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川柳的逍遥 人の世の一家言
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喜怒哀楽を匿名希望  兵頭全郎


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 徳川秀忠

「秀忠という人」

秀忠は、6歳年上のに、頭が上がらない恐妻家だといわれる。

しかし表の顔は、知略に秀でた政治家タイプの将軍だ。

「関が原の戦い」に遅れて、参戦できないなど、

武勇において、芳しい話がないため、

凡庸と評されることが多いが、

そもそも二代目というのは、損な役回りである。

自画像にマスクを描いた自己嫌悪  有田一央

初代が偉大であればあるほど、

普通にしていても、評価は低くならざるを得ない。

逆にいえば、それを引き受けるだけの度量がないと、

二代目は務まらない。

さらに言えば、政権を維持することは

創始することよりも数段難しい。

見かけほど気楽ではない鳩時計  有田晴子

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   秀忠誕生の井戸

家康に比べて、秀忠は確かに凡庸な男だった。

偉大な父を持った息子の、悲哀でもあった。

どんなことをしても、父を抜くことは有り得なかった。

大勢の前で弁舌を振るうなどは、最も苦手なことだった。

父の前に出ると体が硬直した。

父を尊奉し、言いつけは堅く守った。

秀忠は、律儀ものだった。

左回りの時計でも0時です  井上一筒          

家康はそこが心配だった。  

ある時、

「正信そちが教育してくれぬか、少しは嘘もつくようにいえ」

といった。

正信が、秀忠に告げると、

「それは駄目だ。父上はたとえ嘘をついても買い手はあるが、

  自分の嘘は買い手がない」

と言って笑った。

ひとしきり笑って壁を黙らせる  湊 圭史

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ドラマ・お江ー秀忠・向井理

確かに秀忠の嘘はぎこちなくて、ばれてしまうだろうと思われた。

秀忠は、唯の一度も「父を超える」など、

思ったことはなかった。

ただし、お江を妻にしてからは、随分変わった。

「あなたは、徳川家を継ぐお方です」

お江は、ことあるごとに言った。

秀忠は、年上のお江の意のままだった。

若い秀忠は、毎晩のようにお江を求め、

秀忠のひたむきな愛に、お江は、身も心も癒された。

温泉で男をやわらかくしよう  森中惠美子

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ドラマお江ー千姫役・芦田愛菜ちゃん

秀忠が男をあげた「慶長伏見大地震」のあと、

4月11日、お江は伏見屋敷で、女子を出産する。

千姫である。

「秀頼と結婚させよう」

秀吉は、妙にはしゃいだ。

お江は、しばらく伏見にとどまったが、

秀忠は、9月2日に江戸に戻った。

原色を着ます攫われないように  赤松ますみ

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ドラマでは火事の設定になっているか?

『慶長の大地震』 とは? 

慶長元年7月12日発生。

京都三条から伏見で最も被害が大きく、

伏見城天守閣大破、

石垣が崩れ、約500人が圧死。

堺で600人以上が亡くなり、

奈良、大阪、神戸でも被害があった。

余震が翌年4月まで続く。

そして、秀吉に謹慎を命じられていた加藤清正が、

地震の直後、300人の手兵を連れて登城し、

城門を固めるとともに、救助活動を行い、

治安の維持にあたったため、

感動した秀吉に、謹慎を解かれたという逸話がある。

瓦礫この無数の無言の鴎ぞ  きゅういち

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ドラマで火と煙に囲まれるお江

「清正記」)より、

『慶長元年七月十二日乃夜、大地震ゆる事、

  二百年三百年にもかヽる例を不及聞、

  日をこえてやまず、洛中、洛外、伏見、大坂は不及申、

  五畿内押並て地震・・・略・・・』

地震が起こると、すぐに清正は立ち上がり、

200人の足軽に手下を持たせ、

治安の維持にあたった。 

潮騒やあれは電気をおこす音  壷内半酔

その時、秀吉は・・・?

