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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鴉ひょっこりひょっこり寒いなあ日本海  川上三太郎

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   建造直後の「三笠」

『興国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ』 

の信号旗を真之に「三笠」メインマストに掲げさせた東郷が、

「7段構えの戦法」の第二段から第四段までの攻撃で、

「バルチック艦隊」撃滅に成功したのは周知の通り。

東郷の卓抜なる指揮能力と、島村の側面援助により、

智謀の人・秋山真之の名は、世界会戦史に不滅の輝きを刻んだ。

 

一筋のひとすじの道生きてきた  河村啓子

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「ついにバルチック艦隊来たる」  40分/  5分

明治37年(1904)8月10日の「黄海海戦」、

同月14日の「蔚山沖海戦」、そして38年1月2日の「旅順開城」と、

多少の錯誤と混乱はあったが、

戦略的な諸問題は、次第に整理されてきた。

陸軍の砲弾によってロシア海軍の極東艦隊は、

戦艦・セヴァストーポリ1隻だけを除いて殱烕された。

ただ1隻残されたセヴァストーポリも、水雷攻撃によって仕留めた。

これでようやく日本艦隊は、ドック入りして艦の立て直しをすることができる。 

充電は電気ウナギの口でせよ  井上一筒

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            三笠内部ー1

≪艦首には菊のご紋章が備わり、旗竿には二の丸が、

そして、三笠の有名なZ旗がマストに翻る≫

第3艦隊だけは、陸軍との共同作戦のため残ったが、

第1艦隊は呉へ、第2艦隊は佐世保へとそれぞれ帰港した。

日本海軍にとっての次なる問題は、 

「バルチック艦隊がいつやって来るか」

 

ということである。 

カマ首をときどき起こし風を聴く  森中惠美子

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  バルチック艦隊戦闘絵

その「バルチック艦隊」は、司令長官・ロジェストウェンスキーに率いられ、

明治37年(1904)10月15日に、

バルト海に面したリバウ港を出航していた。

出航早々、北海海上でイギリス漁船を、日本の水雷艇と見誤って、

砲撃するという事件が起こった。 

厄というなら君と出会ったことだろう  本田洋子

 

イギリスのロシアに対する態度は硬化し、

イギリスは、フランスにも圧力をかけたため、

本来ロシアの同盟国であるフランスも、

ロシアへの援助を控えることになった。

これが、バルチック艦隊の長征を、

いっそう苦難に満ちたものにしたのは、言うまでもない。 

夕立が打つ慢心の横っ面  武内美佐子

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    日本海会戦の絵

≪真ん中が東郷、右から三人目が秋山参謀≫

2月14日、東郷が乗る「旗艦・三笠」は呉港を出発、

佐世保港を経て、朝鮮の「鎮海湾」に入った。

バルチック艦隊が来るまでの待機場所である。

5月14日、バルチック艦隊が仏領安南を離れた。

ロジェストウェンスキーが「対馬へ」と針路を定めたのは、

5月25日のことであった。

もちろん日本艦隊は、まだ知る由もない。

コースとしては太平洋から、津軽海峡か宗谷海峡を通って、

「浦塩」へという選択も考えられた。 

さすがの秋山真之も迷った。

 

強力な敵のパンツを干している  清水すみれ

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  三笠内部ー2 

≪秋山真之が指揮をとった場所が示さた上部艦橋≫

 

「司馬氏記」

≪真之の心気はこの時期乱れつづけ、

 敵のコースを予測するについて、不動の判断というものがなかった。

 彼のこのときの神経と頭脳の極度の疲労が、

 その後のみじかい余生を、ずっと支配しつづけるのだが、

 この時期の懊悩ぶりは、

  その行動に常軌を失なわせたほどであった。

天才のまわり孤独の匂いする  武内美佐子

 たとえば、彼は靴をはいたまま眠った。

 彼の上司である加藤友三郎参謀長が、

 『そんなことをしていては体がもたない』

 と、見かねて忠告したが、

  真之はその加藤の顔をじっと見つめているだけで、

 加藤の言葉が耳に入らないようであった≫

三半規管分解しても聞こえない  加納美津子

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            三笠内部ー3

≪ホテルのような司令長官公室と指揮官用のバスルーム≫

秋山作戦参謀は、三笠の作戦室で全神経を集中させていた。

黄海海戦の実績から判断して、

ロシア艦砲の発射速度は、

日本側の大体3分1であることに気がついた。

もう一つ、日本海軍の長所は「火薬の威力」である。

日本の「下瀬火薬」は、

ロシアの「綿火薬」の二倍以上の威力があった。

秋山はこの二つの条件を生かせば、余程の大失敗でもしない限り、

射距離・5000㍍以内に飛び込めば、「絶対勝つ」と考えた。 

パスカルは葦の迷路で戯れる  山口ロッパ

 

