への内通を図ったのが、政元
ということになる。 そして、徳姫がそのことを知るに至り、信長に注進した。
「信康と築山殿が勝頼に内通している」という話は、こうした家中の情勢
を背景にしたまぎれもない事実だったと思われる。 うつむいていたから見えた靴の向き 加藤当白
④ 「長男に自分と戦う覚悟はあるのかと迫った家康」
その後の経過を、松平家忠の『家忠日記』尋ねてみよう。
浜松を出発した家康は、8月3日に岡崎城に入り、信康と対面し事情を
聴取する。しかし信康は、ことの真相の肝心なところは口を濁した。
8月5日、家康は西尾城へ移って戦支度をし、信康は、大浜城へ移されて
いる。これはいったいどういうことなのか。 家康は、 「もし 信康が信念に基づいて行動を起こすなら、いつでも相手になる、
戦でそれを示せ」 と、信康に告げたのではないか。
開き直ればすとんと腑に落ちる 浜 純子
松平信康 (細田佳央太)
「自分は西尾城に行く、お前は大浜城に行って戦の準備をしろ」と、 信康はすでにひとかどの武将であり、岡崎には直臣たちもいる。
対武田戦争を継続するという「自分の方針に従わないのなら、正々堂々
と家臣を率いて戦で勝負しろ」と、信康とその背後にいる家臣たちに迫 ったのではないか。 「このわしと一戦交える覚悟があるのか!」
と威嚇することで、逆に信康に賛同した家臣たちの戦意を挫こうとした
のではないか。 ともかく家康が直に対処したことで事態は収束した。
大文字で利点小文字で注意点 田口勝義
頭に血が上った信康の家臣たちは、下手に説得すれば逆上して、武力蜂
起に及ぶかもしれない。 しかし、歴戦の強者である家康に「俺を倒してからやれ」と凄まれたら、 家臣たちもふと我に返る。 それがこの事件の家康の狙いだった。 ところが、家康が浜松から岡崎に乗り込んできた段階で、もう信康に従
う家臣はいなかった。すでに築山殿や信康の計略が失敗したことは明白 そこで家康は、8月9日に信康を浜名湖の東岸に位置する堀江城に移し、
そして、翌10日には、三河の国衆を集めて「信康には味方しない」と、 約束する起請文を書かせ、乱を収めてしまった。 煮え切らぬ返事に一味唐辛子 菱木 誠
織田信長 (岡田准一) ⑤ 「築山殿が武田家に密書を送ったという説は史実か?」 武田方への内通については、築山殿が唐人医の西慶という人物を通じて
武田方に内通していたとされている。それも事実だったのではないか。
実際には「長篠の戦い」の直前、つまり4年前の大賀弥四郎事件の時に、
すでに築山殿は、勝頼に密書を送っていたのではないか。 <三河一国を信康に安堵してくれるなら、武田方に寝返ってもいい>
という起請文を勝頼に送っていたのではないか…? しかし、長篠の戦いに敗れた勝頼は、その起請文をネタに信康をゆすっ
ていた可能性がある。 「信長に知られたらどうなるか。徳川家は破滅だぞ」と、
信康はこのとき、築山殿を断罪し、場合によっては、切り捨ててでも、
家康にことの次第を報告するべきだったのである。 仲直りしてそして二つの楕円形 指方宏子
だが信康は苦楽を共にしてきた母親を切り捨てられなかった
しかし、今川家での年に及ぶ人質時代を含め、ずっと苦楽をともにして
きた母親をなんとか助けたかった。 しかし信康の妻・徳姫は、それを許すことはできなかった。
ことの真相を明らかにするには、父の信長に訴え出るほかない。
そして、事件が発覚したという筋書きができあがる。
これも想像の域を出ないが、武田家は信玄存命中から、将軍・足利義昭
と通じて信長と対峙している。築山殿は今川家の出身だから、将軍家に 親近感を持っていたはず。 そして、天皇に任命された征夷大将軍が、武家政権を率いて全国統治を するという旧来の秩序に、正当性を感じていたはずである もしかすると、信康もそうした教育を受けていたかもしれない。
すでに天正元年には将軍・義昭を京から追放した信長よりも、武田方に シンパシーを抱いていた可能性もある。 祭り後のふんどし風に揺れている 高橋レニ
松平信康
⑥ 「家康の嫡男・信康はなぜ将来を期待されながら切腹したのか」 家康と信長の同盟は、家康の嫡子・信康と信長の娘・五徳の結婚により
結ばれた。信康は有能な武将で将来を期待されたが、1579年21歳
の若さで切腹させられた。
原因は、信康の母と武田家の内通、信康自身の不行跡、五徳の讒言など
諸説あり、「家康の悲劇」の一つとされてきた。
(近年は信康の家臣がクーデターを企んだため、家康に粛清されたなど、
家康自身の意思だったとする説も提起されている) 自分史を奔る一本の濁流 大野たけお
西来院に眠る 築山殿の墓碑 ⑦ 「妻と息子を殺すのか? 家康の苦渋の決断」 家康は、信長の命を受けてやむなく妻と子を殺害したのか、それとも、