≪秀吉はいずこにと思えば、

 『大庭へ出御被成、御敷物を敷き、幕屏風にてかこひ、

    大提灯をとぼさせ、太閤は女の御装束にて、

    政所様、松の丸殿、高蔵主々々々と・・・・』≫

この地震に秀吉はびびりまくっていた、

と、「清正記」は綴っている。

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宇治川、桂川、木津川の三川合流地に建てられた淀城

文禄元年(1592)に秀吉の隠居城として、

指月の丘に築城した「指月伏見城」は、

この大地震により倒壊。

そして、木幡山に新たな伏見城の築城が開始するも、

慶長3年8月、城の完成を見ることなく、

秀吉は死去する。
  (享年62歳)。

一望の野に咲かしむるしゃれこうべ  時実新子

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大河ドラマ「お江」-第30回・「愛しき人よ」 あらすじ

伏見・徳川屋敷で暮らし始めた江(上野樹里)だったが、、

どうしても、秀忠(向井理)の妻として自覚が持てず、

朝寝坊などしてしまう。

それもこれも、

秀忠とは互いに、心を通わせることがなく

夫婦の契りすら、結んでいないのが原因だった。

隣との距離はげんこつ一個分  吉川 幸

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さびしい毎日。

江はつい、前夫・秀勝の形見などを手にして、

思い出に浸ることが多くなる。

一方、秀忠は、江が秀勝の形見を大事にしていることを知り、

複雑な気持ちに。

一層、江との距離を縮めづらくなってしまう。

そんな中、江は何度か、夫と仲良くなろうと試みるが、

秀忠は、無関心な態度を改めない。

試みの真ん中辺が切れている  山本早苗

すると江も意地になってしまい、関係改善には至らないのだ。

時がたっても、2人の心が近づくことはなく、

ついに江は、自分が徳川家を去るべきだと判断する。

そしてある夜、秀忠に、

「私をこの家から追っていただきたい」

と申し出るのだ。

雨漏りがぽつーりぽつーり胃に刺さる  谷垣郁郎

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江が秀忠との関係に悩んでいるころ、

秀吉(岸谷五朗)は、体調を崩して寝込んでいた。

それを聞いた江は、秀忠や家康(北大路欣也)に、

秀吉の状態について尋ねる。

理由を問われると、

「姉の夫だから」

「天下人に何かあれば、一大事なので」

などと答えるが、

実は江は敵である秀吉に、情がわいており、

彼のことを心から案じていた。

家康は、

「重い病ではないはず」

と答えて江を安心させる。

だがその一方で、

秀吉の病状について細大漏らさず報告させ、

何があっても、すぐに動ける態勢を整えていた。

おーい雲残り時間を知ってるか  笠嶋恵美子

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きのうから蜜柑が二つ枕もと  時実新子


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 徳川秀忠・江戸絵

秀忠、お江、二人の新婚生活は伏見城で始った。

お江は、稀代の英雄・信長の血を引くというだけに、

文字通り名門中の名門、貴種であった。

誰の閨閥(けいばつ)かで、人間の評価はがらりと変わる。

秀忠の屋敷には、きりりとした空気がただよった。

今日といういくさへ眉を描いている  たむらあきこ

今をときめく天下人の秀吉も、

もともとは、信長の草履取りだった。

だから、お江には、特別な待遇がほどこされた。

慶長元年(1596)には、

二人の新邸が完成し秀吉も訪れている。

豊臣と徳川の、蜜月の時期だった。

たてよこななめ桃源の風通し  山本早苗

文禄5年(1596)7月12日、畿内一帯で大地震が発生した。

江の住む徳川屋敷も倒壊し、

江はその瓦礫の下敷きになった。

そのとき江を捜しにやってきた秀忠は、

江を見つけると、

瓦礫を退けて助け出し、屋敷外に連れ出した。

江はその日から、秀忠を見直した。

初めて夫として、

秀忠を受け入れることが、出来たのである。

握手して運命線をすりかえる  河村啓子

大地震の被害は甚大で、

家康の上屋敷では長倉が倒壊し、

家臣が犠牲になったとされる。

お江はその報せを受け、

早速、義父・家康に見舞いの文を宛てた。

その文に対する返書として、家康が礼を述べている。

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≪慶長元年の地震の際の

   お江の家康へ送った見舞いの文に対する、家康の返書≫  
 
「徳川家康自筆消息 徳川秀忠夫人浅井氏宛」

という文が、残されている。

海峡を渡る標準語の女  森中惠美子

「文禄から慶長へ」

文禄 4年(1595)