問題は、接近経路である。

秋山の天才的頭脳が、世界最初の「独創的な哨戒計画」を編み出した。

可能性のある海域を、碁盤の目のように細分し、

その一つ一つに哨戒用の艦船を配置する構想である。

絶対に見逃すことはない。

そしてさらに、秋山は「七段構え」と称する迎撃計画を策定した。 

天才は渚あたりに居るらしい  徳山泰子

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  三笠内部ー4

≪上甲板の前部と後部には30㌢の主砲を装備してある≫

その構想は、昼間は砲撃、夜間は雷撃、そしてその反復、

作戦予想海面を概定し、訓練と作戦の準備を示すもので、

秋山の必死の考察の成果であった。 

下瀬火薬=海軍技手・下瀬雅允が開発した強力な火薬。

日本の砲弾は、装甲帯をつらぬかぬかわりに、

艦上で炸裂し、
その下瀬火薬によって、

そのあたりの艦上構造物を根こそぎに吹っ飛ばすのみか、

必ず火災をおこしてしまう。

 

「この当時、世界にこれほど強力な火薬はなかった」

二日後の12月20日最終章に続きます。

まっさらの闇から風が生まれます  合田瑠美子    

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モノトーンの時間を壁が食べている  たむらあきこ

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203高地に立つ銃弾をかたどった慰霊塔(日露戦争の面影)

旅順要塞を攻めあぐねた日本軍は、作戦を変更し、

203高地の奪取を新たな目標とした。

1万6千名もの死傷者を出した激戦の末、

ついに1904年12月5日、高地を占拠。

ただちに28センチ砲で湾内のロシア艦隊を砲撃、

これを壊滅させた。


真っ青な夢に決断迫られる  谷垣郁郎

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「203高地、遂に落つ」  40分/3分

「司馬氏記」

『おぬしのその第3軍司令官たる指揮権をわしに、一時借用させてくれぬか』

 見事な言い方であった。

 言われている乃木自身でさえ、

   この問題の重要さに、少しも気がついていなかった。

 乃木がその性格からして、

   おそらく、生涯このことの重大さに気づかなかったであろう。  

 『指揮権を借用するといってもおぬしの書状が一枚ないとどうにもならん。

 児玉はわしの代わりだという書状を一枚書いてくれるか』

 

 まるで詐欺師のような言いまわしである。

 乃木は、この児玉の詐欺に乗った。

 『よかろう』 と、快諾した≫

ご要望土鍋のフタで受けました  井上一筒

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   28サンチ榴弾砲

かくして、第3軍の指揮権は児玉に移った。

児玉は、重砲隊の移動と、

「28サンチ榴弾砲」による「203高地への連続砲撃」を命じた。 

これまでの作戦とは180度の転換といっていい。
  

 しかし、これが功を奏した。 

暗証番号二回限りのやり直し  山本昌乃

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 203高地を目指す第三軍

旅順包囲戦では28インチ砲が威力を発揮した。

12月5日、午前9時より攻撃は開始され、 

午後2時には、203高地の占領がほぼ確定した。

 

児玉の関心は、 

「203高地から本当に旅順港が見下ろせるか」

 

ということにあった。

児玉からの有線電話に対し、山頂にいる将校はこう答えた。 

「各艦一望のうちに納めることができます」

 

残るは、「山越えに軍艦を撃つことだけ」である。 

まっさらな気持ちで開く第二章  竹内ゆみこ
 
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旅順陥落後、市街後方から湾内を眺める日本兵たち。

≪撃破されたロシアの軍艦が見える≫

砲兵司令官・豊島陽蔵の反対を「命令」の1語で覆し、

砲撃を開始する。

その命中精度は、百発百中といっていいほどのものであった。

その後、数日にわたる砲撃で、

戦艦4、巡洋艦2、その他十数隻の小艦艇を撃沈、

もしくは破壊、港内の造船所も破壊することで、修理も不可能な状況となった。 

明らかな日本軍の勝利であった。

 

