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川柳的逍遥 人の世の一家言
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出て来いよ目にさわやかな卑怯者  時実新子

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浄土真宗の宗祖・親鸞の思想のキーワードは、

「悪人正機」・「往生」・「本願」

悪人正機―法律や倫理・道徳を基準にすれば、

この世には、「善人と悪人」がいるが、

どんな小さな悪も見逃さない、仏の眼から見れば、

すべての人は、『悪人』だと、親鸞は説いている。

半眼の弥勒の笑みにうろたえる  たむらあきこ

「悪人・家康の企み」

(親鸞展より、家康にコラボしています)

秀吉の死の翌日、

「三成が家康の暗殺を計画している」

という噂を聞き、家康は、

秀忠を密かに江戸へと向かわせた。

畿内から遠く離れた江は、

義父と三成の関係が悪化していると聞いても、

何の手立てもできなかった。

2人の争いは、秀頼を守る姉・と自分が、

敵と味方になることを意味していた。  

反乱の首謀者はブリキのバケツ  加納美津子
 

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   親鸞坐像

親鸞はすべての人の本当の姿は、『悪人』だと述べている。

「善人」は、真実の姿が分からず、善行を完遂できない身である事に

気付くことのできていない、「悪人」であるとする。

「前田利家との対決」

利家は、大坂城で秀頼君のお傳役であり、

北政所茶々と常に側におり、

しかも、信長の家臣だった大名や、

秀吉が取り立てた武将たちとは、旧知の間柄。

ところが家康は、織田家でも豊臣家でもなく、外様である。

家康には、焦りがあった。

そこで、家康は朝鮮から帰った武将達など

に懇ろに、接するように心がけた。

泣くまいぞ一期一会のお節介  村井冨美子

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親鸞布教の姿

三成のことについて、不満を漏らす武将たちに、

利家は、  

「お前たちの気持ちは分かるが、太閤殿下は、

  あの者を信頼されて、

  差配を任したのだからしかたないどろう。

  口が悪いわりには悪い男ではない」

  

と諭し、なだめたのに対し、家康は、 

「武辺の者としては、もっともなことよのう。

  三成はすぐに証拠を示せなどというが、戦場では、

  なぜどうしたなどといちいち記録などとるものではない」

 

不満武将の思いは、よく分かると理解を示した。

こうなれば、彼らの気持ちは、自ずと家康に向いていく。    

時には爆発をする言葉です 温い  神野節子

    

その頃、家康は公然と豊臣政権時の定めを破り、

伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則といった大名方との

姻戚関係を作っていた。

これを聞いた利家たちは激怒し、

大老、奉行を集めて、家康に対して激しく問責をした。

この詰問に家康は、  

「手続きをしていないとは、うっかりしておりました。

  取りやめるのでご容赦を」

  

と、はぐらかし、とりあえず謝ってこの場を取り繕った。  

言葉尻に扇風機をかけている  立蔵信子

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親鸞の旅路を支えた杖

たびたび、こういうことがあり利家は、

家康を討たねばならないと決意。

そして慶長4年(1599)2月29日、

利家は細川忠興らの仲立ちで、伏見に家康を訪ね、

家康の日ごろの無謀を叱咤した。

読みの深い家康は、利家のこの挑発には、

乗らずやり過した。

3月11日、今度は、家康が大坂の利家を訪ねた。

この日の利家は、

見た目にも、長くないといった容体であった。  

やって来るいちばんずるい角度から  八上桐子

  

寿命を悟る利家は、この会談の折、 

「肥前守(利長)のことをよろしく頼む」

 

と言ったという。

これをもって

「家康の天下を認められた」
ようにいう人もいるが、

利家は、このときも、場合によっては家康を、刺す覚悟だった。 

「自分の死後、3年間は大坂に留まるように」

 

と、家康に用心という意味で、利長に言っているのだから、 

「利長を自分の後継者として同じように尊重して欲しい」

 

