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川柳的逍遥 人の世の一家言
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地下道を出よう欠片になる前に  くんじろう

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慶長5年9月15日の関が原合戦の模様

≪家康の本陣には、

 「厭離穢土、欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)の旗が立っている≫

「関が原の火種―上杉景勝の事情」

上杉景勝は、秀吉が亡くなる年に、

越後から会津に移ったが、
すぐに上京することになったので、

新しい領国内の整理が不十分だった。

そんな事情のところに、

越後には堀秀治との紛争を抱え、

南の宇都宮には蒲生、北東の岩出山には、

伊達という旧領主が、
領主不在の不安定な上杉の領地を、

虎視眈々と狙っていた。

加えて上杉家は、大幅に領地が増えたため、

新しく家臣を抱え、領内運営のために、

公共事業を、起こさねばならない事情にあった。

大きく振り被った次の音  蟹口和枝

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  直江兼続

そこで上杉家家老の直江兼続が、

若松の北方にある「神指原」というところに、

大きな城の工事を始めた。

景勝や兼続の動きを封じたい家康は、こことばかりに、

景勝らの行動を非難すると同時に、

書状をだして釈明を求めた。

しかし、兼続は、これを拒否。 

「武器を集めるのは、茶碗を集めるようなもの。

 上杉を疑う徳川にこそ、企みがあるのでは」

 

同時に、兼続は挑発的な返答で切り返した。

世に言う「直江状」である。

底辺は天の不正を許さない  森廣子            

兼続のこの自信は、どこからでてきたものか。

それは、兼続が秀吉から、

「羽柴」・「豊臣」の姓を、名のる事を許され、

米沢で、30万石を与えられていたからだ。

石田三成が19万石だから、

秀吉の兼続待遇と信頼は、破格である。

こうした、これまでの秀吉の恩義に応えるべく、

兼続が、家康の最近の胡散臭い態度に、

注射をうつものだった。

俎が立ってきゅうりが正座する  森 茂俊

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  自信に満ちた兼続像

いろいろと上杉に難癖をつけ、家康は、 

「景勝は逆賊、謀叛の恐れあり」

 

として、秀頼に上杉討伐を申し出、会津へ向けて出発する。

これには、家康の計算があった。

≪自分が戦地に赴いている間に、

   三成に「反・家康軍」を組織させる時間を与え、

   それを粉砕することで、

   天下の覇権を一気に握るという、思惑があった。

尻尾振りチャンス待って居たんだね  中井アキ

「慶長5年7月17日、針は関が原を向いて」

家康は、
下野国(しもつけのくに)小山まで来たとき、

「石田三成挙兵」の知らせを受けた。

その際、家康は一芝居打つ。

随行した将を集め、

「三成に味方する御仁は、遠慮なく陣払いするがいい」

といい放った。

すると豊臣恩顧の福島正則が、

「家康につく」と宣言したことで、

大名たちは続々と、徳川の味方についたのである。

うず潮の円周率に乗ってみる  和田洋子

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そこまでは、家康の思惑通りだったが、

予想外だったのは、

三成が、8万強という大軍を組織したことだった。

狸の家康に対して、狐・三成も、したたかに動いていた。

7月に、盟友の大谷吉継を佐和山城に招き、

家康打倒の計画を打ち明けた。

そして、かねてより示しあわせていた毛利輝元が、

大坂城に入って、総大将に決まり、

奉行らから、『内府違い』の檄文が送られていた。

炎沈めて黒はいよいよ黒となる  太田のりこ

そして、小早川秀秋を総大将にした軍勢が、

家康の留守居だった鳥居元忠が籠もる、

伏見城への、
攻撃を開始した。

細川藤孝(幽齋)の田辺城にも、攻撃をしかけた。

こうして、迎えた9月15日、

家康率いる東軍・7万4千は、

三成率いる西軍・8万4千と美濃・関が原で衝突する。

八起き目は笑いの渦の中である  和田洋子

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大河ドラマ「お江」・第36回-「幻の関が原」  あらすじ