関白・秀次が高野山で切腹(七月)。
聚楽第解体。
家康以下諸大名30名の連署血判をとり、秀頼に忠誠を誓う。
お江が秀忠と結婚(九月)。

慶長元年(1596)

伏見城が地震により全壊。
伏見城、木幡山に再建。
明国へ再出兵。
お拾4歳で「秀頼」と改名。

靴紐が切れたニュースもありました  新川弘子  

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秀吉は、関白・秀次に関するものすべてを、

抹消しようと、
自身が自慢にしていた聚楽第まで、

跡形もなく取り壊してしまった。

取り壊された聚楽第の跡は、

現代では、市街地に埋もれてしまったが、

堀や池の痕跡は「聚楽廻」の名前で残る。

また、広島城は、聚楽第を真似て作られた。

そして、西本願寺の飛雲閣は、

聚楽第から移築された言い伝えが残る、桃山建築の傑作である。

歯ぎしりににて墓石が伸びる音  井上一筒

それから2ヵ月のち、

徳川秀忠の婚儀が執り行われたのである。

お江は秀忠より、6歳年上であったが、

そんなことは、政治的な思惑の前では、誰も問題にしない。

舅にあたる家康にとっては、

身の安全が保証されたようなものだから、

大満足な縁組であった。

清水の舞台の向かいは披露宴  黒田忠昭

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 大御台・お江の方(江戸絵)

披露宴は、お江にとっては、

関八州の太守の奥方になる、身の引き締まるおもいであった。

秀忠は、当時としては大きい身長160センチあり、

身体つきはがっちりしていたが、

澄んだ瞳と、大人になりきっていない初々しくさに、

江は、秀忠に弟を見るような、可愛らしさを感じつつ、

自分の果たすべき、

将来への決意を新たにするのである。

骨量も度胸も見事妻が上  柴本ばっは

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 広島城金鯱瓦

このとき、初の夫・京極高次は6万石に加増され、

八幡山から大津へ移る。

秀次の領地であった尾張は、

大政所の縁者・福島正則に与えられる。

秀吉は初め、

「前田利家にどうか?」

という考えだったが、石田三成が、

「虎に翼を与えるようなもの」 

と反対したいきさつがある。

(これが、三成の後悔をうむ間違いであった。

  三成はのちに利家と組んで、家康と戦うことになるのだから・・・)

トーストの焦げから跳ねだした論理  立蔵信子

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ニシガハチやがて不安は著莪の花  嶋澤喜八郎


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      著莪の花

著莪(しゃが)の花は、たった一日で、しぼんでしまうそうだ。

だが、そこからまた咲き継いで、

1-2ヶ月は、咲き続ける強さを持った花である。

まさに、お江を見ているようだ。

花言葉は-(お江で良いか)一般的には、抵抗・反抗・決心・思いやり

迂回路をたくさん持ってジュエリーに  蟹口和枝

「お江ー三度目の結婚」

2度目の夫・羽柴秀勝が、文禄の役に出兵、

朝鮮で病死したため、お江は秀吉のもとで暮らしていた。

文禄4年のある日、秀吉が江に縁談を持ってくる。

相手はなんと、家康の三男・秀忠だった。

初めて会ったときから、5年が経っており、

は、23歳。秀忠は、17歳となっていた。

人の好い胸を流れるながれ弾  森中惠美子

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幕府祚胤伝(ばくふそいんでん)

≪江戸研究家の三田村鳶魚(えんぎょ)が最も正確と評した

  徳川幕府の側室の経歴を伝える書物。(東京大学史料編纂蔵)