その後も戦闘は続くが、

明治38年(1905)1月1日に、敵将・ステッセルはついに「降伏」を決断。

乃木とステッセルとの有名な「水師営の会見」が行われたのは、

1月5日のことであった。

(二日後の12月18日に続きます。)

未来への壁を破ってタクト振る  西村静子

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力むなと言われて河童皿を脱ぐ  岩田多佳子

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           水師営会見所

1905年1月5日、旅順郊外の「水師営の農家」で、

旅順要塞司令官・ステッセルと、日本側の乃木大将との間で、

「降伏文書」の調印が行われた。

≪左ー両将軍が会見した部屋。

   (戦争中は日本運衛生隊の手術室として使われていた)

   右ー当時のままに復元された会見所の建物≫

坂の途中で祭太鼓を待つことに  墨作二郎

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「旅順決戦」  40分/5分

日本陸軍にとって、「旅順」はさして重要視されていなかった。

旅順攻撃を命ぜられた第3軍の乃木希典大将にしても、 

「旅順はたやすく落とせるだろう」

 

と見ていた。

しかし、8月19日にいざ総攻撃を仕掛けてみると、

まるで歯が立たなかった。

死傷者は、16000人にも及び、

「旅順の大要塞」には、かすり傷1つ負わせることができなかった。 

悲しい日もっと悲しい人を見る  松田篤

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  旅順要塞跡ー1

≪内部は、分厚いコンクリートで覆われている≫

逆にいえば、

ロシア軍は、それだけ頑強な大要塞を、造り上げていたということになる。

しかも乃木軍は、なかでも最も堅牢な二龍山東鶏冠山の間を、

「中央突破」する、という作戦に出た。

これは、弱点攻撃が最も有効とされる「要塞戦の原則」の正反対である。

失敗しても不思議はない。 

挫折した下絵に残す熱きもの  富田美義

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   旅順要塞跡ー2

それにもかかわらず、

9月19日の第2次総攻撃でも、同じ攻撃法を採り、

同じ悲惨な結果を得た。

死傷者4900人で、これで既に2万人を超えた。

この責任はもちろん、乃木大将のもあったが、

参謀長・伊地知幸介の頑迷さによるところが大きかった。

「旅順要塞」は、海軍にとってもなんとしても、

落としてもらわなくてはいけない対象だった。

その重要性は、

陸軍よりも、海軍においてより大きいといっていい。 

頂点の椅子の軋みはつぶやきか  笠嶋恵美子

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          水師営の会見

≪乃木大将とステッセルの間で、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結される≫

「司馬氏記」

《 旅順の港とその大要塞は、

   日本の陸海軍にとっての最大の痛点でありつづけている。

 東郷の艦隊は、悲愴を通り越して滑稽であった。

 彼らは陸軍が要塞を落さないため、尚も、この港の口外に釘づけにされ、

 ロシアの残存艦隊が出たきて、

  海上を荒し回ることを防ぐための「番人の役目」を続けている。

 大戦略からみて、これほどの浪費はなく、

 これほど日本の勝敗に関して、あぶない状態はなかった。

 バルチック艦隊は、いつ出てくるか。 

 という報は、欧州からの情報はまちまちでまだ確報はない。

 無いにしても、

 「早ければ10月に日本海にあらわれる」

 という戦慄すべき説もおこなわれていた。

 ・・・・・〈中略〉・・・・・   

 海軍はあせった。

   東京の大本営も、あせりにあせった。》

 

少しずつ老いて狂ってゆく明日  元永宣子

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      203高地

海軍からすれば、「203高地」を攻め落としてほしかった。

203高地を取れば、

旅順港を一望できて、港内のロシア軍艦を陸軍砲で砲撃できる。

しかし、乃木軍は203高地には見向きもせず、正面攻撃に固執していた。

「乃木と伊地知を更迭せよ」

という意見も多かったが、 

「兵士の士気が落ちる」

 

ということで、大山が承知しなかった。 

ドアチェーン外し昨日を蹴り込まれ  谷垣郁郎

 

こうした追い詰められた状況のなかで、

11月26日、第3次総攻撃が行われたが、成功するはずはなかった。

旅順攻撃の象徴的存在ともいうべき「白襷隊」が、

出陣したのもこの時であるが、

いたずらに、死傷者の数を増やすばかりであった。

もちろん、 

「旅順市街へ突入せよ」

 