自発的に殺害を命じたのか。 いずれにしても、最終的な判断を下した のは家康本人である。大賀弥四郎事件の段階で、すでに家中が分裂して いたことも、家臣や築山殿が武田方に内通していたことも、すべて事実 ならば、その責任は主君である家康にある。 しかし、弥四郎事件は、一部の者が謀反を企んでいたということで幕引 きにされた。 ところが、長篠の戦いを挟んで、あらためてその事実が浮上し、信長の
知るところとなってしまった。家康としては、自らの決断で、すべてを 処断する必要があったのだろう。8月29日、築山殿は遠江の佐鳴湖に 近い小藪村で処刑され、信康は9月15日に二俣城で切腹して果てた。 築山殿の死後、家康の正室は豊臣秀吉の妹・朝日姫だけになる。
正室はこの2人だけで、それ以外に記録に残るだけで20人の側室が
いたと言われる。彼女たちは全員が「側室」、つまり妾ではなく継室と 呼ぶべき正式な妻もいた。 ----- 安部 龍太郎 ------
決断の境界線は滝だった 真島久美子 PR 嵐去る迄はグレーのカメレオン 加藤 鰹
信長光秀因縁の法華寺 光秀は信長に殴打され恨みを抱いた 信長が武田軍との戦に勝利し、論功行賞や酒宴が行われている席上で、
「これで私も骨を折った甲斐があった」というような光秀の何気ない
一言に信長が激高し、光秀を殴打したのが法華寺である。
信 長 公 記
『信長公記』は、信長の右筆である太田牛一が、信長が、室町幕府15 代将軍・足利義昭のもとに上洛した1568年(永禄11)から、本能寺 の変で自害を遂げる1582年(天正10)までの15年間の信長一代 をまとめたものである。 歴史学に於いて――、伝記や軍記物語は、書状などの一次史料をもとに
した二次史料と見なされている。 しかし『信長公記』は信長と同時代を生きた太田牛一によって書かれた
もので、一次史料と同等の扱いを受けている。 ここに牛一の信念・決意の言葉がある。
『直にあることを除かず、無き事を添えずもし一点の虚を書するときは
天道如何(天道を踏み外すこと)に見る人は、ただに一笑をして実を見 せしめたまえ』 と、嘘偽りなく同書を書いたことを誓っている。 こうした牛一の執筆姿勢が同書の史料的価値を高めている。
あの日の風が奔り抜けてる日記帳 相田みちる
例えば、 本能寺での最期の言葉「是非に及ばず」や「信長が自害にいた
る様子」も、牛一が現場にて直面した侍女から聞き取り、公記に載せた ものである。 (是非に及ばず=だからどうした、今さら仕方あるまい」)
また、戦国武将の中でもいち早く鉄砲を合戦に導入し、戦国大名・武田
勝頼との「長篠の戦い」では、3千挺の鉄砲で武田軍を一網打尽にした と伝えられている。 しかし、『信長公記』には「千挺ばかり」と書かれてはいるものの、
「三千挺」という数字はどこにもでてこない。 (別働隊も鉄砲を備えていた数の5百挺ほどを足しても千五百挺である)
さらに、「比叡山延暦寺の焼き打ち」に関しては、
『根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も
残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い』『僧俗、児童、智者、上人一 々に首をきり』 と、信長が世間に公表してほしくないような、凄惨な様子をも淡々と綴 っている。 潔い清く眩しく疎ましい ただれいな
出雲・石見への国替えに苦慮する光秀の重臣 (『絵本太閤記』)
家康ー本能寺の変 1582(天正10)5月中旬、明智光秀は安土で徳川家康を接待中に
突然に中国地方へ出陣せよとの命を受けた。
その後、準備のために丹波亀山城へ戻った光秀に、信長から使者が来た。
<何事か…>と訝しむ光秀に、使者は次のように伝えた。
『光秀の丹波・近江の領地は召し上げ、代わりに出雲・石見を宛がう』
(『明智軍記』)
淋しさをなぞった様に紙魚奔る 米山明日歌
亀山城天守古写真(美田村顕教)
光秀が領主として自ら築いた平山城は、領民の暮らしと一体になり、
領民の目線で統治するといった考えから築かれた。
――丹波・近江は、かつて信長のために粉骨砕身した褒美として与えら れた領地であったはず。 こここそ自分の土地として、今日まで営営と領民を慈しんできた。 それを召し上げ、代わりに、いまだ敵の領地である「出雲・石見に行け」
という 武士を土地から切り離し、全国どこへでも移動を命じようとする。
信長の政策は、これほどまでに容赦のないものであったのか…。
省みれば、四国の長曾我部氏も、まもなく同じ運命に合おうとしている。
光秀の胸中には、様々な想いが過っていた。
知らぬ間に喉に刺さっている小骨 井本健治
四国遠征軍の出発日は、6月2日に迫っていた。
奇しくも同じ6月2日、信長は京の都にいるはずだった。