  後陽成天皇の聚楽第行幸や、

  秀忠・江の婚礼が伏見城で執り行われたことも記されている≫

何処に嫁ごうが、江の腹は決まっていたが、

どうもあの皮肉屋の秀忠は、苦手だった。

だが、天下人の秀吉の決定には、従わざるを得なかった。

また、お江は、姉である淀殿から、

「お前は秀忠殿の妻になるのです。これはお天下さまの仰せです」

といわれた。

お江は、ひどく戸惑いを覚えた。

縦書きにとまどう数学の頭  下谷憲子

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お江は、前夫との一人娘、

「完子を徳川家に連れて行きたい」

と願ったが、秀吉も淀殿も、それを認めなかった。

完子は数少ない豊臣一族の血を引く、女子だったからである。

お江同様、秀頼の将来を支える権力者に嫁がせるための、

政略結婚の道具と考えられた。

「あなたは織田家の血筋、秀忠殿のお子を生み、

  わが子秀頼を支えるのです。

  お天下さまはすでに、家康公に話されています」

ともかく、姉の言葉は命令に近く、

逆らえるものではなかった。

≪淀殿に託した完子は、公家の九条家に輿入れ、関白夫人となって、

 その息子・道房も関白となり、公家と武家の貴重な仲介者となった≫

手のひらでグシャっと壊す秋の音  河村啓子

淀殿はこの時、秀吉との間に、世継ぎとなる秀頼がいる。

もし、秀忠とお江の間に子供が生まれれば、

その子は、秀頼と従兄弟になる。

秀吉晩年の、唯一の気がかりであった秀頼を、

関白にするためには、

どうしても、家康の後ろ盾が欲しかった。

秀吉が考えそうな政略結婚だった。

まず瓢箪を膨らませ考えよ  山口ろっぱ

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    徳川家の御年譜

≪秀忠とお江の婚礼についての記載がある。(徳川記念財団蔵)≫

一方、家康は江に好感をもっており、

徳川家に迎えることを歓迎していた。

かつて仕えた信長公の血筋のお江と、

秀忠が結婚するのも、何かの縁と家康は考えた。

文禄4年9月17日、江と秀忠は指月山伏見城で、

盛大な婚礼の儀を行った。

本来、嫁ぎ先となる江戸で挙式をするのが、筋だったが、

秀吉に配慮して、伏見となった。

浮雲を三つ食べたら春がきた  和田洋子

二人は夫婦になったが、

江には秀忠の醒めた態度がどうにも我慢がならなかった。

顔を合わせれば、常に口論となった。

そういうことで、結婚当初から夫婦関係も何もなかった。

舅の家康は、早く世継ぎをと願っていたが、

今のままでは無理な注文というものであった。

とはいえ、家康の気持ちを考えると、江は心苦しかった。

水あかりパントマイムをしてくれる  岩根彰子

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その頃から、秀吉の様子がおかしくなっていった。

明国の使者からの回答に不満を持った秀吉は、

ふたたび朝鮮半島への派兵を決めたのだ。

だがこの派兵は、

朝鮮への単純な復讐でしかなかった。

更に秀吉は、バテレン追放令を厳しくし、

宣教師や信者をも厳しく取り締まり、

長崎に送って磔に処した。

その頃、江の身体に異変が起きていた。

秀忠の子を、懐妊したのであった。

△とXだけでする恋占い  井上一筒

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大河ドラマ・「お江」ー第29回-「最悪の夫」 あらすじ

「秀忠に嫁げ」

と江は、秀吉(岸谷五朗)から言われたものの、

江(上野樹里)には、まったくその気がなかった。

彼女は、秀吉にすっかり愛想を尽かしており、

その命に、従うつもりはさらさらないのだ。

男はんは体育系と決めてます  八田灯子

そんな江の心を動かしたのが、

秀忠(向井理)父・家康(北大路欣也)だ。

家康は、自ら江のもとに足を運び、

「ぜひ徳川家に来てほしい」 と頭を下げる。

恐縮しつつも断りたい江が、

秀忠より、かなり年上であること、

完という娘があることなど、

嫁として、ふさわしくない点を挙げても、

家康の思いは変わらない。

完のことも、「お連れになるがよい」

と、
むしろ歓迎の意を示すほど。

空っぽのハートに触れた一行詩  和田洋子

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実は家康は、政略とは別に、

前々から、江を秀忠の嫁にと考えていたのである。

江はその熱意にほだされ、

また家康のある言葉に運命を感じ、

ついに嫁入りを決意する。

やっと交わる私の中の平行線  合田瑠美子

家康から、「江殿を嫁に迎えよ」

と命じられ、秀忠は驚いた。

彼の脳裏には、以前に会った江の、感じの悪い様子が浮かび、

とても、うれしい気持ちにはなれない。

だが結局は、