という命令が実現されるはずもなかった。 

またひとり友を失う寒椿  本多洋子

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       白襷隊

 ≪「白襷隊」=旅順要塞第三次総攻撃時の決死隊≫

隊員は、夜間相互の識別がしやすいように、

右肩から左脇下に白だすきをかけた。
 
そして、1904年11月26日、

午後9時より「夜間奇襲攻撃」を賭けるも、 

白襷隊総勢3100余名のうち、半数近くが一瞬で死傷し、隊は壊滅した。

 

≪この写真は彼らの最後の勇姿となった≫

矢印を信じています非常口  美馬りゅうこ

しかし、この総攻撃の失敗が、

乃木に作戦を変えさせるきっかけになった。

翌27日から203高地への攻撃が開始された。

結果は、203高地に日本兵の屍を積み上げるばかりである。

しかし、30日になって奇蹟が起こる。

香月・村上両隊の約500人が、ロシア軍歩兵1000人と白兵戦を演じ、

わずか50人程度であったが生き残り、

ついには、203高地を占領した。

11月30日午後10時のことである。

だが、この占領はあっという間に取り返されてしまう。

(二日後の12月16日に続きます)

マジシャンじゃないから雲は隠せない  清水すみれ

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鰯雲みんな纏めて面倒みるわ  岩根彰子

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遼陽南東の高地から砲撃を行う第一軍独立野戦砲兵

北上を続ける日本の3つの軍が、

3方向からそれぞれ
「遼陽」を目指した。

遼陽は、交通の要衝であり、戦略的意義が極めて高く、

この地で、ロシア軍を包囲殲滅することを目標とした。

一方、ロシア軍も、

日本軍を迎え撃とうと、この地に陣地を構築して待ち受けていた。

日本軍の兵力は約13万、ロシア軍の兵力は約22万が衝突。

「鴨緑江会戦」と並び、日本軍にとっては、はじめて、

近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。

≪この会戦における日本軍の死傷者は約2万2千、

   ロシア軍の死傷者は、約2万5千とされている≫

生涯は一度落花はしきりなり  大西泰世

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「遼陽会戦の死闘」  40分/3分

陸戦は、いよいよ「遼陽会戦」へと向けて進んで行く。

8月初め、ロシアは、司令官・クロパトキン大将の下に、

歩兵201・5大隊、騎兵153中隊、砲673門を集結させていた。

クロパトキンはかねてより、遼陽での一大決戦を予定していた。 

サイコロで決まる光と影の位置  白川淑子

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  児玉源太郎             大山巌

日本軍との比較でいえば、

歩兵大隊数で1・6倍、騎兵中隊数で4倍、

火砲数で1・4倍と明らかに、ロシア軍優勢であった。

8月22日、総参謀長・児玉源太郎は、

大山巌の許可を得て、遼陽攻撃の命令を発した。

予想通りの激戦となり、日本軍は明らかに劣勢であった。

しかし、ここで日本軍に救世主が現れる。

黒木軍は、主力軍ではなく、遊軍の形で、右翼から太子河を渡り、

背後もしくは側面から、遼陽を攻める作戦に従事していた。 

ツナ缶を開ける見えない方の手で  井上一筒

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   将軍たち(左から) 

(黒木為楨、野津道貫、山県有朋、大山巌、奥保鞏、

乃木希典、児玉源太郎、川村景明)

 

「司馬氏記」

『黒木の軍団は3個師団ほどだというが、それはうそだ。あと3個師団はもっている』

 とクロパトキンは、判断するようになった。

 なるほど、ヨーロッパの軍事専門家の常識では、そう言うであろう。

 黒木が、あれほどに損耗をかえりみずに、

   猛攻を仕掛けてくるのは、

 「予備兵力をゆたかにもっている証拠だ」 というのであった。

 が実情は、黒木は裏も表もなく、3個師団の1枚看板だけでやっている。

 むろんこの日露戦争が長期にわたれば、

   日本軍は兵力不足になるであろう。

 日本の大きな戦略方針が、短期決戦主義ということになっている以上、

 いわば3個師団という晴れ着が労働着であった。

 着更えはなかった。》

出来心にしては用意周到ではないか  島田握夢

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クロパトキン

とにもかくにも、黒木軍は死闘を制した。

9月3日夜、クロパトキンは総退却を決意する。

遼陽会戦における日本軍の死傷者は、2万3533人で、

ロシア軍の約2万人を上回った。

外国人従軍記者の中には、

「日本軍の勝利ではない」 と報道した者もいるが、

幾分かの真実を、含んでいるようにも思える。 

50度のおじぎで風をやりすごす  桜風子
 
二日後の12月14日に続きます。

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とことん運だろうと冷ややかな妬心  たむあらあきこ

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東鶏冠山北堡塁(日露戦争の面影)

