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川柳的逍遥 人の世の一家言
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たましいを吊るすいちばん寒い釘  たむらあきこ

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  慶長の大坂城・模型

「大坂の陣」

徳川家康が、豊臣家を滅ぼそうと決意したのは、

 

慶長16年(1611)3月、  

「二条城で19歳の豊臣秀頼に対面したとき」 
  
だと言われている。

聡明な青年に成長した秀頼を目にし、

徳川家の将来に、危機感を覚えたのだという。

このとき、家康は70歳、

老い先短い年寄りにとっては、自然な感情であろう。 

 

悪がきのままじいちゃんになりはった  片岡加代

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洛中洛外図の一部(伏木勝興寺所蔵

方広寺大仏殿と豊国神社・豊国廟大仏殿、後ろに豊国廟と参道を描く   

≪大仏殿は、高さ約49メートル・南北約88メートル・東西約54メートルという

   壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、

    豊国神社、京都国立博物館を含むものであった  

      

それから3年後の慶長17年(1614)7月、

「梵鐘事件」 が起きる

家康は、太閤殿下の霊を慰めるためにと、

しきりに、京の「大仏再建」を豊臣家に勧めた。

豊臣の財力を弱めようとする、老獪な家康の目論見があった。

ところが、出来上がってみると、家康の思惑は大きく外れる。

秀吉がつくったものは、木造であったが、

今度は、燦然と黄金が輝く金銅製のもので、

奈良の大仏をしのぐものであったのだ。

なにしろ、その大仏殿は、

現在の京都駅とほぼ同じくらいの高さがあったから、

人々の度肝を抜き、

豊臣の天下復活の狼煙のようにみえたのである。 

棒に当たるよっぽど運の悪い犬  脇 正夫

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そんなとき、

同時に完成した「方広寺の梵鐘」が問題になる。

それは、長い鐘の銘文中の一節に、

『国家安康・君臣豊楽』 とあり、

「国家安康」は、『家康』の名を分断したもので、

「君臣豊楽」は、『豊臣家の繁栄』を願うものとし、

御用学者・林羅山は、 

「『右僕射源朝臣家康』は、

  右僕射(右大臣)である、家康公を射るもの」

 

と言いがかりをつけたのである。 

月が欠けたらそれできっかけが出来る  板野美子

 

家康は、本多正純を通じて、これを詰問したので、

秀頼の後見人の1人の片桐且元が、

さっそく駿府に弁明のため、出発したのだが、

それだけでは心配で、淀殿は、大蔵卿局も派遣した。 

≪大蔵卿は茶々の乳母で、大野治長の母である≫

 

家康は大蔵卿局には、 

「何も心配することはない」  と言い。

一方で、

且元には、自分では会わず、正純の方から、

「よほど思い切って、

  不信感を一掃できる措置がないかぎり許せない」

と言わせている。 

クレームに居直るペテン師の笑い  中川隆充

 

大坂城へ帰った且元は、

「大坂城を出るか」 

「茶々が人質になるか」

「秀頼が駿府に出向くか」 

正純から脅され、捻じ込まれた意見を、

「豊臣家存続のため」 と必死に淀殿に申し述べた。

あえて、大阪方が呑めないような条件を、出してくるのが、

家康の嫌らしいところである。

返信用封筒に貼る鬼薊  笠嶋恵美子

ところが、「心配することはない」 

という、大蔵卿局の報告を受けていた淀殿と大野治長は、

承知せず、

且元を、「徳川に内通している」 と罵倒したのである。

それに動転した且元は、自分の屋敷に籠り、

淀殿からは、「再び出仕するように」と説得の手紙が届くも、

不信感は拭えず、その身は、茨城城に引き払っている。 

≪且元は、大坂の陣では、徳川方についている≫

 