中国出陣を前にして、何事かを朝廷に言上する予定だったからである
<もはや、信長をこのままにしてはおけない>
光秀の胸中に殺意が固まったのは、この時であった。
これに先立つ5月28日、光秀は、連歌会を坊舎・西坊威徳院で「愛宕
百韻」を興行した。明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、里村心前、 猪苗代兼如、宥源、威徳院・行祐と巻いた百韻である。 このとき光秀は、有名な「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を
詠んだ。続いて脇の行祐は「水上まさる 庭の夏山」と、詠み、 第三で里村紹巴は「花落つる 池の流を せきとめて」と詠んだ。
深読みすれば、危険で微妙な意味を含んだものと解釈できる。
火遊びの煙ゆらゆら心電図 みつ木もも花
愛宕百韻開催日の翌日、5月29日、信長は都に入り本能寺に到着した。
その時、引き連れていたのは、僅かな供回りだけだった。
6月1日の昼、信長は公家たちの訪問を受けた。
勸修寺晴豊の「天正十年夏記」には、この時、信長は2月に要求した暦
の変更を、再び突きつけて強く迫ったとある。 このままでは「いずれ信長の言いなりにならねばならぬ」ことは明らか
だった。 一方、毛利にある秀吉の援軍に向かうべく、丹波亀山城を発った光秀の
軍勢は、「討つべき敵は本能寺にある」と、信頼する老臣に本意を告げ、 老ノ坂を下って桂川を渡り、そのまま進路を東にとって、京都の本能寺 に向かった。 過去からの10カウントがまた響く くんじろう
『本能寺焼討之図』 歌川延一 (都立中央図書館所蔵)
叛乱に応戦する信長 右方奥で帰蝶も戦っている。
奮戦する蘭丸
6月1日の夜、信長は茶会や囲碁ですごし深夜に就寝した。
6月2日未明、本能寺に着いた光秀は、全軍突入を下知した……。
宿坊の周辺の物音が騒がしいのに目を覚ました信長は、「何事か!」と、
側近の小姓・蘭丸を呼び寄こし問えば「光秀殿 謀反!」と答えた。
聞くやいなや信長は「是非に及ばず!」と吐き、寝間着のまま…、
「信長は、初めは弓をとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、
どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を
受けて退いた。それまで傍らに女房衆が付き添っていたが、
『女たちはもうよい、急いで脱出せよ』と言って退去させた」
(『信長公記』)
光秀軍は1万3千、信長配下の戦力は、150人余り、肘に傷を受けた
信長は殿中の中へと退却を余儀なくされた。 寺には火がかけられ、火の手は、信長のすぐ近くにまで迫る勢い。
信長は殿中の奥へ奥へと引き下がり、戦力の乏しいなかで信長は、
それでも、4時間持ちこたえた。 が、天下布武を目の前にした、信長は49歳の生涯を終えた。 夕間暮れ二足歩行は隙だらけ 青砥和子
6月5日、光秀は安土城に入城。
各地に室町時代の古い領主を呼び戻し、室町幕府体制を復活させようと
した。 6月7日、朝廷の勅使が光秀を訪れ、京都の守護を命じると伝えた。
(朝廷は光秀の行動を認めたのである)
そのころ都の公家たちは、<たびたび宴を開き、大酒を飲んでいた>と、
晴豊の日記には記されている。
(信長の死を祝うかのような行動をとっていた…ということである)
そして、信長に追放されていた室町将軍・義昭は、本能寺の変を知るや、
各地の大名に書状(御内書)を送った。 空中にただよう感情の微塵 黒瀧睦子
6月13日付の能美宗勝(毛利家親族)宛の御内書には、
<信長を討ち果たしたうえは、急いで、京の都へ上るための援助をせよ>
とあり、あたかも自ら信長を討ったかのような態度で、上洛援助を要請
している。朝廷・公家・将軍、信長に反対していた勢力のいずれもが、 光秀の行動を支持していて、光秀が構想する「古い時代の秩序と伝統の 復活」は、成し遂げられたかのようにみえた。 しかし、予想だにしなかったことが起こった。
中国地方で毛利氏と戦いの真っ最中で、当分は釘づけになっているはず
の秀吉が、軍勢を引き連れて、京の都に迫ろうとしているという知らせ が入ったのである……。 どうなるのだろう 裏表紙のけむり 大嶋都嗣子
「太田牛一と信長公記」
太田牛一は尾張国(現在の愛知県西部)春日井郡の生まれた。
信長より7歳年長で、元は織田家家臣・柴田勝家に仕えていたが、弓矢の
腕を買われて信長に召し抱えられた。 牛一は、筆まめな性分で、日々の出来事を、日記やメモに書き留めていた
ことが信長の目に留まり、書記官(右筆)を務めた。 そして信長一代記・『信長公記』を執筆することとなった。