旅順を取り囲む三大堡塁のひとつ。

日本軍のたびかさなる攻撃にも、

「難攻不落」を誇っていたが、

日本軍の「28センチ砲」の爆裂により、

要塞の司令官だった猛将・コンドラチェンコが戦死したのを契機として、

1904年12月18日、ついに陥落した。

砂漠が増えたねと月が言うている  井上一筒

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「黒木軍と奥軍の明と暗」  40分/3分

一方の陸軍の方は、まだ動きが遅い。

仁川に上陸した韓国駐屯部隊が、京城に進駐している程度であった。

逆に言えば、

陸戦における第1戦を戦うに当たって、日本は慎重であった。

それには理由がある。

国家財政が底をついている日本としては、

戦費を外債に頼るしかない。

その外債が、人気化し買ってもらうためにも、

緒戦は華々しい戦果を求められていたのだ。

緒戦の目標は、「鴨緑江の敵を破り満州に出る」 ということに定められた。

その任務には、第1軍が当たることになったのだが、

そのトップには、「よほど勇猛な将がいい」 ということで、

黒木為楨大将が選ばれた。 

何もかもうす塩振って受けて立つ  山本昌乃
 
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   黒木為偵        奥保鞏(やすかた)

黒木為偵は、薩摩藩の出身で、

戊辰戦争にも参加している文字どおりの侍であった。

第1軍が、順調に、鴨緑江渡河の準備を行っているのに並行して、

遼東半島南部に上陸させる「第2軍の編成」が進められた。

軍司令官は、奥保鞏で、

旧小倉藩士という佐幕藩の出身であったが、

軍上手として定評があった。

この第2軍に与えられた使命は、

「金州・大連付近を占領せよ」 というものであった。

そして、満州平野に分け入り、

朝鮮国境を越えてやってくる第1軍と合流する予定であった。

上陸は順調だった。 

まちがっていないが納得いきません  三村一子

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   散兵壕での日本兵

しかし、苦難はその後に待ち受けていた。

第2軍が、本格的な攻撃を開始したのは、

5月26日のことであるが、「金州・南山要塞」は、

当時の「日本陸軍の想像を絶する近代要塞」であり難攻不落だった。

日本兵は、ばたばたと倒れ、

ただでさえ不足している砲弾も、あっという間に底を突いた。

この日本軍の危機を間一髪で救ったのは、

第4師団長の小川又次中将だった。

敵の弱点である左翼に予備弾まですべて撃ち込み、

艦砲射撃の援軍も得た。

その後は、歩兵の肉弾攻撃であり、

午後6時半、ついに占領し、ロシア軍は「旅順要塞」へと逃げ込んだ。

すこぶる不明確にユメムシの輪郭  山口ろっぱ

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「司馬氏記」

《 金州・南山のロシア軍は、いかに奥軍の攻撃が苛烈であったにせよ、

   こうも簡単に、退却すべきではなかったかもしれない。

   もし攻防がもう1日長引いていれば、すでに弾薬つき、

   死傷が全兵力の1割をう上回っている奥軍としては、

   攻撃再会まであと何日を要したか、想像もできない。

   なぜならば、銃砲弾の補給を本国から仰がねばならず、

   本国も砲弾のストックが、つねに底をついている以上、

   その船荷がいつ着くか、たれもわからなかったのである。

   奥軍のうけた予想外の大損害は、

   これを電報で東京の大本営に報じたとき、

   「電文の〇が1つまちがっているのではないか」

   と、大本営ではうたがったほどであった。

   ・・・〈中略〉・・・日本軍ははじめて、近代戦のすさまじさを知ったのである 》

十指みな使い果たした後だから  瀬川瑞紀

二日後の12月12日に続きます。

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