蟻と目が合った蔑んだ目だった  大海幸生

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      大坂の陣

このように「梵鐘事件」で絶好な口実を得た家康は、

同年10月、大坂城を90万の大軍で包囲する。

一方、戦いを決意した豊臣方は、

6万に余る浪人を召し抱え、

大量の兵糧を城内へ運び込んで、

抵抗する姿勢を鮮明にする。

これが、「大坂・冬の陣」(11月)である。  

三日月に隠しきれない7番目の脊椎  酒井かがり
  
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   大坂の陣ー2

開戦を耳にした福島正則は、

「三年遅く、三年早い」 と言っている。

少し前なら、

加藤清正・浅野幸長・池田輝政・前田利長などが健在で、

「家康も乱暴なことも言わなかっただろう」 

し、
もう少し後なら、

「家康はこの世の人でないだろう

との意味である。

しかし、この戦闘は、

豊臣方の真田幸村、後藤又兵衛、木村重成らが、

善戦したため、家康は大苦戦をしいられる。

出来そうもないモットーが奇跡呼ぶ  坂下五男       

そこで家康は、徳川方の食料補給なども厳しく、

損害も増える一方だったから、和平を模索しはじめる。

意外な大坂方の奮戦のため、

大坂城を攻めあぐねた家康は、

和睦の使者として、側室の阿茶局を交渉の場に派遣する。

豊臣方からは、茶々の依頼を受けて、

初が、城内から出てきた。

交渉の場に指定されたのが、

義理の息子・忠高の陣所だった      

交渉をスムーズに進めるため、

家康がそう指示したのだろう。

ここ一番山を動かす低姿勢  後洋一  

豊臣家の方針を決めていたのは、

秀頼というより母の淀殿だった。

家康としてはそんな豊臣家の事情を見透かし、

初を通して、淀殿に和睦を承諾させようとする。

そのために、交渉相手として、

同姓の阿茶局を交渉のそばに派遣したのだ。


家康の目論見どおり、淀殿は和睦を承諾する。

あの世でもアホだアホだといいそうだ  中前棋人

            和議の内容は  atya.jpg          atya.jpg

  阿茶局
    
「淀殿を人質としないかわりに、

  大野治長、有楽斎より人質を出す」

「秀頼の身の安全を保証し本領を安堵する」

「城中の浪人などについては、不問にする」

 

というもので、

一見、大阪方にとってかなり有利な条件を、

家康は受け入れた。 

≪中には大阪方は「浪人に知行を与えるために加増を」と願う項目も入れたが、

    これは虫が良すぎると、受け入れられなかった≫

 

生き抜く温度 死なない温度大切に  墨作二郎

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                現在の大坂城

そして大阪方は、和議の中に、

本丸を残して二の丸・三の丸を破壊し、

惣堀を埋めること、が組み込まれた。

これは、このような和平では、常識的なことになっている。

だが、大阪方では、惣堀を、

徳川方で埋めることは承知していたが、

二の丸を囲む外堀は、大阪方がやることになっていた。

それを徳川方は、大阪方の工事を手伝うと称して、

「外堀までを完全に埋めてしまった」 のだ。 

≪忌々しいことに、その工事にあたらせたのが、

    常高院の義理の息子・京極忠高で、どこまで嫌みな家康か≫

 

形あるもの何ものこさぬ訣れかた  安土理恵

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    大坂の陣ー3

だがこれは、徳川方の見せかけの和睦で、

翌年4月、またも家康は秀頼に対し、 

「浪人たちを承知しても城内に留めるとは思っていなかった」

 

といって

「浪人を追放せよ」
 と迫ったのである。

こうした徳川の嫌がらせに対し、

5月、豊臣家は、徹底抗戦を決意、

大坂城周辺で、徳川方武将と激しい戦闘を行った。

「大坂・夏の陣」である。

泣き黒子 梅雨前線通過中  和田洋子

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家康が幸村に追われ逃げ込んだ念仏寺

豊臣方の武将は、

すでに勝ち目のない戦であることを自覚していた。

つまり、残っている者は、死を決意した人間たちであった。

死兵は強い。

とくに真田幸村隊1万の勇猛さは、群を抜いていた。

その幸村が、最終決戦において討ち死に覚悟で、

家康の本陣を目指して、突撃を敢行する。

家康は、まさか本陣まで到着するとは思わず、

たかをくくっていたが、

真田陣は、大木に錐で穴を開けるように深進し、

ついに徳川本陣へとなだれ込んだ。

失敗をすると決めてから笑う  森中惠美子       

真田隊のために、徳川本陣はたちまち蹂躍され、

馬印も踏み倒された。

旗本たちは混乱の中、家康を残してみな逃げ散った。

家康のもとにとどまったのは、

小栗久次ただ1人、という有様だった。

このとき家康は、 

「もうだめだ。俺は腹を切る!」

 

と、二度まで絶望して叫んだと伝えられる。 

ごはさんで願いましてと命消え  森 廣子
 
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                 方広寺・梵鐘

『余談』

豊臣家を滅亡させてしまう原因となった「鐘銘」が、

いまも、ちゃんと現存している。

本来なら、あのような大事件の要因となった鐘銘だから、

その部分は、削りとっていそうなものだが・・・。 

「開戦の理由さえ得られれば、鐘などどうでもよい」

 

という、家康の本音が見えてくる。

つらかった話しはしない花図鑑  赤松ますみ

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大河ドラマ「お江」-第41回・「姉妹激突!」  あらすじ