間道も本道に変えていく覇者 八木侑子 プッシューと生裏切り者は喉かわく 柳本恵子
家康おもてなしに出された「安土饗応膳」 (復元) 「川角太閤記」に光秀が家康に饗応した料理が生臭いと信長に よって捨てられたとの記述がある。 信長はこの悪臭に大変立腹し、光秀を接待役から外し堀秀政に変えた。 「絵本太閤記」には、光秀を叱責する場面が描かれた。 森蘭丸にも命じて殴打させえた 「光秀が「信長にはついていけない」と考えた時」 徳川家康を安土城で接待することになった、光秀がその饗応役だった。
ところが、突然、解任された。
饗応役は5月15日~だが、その前日の14日、信長の三男・信孝が、
丹波の国衆に宛てた四国動員令は、光秀の領国丹波に、光秀を飛びこ
して出された。(『人見文書』) この件で光秀は、信長に苦情を言った。 これに信長は、腹を立て、咎め折檻した。 (フロイス『日本史』) 生き上手うまくカーブが投げられぬ 村山浩吉
「光秀、信長の蜜月時代」 光秀は、はじめから信長の家臣ではなかった。
若き日の光秀は、室町幕府に仕えていたといわれる。
義昭が信長の援助を受けて上洛し、将軍に任官するころ光秀は、信長と
室町将軍・義昭の2人を主人として仕えることになる。 光秀は、都の文化人と交流し得るだけの高い教養を持った人物で公家衆
や幕府衆に人脈をもつ唯一の存在であった。 そのこともあって、信長から非常に重用され、良好な関係を保った。
生い立ちは聞くな野暮です影法師 下林正夫
内に外に光秀の働きに対して、信長は、坂本城主としただけでなく、
その周りの志賀郡を所領として光秀に与えた。
これは、信長家臣の中で、「一国一城の主」第一号であった。
信長の能力本位の人材抜擢のおかげで、光秀は、とんとん拍子の出世を
していった。(ちなみに「一国一城の主」第二号は羽柴秀吉である)
近江の坂本城を、預かるという大抜擢のためだけではなく、有能な政治
家である信長について行けば、古い秩序を復活させることができると期 待し、光秀は、義昭が追放されたのちも信長に仕えた。 世渡りの止めとあらば四方拝 高橋 蘭
天皇の御前で行われた京都馬揃え 1575年(天正3)光秀は、丹波攻めの総大将となっている。
天正9年2月28日には、京都御所横で繰り広げられた信長軍団の軍事
パレードともいうべき「京都御馬揃え」でその総括を任されている。 信長が光秀に采配を託したのは、光秀を高く評価していたからである。
このこともあって、同年6月2日付の「明智光秀家中軍法」では、
光秀は「瓦礫沈淪の身だった自分を引き立ててくれた」信長に感謝の
気持ちを記しているほどであった。
では、信長の命令を忠実に実行し、信長からの評価を得ていた光秀が、
信長からなぜ、離反していくことになったのだろうか?
【天正十年の数々の事件】が信長への叛意を芽生えさせることとなる。
ひとつの日またひとつの日の最新の 斉尾くにこ
家康ー光秀が謀反を決めた日
安 土 城
信長の夢の象徴ともいうべき安土城。 その姿からは、天下統一のあとに信長が考えていた新しい日本の体制が
どのようなものであったかを、伺い知ることができる。
また「信長公記」には1582年(天正10)正月のくだりに、
「御幸の間」つまり<天皇のための部屋>が安土城本丸殿にあるという
記述がある。 (最近の発掘調査によって、安土城には天主のかたわらに、天皇の
御所である清涼殿に似た建物が建てられていることがわかった)
欲しいなとわざと聞かせる独り言 前中一晃
安土城天主の館 さらにこの時期、信長と朝廷との間の連絡役・武家伝奏という役目を担
っていた勸修寺晴豊の日記『晴豊記』の正月7日に、次のような記述が ある。 『行幸の用意馬鞍こしらへ出来』 (行幸に使う馬に鞍の用意ができた)
おそらく信長が天皇を安土に招くつもりで、行幸の準備が進められてい
たのだろう。 天皇を招いて自分の膝元に置く、そういう信長の考えは、朝廷の権威を
ないがしろにするものとも受けとられた。 (天皇が行幸することによって、天下人である信長の権威の前に、
天皇が平伏していくという構図が可視的にアピールされることになる。
ましてや、国主大名クラスの重臣ですら、転封を余儀なくされていた
体制が見えてきていた時であった。
伝統的な幕府体制の復活にかけていた光秀にしてみれば、大変なこと
が起こりはじめている…、と考えたことだろう)
五分五分のバランス崩さない二人 居谷真理子
「暦問題」 1582年(天正10)信長はさらに思い切った要求を朝廷に突きつけた。
「暦の変更」である。
天皇が定めた当時の暦では、天正11年1月に閏年があった。
しかし、信長の出身地尾張では、天正10年2月を閏月にする暦がつか
われるなど、地方によってまちまちだった。 朝廷の暦は「宣明暦」を基礎とした京暦を用いたのに対し、