という意味があった。

焦点のずれた話にけつまずく  皆本 雅

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若き日の修業を伝える装束

利家が亡くなったのは閏3月3日。

その翌日に、とんでもない事件が起こる。

三成に不満を持っていた福島正則ら武断派の七将が、

三成の屋敷を襲撃する事件が起きたのだ。

三成は、命からがら屋敷を抜け出すと、

なにを思ったか、敵対する家康の屋敷に逃げ込んだ。

家康は、居城の佐和山城へ閉居することを条件として、

仲裁をすることにした。 

≪通説ー三成が家康の屋敷に逃げ込み保護を求めたというのは事実に反する≫

 

モザイクをほぐすと見えた舌二枚  上嶋紅雀

このあとはもう、家康のやりたい放題である。

朝鮮の蔚山城攻防戦にて、

合戦をしなかったとされた蜂須賀と黒田

城の放棄を容認したとされた軍監の早川、竹中らなど、

処分した秀吉の裁定は取り消され、

三成と縁戚で、裁定の元となる報告を行った


軍監・福原長尭が処罰された。  

≪この後、名誉を回復された黒田などは、関が原で東軍につく≫

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仏具や生活品を収めて親鸞が背負っていた笈

また家康は伏見では、

自分の屋敷として、閏3月、伏見城本丸に引っ越し、

大坂城では、

北政所が京都へ引っ越したあとの、9月に西の丸に入った。

10月、大野治長、浅野長政が「家康暗殺計画」を理由に、

処罰される。

これで、世の中の人のかなりが、

家康が天下人になったと感じることになる。 

黒幕のひとりは菩薩かもしれぬ  清水すみれ

 

そして家康は再び、公然と大名姻戚関係を作っていった。

その1人が、生まれたばかりの江の次女・子々姫(珠姫)だ。

相手は前田家二代目当主・利長の弟で、

次の当主となる利常だった。

その婚約は事前に、江には知らされてなかった。

そんなことをすれば、

反対されることはわかっていたからだ。

そのことを後で聞いた江が、

激怒したことは言うまでもない。

枯葉一枚さて人間を欺そうか  森中惠美子

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 親鸞が書き綴った仏歌 

「親鸞」

保元・平治の乱などの戦乱や地震などの天変地異が続き、

政治・社会が混迷した平安末期。

来世の「往生」を願った富者は、財を尽くして功徳を積み、

僧侶は教義論争に明け暮れる中、法然が登場する。

民衆を含む万人の救済を考えた法然は、

「念仏をとなえれば誰もが救われる」

「阿弥陀如来の名号」を唱えることを説き、

浄土宗の宗祖となった。

我が庭に吾亦紅あり夜の秋  前中知栄

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阿弥陀如来立像

その教えを受けたのが、親鸞(1173~1262)である。

親鸞は、養和元年(1181)、9歳のとき出家し、

比叡山で20年の修行を積むが、

悟りを得ることができず、京都六角堂に参籠。

遠回りしたのに黒猫に遭った  森田律子

ある日、親鸞は夢のなかで聖徳太子の言葉を授かり、

法然を訪ねて、「専修念仏」に帰する。

40歳年下の親鸞は、法然と同じく、比叡山で修行を積んだ後、

29歳のとき法然に出会い、

たとえ地獄におちようとも、

その教えを信じて、念仏をすると決断した。 

ペダルこぐ沈むな沈むなよ夕日  山本早苗

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恵信尼公坐像(9歳年下の妻)

しかし、「専修念仏」の教えは、既成教団から弾圧を受け、

法然は四国へ、

親鸞は、承元元年(1207)越後へ流罪となり、

赦免後、関東の各地において20年にわたる布教活動を行った。  

≪その後、二人が再会することは叶わなかった≫

  

そのとき親鸞は、「在俗のままでの仏道修行」と、

「民衆に宣布する」という使命を実行するために、

法然を選んだと考えられている。 

≪この時、僧として初めての妻を娶った≫

 

弘長2年(1262)、親鸞は90歳で没する。

もぐら叩きまた増えている薬瓶   桜風子

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『豆辞典』―「悪人正機」

「悪人こそ救われるべきである」

と親鸞は説く。 

『善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや』  

とある。

善人は、自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,

煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は、

仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため,

「阿弥陀仏」に救われるとした思想。 

ふらふらと湯立て神楽の湯を浴びる  岩根彰子

 