秀忠(向井理)は、

「徳川と豊臣が並び立つ」 という自分の考えが、

家康(北大路欣也)から無視されていることにじれていた。

そこで秀忠は、ひそかに秀頼(太賀)に文を送り、

共存を目指す自らの考えを、伝えることにする。

念のため、江(上野樹里)からも、

「自分の気持ちに偽りがない」 

ことを伝える文を書いてもらうなど、

秀忠の思いは、本物だった。

秀頼は、そんな熱い思いが込められた文を受け取り、

両家の未来に一筋の希望を見いだすが・・・。 

時々は善人の面修理する  合田瑠美子
 
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一方、駿府にあって、政治の実権を握り続ける家康は、

豊臣家をさらに弱体化する機会を、

虎視眈々とうかがっていた。

そんな折、事件は起きる。

豊臣家が再建中の京・方広寺の鐘に、

家康を呪っているとも取れる文言が、刻まれたのだ。

家康にしてみれば、まさに好機到来。

彼はここぞとばかりに、豊臣側を糾弾する。 

記述せよバラとラバとの相似点  井上一筒

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大坂城の淀(宮沢りえ)は、

そんな家康の露骨な言いがかりに激怒した。

だが、事を荒だてたくない秀頼になだめられ、

とりあえずは、鐘の銘文に他意がない旨を伝える使者を送る。

しかし、一方で淀は、 

「もうこれ以上、秀頼が屈辱を受けることあらば、

  家康との戦もやむなし」

 

と決意を固め、ひそかに、その準備を命じるのだった。

埋められないようにしっかり二度洗い  山本昌乃

拍手[8回]

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秋風はわが分身のように吹く  河村啓子

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駿府城にいた家康が、鷹狩と称して江戸城を訪ね、竹千代、国松と久々に対面。

”そこで、家康は竹千代を側に呼び、

 
「国松は竹千代の家臣である」 と宣言した。

「春日局ー家康に直訴」

お福が、家康のいる駿府に出向いた年には、

二つの説がある。

ひとつは慶長16年(1611)、

もうひとつは、元和元年(1615)だが、

有力とされる後者ならば、

家康の死の前年、ということになる。

国境を跨ぐ右耳左耳  岩田多佳子

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    春日局・自筆

お福は江戸城を出て、西に向かったが、

その表向きの理由は、伊勢神宮への参拝だった。 

「竹千代が秀忠の跡継ぎとして、披露されることを願うため」

 

と、周囲は推測していたが、

その真の目的までは、気付かなかったようだ。 

圏外で煮つめています実山椒  合田瑠美子

 

伊勢参宮の途中、駿府の家康のもとに出向き、 

「竹千代を秀忠の跡継ぎに定めてほしい」

 

と嘆願することが本当の目的だった。

この一件は、「春日局抜け参り」と呼ばれるが、

お福の懇願を家康は受け入れる。

ひらきたる秋の扇の花鳥かな  大西泰世

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生まれながらの将軍・家光画          

その後、しばらくして家康は江戸城に出向き、

秀忠・お江夫妻と、食膳をともにしたことがあった。

その際、家康は、 

「竹千代を嫡子とすること、

  国松が成人すれば家光の家来にせよ」

 

と命じている。

さらに家康は、 

「竹千代ほど、自分の幼少の頃に似ているものはない」

 

と、お江を諭した。

お江は顔を赤くし、当惑したと伝えられる。

ウツの実を食べてコントが裏返る  斎藤和子

その後、家康はお江に、

念を押す意味で、『27か条からなる訓戒状』を与えた。 

「健康で活発な国松を、格別に可愛がることは、

  結構であるものの、

  次男は、あくまで嫡子の家臣に過ぎない」

 

ことを示した上で、

「次男の威勢が増して、嫡子を軽るんじるようになると、

  家の乱れとなるだけではなく、

  取り返しのつかない結果を招くこと」

など・・・など。

笑っております涙が出ています  吉川 幸

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  若き家光・江戸絵

「家光擁立、忠長廃嫡でみせた幕府の新方針」

戦国時代には、

キーワードだった「下克上的風潮」があったからこそ、

時代そのものが、生き生きとしていた。 

革命の彩が沈んでいる歩道  森中惠美子

 

しかし、低成長・停滞経済の時代になると、

「下克上」は、完全に否定され、代わって、

「武士は二君にまみえず」

といった言葉に代表される「儒教的武士道」が、

主流となってくる。

幕府が率先して、示したその代表的な例が、

「家光擁立・忠長廃嫡」 の一件である。

猫の絵を切り抜く音を立てないで  時実新子

二代・将軍秀忠の子として、

二男家光と三男忠長がおり、

家光より弟の忠長の方が、器量があった。

戦国時代的感覚からいえば、

「暗愚な兄」より、

「聡明な弟」を立てる方が家は発展する。

世が戦国時代ならば、

祖父・家康、父・秀忠の判断もそうだっただろう。

しかし、時代は江戸時代であった。

にんげんの喜劇がいつも濡れている  たむらあきこ

高度成長から、停滞へと移ったばかりのときだ。

家康も、「器量より秩序」を選んだことになる。

つまり、  

「暗愚でもよい。

  長幼の順で家督を決めた方が、家は乱れない」

  