尾張などで使われていたのは「三島暦」という。
その暦を、信長は、尾張のものに統一しようとしたのである。
額縁を突き破ってくる黒豹 徳山泰子
暦の制定は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ、いわば神聖
にして侵すべからざる事柄であった。
「暦の制定」は、当時の天皇に残された唯一最大の権限である。
信長が暦の問題に介入してきたというのは、明らかに天皇に対する権限
侵害を狙ったものと考えられる。 その権限を侵そうとする信長の行為は、多くの人に衝撃を与えた。
光秀もまた、その1人であった。
あの人が来たら大きくなる騒ぎ 松浦英夫
古い秩序の回復をめざす光秀は、朝廷の権威をないがしろにする信長の
行動に危機感を強めた。
そんな光秀と朝廷の一部とが、連携を取りつつあったと推察できる資料
がある。
勸修寺晴豊の日記「天正十年夏記」6月17日のくだりは、明智光秀の
家臣・斎藤利三が護送されているのを見て記されたもの、光秀と公家が、 「信長暗殺」について相談していたともとれる記述である。
(信長打談合衆=信長を討つために談合をしていた衆がある。
天下の政道を正しきにかえすには、もはや尋常一様の手段では、
不可能と存ずる…と、檄する声がきこえてくる)
十年日記に挟んでおく花弁 森田律子
長宗我部元親 明智光秀 暦の問題が起きてから三か月後の天正10年5月、信長は光秀を決定的に
追い詰める出来事を起こした。
長宗我部氏に最後通牒を突きつけて、四国への遠征軍を編成したのだ。 5月7日、信長は、四国の処分案を明らかにした。
長宗我部氏の勢力圏とはお構いなしに、讃岐と阿波は、信長の三男・信孝と
三好氏に預け、土佐と伊予の処分は、あとで信長が決めるというのである。
そんなアホなと過去形で言えたなら 藤本鈴菜
遠征軍の出発日は、6月2日と決められた。
『三七殿(織田信孝)、五郎左衛門殿(丹羽長秀)、四国へ六月二日に
渡海あるべし……』 (『細川忠興軍功記』) このままでは長宗我部氏は滅亡してしまい、光秀の立場も危うくなる。
長宗我部氏の文書には、光秀の重臣・斎藤利三が、信長の四国攻撃を憂
いて光秀に謀反を促した。という記述が残っている。
『斎藤内蔵助(利三)は、四国の儀を気遣いに存ずるによって也。
明智殿謀反の事、いよいよ差し急かるる』 (『長宗我部元親紀』) 明かに、長曾我部氏と斎藤利三が、何らかの連絡をとっていたことを窺
わせる内容である。
光秀は重臣からも「信長討つべし」と、いう突き上げを受けていたので
あった。本能寺の変まで3週間を残すところであった。
鉛筆を変えて直線下剋上 上田 仁
「明智光秀家中軍法」 光秀一代の事績を編年体で記述した軍記。 史料的価値は乏しいが、参考になるところもある。 「一昨日自明明智所魚津迄使者指越」
(一昨日、明智光秀が越中の魚津に使者をよこしてきた)
北陸上杉家の記録『覚上公御書図』
(一昨日とは、6月1日、つまり本能寺の変の変の前日のこと)
魚津城は当時、上杉家の勢力圏であった。
光秀は、「本能寺の変の前」に信長の敵・上杉氏に使者を送っていたの
である。 その使者の伝えた内容とは、 『御当方、無二御馳走申し上げるべき』
(上杉家は、最大限の援助を申し上げるべきである)
言葉遣いから、上杉が援助すべき相手は、将軍義昭だったと推測される。
即ち、光秀は、かつて信長と敵対して都を追放された義昭のために、
上杉氏が働くように伝えたのである。
光秀は、この時すでに信長に反逆し、諸大名と連携して義昭を担ぎ上げ
「時代をふたたび室町の世に戻そう」と、考えていたようである。
直角が三角形を離脱する 加納美津子
愛宕百韻(ときは今天が下知る五月哉)を詠む
覚上公とは、上杉景勝のこと。書状には、光秀の名前が記されている。 日付は6月3日、「本能寺の変の翌日」に綴られた上杉家の家臣同士の
手紙である。
それにしてもこの書状をいつ、認めたのだろうか。
当時の交通事情では、使者が上杉氏のもとに到着するまでには、どんな
に急いでも3,4日かかる。場合によっては、一週間程度の日数を要し たと考えられる。 ということは、光秀は、6月1日よりかなり前に「信長打倒」を決意し、
諸大名に呼びかけていたということになる。
すなわち、「本能寺の変」は決して突発的な事件ではなく、
極めて計画性の高い大がかりなものであったことがわかる。 断捨離を迫るどんど焼きの煙 古田裕子 少し汚れた空気の方が生きやすい 宮原せつ
「洛中洛外図屏風」 (信長が見た京の町) は、平安京の町並みを、郊外も含めてパノラマ風に描いた屏風絵であり、 名高い寺社や名所、四季の移り変わりとともに、上は内裏や公方の御所、 下は町家や農家の住まいまで、そこに生きる様々な人々の風俗が細かく とらえられている。 洛中洛外図屏風 右隻 右隻は、鴨川と東山方面を西側から見た景色であり、画面左端には御所、 中央付近には祇園祭の様子が描かれている。 洛中洛外図屏風 左隻