「私の人生は父上の御意のまま」

と皮肉を言うのが精いっぱいで、婚礼を承知する。

レモン一滴皮肉サッパリ聞き流す  荻野浩子

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そんな息子をたしなめる家康に対し、

控えていた正信(草刈正雄)が疑問を口にした。

「老い先短い秀吉と、これ以上縁を深める意味があるのでしょうや」

と、
しかし家康は、

「この婚礼は必ず徳川家のためになる」

と言って譲らない。
家康には、

「ひねくれてしまった息子を、江なら変えてくれる」

という予感があったのだ。

過去には触れないでおく沙羅双樹  山本昌乃

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輿入れが迫ったある日、

江は、呼び出されて秀吉、淀(宮沢りえ)の2人と対面した。

そこで秀吉から、完を豊臣家に置いていけと命じられる。

突然の無体な要求に、たちまち表情を硬くする江。

席を立とうとする彼女を引き止めたのは、ほかならぬ淀だった。

跳躍をしそうになった落し蓋   赤松ますみ

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「この話を持ち出したのは、、私じゃ」   

姉の言葉が、にわかには信じられず、江は、あぜんとする。

「完は豊臣の子、徳川に連れていくわけにもいくまい」

と続ける淀に、やっとのことで、

「心からのお言葉ですか」

と聞き返すと、

いつも優しかった姉は、まっずぐに江を見て、

「そうじゃ」

と答えるのだった・・・。

水は低きに私は風に流される  片岡加代

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世の中の仕組みをみたり髑髏  前中知栄


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秀次はこよなく書物を愛した。 日本紀と河内本・源氏物語

「武功夜話」

武功夜話とは、蜂須賀小六などと一緒に、

早くから秀吉に仕え、

秀次のお目付け役だった前野長康の一族が、

子孫から子孫へ、語り継いできたものが、史書として、

土蔵から伊勢湾台風の風が、めくったものである。

そしてここに書かれている、「秀次事件」の経緯は、

秀次に近い立場の人たちの、子孫から出てきたものでありながら、

秀次に厳しいものになっている。

かみ合わぬ話がレール走り出す  中川隆充

それによると、前野長康は、

「秀吉の実子で、織田家の血をも引く若君(拾君)に、

 天下が返るのは、仕方がないのでありますまいか」

と秀次に進言した。

ところが、長康の子・景定など若い側近たちが、

秀次を守ろうとして、妥協を阻止し、

また、軍事教練まがいのことをしたとある。

男の椅子の座り心地は聞かぬもの  森中惠美子

断罪の直接の引き金は、

朝鮮遠征費用の捻出に困った毛利輝元が、

秀次に借金の申し出をしたところ、

「忠誠を求める書き付け」

を要求されたことが不安になって、太閤殿下に提出したことにある。

現に、太閤の年齢を考えれば、

秀次に近づいておく方が、将来、有利だと考える大名たちは、

(伊達政宗、最上義光、浅野幸長、細川
忠興ら)

秀次に取り入ったりもしていた。

呑むために生きると決めて恙無い  山本芳男

石田三成前野長康

「豊臣政権安泰のためには、

 なんとか殿下と関白には、仲良くあって欲しいのだが、

 どちらの側にも、へつらうものがいる。

 殿下は弱きになって、

 徳川家康前田利家の屋敷に、足繁く通うなどしているが、

 両者はいずれも野心家で、朝鮮遠征でも渡海を免れた。

 一方、西国の大名たちに恩賞を与えるために、

 全国で検地を行って、財源を探しているのだが、簡単でない」

という趣旨のことを武功夜話言っている。 

味方だと言うが斜めに構えてる  籠島恵子   

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       水争い裁きの像

≪天正14年(1586)、農業用水・生活用水を日野川の恵みに依存していた

    日野川下流側の郷と上流側郷の両村で、渇水による「水争い」が起こった。

    その事態を憂慮した秀次が、家老の田中吉政を伴って自ら現地を視察し、

    双方の言い分に耳を傾け、お互いが納得できる裁定を下したという。

同年7月24日のことである≫

ともかく、秀次に近い者たちからすると、

秀次さえあわてて

「将来はお捨君に譲る」

などと約束せずに、時間を稼げば、

いずれは、太閤の寿命も尽きるという思案があった。

未来図は黒一色で事足りる  井丸昌紀 

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羽柴秀次の像(八幡公園)