という論理を示したわけである。

将軍家の三代目が、

このように決められたことにより、

結局、諸大名をはじめ、それ以下の武士たちも、

「右へならえ」となったことは、いうまでもない。

テーブルに青大将を置かないで  井上一筒

拍手[2回]

君は日の子われは月の子顔あげよ  時実新子

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将軍・秀忠を訪ねてきた御台所・お江

≪大奥が完成するまでは、比較的に自由に将軍の部屋を行き来していた≫

「竹千代と国松」

お江秀忠との間に、二男五女を儲けた。

秀忠が家康から、「徳川家の世継ぎ」に指名されて、

将軍の座についたため、

秀忠の子として、生まれてくる男の子は、

徳川家将軍の座が、約束されることになったが、

それは悲劇の始まりでもあった。

お江が男の子を2人産んだことで、それも年が若かった分、

3代将軍の座という、

「後継者争い」が勃発したのである。 

決闘に挑む女は赤を着る  片岡加代

 

長男の幼名は、竹千代。 

後の3代将軍・徳川家光だ。

二男は、国松。 後の駿河大納言徳川忠長だ。

偶然にも、豊臣秀頼が、千姫以外の女性との間に儲けた、

男の子の名前も、「国松」だが、

豊臣家滅亡後、秀頼の忘れ形見の国松は、

京都の六条河原で、処刑されている。 

≪この国松は、茶々の孫にあたるが、お江の子供の国松も、

   家光との戦いに敗れ、お江の死後、悲運の死を遂げている≫

 

産道で会ったはずだとじっと視る  湊 圭史

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忠長使用硯箱(千姫から贈られる)

慶長11年(1606)に、お江は国松を生む。

2人の男児の親となったお江は、 

竹千代よりも、国松を愛した。

 

国松の方が、利発だったらしいが、

お福にとり、お江の寵愛ぶりは、

心中穏やかではなかった。

鬼の目がときどき水を溜めている  たむらあきこ

秀忠も、お江に引きずられる格好で、

国松をかわいがり始め、その分、 

「竹千代が粗略な扱いを受けている」

 

と、お福の目に映っていたからだ。

家臣たちも、秀忠・お江の様子を見て、 

「国松が竹千代に代わって、

  跡継ぎに据えられるのではないか」

 

と噂していた。 

ジェラシーを内ポケットにひた隠す  新川弘子

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忠長使用・葵紋入り酒の燗鍋

 

当時、竹千代と国松は、本丸御殿で生活していたが、

ちょうど、ふたりの部屋が向かい合う形で、並んでいた。

ふたりに側近く仕える近習の者たちは、

夜になると、

それぞれの部屋に、参上する決まりだったが、

国松の部屋に出向くときは、

お江からの命令ということで、いつも夜食を持参していた。 

温度差がある手のひらと手の甲と  嶋澤喜八郎

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  忠長使用・銚子

 

ところが、竹千代の部屋へ出向くときは、

夜食を持参しなかった。

お江からの指示がなかったからだが、

これでは家臣たちが、 

「国松こそが、跡継ぎになるのでは」

 

と思うのは当然だろう。

国松が家臣たちから、秀忠の跡継ぎのように扱われる一方で、

竹千代の影は、薄くなっていった。

逢いたいと青いポストに入れたとて  森中惠美子

そもそも秀忠は、

徳川家の跡継ぎとして、生まれたのではなかった。

三男である。

家康の長男・信康は、

織田信長と敵対する武田勝頼との内通を疑われ、

秀忠が生まれた年に、自害に追い込まれていた。

次兄にあたる秀康は、なぜか家康に疎んぜられていた。

実質、人質という形で秀吉の養子に出され、

その後、下総の国の名門・結城家の養子に入り、

結城秀康と名乗っていた。 
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横向いたまんまで月が痩せてゆく  森田律子

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3代将軍・家光(東京大学史料編纂所所蔵) 

≪父と母が忠長を溺愛したこともあり、家康を敬愛した≫
 

こうした徳川家の、家庭事情からすれば、

長男に生まれたからといって、

竹千代が、跡継ぎの地位を保証されたということには、

決してならない。

そして、未だ群雄割拠の時代である以上、

何と言っても、器量が優先される。

となれば、秀忠が、利発と判断した国松が、

跡継ぎに据えられる可能性は、

十分あったはずだ。

肝心なときにないのがピンセット  合田瑠美子

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大河ドラマ・「お江」-第40回-「親の心」  あらすじ

久しぶりの対面で、秀頼(太賀)が、 

「油断ならぬ器量を備えている」

 