左隻では、将軍の御所や松永弾正邸など並べて配された市中の町並みの 細かな描写が圧巻である。 脇道を捜せばボクはそこにいる 桑田桂子
「家康」ー 信長と光秀の擦れ違い
足利義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名が連携し
て信長包囲網を形成、数年にわたって、各地で激しい合戦が相次いだ。 信長は組織性と機動力に富む軍団を駆使し、巧みな戦術を用いて、
次々に強敵を撃破していった。
その先兵の1人となったのが、光秀だった。
1579年(天正7)7月、光秀は難攻不落といわれた丹波国を平定し、
その功績は信長から高く評価された。
『明智が丹波に長く出陣し、尽力してたびたびの戦果を挙げたことは、
比類ない功績である』(「信長公記」)
恩賞として丹波一国を与えられた光秀は、良き領主たらんとして丹波地
方の政治に邁進するようになった。 ――手柄を立てて主君から領地をもらい、その地に善政を敷く。
自分が理想とした、武士の秩序と伝統が世の中に戻って来た。
(そのころの光秀の心境は、まさに喜びと希望に溢れたものであった)
若いなあハンカチ出して泣けるって 森光カナエ
一方、琵琶湖のほとりの安土の地に巨大な城の建設を始めていた信長は、
天正7年5月、その天主に移り住んだ。
建設が進むにつれて、それまで家臣たちが思ってもみなかったことを言
い出すようになった。 「家臣たちは、普段は領地を離れて、安土山の周辺に築かれた武家屋敷
に住むように」 と、命令したのである。 武士たちは、それまでは、先祖伝来の領地に館を築いて住むのが当たり
前であった。 彼らにとっては、まさに驚天動地ともいうべき命令だったのである。 政治屋でその日その場で右左 近藤北舟
安 土 城 全 景
「安土城」は信長が、まさに夢を託して築いた城であった。 その天主が聳える安土城の麓に、信長は武家屋敷を建築させた。
そして配下の武士たちに、本国の領地を離れて安土に住むことを命じた
のである。 それは当時の武士たちの常識を覆す命令であった。 鎌倉時代以来、武士たちは「本領」といわれる先祖代々の土地に根付い
て暮らしてきた。 有力な武将に仕えて奉公するのは、この「本領」を安堵してもらうため。
つまりは土地の支配権を保証してもらうためだったのである。
ところが信長の方針は違っていた。
信長は、新たな領地を家臣に与えるのではなく、預けおくだけにしたの
であった。 こうすれば、家臣たちは、その土地の権益に囚われることなく、政治に
励むことになる。 ぼちぼちと自分の色をだしていき 若林くに彦
織田時代までは、経済的に許される範囲において、あらゆる階層が武装
していた。 このたび突如、信長が打ち出したのは、武士の在地性を否定し、城下に
集住させることで、武士と土地との関係を切り離した政策だ。 兵農分離政策である。 中世を通じて、兵と農との身分は、明確に線引きされていなかった。 武士たちの多くは村落に住み、自身も直接農作業に従事し、戦争が起こ ると出陣していたのが実情だった。 兵農分離は、武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策を指す。 兵の専業化による強化……、武士が農業から離れ、農地の非所有、在地
武士制から城下集住と領主による農民の直接支配への転換、二刀帯刀の 武士・農民の区別、身分固定などの政策が行われた。 一筋の煙シナリオ書き替える 荒井加寿
越前を平定したのちの1575年(天正3)9月、信長は柴田勝家など
の武将を配し、支配方針を盛った9か条を定めて「越前国掟」とした。 この掟をもって初めて、分国者(大名)から脱して、それらの上に立つ
という、信長が、統一政権としての自己を明確に位置付けたことを意味 するととらえられている。 「所領の在高にもよるが、給人をつけない土地をいくつかのこしておく
こと」 (「越前国掟」より) (給人とはその土地から収入を得る家臣のことで、どの家臣にも任ぜず、
直轄する土地を残しておけというのである)
「将来に功績があった者に与える恩賞のため」
というのが理由だが、領地は家臣のものではなく、信長のものだという 考えを表したものでもあった。 無花果の葉は賞罰に含めない くんじろう 安土城麓に建築された重臣屋敷復元図
信長の「兵農分離」政策は激しく強引であった。 たとえば、1578年(天正6)には、尾張に妻子を残して単身赴任し
ていた家臣120人を発見して、私宅を焼き払わせて、強制移住させた こともあった。 ー武士を土地から切り離す。