天下分け目の戦いとして知られる「関が原の戦い」は、

茶々、初、江の三姉妹が、

敵味方に分かれた合戦でもあった。

当時、茶々は大坂城、

初は大津城、

江は江戸城にいた。

片方の耳はあしたに取ってある  石部 明

決戦が迫る中、近江・大津城の高次(斎藤工)は、

一旦は三成方として出陣しながら、

突然城へ戻って、守りを固め、

今度は、家康(北大路欣也)につくという、

綱渡りを演じてみせる。

これに激怒した三成(萩原聖人)は、

すぐさま大軍を差し向けて、大津城を攻撃。

悪いのはみんなあんたと低い声  佐藤正昭

38662578.jpeg     

初(水川あさみ)は、3度目の城攻めを経験することになる。

甲冑に身を包み、必死に城を守る初。

とそこへ、淀(宮沢りえ)高台院(大竹しのぶ)の意を受けた、

大蔵卿局(伊佐山ひろ子)孝蔵主(山口果林)が、

大津城にやってくる。

「和議を結べ」と説得にきたのだ。

のたうち回ってる 確かめあってる  前中知栄

その後、豊臣秀頼を擁し、家康打倒を掲げて挙兵した三成は、

主に西国の諸大名からなる軍勢を、

東に向かわせ、対する家康は、

三成に反感を抱く豊臣恩顧の諸大名を、

西に向かわせた。  

≪まず福島正則たちは、城主・織田秀信の岐阜城を陥落させる。

    三成の出鼻を挫くが、浅井三姉妹にとり、

    秀信の父・織田信忠は従兄弟にあたる≫

  

陽炎が人の形になるよすが  蟹口和枝

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家康は、秀忠にも、出陣を命じた。

徳川軍の先鋒隊として、

秀忠(向井理)は、3万8千の総大将を任された。

江は出陣前の夫に、信長から市に、

そして今は、江の手に渡った

「天下布武」の印判をお守りとして渡した。 

マタタビのエキスを目薬に混ぜる  井上一筒

 

岐阜城陥落後、家康自身も、東海道を西に向かい、

決戦の地・関が原を目指す。

秀忠は、中山道を西に向かった。

家康が徳川家の当主だったが、

徳川勢本隊を率いていたのは、秀忠の方だった。 

大将軍鎧の下は蚊の心臓  ふじのひろし

 

その頃、近江佐和山城の三成も動き出していた。

豊臣政権の5大老の1人で、

家康に唯一対抗出来る大大名の、毛利輝元を総大将に仰ぎ、

大坂城本丸にて、西軍の軍議が開かれた。

三成の反乱を下野の地で知った家康は、

小山で評定を聞き、

結城秀康を上杉の抑えに残して、

全軍、引き返すことにした。

足どりが弾む獲物の匂いする  三村一子

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上田城大手門で衝突する秀忠隊(白)と真田隊(赤)

中山道を進む秀忠隊は、

東海道を行く家康隊と、美濃で落ち合う予定だった。

だが、兵を進める秀忠の前に、

戦上手で知られる信濃・上田城の真田昌幸(藤波辰爾)、

幸村(浜田学)親子の抵抗に遭い、

無駄に時間を費やしてしまい、

また、大雨の泥濘で行軍は遅々と進まず、

関が原の戦いに、間に合わなかった。

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秀忠が、関が原に到着したときには、

既に5日も前に、東軍の勝利で決着していた。 

中程で仏間がしてる生欠伸  岩根彰子

 

拍手[5回]

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青空を回せば僕の逆上がり  前中知栄

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       彦根城

≪大津城から移築されたといわれる三重の天守がそびえる≫

「初が驚いた夫の寝返り」

初の夫・京極高次は、はじめ三成派(西軍)についていた。

弟の高知は会津攻めに、すでに加わっていたが、

遅ればせながら高次は、三成が挙兵にあわせ、

大谷吉継らと、関が原に向かった。

ところが、

「岐阜城が落ちた」

「家康がいよいよ動き出した」

と、
いった中で、西軍から、 

「大津城を明け渡してもらって、使いたい」

 

という申し入れがあったのを機に、

高次は、 

「これ以上踏み込むと取り返しがつかなくなる」
 
と、思ったのか、湖北からこっそり大津城に戻って、

突然、「東軍に参加する」ことを宣言したのだ。 

風の男に女は念を押すばかり  森中惠美子

 

「運を天にまかすしかない」

というのだから、

高次には、よほど腹をくくってのことだったことなのだろう。

これには、おっとりがた初も驚いた。

しかも、高次は、 

「この戦いは内府(家康)さまの勝だ」 

 

だといいきる。 

一大事明日がどこにも見当たらぬ  岩田多佳子
 

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     京極高次

会津に行く途中に立ち寄った家康は、高次に、

「味方に」と懇々と頭を下げて頼んでくる。

そして、 

「佐和山城にいる三成が、妙な動きをしたら教えてほしい」

 