と知り、家康(北大路欣也)は、

自分の目の黒いうちに豊臣家を滅ぼすと決める。

最後の大勝負に向けて、気力充実の家康、

精力的に指揮しはじめた。 

黒だったから目だたなかったのねきっと  山本昌乃

8c5f9f3f.jpeg      

 

一方、秀忠(向井理)は、

「徳川と豊臣が並び立つ形での太平を、
いかにして実現するか」

答えを見つけられないでいた。

だがその間にも、豊臣との戦の準備は着々と進んでいく。

秀忠が

「家康のやり方に不満をだいている

と悟った正信(草刈正雄)は、 

「ご自分の考えをお伝えされては」

 

と提案するが、秀忠は、 

「親父が耳を貸すわけがない」

 

と半ば諦め気味で、

秀忠と家康の関係は、相変わらず冷めていた。 

あのドアの向うに置いてある答  清水すみれ

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一方、江は、

8歳になった竹千代(水原光太)との関係に悩んでいた。

福(富田靖子)は、相変わらず竹千代につきっきりで、

江は竹千代に近づくことすらままならない。

ときどき顔を合わせても、

竹千代は福の側を離れず、

江もぎこちなく、声をかけることしか出来ないのだ。 

ためらいを見せて足音遠ざかる  山田葉子

 

そんな江にとって、救いは次男の国松(松島海斗)だった。

聡明で朗らかに育った国松は、

幼いながらも、悩む江の気持ちをくみ取り、

いたわりの言葉をかけてくれる。

江はおのずと、国松を可愛がるようになっていた。

転がったリンゴ泣きべそかいている  泉水冴子

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そして秀忠も、

素直に成長した国松に、目をかけていた。

子どもと触れ合うことの好きな彼にとって、 

「剣術の稽古をつけてほしい、相撲をとってほしい」

 

と求めてくる国松の態度は、うれしいもの。

いっぽうの竹千代は、

病弱なこともあり、そうした積極性が見られず、

武将として、かよわ過ぎると感じていたのだ。 

大つぶの涙ファイルの中の染み  オカダキキ

 

そのころ、江戸城内で、「世継ぎは、国松様

という噂が飛び交いはじめる。

秀忠・江の息子たちに対する思いが、

周囲に伝わった結果、
生じた噂だった。

大姥局(加賀まり子)は、噂の火消しに躍起になるが、

人の口に蓋をするのは、なかなか難しい。 

生きるってがらくた増やすことなのね  八田灯子    

一方、「世継ぎは当然、竹千代様

と考えていた福は、日増しに大きくなる噂に焦りを感じ、

ついに思い切った行動に出る。

駿府の家康を訪ね、 

「竹千代が滞りなく家督を継げるよう取り計らってほしい」

 

と訴えたのだ。

善か悪かもうすぐ火の鳥を生む  板野美子
 

拍手[2回]

確実な歩幅を男には見せぬ  森中惠美子

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大奥の襖絵下書き(国立公文書館所蔵)

大奥新御殿休息伺下絵 新御殿下段・「春の景」

「福(春日局)の教育」

「竹千代様を秀忠公の跡継ぎにする」

という信念を抱いて、

乳母・お福の「竹千代・養育計画」は、

かなり本格的なものだった。

まず、福の教育のはじめは、 

「おじいさまに学びなさい」

 

家康に学び、 

「お父さまに学びなさい」

 

とは、決して言わなかった。

お江への反抗心がそうさせたのだろう、


秀忠には、「学ぶものは、何もない」 

と言い切るのである
  

教育委員会って何するところですか  仁賀俊雄          

  

とにかく、 推測のすs

「絶対に秀忠様や大御台さまの真似は、なりませぬ」

 

と、言うのである。

お江は、自分に懐かない竹千代を、

可愛いとは思えず

また、竹千代は、そんなことで、

母・お江を敬遠するようになった。

福の思惑通りである。

次にお福は、 

「竹千代君が将軍になったときに、

  そのブレーンとなる側近を、
子供の時から教育する」

 

という方針をたてた。 

音楽ききますブルジョアの犬  鶴 彬

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   春日局化粧の間

≪埼玉・喜多院に移築されている。意外と質素な部屋だ≫

 

将来性のある武士の子を、竹千代の、

学友、遊び相手として、

竹千代と一緒に育て、躾けるということである。

選ばれたのは、

一族の堀田正盛松平信綱、阿部忠秋たち。

折々、福は、彼らを自分の部屋に招き、

菓子などを与えながら、

竹千代と遊ばせ、マインド教育に徹した。 

ゆっくりとやがて夕日に皆塗られ  小西カツヱ

 

福が求めたのは、  

「竹千代への絶対的な忠誠心」 
  
であった。

少年たちは、福の情熱的な調育によって、

この精神を体得していく。

そして、少年たちは、

徳川政権を支える、有力な閣僚になっていく。 

各停の駅に彼らの思いあり  筒井祥文

 