その方針が、信長の家臣ばかりでなく、戦国大名たちにも適用されよう
としていた。 それが光秀にも思わぬ災厄をもたらすことになった。 (その問題となったのは、四国の支配をどう行うかということだった)
絶縁体として太い眉きりり 酒井かがり
土佐国大名・長宗我部元親が岩倉城主・三好式部少輔宛てに発給した書状
戦国時代四国では、土佐に本拠を置く長宗我部氏と、阿波に本拠を置く 三好氏とが覇権を争っていた。 信長は当初、長宗我部氏と結んで四国に勢力を伸ばそうとしていた。
その仲立ちをしたのが光秀である。
光秀を頼った長宗我部氏は、信長に忠誠を誓うことで、安心して合戦を
続け、四国全土を征服しかねない勢いをみせた。 ところが、1581年(天正9)6月、信長は突如として思いも寄らぬ
命令を発した。 『阿波の支配は、三好氏に任せることにするので、長宗我部氏は三好氏
を援助するように』 と、長宗我部氏の当主・元親の弟・香宗我部親泰への朱印状に記されて
いたのである。 嫌なこと嫌と言っても良いのかな 古本恵子
そもそも、阿波は長宗我部氏が自らの努力で領土とした土地である。
それを一方的に<三好氏のものにせよ>という命令は、承服し難いもの
だった。 ――信長に忠誠を誓ったのも、領地を保証してもらえると思ったからこ
そのこと。なのに<ここにきて突然取り上げるとは>、元親は反発した。 長宗我部氏が従わないと見るや、四国侵攻の準備を命じた信長、その真
の狙いは、四国全土の征服であることは明白であった。 躓いた石で人生逆転す 柴辻踈星
明 智 光 秀
信長と長宗我部氏の仲立ちをした光秀の面目は、丸潰れになった。 長宗我部元親は、光秀の重臣・斎藤利三の妹と縁組していたうえに、
光秀は長宗我部氏に<信長に尽くせば安泰>と説得していたのである。
思わぬ成り行きに驚く光秀。
追い打ちをかけるように、光秀は信長から四国担当を外されてしまう。
――おかしい。信長様はいったい何をやろうとしているのか。
光秀の心には、信長の改革に対する底知れぬ疑念と恐怖が湧き上がっ
ていた。 ここまで良好であった信長と光秀の仲が瓦解しはじめた時でもあった。
本能寺の変まで、針は残り半年を指している。
この辺で心を決める句読点 津田照子 欲の皮ちょっと伸びたり凹んだり 津田照子
信長上洛之図 『絵本拾遺信長記』
美濃攻略に要した7年余りは、信長とその家臣団にとって、尾張の一大 名から天下を目指す集団へと鍛えられた。 長い仕切りの時でもあった。
そして今、信長の気力は天下取りへとかつてない充実を見せている。 「天下布武」へと旗揚げした信長の前に、1568年(永禄11)一人 の貴人が救いの手を求めてきた。正親町(おおぎまち)天皇である。 100年にもおよぶ戦乱に、困窮を極める朝廷、荒れ果てた御所は修築
もままならず、正親町天皇は、父である後奈良天皇の死に際し、火葬の 費用にさえ事欠くありさまだった。 目ざとい公家は、この時期早くも次の天下人として信長を「先物買い」 をはじめていた。正親町天皇は美濃・尾張にある信長に、御料所の回復、 誠仁親王の元服料、禁裏修理を命じ、というより頼んだ。 「及ばずながらこの信長…必ずや」ここに最高の名文を得た信長は、
電光石火の速さで上洛の兵をあげる。 廊下の続く何処までも白い春 河村啓子
信長上洛を果たし義昭と会見する 家康ー信長・足利義昭・明智光秀
新興勢力の信長と、古い権威を代表する足利義昭。
その二人の間を取り持った人物。それが明智光秀である。
光秀は名門土岐氏の家系に生まれたと伝えられ、かつては室町幕府の
役人として、13代将軍・足利義輝に仕えていた、とも言われている。 都の人々に交わって高い教養を身につけた光秀は、戦国の無秩序のなか
で、朝廷や幕府の権威がないがしろにされている様を見るにつけ、世の 混乱を収めて、秩序を回復したいと考えるようになったと言われている。 正論の肩がいつでも凝っている 真鍋心平太
そんな光秀の目には、信長の強力な軍事力と政治力は、新しい秩序をも
たらす有力者にふさわしいと映ったに違いない。 信長上京後の光秀は、京都の施政を担当し、義昭や公家・寺社との交渉
役として活躍した。 ところが、信長の力によって将軍になった足利義昭は、ただ古い権威を
振り回すだけでとうてい世の中を治めていける人物ではなかった。 (光秀の前半生には謎が多い。美濃の守護・土岐氏の流れを汲むとも、
また信長の正室・小濃の従兄とも言われ、長い浪人生活を経て、越前の 朝倉家に仕官。身を寄せていた足利義昭と知り合い、幕臣そして信長の 武将へと出世していく) 夕暮れは演歌うたっているポスト 平井美智子