「往生」

様々な浄土への往生があるが、

一般的には、阿弥陀仏の浄土とされている「極楽への往生」を言う。

往生とは、『往』は、極楽浄土にゆく事、

『生』は、そこに化生(けしょう)することを言う。

賽銭箱にねじ込んでおく祈り  井上一筒

「本願」

「他力というは如来の本願力なり」

と親鸞は述べている。

現実に生きていることが、

阿弥陀仏の「智慧と慈悲(本願)」のはたらきに、

目覚めさせられることにより、救済されるとする。

春野菜が首飾りになるきっと  蟹口和枝

拍手[4回]

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殿中でござるカピバラの残像  井上一筒


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「徳川家累代御台所ノ図」(明治12年作)

 

お江は、左上に描かれている。

二代秀忠・御台所(於江)から時計回りに、

九代家重・御台所(比ノ宮)、十一代家斉・御台所(茂子)、

12代家慶・御台所(楽ノ宮)、

十三代家定・御台所(篤姫)、中央10代家治・御台所(五十宮  

お江与が、特に「大御台」と呼ばれたのは、

お江与の地位・経歴、そして歴史に残した影響力の大きさによる。

     

  

「嫁ぎ先・江戸城のお江」

     

家康の側近であり、江戸城を仕切っていた本多正信が、

丁重にお江を迎えた。

秀忠の大姥局(おおばのつぼね)も、

ひれ伏して、お江に忠節を誓った。    

「これからは、御台所に任せればよい」

    

大姥局は、肩の荷が軽くなった思いだった。

世の中には、育ての親が何かとでしゃばる気風もあったが、

大姥局は、そういう人ではなかった。

末端にちょこんと座るヘビイチゴ  酒井かがり

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お江には、威厳と気品があり、

皆がその気品に圧倒された。

正信は一目見て、

秀忠は完全に尻にしかれていると察知した。

正信は、役人たちに告げた。        

「御簾中(ごれんじゅう)は、さすがは、

  信長公の妹君・お市の方のお腹だけに、

  ご気性はなかなか強い方と拝する。

  あれでは若殿も、御簾中には弱かろうな」

        

すぐ妥協する位置にある桜餅  森中惠美子

家康の側室・阿茶局も、

お江の堂々たる身のこなしに圧倒された。 

「ご幼少から2度も落城の戦火をくぐりぬけられたお方、

 まことにはっきりとしたご性格。

 お仕えする老女・椿井殿も、これまたみごとなお人ですぞ」

 

お江の側に仕える老女・椿井も、

芯の強そうな女性と評価していた。 

物心ついたころから鯨です  谷口 義
 

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「それからのお江の評価」

お江は後世、随分誤解されている。

「ヒステリックな悪女」

という芳しくないレッテルが貼られ、 

「側室は絶対に認めない」

 

と大奥に指示を出したため

”嫉妬深い女”
にされてしまった。

"彼女のプライドが、側室は許さなかった"

のである。   

「中納言(秀忠)さまに、奥女中を近づけてはなりません。

  これは御簾中さまの命令です」 

   

ちらちらと見え隠れする唐辛子  山本早苗

 

お江の側に仕える老女・椿井が心配したのは、

もし奥女中から、お手付きでも出ようものなら、

御簾中さまの怒りが爆発、

いかなることになるか分からない。  

妻が持つ謎には触れぬことにする  江森のり子   

  

「振る舞いはくれぐれも気をつけるべし」

阿茶局すらも、奥女中たちに厳命した。

このような、お江の方の凛々しい様子は、

江戸城大奥を震撼させるものだった。 

揺すらないで楔形文字突き刺さる  山口ろっぱ   

 

史実というもの仮説の上にあり、真実は、どこにあるか分からないが、

上記、江戸入城のお江と、今回、ドラマ描かれているお江は、

 かなり視点の違いがある。

  
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第32回あらすじ「江戸の鬼」

 