家康が、福に絶大な信頼を寄せていた事実がある。

家康は、 

「大名は自分の治める居城以外は持ってはならぬ」
 
という、「一国一城」のお布令を出した。

ところが、彼らだけは、例外扱いをされているのだ。

武蔵野国(埼玉)にはすでに、

一国である江戸城があるのだから、

そこに、他の城があってはならない。

だが、同じ埼玉に、彼らが城主となる忍城・川越城という、

城だけは、許されている。

家康の大いなる矛盾である。 

五つ目の信号までが全部青  河村啓子

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大権現・家康の図

≪上に、江戸城の縄張りを担当した藤堂高虎と、天海が描かれている≫

 

天下のご意見番・大久保彦左衛門が、 

「いまの幕府を動かしているのは、坊さんと女性だ」

 

と言ったことがある。

坊さんというのは、家康以来のブレーンで、

僧の天海のことであり、

女性とは、福(春日局)のことである。

将軍を育て上げることで、

福は、それだけの権力を、手にしていたのである。 

一錠をいのちの側に置いてある  たむらあきこ

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    千代田の大奥

 

「大奥」

世界史上、類をみないほどの

" 巨大なハーレム " として、知られる「大奥」。

江戸城の最奥部に位置する、この伏魔殿の

礎を築いたのは、
2代将軍・秀忠だった。

元和4年(1618)、秀忠が、

『大奥法度』を制定したことで、

江戸城の「表」が、幕府の政庁、

「中奥」が、将軍の執務場所、

「大奥」が、将軍の私邸という、明確な境界が生まれ、

この体制は、江戸城開城までの約300年続いた。 

真っ青なカンバス裂いてくる羽音  谷垣郁郎  

 

しかし、将軍だけに許されたこの " 梨園の花園  " も、

恐妻家・秀忠の時代には、

秀忠たった一度の大奥女中・との浮気を除いては、

名ばかりのものであった。

大奥が、ハーレムとして,本格的に機能するのは、

3代将軍・家光の時代になってからである。 

どの夢も獏がかじった痕がある  佐藤美はる

 

その立役者となったのが、春日局である。

彼女は、最高取締役・「お年寄り」として大奥に君臨し、

なかなか、世継ぎに恵まれない家光のために、

大奥を組織的に整備した。

そして、女性のスカウトから、

彼女たちのしつけ直し、采配にいたるまで、

大奥にまつわるあらゆることを、取り仕切り、

現在知られている大奥のシステムを、

つくり上げたのだ。 




影が姦しい女たちの晴着  板野美子

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    家光誕生の間

 

「余談-1」

竹千代は、母・お江に愛されなかったことが、

トラウマにあったのか、女性恐怖症があり、

吃音があったとも言われる。

また、春日局の教育の後遺症もあるのだろう、

女性の好みが、とても難しい人であった。

そんな環境の中に、

家光になかなか、世継ぎが出来なかった理由のひとつに、

女嫌い、イコール「男色の気」がある青年に、

育っていった裏事情もある。 

濁音が出ない熱中症のとき  井上一筒

 

強いての女性といえば、

家光は、尼僧を好んだ。

尼さんを、わざわざ還俗させて側室にしている。

家光も、「女の匂い」 がしない尼さんはだけは許せたようだ。

彼が好きになったのは、伊勢・慶光院の住職

千姫が秀頼の短冊を納めた尼寺の、

若く美しい人で、

同腹の弟のために、女嫌いの弟を心配し、

弟の尼さん好きを聞いた千姫が、

一肌脱いだということである。

この尼さんの優しさに触れて、家光は、

一丁の男になっていく。 

メール着いたかと二階へ呼んでみる  美馬りゅうこ

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    春日局

 

「余談ー2」

江戸時代初期においては、大抵の場合、

御台所は、形式上の主宰者であった。

たとえば、家光正室・鷹司孝子は、

夫との仲が極めて険悪で、

正式に「御台所」と称することのないまま、

結婚後、程なくして、

その居所を本丸から中丸に移され、  

大奥の実権は、もっぱら、「春日局」が握っていた。 

  

岸壁は笛吹く人の立見席  富山 悠

 

拍手[2回]

しゃっくりを短く曲げる銀細工  井上一筒

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「慶長10年からの4年間の出来事を描く」

慶長10年(1605)

4月
秀頼が右大臣となり、秀忠が2代将軍になった。

秀忠の将軍就任ついては、徳川家の、

「豊臣に天下を返すつもりはない」

という意思表示として、とらえられている。

しかし、これは間違った解釈である。

というのも、この時点での統治は

「二重合議制」
であって、
 

「徳川が豊臣の大老として、天下の統治を預かっている」

 

という建前は、否定されていないからだ。 

眼や鼻の置き場をちょっと間違える  中野六助

 