≪商都・近江八幡の礎を築いた秀次は、地元で名君として慕われる≫

茶々やお捨君に近い立場からすると、だからこそ、

「秀次を早々に、処分して欲しい」

ということになる。

もしも、秀次の弟であり、お江の夫である秀勝が生きていたら、

茶々たちの立場も、少し違ったのかも知れないが、

今となっては、秀次と茶々たちを繋ぐ絆は、細くなっていた。

絶滅を危惧するあまりビニールの傘  酒井かがり

お捨君がまだ幼少なので、将来を危惧した太閤は、

同年代の徳川家康前田利家の二方を、

信頼して力を持たせ、

しかも、いずれか突出しないようにと考えた。

利家はもともと、織田家のなかでの序列はあまり

高くなかったが、

柴田、丹羽、明智、滝川、佐々、堀秀政らが亡くなったために、

織田家の家臣の中で、最長老になっていた。

茶々や江ら織田家に連なる者は、

信雄も失脚してしまった以上、

利家がもっとも、頼るべき存在だった。

カジキマグロの嘴は仕込み杖  井上一筒

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人柄が見える日野川桐原新橋の秀勝像


こうして、太閤による関白の包囲網は狭まっていく。

それでも、太閤が聚楽第を訪ねたり、

秀次が伏見で能を上演して、太閤を招待したりしたしているのだ。

いくらでも修復のチャンスはあったが。

秀次に欲が出てしまった、のか、

秀吉の心配を払いのけるような、思い切った行動がとれなかった。

その間にも、太閤のもとには、

秀次周辺の不穏な動きが報告される。

胸の底図太い鬼に居座られ  牧浦完次       

茶々やその周辺の者が、

「お捨君の将来への不安を取り除いてください」

と太閤に迫った。

これに対し秀吉は、家康と利家に、秀次のことを密かに言う。

「太閤殿下の好きにされれば、

  あとは、我々がお捨君をお守り致します」

と2人は答えている。

そして家康が、江戸に帰国するとき、

京都に残る秀忠に、

「秀吉と秀次の争いになったら、秀吉につくように」

とも言い残している。

悲劇だな影まで人間だったとは  谷垣郁郎 

もともと、身分の低い階層の出である秀吉は、

上流の権力者とは違って、家族に対しての愛着は、

現代の人間と似たものを持っている。

また秀吉一族の人たちの心にも、

権力者になった太閤に対して

「まさか、自分に悪いようにはしないだろう」

という甘えがあった。

当然、秀次にもそうした気持ちが多分にはたらいたのだろう。

頷いただけでひまわり枯れてゆく  森田律子

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       八幡堀

≪八幡城主・羽柴秀次(豊臣秀次)が、城を防衛するために築いた≫

しかし、それぞれの家来たちは違う。

自分たちの浮沈は、

それぞれが仕えている主の運命にかかっている。

主人がいったん失脚すれば、身内でもないだけに、

命も危ないということになるのだ。

しかも、むかしからの武将たちには、

若いころから豊臣家興隆のために、頑張ってきた恩情もあるが、

第二世代には、若者らしいドライさに加えて、

親密だったころの思い出がないから、

どうしても、極端に走ることになる。

体内を夜明けの貨車が過ぎていく  嶋澤喜八郎

いよいよ7月3日、

石田三成増田長盛が、秀次に行状を詰問した。

それを受けて、秀次は朝廷に銀五千疋を献上して、

救援を求めたが、

これは、悪あがきであった。

「関白を辞める」

とでも太閤に申し出ればよかったのだろうが、

秀次の若い側近達は、それを許さなかった。

まだまだの端がほつれてきた誤算  山本早苗

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   秀次一族の墓

こうして関白が、無為に時間を過ごすうちに、

太閤は一計を案じた。

いまでいう女性秘書として重宝していた孝蔵主を、

聚楽第へ派遣して、言葉巧みに、

「単身で伏見に来れば、太閤殿下も納得する」

といって、関白を連れ出した。

そして、このまま高野山から切腹へとつながっていく。

住みにくくなった話も聞くあの世   中村幸彦            

拍手[5回]