と、こころを割って話してくる。

それにひきかえ、三成は、

もともとは、京極家の家臣の出身にかかわらず、

日ごろから態度が悪く、今回も何も言って来ない。

高次のどちらに付くかの結論は、

その印象だけで決まっていた。 

つらいのはお互いあの日からである  杉本克子

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初もこうなっては、

小谷城や北の庄城での経験を思い出して、

一緒に戦うしかなかった。

初は、姉(茶々)と妹(江)の板挟みになることを、覚悟した。

大坂から説得の使者が来るが、高次は会わない。

夫が出陣した後、三成から, 

「城を明け渡して欲しい」 

 と申し出てきた。

だが、初は身体を張って断固として断った。 

コンニャクの隣に肉は座らせぬ  岩根彰子

 

いよいよ西軍は毛利元康を大将として、

立花宗茂、筑紫広門らの1万5千の兵が、

城を攻めはじめ、園城寺境内の高台から、

大砲を打ち込んでくる。

当時の大砲の玉は、ひょろひょろと飛んでくるものだから、

近在の町民は、これを見物しながら、 

「当るかどうか」

 

賭けたという。 

≪戦が始まる前に高次は、大津の町を焼き払ってしまったものだから、

   町民の間では、高次の評判はさんざんで、

   願いとして、「高次負け」方に賭けた人が多かったらしい≫

 

一言のジョークで悲劇から喜劇  牧浦完次

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城内では、

武闘派の赤尾伊豆山田大炊が出撃して、

攻め手をさんざん手こずらせたが、

二の丸が破られ、本丸だけになってしまう。

ついに砲弾が、京極竜子の近くにも落ち、

侍女が2人、木っ端みじんに砕かれて死んで、

竜子は気絶をしてしまった。

戦いは9月8日から14日まで続いた。

北政所から孝蔵主が来て、竜子を助けるためにも、

「開城を」といってくる。 

海のほう海のほうへと傾ぐ首  八上桐子

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これには、さすがの高次も、 

「これ以上頑張っても落城しかない」 
 
と悟り、
渡りに船とこれを受け入れた。

大津城に籠城し、毛利軍、立花軍の猛攻に耐え、

結局、落城するが、高次が毛利軍を足止めした働きは、

東軍勝利の要因ともなった。 

右足をあの世に出して失格に  筒井祥文

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この戦いは、「大津城籠城の戦い」として名が残る。

 

敗戦の将・高次は剃髪して、

宇治から高野山に向かい、

初と竜子は京都に引きあげた。

ところが、大津の城を開城した翌日に、

「関が原決戦」がはじまり、

一日で東側が勝利することとなる。

木漏れ日へピカソ逆立ちしてました  岡本久栄

拍手[3回]

男の罪を風の罪だと思わねば  森中惠美子

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ガラシャと小笠原秀清(槍)と河北石見

「ガラシャの死」

細川ガラシャ(珠-タマ)は、永禄6年(1563)、

明智光秀の三女として越前国で生まれた。

文化人でもあった父の教育を受け、

聡明で美しい娘へと成長した珠は、

15歳で信長の家臣・細川忠興のもとに嫁いだ。

忠興とは、たいへん仲睦まじい夫婦であったが、

平穏な日々は長くは、続かなかった。

自画像のたそがれ華が欠けてくる  たむらあきこ

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珠が幽閉された味土野の山を望む遺跡

父・光秀が本能寺で主君・信長を討ち、

珠は、「逆臣の娘」の烙印を押されることになる。

そして、夫・忠興が羽柴秀吉側についたため、

本来であれば、離縁されるのが当然のところ、

珠を愛していた忠興によって、

丹後の山奥に味土野(みどの)に幽閉されることとなる。  

≪このとき、腹に子を宿していた珠は、男児を産む。 細川忠隆である≫

  

”身を隠す里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥鳴く”

                        *(呼子鳥が何の鳥か解っておりません)

帯封を切って戻れぬ向こう岸  加納美津子

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2年に及ぶ幽閉が解かれ、

大坂の細川屋敷に戻ることが出来たが、

そこに彼女を待ち受けていたのは、

忠興が側室を置いているという事実だった。

そのような辛い日々が、

彼女をキリスト教に向かわせたのだろう。

忠興が秀吉に従って、九州征伐に出向いている間に、

珠は洗礼を受け、「ガラシャという洗礼名」を授けられた。 

≪それを知った忠興は、執拗に棄教を迫ったとされるが、

   彼女の信仰が、揺らぐことはなかった≫

 

まどろみは浮世ばなれになっていく  山本昌乃

秀吉の死後、忠興は苦境に立たされる。

東西決戦の開幕だ。

こうした時、東西のどちらにつくか?