この年の 5月、「秀忠の将軍宣下を祝いに上洛しないか」

という家康からの打診に、茶々が怒った。 

「無理にと言うなら、秀頼と心中する」

 

などと、茶々は、息巻いた。

ただ、茶々が、怒り反対したのは、 

「秀頼が秀忠に、臣従することになるからだ」

 

と解釈するのには、多少の無理があるのではないか。 

≪のちに、二条城で家康と秀頼が会見した時も、

   いろいろな儀礼上の配慮はあったが、

   臣従といったもので、なかった例があるように・・・≫

 

パロデイーにするには中途半端です  美馬りゅうこ

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     秀 頼

仮にこの時に、秀頼が上洛しても、

公家衆と将軍が会う時と同じで、官位の高い秀頼が、

秀忠の下に位置することには、ならなかったはずである。

茶々の心配は、 

「秀頼の身に何か起きないか、

 そのまま京都とか、伏見に留めおかれるのではないか」

 

ということだった。

こうした理由で、茶々は、秀頼の上洛を毅然と拒否している。 

屋根裏を君はときどき散歩する  寺島洋子

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       淀 殿

 

その後の茶々の親馬鹿ぶりを、

推察しても分かる通り、、

茶々は、秀頼が自分と引き離されることを、

極端におそれたのだ。

このことに家康も、

「少々、刺激が強すぎた」

と思ったのか、六男・忠輝を大坂に派遣して秀頼に

拝謁させるなど慰撫につとめている。

6月 に、高台院が三本木から、高台院に移る。 

悪癖は星に行ったり帰ったり  くんじろう

 

慶長11年(1606)

3月、高次の妹・マグダレナが、若くして亡くなった。

姑のマリアは、大変これを悲しみ、

朽木宣綱を強引に説き伏せて、

京都四条に新しく完成したイエズス会の聖堂で、

器楽の合奏隊まで用意した、盛大な葬儀をおこなった。 

ソプラノもアルトもあって虫時雨  合田瑠美子

 

ところが、このことを知って怒ったのが、

またまた茶々である。

キリシタンに改宗したとは違い、

茶々は、とても信心深い仏教徒である。

僧侶たちから頼まれたこともあり、 

「家康にキリシタン禁制を強化するように」

 

と要求、片桐且元が高札を立てて、禁制を掲げた。 

≪もっとも、翌年には、秀頼の意向もあり、少し緩和されている≫

 

記憶から遠いところに置くナイフ  瀬川瑞紀

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    お江ー崇源院

6月、江戸ではお江が次男を出産する。

二男・国松である。

のちの駿河大納言忠長だ。

長男・竹千代を、お福にとられてしまったお江が、

この子を可愛がったのは、自然の成り行きだろう。

 宇喜多秀家が、関が原の戦いの後、

薩摩に隠れていたが、

島津と徳川の関係が、安定したのを機会に出頭し、

八丈島に流されることになったのも、この年である。 

手の上に手を置くやわらかい時間  片岡加代

 

慶長12年(1607)

家康、富士山が美しく見える駿府城に引っ越す。

家康が江戸城に滞在した時期は、それほど長くなく、

将軍になってからも、

秀忠に将軍を譲り大御所になってからも、

伏見城に住んでいた。

実務も秀忠が行うようになり、

江戸と連絡を取りやすくするための、手段でもあった。 

≪家康が江戸に近く住むのは、江には煙たがったが・・・≫

 

倫理観少し削って生きてみる  高橋謡子

この頃、茶々が京都近辺に盛んに、社寺を造営する。

特に、高台院の頼みでもある北野天満宮は、

今も残る華麗で、見事な権現造りなものになっている。

これらは家康が、

「豊臣の財力を減らす目的」 があったものだが、

かえって、豊臣の人気をあげることとなり、

家康にとっては、忌々しいことになってしまった。

そして 10月 には

お江が五女・和子(東福門院)を出産する。
 

万緑の中で虫歯がうずきだす  三村一子

 

慶長13年(1608)

大坂・夏の陣のあとの、慶長20年5月、

8歳の少年が処刑された。

秀頼の隠し子で、この年に生まれた” 国松 "である。

秀頼が16歳のときの子供で、

秀頼が成人したところへ、お側につけた女性が、

妊娠してしまったのだ。

 この年の 2月、秀頼が疱瘡にかかった。

「北野天満宮造営の功徳で助かった」ということで、

秀頼も,多くの社寺の造営をはじめた。 

反省のドアを閉めたり開いたり  小西カツヱ

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     高 台 院

 

慶長14年(1609)