秀吉(岸谷吾郎)の死は、その影響の大きさを考慮し、

一部の者以外には、伏せられていた。

だが、豊臣政権中枢には、早くも乱れが生じ、

家康(北大路欣也)を、

亡き者にしようという企ての噂が立つ。

そこで家康は、不測の事態に備え、

跡継ぎの秀忠(向井理)江(上野樹里)を、

江戸へ移すことに。

。。。  

一身上の都合で夜がやってくる  竹内ゆみこ

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江は、内密に進められる江戸への転居を前に、

顔だけでも見ておこうと、親しい人を訪ねてまわる。

初やガラシャ(ミムラ)らには、

突然の訪問の理由を、語らずにとおした江。

だが、淀(宮沢りえ)は、すべてをお見通しだった。

サイフォンの濾過へ頬づえしてひとり  山本昌乃

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  崇源院像(養源院蔵)

肖像画のことで、なんともいえないが、

晩年のお江を描いた「崇源院像」を見ると、

ふくよかで、目元の綺麗な女性である。

 

母の市は、絶世の美人といわれた人である。

お江は、その人の娘であるから、

かなりの、容貌であったものと思われる。

ともあれ、夫にかしずき、

ひたすら忍従に耐えてきた女性像を、

打ち破る、「革新的な女性」であったことは、

間違いないだろう。    

≪徳川将軍・御台所(正室)で、”将軍生母”となったのは、

   後にも先にも崇源院だけである≫

    

運命というタクシーに乗って来た  時実新子

拍手[5回]

化粧しても耳はけもののままである  新家完司

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能面を被った家康のからくり(岡崎城)

「徳川家康」

その腹黒さとしたたかさから

「狸親父」
との異名を持つ徳川家康

表面上では、化けて周囲の目を欺きつつ、

内心では、虎視眈々と逆転を狙っている。

そんな家康のイメージは、

老獪さが身についた、晩年からのものだと考えられているが、

決してそうではなく、若い頃から、

しっかりと将来を見据え、じっくり考え、

行動に移す人であった。

枯葉一枚さて人間を欺そうか  森中惠美子

「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し。

  いそぐべからず・・・」

    

は、徳川家康の遺訓とされている。

その言葉のとおり、

家康はまさに”回り道”の男といえるだろう。

三河の国の一土豪にすぎなかった徳川家(松平)に、

生まれた家康は、
6歳から19歳まで、

織田氏、今川氏のもとで、人質生活を余儀なくされた。   

なにはともあれ進むしかないカタツムリ  加納美津子

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家康が能を踊るカラクリ時計(岡崎城公園)

   

信長と組んで、東海一帯に勢力は伸ばしたが、

信長の死後、秀吉が台頭すると、その臣下となり、

小田原の北条氏滅亡後は、秀吉の命じるままに、

当時はまだ、草深い寒村の江戸に移った。

家康は機が熟すのを、ひたすら待った。

しかし、それは無為の日々ではなく、

来るべき時に備えて、

着々と実力をたくわえる、雌伏のときだった。

だんだんと削って凡人になった  たむらあきこ

秀吉が、伏見城で一生を終えたとき、

いよいよ家康は、天下取りに立ち上がった。

このとき家康は、すでに57歳であった。

跡取りの秀頼は、わずか6歳。

人の好い顔をそろそろ脱ぐとする  牧浦完次

秀吉は、      

「五大老の筆頭・家康が秀頼を補佐して豊臣政権が存続する」

      

ことを願っていた。

五奉行の石田三成らも、同じ考えであった。

つまり、   

「秀吉政権は秀吉によって樹立され、基礎固めも済んだので、

  幼い秀頼ではあるが、世襲してやっていける」

   

という判断である。

「心配」と表札あげて赤とんぼ  時実新子

しかし、家康の考え方は違っていた。  

「まだ、世襲制でやっていけるほど安定はしていない」

  

という考えである。

また、「天下は実力あるもののまわりもち」

という思いもあった。

迷いなく着こなすライバルの黒よ  山本昌乃

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      若き日の家康

家康の頭の中には、本能寺の変後、

秀吉に一歩先を越された苦い思い出があった。

しかし、家康が、秀吉に一歩譲ったのは、

秀吉の器量を家康が、認めたからである。

つまり、家康は、秀吉の器量を認めても、

その子・秀頼の器量を認めていたわけではない。

このあたり、三成の、

「秀頼は名目にしても、まわりが固めれば豊臣政権は存続する」

という考え方と決定的に違う。

四角三角をとどめて石心室  岩田多佳子

「秀吉の臨終の枕で、家康が秀頼の補佐をしたのは汚い。

  腹黒いやり方だ」

とよく言われることがある。

これが、「家康狸説」の発端になっているところだが、

三成以下、豊臣家の方から見れば、そうなるのである。

家康の方から見れば、 

「秀吉だから臣従したのであって、   

  ”実力ある者が天下を盗る”