秀吉には妻の命をとらなかった寛大な恩がある。

また嫡男・忠隆が前田利家の娘婿だったこともあり、

家康から警戒される一方、前田利長の屈服後は、

加増を受けるなどして、取り込まれていたのだ。

風に従うほかはなかった。

「ガラシャの辞世」とされている句は、この時を歌っている。 

”ちりぬべき時知りてこそ 世の中の花も花なれ 人も人なれ”

 

「死なねばならないとしたら、

 その時に向かって、人生を全うして無駄に過すな。

 そして桜の花のように 散ってこそよいのです」

と関が原決戦の直前に、細川忠興の妻として、

夫を励ましている。

コロン一滴さっぱり捨てて始発駅  荻野浩子

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   田辺城の石垣跡

忠興と嫡男・忠隆が会津遠征中、

留守をあずかっていた忠興の父・藤孝(幽齋)は、

本拠の宮津ではなく田辺城(舞鶴)に籠城した。

そして、さんざん西軍をてこずらせたあと、

「古今伝授」の廃絶を心配した後陽成天皇の仲介で、

子も命も失うことなく、開城された。

あしたを唄うのど飴は買ってある  奥山晴生

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが勃発する直前、

夫が徳川方につき、上杉討伐のため不在となったすきに、

伏見の細川屋敷にいたガラシャは、

「人質に」と考える西軍・石田三成の襲撃を受けた。

人質になることを拒んだ彼女は、自害を余儀なくされる。

キリシタンの教えでは、自害を禁じている。

彼女は、自らの身の処し方をどのようにするか、

神父・グネッキ・ソルディ・オルガンティノと相談し、

三成の使者が来ると、侍女たちを退去させ、

邸内の礼拝堂にこもって祈り続けた。 

俄雨隣の布団水浸し  馬杉としこ

 

その翌日、実力行使に出た三成の兵に屋敷を囲まれると、

ガラシャは家老・小笠原秀清河北石見を呼び、

槍で胸を貫かせた。
 
家臣らは、ガラシャに首を切り落とした後、

その遺骸を絹衣で覆い、火薬をまいて全員自害し、

細川邸は火の海と化した。

キリシタンとして、夫に仕えた最期であった。 

”先だつは同じ限りの命にも まさりておしき契と知れ”

 

すすり泣く帯は運河へ捨てにゆく  赤松ますみ

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細川邸屋敷跡(大坂玉造)

こうした結果に対して、かねてから忠興は、

舅の藤孝らと、
その手はずを整えていたようだ。

忠興が、ガラシャを愛してなかったわけではない。 

「敵の人質にされるくらいなら、殺したほうがましだ」

 

という、少し歪んだ愛情だった。 

なにしろ、ガラシャの姿を垣間見ただけで、

庭師を殺したという忠興である。

 

着脱の善意の仮面持っている  岩根彰子

一方、忠隆の正室の千代は、逃げ出して無事だったが、 

「なぜ、ガラシャと運命をともにしなかったのか」

 

と忠興からなじられた。

このとき、妻をかばった忠隆は、廃嫡されてしまった。 

泣き言はお止し湿度が高くなる  オカダキキ

 

ガラシャの死の数時間後、

神父は、細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、

堺のキリシタン墓地に葬った。

忠興はガラシャの死を悲しみ、

慶長6年、オルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して、

葬儀にも参列し、

後に遺骨を、大坂・東淀川の崇禅寺へ改葬した。

涙ぐむ小さな小さな草の花  時実新子

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    勝竜寺城正面          細川忠興・ガラシャ像