通過するカメレオンなら雨上がり  蟹口和枝


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    豊臣秀次像

≪画面下部に描かれているのは、時計回りで、

秀次のもとに殉死した玄隆西堂、山本主殿(19歳)、雀部淡路守、

山田三十郎(19歳)、不破万作(17歳)である≫

「秀次の悲劇」

文禄元年(1592)3月26日、

秀吉はかねてより、計画していた大陸侵攻のため、

肥前名護屋城に入るが、

同行した淀殿が、第二子を懐胎する。

大坂城に戻った淀殿は、

文禄2年8月3日、再び男児を出産した。

狂喜した秀吉は、今度の子には、鶴松の幼名「捨」とは反対の

「拾(ひろい)」と名づけた。

翌年、秀吉は、伏見城築城工事現場から、

「おひろいさま」宛てに自筆で手紙を送っている。

水で酔えるのも血液型のせい  井上一筒

「先日は工事現場まで見送ってくれてありがとう。

 でも、あの時は、まわりにたくさんの人がいたので、

 あなたの口を思いっきり吸うことが出来ず、

  たいへん残念でした。

 未だにそのことが、心残りでなりません。

  まもなくそちらへ行って、今度は誰に気兼ねすることもなく、

  そなたの口を吸います。

  油断してお母さん(淀殿)に口を吸われないよう、

  くれぐれも気をつけてください」

と述べている。

秀吉の溺愛ぶりがよく分かる。

梅雨空を剥がすと好きが溢れ出す  和田洋子

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淀殿が第二子・拾(秀頼)を産んだことで、

関白太閤の関係は、きわめて微妙なものとなった。

文禄2年(1593)9月20日、

秀吉は新たに築いた伏見城へ移り、

10月1日、拾と秀次の娘との婚約を、秀次側に申し入れた。

翌年の正月には、諸大名を動員し、

伏見城の外郭内に、

それぞれ屋敷を営むように命じた。

企みを図りかねてる風の向き  太田芙美代

秀吉の拾への溺愛により、

豊臣家中の空気は、少しづつ変わっていく。

秀次も、不穏な空気を察知したのか、江に、

「関白を返上した方がいいのではないか」

と聞いてくる。

それに対して、江は、

「気にしなくてもいいのではないか」

と答えた。

それが、悲劇の始まりだった。

開幕ベルだったのか河馬のしゃっくり  森田律子

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ところで、秀吉が、指月山伏見城の工事を始めたのは、

経済開発としての意味もあったが、同時に

「京都を関白・秀次の勝手にはさせない」

という意思表示でもあった。

自らの本拠地であり、

拾と茶々も、この伏見城に呼び寄せた。

政や軍事に関する求心力は、

秀次から離れ、
秀吉と拾の身辺へと移動していく。

絵の具からサッカーボールへ乗り替える  岩根彰子

そして、秀吉は、秀次との折り合いを何とかつけようと、

努力をする一方で、

秀次との対決に備える根回しに、

京都で有名大名の邸宅を、盛んに訪問し加えて、

また、御所で能を上演するなど、朝廷との交流も積極的に行い、

また諸大名に、伏見に屋敷を建てさせたりした。

そのころから、秀次の生活は乱れ始めた。

政は放ったらかしで、狩りに熱中し、

酒びたりになった。

引き出しの中からそっと波の音  高橋謡子

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    秀次自刃の間

≪高野山金剛峯寺にある柳の間≫

そんなとき、秀次に謀叛の疑いが起こった。

三成は、「謀叛の企てなどはない」 

という誓紙を書かせたが、

それですべてが、終わったわけではなかった。

点す部屋消す部屋風の階のぼる  田中博造

当時の状況を、ルイス・フロイスは、

「関白は、優れた才能を有し、気前のよい人で多くの資質を備え、

 機敏・怜悧、かつ稀にみる賢明さの持ち主であり、

 特に親切であった」 

と絶賛する一方、

「拾の誕生で、秀吉との関係は『破壊』された。

  なお秀吉は、(秀次に対して)関白の座を拾に譲るよう,

 画策し始め、城内においてだけでなく、城外においても、

  『今に関白殿が太閤様に殺される』

  という噂は、日一日と弘まるばかりであった」

と、伝えている。

カラオケとカンオケの因数分解  黒田忠昭


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        秀次の墓(瑞泉寺)