京都に平和を回復し、また御所の修復など朝廷への運動につとめた信長、 その推挙によって、足利義昭は室町幕府15代将軍に任ぜられた。 大はしゃぎの義昭は、信長宛の手紙の中で「武勇天下第一」とほめ、 「御父織田信長殿」とまで持ち上げている。 が、信長のほうは、もとより義昭を、自分の都合のよい操り人形としか みていない。 たとえばある日、義昭の居館・二条館の前に9個の割れた貝が置かれて
いたの報を受けた信長は、笑って 「9枚の貝は、公界(くがい)という言葉に通じさせる判じ物である。
公界とは、公の仕事を意味する。その貝がことごとく割られていた、 ということは、つまりは、<義昭公が馬鹿で、公の仕事は何もでき ない>と、都の人々が痛烈にあてこすっているのだ」 と、 あざけったという。(『戴恩記』)
輪郭がみえないままの そうだよね 斉尾くにこ
平氏の紋・揚羽蝶のついた信長の陣羽織
信長が積極的に御所を修復したのには、理由があった。
一つには力の誇示。
そしてもう一つの目的は「朝臣としての自分の立場を明確にするため」 だった。それは同じく天皇によって任ぜられる足利将軍と自分が対等で ある宣言することになる。 「義昭様は仮の天下、次は自分が」 という野心。
このころから信長が、朝廷向けの文書などに「平信長」を名乗り始めた
のもそのためだ。 (当時は、源氏と平氏の血筋が交互に天下をとる「源平交代思想」が、
公家を中心に信じられていた) 空っぽに花植えてゆく物語 徳山泰子
1569年(永禄12)は、信長と義昭が最良の関係にあった年だった。 事実この年、一度尾張へ戻る信長を義昭は、京の東の粟田口まで出向き、 涙ながらに見送ったという。 が、その蜜月も長く続かず、よく永禄13年には両者の関係は、一気に
険悪化する。 直接のきっかけは、その前年の正月に信長が義昭へと突きつけた「殿中 御掟」と、永禄13年(4月、元亀に改元)正月23日の日付の「信長 朱印条書」にあった。 条書は当時、毛利や武田・上杉などの諸将と接近しはじめていた義昭へ
の牽制として書かれたものだった。 【御下知之儀 皆以有御棄破】
<これまで義昭が出した命令はすべて破棄すること>
【天下之儀 何様ニモ信長ニ被任置】
<天下のことはすべて信長に任せること>
要するに、義昭の行動を信長の監督下に置こうというものである。
更迭は燕返しを再現し 太田省三
条 書
この条書は、信長が、朝山日乗と明智光秀宛に出し、光秀は義昭に承認 させる務めも担った。 このときの光秀は、義昭に見切りをつけて、真の実力者である信長にあ
くまでもついていこうとしていた。 以後、義昭は陰に陽に、信長に敵対するようになり、元亀4年には、つ
いに信長によって都から追放されてしまった。 うしろ髪ひかれてひょいと前のめり 小山紀乃
足利十五代之正統 従四位下参議左近衛中将 源義昭乃像 信長の軍事力を得て上洛し、15代将軍に就任したものの対立。 追放されて諸国を流浪しながら、各地の武将に御内書を送り蜂起を促し、 しぶとく信長に抵抗した。 『絵本豊臣勲功記』国文学研究資料館蔵 「義昭のその後」
1573年(元亀4)7月、義昭は信長から京都を追放された。
義昭は毛利輝元によって匿われ、備後国にある鞆の浦で暮らした。
だが、京を追われてからも、義昭は、自分の利用価値を高く見ており、
復讐心に燃えて、全国の大名に信長打倒を呼びかけた。 実際のところ、外交能力の高い義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利と
いった有力な大名が連携して「信長包囲網」を形成していった。 そんな中で義昭は戦国時代最強の武田信玄から上洛の約束を得た。
義昭は信玄という後ろ盾を得て信長に強気に出た。
寝違えてから反省ができない 井上一筒
ところが、肝心の信玄が急死してしまう。かつて、従兄弟である14代
将軍・義栄の突然の病死によってチャンスを掴んだ義昭だが、 今度は頼みの信玄の突然の死によって暗転する。
信長は、武力で義昭の敷く包囲網をひとつずつ突破。
これは、信玄や謙信などの強力なライバルが、相次いで病死したことが
追い風となった。 その幸運も、腹心の明光秀智の謀叛という形で幕を閉じることになる。 謀反の光秀を討ち、信長の跡を継いだのは秀吉であった。
秀吉は、義昭が隠れ蓑として身を寄せていた柴田勝家を破ったあと、 九州征伐に乗り出した。その九州に向かう途中、義昭は備後国で秀吉と 面会をする機会を得た。その場で義昭は、秀吉によって京都に戻ることを 許され、追放されてから15年後の1588年(天正15)に京に戻った。 が、将軍としてではなく御伽衆として秀吉に仕えることとなった…。 オンタン飴は影のなごりです 酒井かがり |
最新記事
(11/21)
(11/14)
(11/07)
(10/31)
(10/24)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|