忠興とガラシャが、

盛大な結婚式を挙げた場所でもある勝竜寺城は、

670年(1339年築城)の歴史があります。

JR長岡京駅東口から南へ、ガラシャ通りを歩いて約8分。

阪急・長岡京市駅からは、約12分で行けます。

谷垣郁郎さん主催の「川柳・たけのこ」は、

この長岡京で開催されています。

句会に寄られる前に、ガラシャの歌心の注入に、

一寸覗いて見られたらいかがでしょう。

入場無料です。場所ー京都府長岡京市勝竜寺13-1。

仏壇へ買った金魚も供えとく  谷垣郁郎

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大河ドラマ「お江」・第34回‐「姫の十字架」 あらすじ

迫りくる決戦は、徳川や豊臣の者ばかりではなく、

多くの人々の運命を変えていく。

いよいよ戦が迫り、江(上野樹里)には、

徳川と豊臣の関係のほかに、

もう一つ気がかりなことがあった。

それは、

上杉攻め先鋒の総大将を勤める夫・秀忠(向井理)のこと。

彼女には、夫が「戦に向いていない」と分かっていたからだ。 

アツアツの平行線を信じきる  前中知栄

 

そこで江は、今度の戦に不安はないか?

思い切って秀忠に聞いてみる。

すると彼は、驚くほど素直に、 

「自分が戦嫌いである」 

 こと、 

「徳川の跡取りであるがゆえ、戦をしなければいけない苦悩」

 

を打ち明けた。

そして、

「討ち死にすれば二度と戦をせずにすむ」

とまで言い出す。

夫が始めて、真情を明かしてくれたことがうれしく、

勇気を得た江は、秀忠に大胆な提案をする。

菜の花畑終日割箸割れる音  岩田多佳子

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三成方と家康方の間に位置する交通の要衝、

近江・大津の地では、高次(斉藤工)、初(水川あさみ)、

そして龍子(鈴木砂羽)が、 

「家康と三成、どちらに組みするか」 
 
決めかねていた。

いざという時には自分信じよう  嶋澤喜八郎

家康は会津へ向かう道すがら立ち寄り、

事が起きたら、「自分に味方するよう」念を押していった。

だが、その家康が、天下を奪おうとしているのなら、

彼につくことは、恩ある豊臣家への裏切りとなる。

悩む初たちに、

残された時間は少なかった。

振りきれてしまうあしたを指す磁石  高島啓子

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また、家康につくことを明らかにした

細川忠興(内倉憲二)
・ガラシャ(ミムラ)は、

大坂の屋敷で、三成の兵に囲まれる。

三成は、家康方についた大名の妻子を、

人質にとろうとしていたのだ。

しかし、ガラシャは、

自分のために夫が、存分に働けなくなる
のを良しとせず、

事態を収めるため、

ある悲壮な覚悟を決める。

千手観音とジャンケンして笑う  井上一筒

拍手[4回]

城一つ伸びゆく街の灯を見つめ  金子呑風

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大奥での御台所・お江が描かれた錦絵

≪慶長10年(1605)秀忠が2代将軍に就任。

  32歳にして江は、ついに徳川家の御台所となった≫

「江戸城」

秀忠との結婚生活を、伏見で始めたお江は、

婚儀から2年後の慶長2年(1597)に、

豊臣秀頼の妻となる長女・千姫を産む。

その後、生活の場を徳川家の居城・江戸城に移し、

ここに約30年にもわたる、江戸での生活が始まる。

そして江にとって、

江戸城が、54年の波瀾の人生を終える城となる。

石垣を積む一本に骨の音  通 一遍

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東御苑に残る「天主台石垣」

当時の江戸城は、徳川家が天下人となり、

幕府を開いた後の江戸城とは、まるで違っていた。

まず、天守閣がなかった。

江戸城が将軍の居城として面目を一新するのは、

秀忠が将軍に就いてからだった。

慶長9年(1604)に、江戸城増築の方針が打ち出されるが、

実際に工事が始まったのは、

秀忠が将軍に任命された慶長10年のこと。

工事は将軍が住むべき本丸から始まった。

その年、9月に本丸が完成。

慶長12年(1607)に、天守閣が完成する。 

城跡に佇つと聞える鬨の声  有田晴子
 
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      本丸(模擬)

そもそも、徳川家の当主である家康は、

豊臣政権の五大老筆頭として、上方にいることがほとんど。

そのため、江戸城は後継者に擬せられていた秀忠が、

預かる城になっていた。

天下人になった後も、家康は江戸城よりも、

駿府城にいることが多く、終焉の地も駿府城となる。

風生まれ命育む懐へ  合田瑠美子

秀忠は、二代将軍ではあるが、

”将軍のお膝元・江戸” とは事実上、

秀忠の時代に始まるのだ。

お江は、徳川最初の「御台所」として、

上方に行くことも多かった秀忠の留守を、守ったのである。

江戸城とは、

秀忠とお江によって礎が築かれた城だった。

点滅が止んで完成した私  西恵美子

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   「伏見城縄張図」

秀忠の将軍職を祝うため諸大名はこぞって伏見城に登城した。

秀忠が伏見城に朝廷からの使者を迎え、

将軍に任命されたのは、慶長10年(1605)のことである。

”御台所お江” が誕生した年でもあった。

家康の在職期間は、わずか2年に過ぎなかったが、

秀忠は元和9年(1623)まで、約20年間にわたり在職する。 

生きてゆく踏んだり蹴ったりされながら  籠島恵子

 