8月高台院の兄であり、

小早川秀秋の父でもある木下家定が死ぬ。

その遺領をめぐって、騒動が起こった。

当初、勝俊・利房兄弟で折半して、

相続することになっていたのだが、

高台院が、お気に入りの勝俊に,

「すべて継がせるよう」 に命じた。

それを聞いた家康が、自分に相談もなく、

そんなことを命じた高台院を、 

「耄碌している」

 

と罵倒し、木下家を取り潰してしまった。 

≪いわゆる家康と高台院の親密度は、この程度のものということか≫

 

その向こうはジンベイザメの領分  山口ろっぱ

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     初ー常光院

5月3日、初の夫・高次が47歳の若さで亡くなる。

京極家は、長男・忠高が跡を継いだ。

夫を亡くし、剃髪して「常高院」となった初は、

夫・高次の菩提を弔いつつ、関が原での心痛を胸に、

徳川・豊臣両家の「和睦の使者」となるべく、

懸命に奔走した。
 

「淀と江の絆をつなぐのは、自分しかいない・・・」

 

その一心で、女の身でありながら、

両家の間を行き来する。

ただひたすら姉妹の絆を保つため、

身を呈して戦国の世を駆けたのだ。

この年、秀頼の姫が生まれている。

のちの天秀尼である。 

うつくしく跳べたら昆布茶を飲もう  田中博造

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大河ドラマ・「お江」-第39回-「運命の対面」  あらすじ

秀忠(向井理)が、

征夷大将軍に就任すると、

江(上野樹里)

" 御台所 ”
という敬称で呼ばれるようになった。

大姥局(加賀まりこ)は、江に、釘を刺す。

「武家のおなごでは日の本一である御台所として、

  ふさわしく振る舞うよう」 と。

江としては、我が子・竹千代(橋爪龍)を、

好きな時に抱くこともできないのに、

「何が日の本一じゃ」 という思いだった。 

価値観の違い空気になれませぬ  山本昌乃

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ともあれ、江は、武家の女性の頂点に立ったのだ。

やがて、江は2人目の男子・国松を産む。

またもや、男子を授かった徳川家は、

竹千代をめぐる江と福(富田靖子)の確執こそ、

続いていたものの、

まず順風満帆といってよかった。 

それからは川の流れにゆだねてる  杉野恭子

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一方、淀(宮沢りえ)は、国松の誕生を知り、

豊臣家の当主・秀頼(太賀)に、

まだ世継ぎがいないことが、気になりはじめる。

徳川家が支配体制を固めていく中で、

豊臣家の威光を保つには、

できるだけ早く、世継ぎをもうけるべきではないか。

悩んだ末、淀は秀頼に側室をとらせる。 

掌の黒子は北斗七星より自由  蟹口和枝

 

正室の千(芦田愛菜)は、

子を産むにはまだ幼すぎたのだ。

だがこの措置は、江に、 

「娘と思って育てる」

 

と約束して迎え入れた千の心を、

傷つけてしまいかねないもの。

淀は、徳川家への対抗心から、

非情な決断を下したのである。
 

遺伝子の部品ひとつが足りません  清水すみれ

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家康(北大路欣也)は、そんな淀をさらに追い詰める。

京に上る自分に、

「挨拶すべし」 と秀頼に上洛を求めたのだ。

それは明らかに、豊臣家を下に見ての要求だった・・・。

加えて家康は、新将軍・秀忠の名のもと、

新たな江戸城の普請と、江戸の町づくりを諸大名に命じ、

徳川幕府の力を天下に見せつける。 

安定剤が寒い畳を転がって  森中惠美子

 

秀忠は、なんとか豊臣家との融和を図ろうと、

完成した城には、家康に入ってもらい、自分は、 

「江とともに大坂に近い伏見城に移りたい」
 
と主張するが、家康は息子の甘い考えを一蹴。

そのうえで、自分はなじみのある駿府に城を築き、

そこで、隠居すると言い出す。 だが、

隠居が表向きのことであるのを、秀忠は見抜いていた。

家康は、江戸と大坂の間にある駿府で、

双方ににらみをきかせながら、

政治の実権を、握り続けるつもりだったのだ。 

自分らしさの裏も表も見せている  森 廣子

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一方、関が原戦いでの功績により、家康から、

若狭国の城主・高次(斎藤工)初(水川あさみ)は、

若狭小浜で、以来、平穏に暮していた。

だが、そんな2人の幸せな暮らしに、終りが訪れる。

高次が病に倒れ、初の献身的な看病もむなしく、

世を去るのだ。 

生涯の一誌ありけり天の川  大西泰世

 

死の直前、関が原の戦いで、

結果的に豊臣家を裏切る形となったことを、 

「今も申し訳なく思っている」
 
と明かした高次。

その思いが、

夫亡き後、落飾して「常高院」と号する初の人生に、

大きな影響を与えることになる。 

こころが疲れたら物置きに閉じ籠る  新家完司
 

 

拍手[4回]



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