≪秀次の首は、30余人の妻子ととも、にここに葬られ、

    かっては、「秀勝悪逆塚」が建っていたというが、

    今は瑞泉寺が手厚く弔っている≫

フロイスの言う、その噂は、まさに現実のものとなる。

江は後悔したが、時すでに遅かった。

秀次は、秀吉に直接の弁解も出来ないまま、

文禄4年7月8日、秀次は「高野山に追放」された。

その後、秀吉は前田玄以をして、

朝廷に、「関白の追放」を奏上し、

15日には、福島正則を高野山に派遣して、

「切腹」を命じた。

その一か月後の、8月2日には、

彼の妻・妾・子女30余名が、
京都・三条河原で虐殺され、

聚楽第も破却の憂き目を見た。

≪余談ー秀頼を産んだことで間接的に、秀次を自刃させた淀殿は、

  夢枕に秀次が立つのを見たという≫

こうして、豊臣政権は、

伏見城の秀吉のもとに、一元化された。

昼の月ぬるい男を消去する  たむらあきこ

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大河ドラマ・第28回-「秀忠に嫁げ」  あらすじ

秀吉(岸谷五朗)は、京の南・伏見に築いた新たな城に移った。

「その城は権力の中心は自分である」

と改めて示すかのような、立派なものだった。

そうなると、穏やかにおられないのが、

秀吉から関白の血を継いだ、秀次(北村有起哉)だ。

聡明な彼は、拾が生まれた今、

自分は邪魔者であると理解している。

自らの立場の危うさに不安を募らせ、

関白の仕事にも身が入らない。

風が止む木の葉一まい置いてある  佐藤美はる

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秀吉の拾への溺愛ぶりを、知っている江(上野樹里)も、

秀次の身の上を、案じていた。

なんといっても秀次は、亡き秀勝に、

「好きになってほしい」 と頼まれた義兄なのだ。

江は、家康(北大路欣也)から、

「関白としてほころびを見せないことが大事」

と助言をもらったこともあり、

秀次の乱れた暮らしぶりを、改めさせようとする。

だが事態は、彼女が考えているよりはるかに、

深刻だった。

いかなごとクロスワードを埋めている  赤松ますみ

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秀吉から、「秀次を排除したい」という思いを、

それとなく伝えられた三成(萩原聖人)が、

すでに、秀次を失脚させるべく動いていたのだ。

数ヶ月後、秀次は謀叛を企てたとされ、

突然三成らに拘束される。

江は、罪をでっち上げて、秀次を追い込む三成をなじり、

「すぐに秀吉と話をさせてほしい」

と申し入れるが、三成は承知しない。

芯が腐っている住民票は枯れていく  壷内半酔

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逆に、「秀次が切腹の処分を受け入れたことこそ、

     企てが存在していた証拠だ」

と開き直り、

「彼に会うことも、まかりならん」 

と取り付く島もなかった。

切腹と聞き、とにかく秀次に会おうと決意した江は、

素早く三成の脇差を抜き、

自らの喉に突きつけていい放つ。

「死ぬなど怖くはない。秀次様に会わせよ」

その断固とした態度に、三成はたじろぐ・・・。

ご機嫌は斜め蛇口が閉まらない  谷垣郁郎

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一方、家康は、拾の誕生によって、

豊臣政権がどう変わるのか見極めるため、

秀忠(向井理)を従えて京に来ていた。

そしてすぐに、秀次失脚は遠くないと悟る。

家康は、江のもとに立ち寄った際、

秀次の今後について意見を求められ、

「真面目に政務に励むことこそ肝要」

と答えたものの、

そのぐらいで、情勢は変わらないとわかっていた。

消しゴムという味方ならいてくれる  杉本克子

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江の前から離れると、

秀忠は、彼女に気休めを言った家康を非難する。

だが、家康はそれには答えずに、

「ワシは江戸に帰るので、お前は残って様子を知らせよ」

と命ずる。

そして、秀吉と秀次の間に、

「事が起きたときは、迷わず秀吉に味方するよう」

申しつけるのだ。

猜疑心ばかり生まれる言葉尻  籠島恵子

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