その間、秀忠は父・家康の路線を維持し、

開府まもない江戸幕府の基盤を、強化することに心血を注いだ。

将軍親政の体制を整え、

「武家諸法度」や「公家諸法度」など、

”幕府統治の根幹に関わる諸法” を定着させたのは、

秀忠の治世であった。

強がりを言ってしまったあほやなあ  新川弘子

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   「皇居東御苑」

≪皇居東御苑は、当時の本丸・二の丸三の丸を中心とした地域で、

    面積は約21万㎡。西の丸(下部囲み左は現在の宮内庁)≫

「恐い妻お江」

2人の正室と15人の側室をかかえた家康の息子でながら、

秀忠は江、一筋。

絵に描いた”恐妻家”として知られている。

お江は、続けざまに3人の子供を産んだが、

みな女子である。

後は世継ぎの男子を生むことだ。

お江は、秀忠を責めたてた。

偉大すぎる父の遺産をどう守るか、

それは胸が苦しくなるほど、難しいことだった。 

「自分にその資格があるのだろうか」

 

秀忠は自問自答の日々だったが、

いつも、お江が後押ししてくれた。 

「能ある鷹は爪を隠すといいます。

  殿さまはじっと周囲を見て学ぶのです」

 

お江の言葉は、胸に響いた。 

虚と実に揺れる女の息づかい  茂本隆子
 
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 ≪皇居東御苑「大奥跡」≫

≪今は広場になっている。奥に天主台を望む≫

その後、珠姫の誕生から、

御水尾天皇の中宮となる和子(まさこ)まで、

お江は、徳川家で2男五女の子宝に恵まれ、

江戸のシンデレラストーリーを描いていくのである。 

ゼブラゾーンを埋め尽くす蛇である  井上一筒

「江と秀忠の子供」 

長女、 千姫(1598) (豊臣秀頼に嫁ぐ)
次女、 珠姫(1599) (加賀藩三代藩主・前田利常正室)
三女、 勝姫(1600) (越前国福井藩主・松平忠直正室)
四女、 初姫(1603) (姉・初の養女になる)

長男、 5人目にして待望の男児誕生(1604)。 竹千代(家光)である。
次男、 秀忠が恐妻・江の目を盗んで出来た異母弟・保科正之
三男、 国松誕生(1606) (後の忠長)異母弟保科正之
五女、 和子(1607)  (東福門院)

 

もういいじゃないかと思うまで産んだ  藤井孝作 

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     保科正之

「秀忠・次男・保科正之について」

秀忠はお江との間に、二男5女を儲けたが、

お江以外の女性との間に生まれた子供は、

記録上は、男の子2人だけである。

それも密かに手を付け、妊娠すると御殿から出してしまった。

それだけお江の目を恐れたわけだが、

秀忠の乳母の侍女・お静の方が生んだ、

幸松丸という男の子こそ、

後の会津藩主・保科正之である。 

噴火する予兆か妻が黙り込む  上嶋幸雀

 

もう1人の男子・長丸は、家光誕生の前に生まれ夭折するが、

その母も侍女の身分であったとおもわれる。

その他、大橋局という、お江の侍女の名前が知られている。

大橋局との間には、子供はできなかった。

秀忠の女性関係は、

侍女などの範囲に限られていたようだ。

真ん中を目指せば嘘のない自分  森田律子

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       江の像と遺品

江は秀忠が浮気をひた隠しにせねばならないほどの、

”鬼嫁”だったのだろうか。

夫婦の実像は、想像するしかないが、

ともあれ、夫婦の仲のよさを証明するかのように、

江は次から次へ子を産んだ。

江は母のに似て、子を宿しやすい体質だったのだろう。  

子づくりのためという、側室を持つ口実を、

秀忠に与えなかったのだ。

  

にこにこと攻めてくるから恐ろしい  嶋澤喜八郎

enngyo.jpg  三田村鳶魚

『余談』

従軍記者として日清戦争にも参加し、

報知新聞記者などを経て、江戸風俗や文化を研究。

「江戸通の三大人の1人」と、いわれる三田村鳶魚(えんぎょ)が、 

「お江は、25歳から35歳までの10年間に、

  男女7人の母になった。

  この分娩と妊娠とを勘定してごらんなさい。

 その忙しいこと」

 

と、芸能ルポの如、やや皮肉を込めて「お江」を評している。

三田村鳶魚・・明治3年、東京八王子生まれ。

歴史考証家・随筆家として、

「御殿女中」「江戸ッ子」「大衆文芸評判記」の著書がある。

囁いてごらん覗いてみてごらん  河村啓子

拍手[3回]

四隅から四角四角となじられる  酒井かがり

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           三献の茶

「三献の茶」は、江戸時代に入ってからの記録で、

三成という人物を語る上での、創作(つかみ)なのだろう。

いわゆる、14歳にして三成がいかに、聡明で、

「計算の出来る人物」であったか。

それを如実に語っているエピソードなのだ。


すみません藁がお邪魔をしています  松山和代

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「石田三成」

武断派(尾張衆)と文治派(近江衆)。

戦国時代の諸将には、二つのタイプがある。

豊臣秀吉の家臣団の場合、

前者の代表は加藤清正、福島正則

後者の代表といえば石田三成になる。

合理性を重んじ、管理能力に優れ、ときには冷徹非情な官僚。

三成には、そんなイメージがつきまとう。 

蟲一匹殺さぬような顔をして  武曽晴美

 

秀吉が、長浜城の城主となったころから小姓として仕え、

秀吉の台頭とともに、側近として、三成も頭角を現していった。

秀吉軍が強かったのは、

彼が背後で兵站(へいたん)を担ったからといわれ、

世に名高い「太閤検地」も、三成が実質的な推進者であった。 

風除けに辞書がいっぱい積んである  足立玲子

 

秀吉の死後、側室・淀殿、その子・秀頼をかつぎ、

徳川家康に対抗したが、

関が原の戦いに敗れ、

大坂や堺を罪人として、引き回されたあげく、

家康の命により、

京都の六条河原で斬首された。

しあわせをつかみ損ねた木綿糸  森中惠美子

捕らえられたときに、

「なぜ自害しなかったのか」

と問われ、 

「何としても生き延び、家康を討ち滅ぼし、

  秀吉の大恩にむくいるため」

 

と答えたという。

最後まで、秀吉の忠義に生きたのが、

三成という人物だった。 

枯葉舞う古武士の骨の音をして  岩根彰子

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「三成がなぜ嫌われたか?」

秀吉死後、五大老が、相談をした上で、

まず決めたのが「朝鮮からの撤兵」であった。

この差配を見事にやってのけたのは、三成であった。

三成のいつもながらの綿密な計画なくては、

多くの武将たちも、

無事に帰ることが帰ることが出来なかっただろう。

いわば、三成は命の恩人のはずなのだ。 

喋らなければメッキだなんてわからない  八田灯子

 

しかし朝鮮から、

命からがら逃げ帰ってきた武断派の大名たちは、

それまで、軍監として厳しい勤務評定をし、

また、いささか尊大な態度で諸将を迎えた三成に、 

良い感情を持たなかった。

また彼らには、自分たち武断派の活躍があってこそ、

「秀吉は天下をとれた」のだという自負があった。

三成は、戦場での功名という点では二流・三流である。

それなのに三成は、

重用されすぎてきたという屈折した思いが、

 

武断派にはあったのだ。 

おおかたは水分愛も憎しみも  嶋澤喜八郎

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博多の港で、加藤清正を迎えたとき、三成は、 

「ご上洛なされましたら、茶会でも開き、

  おのおのがたをご招待しようと思っております」

 

と言ったところ、 

「われらは長年朝鮮に在陣して苦労し、

  兵糧一粒とて無く、
内地でぬくぬくしておったそこもととは違い、

  茶など持たぬゆえに、
冷え粥ででももてなそうか」

 

といい放った。

人格を計る目盛が酒にある  長野峰明

三成は,朝鮮遠征について、

現地の武将の中でハト派の、小西行長宗義智と近く、

タカ派の清正らとは、意見の違いがあった。 

≪いわば、現代に置き換えてみると、

 三成は会社の総務部長のような立場の人で、

 外交側の立場の人は、営業でひたすら歩き汗水流して、

 仕事をこなしているのに拘らず、

 総務側の立場から、業務のチェックやら、交際費の使いすぎや、

 業務計画をうるさく、こまかく、言われてはたまったものじゃないのだ。

 どうしても、嫌われる仕事をしているのが、総務部長・石田三成なのだ≫

 

おたふくを数える役がぼくの役  井上一筒            

戦いが終わったら、

総務部長は、戦場で臆病だったり、軍規に反した者を処罰し、

功があった者には報いねばならない。

良い報告をしてもらった者は、当然と受け止め、

悪く言われた者は、深い恨みとなる。

しかも、「朝鮮の役」では、

新たに獲得した領土はなかったので、

軍監に悪く報告された者の領土を削って、

功があった者に、配分することになる。 

≪このときの軍監は三成に近い、福原長尭(ながたか)らであった≫

 

内ばかり守り外から攻められる  百々寿子

つまるところ、秀吉が自分の死後にも引き続き、

政権の屋台骨を担がせようとした三成に、

こんな「汚れ役」を兼ねさせたのが、間違いだった。

また、家康が目指した国家像と、

三成が考えていた国の将来像にも、

かなりの違いがあったことも、

確認しておかねばならない。 

相槌をうつたび敵を作ってる  立蔵信子

 

家康は、この「豊臣家臣同士の対立」を利用して、

一気に権力を握ろうと画策し、

武断派大名を懐柔しはじめた。

こうして文治派、武断派の抗争は、

三成VS家康の構図へと変化していく。

 
(歴史が繰り返す、滅びの道の身内同士の対立。見たまえ民主党)

音を聞く音に引っ張られる体  山口ろっぱ

 

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大河ドラマ・お江-第33回‐「徳川の嫁」  あらすじ

慶長4年(1599)を迎えると、ようやく秀吉の死が公にされた。

また、淀(宮沢りえ)秀頼(武田勝斗)が、

「大坂城に移った」という話も伝わってくる。

かなりお腹が目立ってきた江(上野樹里)だが、

相変わらず気がかりなのは、

「上方で何が起きているのか」 ということ。

本多正信(草刈正雄)と話す秀忠(向井理)が、 

「また三成が動いている」

 

と漏らしたのを耳にして、思わず、 

「それはどういうこと?」
 
と割って入る。
 

やすやすと屈服しない貝柱  清水すみれ
 
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口を挟む彼女を少しうるさく感じた秀忠が、 

「なぜ、いちいち首をつっこむのだ」

 

と聞くと、江は迷うことなく答えた。       

「私は、世の中で何が起こっているのかを、
 
  正しく知りたいのです」

どんなにつらい現実も、

まっすぐに見つめてきた彼女の信念だった。

その思いを受け、秀忠は、

三成(萩原聖人)は、父・家康(北大路欣也)が、 

  いずれ豊臣から天下を奪うつもりだと考え、

  対決姿勢を強めているのだ」

 

と、江に上方の状況を解説する。 

妻と私の流れがごめんやすになった  奥山晴生

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それを聞いた江は驚き、不安を募らせた。

義父は、本当に天下を奪おうなどと考えているのか。

もしそうなれば、淀や完はどうなるのか・・・。

だが、しばらくして耳に入ってきた話は、

彼女をさらに混乱させる。

家康が、同僚たちに恨まれて命を狙われた三成を、

窮地から救ったというのだ。 

倒れないようにわたしも揺れている  河村啓子

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その上方の方では、

大老筆頭として豊臣政権の運営にあたる家康が、

ほかの大名家との婚姻を、積極的に進めていた。

それは

「天下取りを見据えた行動」
とも取れる掟破りの行為だ。

かねて、家康を警戒していた三成は、

当然、その行為に激怒。

証拠の書状を突きつけて、家康を弾劾するが、

大老の前田利家(大出俊)になだめられ、

また、家康があっさり頭を下げたことで、

その場は引き下がるしかなかった。

影法師ふらつく足にふらつくよ  時実新子

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怒りの収まらない三成は、

秀吉の懐刀と言われた官兵衛(柴俊夫)に、 

「力を合わせて家康を失脚させよう」
 
と持ちかける。

だが、官兵衛はその話には乗らず、

逆に、三成が人の心の動きに疎いことを、

やんわりたしなめるのだ。 

一コマを掴みそこねて倦む座敷  富山やよい

 

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