   という戦国の習いに照らしてみれば、
秀頼より自分が上」

 

という意識があった。

手の内は綺麗な嘘で飾りつけ  谷垣郁郎

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最も男前に描かれている家康

「天下分け目の戦い」といわれた関が原の戦いを制し、

征夷大将軍として江戸に幕府を開いた家康は、

全国支配の手を、次々と打っていった。

わずか2年で、将軍職を子の秀忠に譲ったあとは、

徳川の世を、万全のものにするために、

駿府城で大御所として力をふるい、

家康最後の仕上げは、

依然、大坂城に君臨していた秀吉の遺児・秀頼を、

倒すことだった。

裏切りも絆 心に痛く深く置く  森 廣子

1615年、大坂夏の陣で淀殿、秀頼母子が自害することで、

それは果たされたが、 

「秀吉の死から15年かけた」
 
というその周到ぶりに、
家康の性格の一端がうかがえる。

まさに家康は、沈思黙考の人、

狸に化けていた人間というか・・・?(もしかしてその反対か?)

先の自分の像を見据え、緻密に練り、

それを、実行していく人であった。     

≪周知のとおり、 

 これによって、天下動乱の時代は終わりを告げ、

 

    以後、260年余りにわたって、天下太平の世がつづくことになる≫

    

矢印の通りに進むニシキヘビ  井上一筒

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  地獄門(ロダン)

『余談』―「考える人」

有名なロダンの作品・『考える人』は、

実際は、像の人物は、”考える人”などではなく、

地獄の入口で、地獄へ落ちていく罪人達を、

「上から見下ろしている人」なのだ。

いわゆる、考える人の職業は、地獄の門番だった。

「考える人」の本当の姿は、

現在の世から末の世を睨む「管理人」なのである。

その奥を覗いて帰れなくなった  居谷真理子

”近代彫刻家の父”と呼ばれる、

この”考える人”の作者・ロダンは、

姉の勧めで美術を学び始めたが、彫刻は独学だった。

初めて発表した彫刻・「鼻のつぶれた男」は、

美しいものが評価される時代だったこともあり、酷評を受けた。

そのショックは、しばらく、

創作活動を行うことが出来なくなるほどだった。

わたくしが試されている試練とは  赤松ますみ

しかしその後、ロダンは創作活動を再開し、

「青銅時代」という作品を発表。

これが高い評価を得て、

「国立美術館のモニュメントを作ってほしい」

というオファーが届いた。

そこでとりかかったのが、

”ダンテの神曲”に登場する『地獄の門』を題材としたものだった。

その中の一部が、「考える人」なのである。

真相が漏れるロッカールームから  合田瑠美子

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ところで、「考える人」という題名の由来は、

ロダンとは作品の鋳造を通じて、長い付き合いがある

鋳造家・リュディエという人にある。

この「考える人」も、このリュディエが鋳造した。

この像が生まれた経緯を知らないリュディエは、

「何かを考え込んでいる姿」

と、勘違いして、

『考える人』と、命名したというわけである。

ただ、その経緯を知るも知らぬも、

この像は、「考える人」に違いない。

前頭葉の痛み上書き虫刺され  蟹口和枝

拍手[7回]

目に刺さる三角定規直定規  時実新子

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           醍醐花見図屏風

「秀吉最期」

慶長3年(1598)7月上旬、        

「太閤秀吉が伏見城で病床についた」

        

家康から、江戸城に報せがあった。

秀忠は、あわただしく江戸城を出立した。

秀吉の病名は、咳気(がいき)だ。

咳気とは、咳き込むことだが、

肺炎また肺癌と考えられる、重い病気だった。   

整いましたと神さまから返事  桑原伸吉

同年3月、   「醍醐花見図屏風」に、

秀吉が京都の醍醐寺で、盛大に花見を行ったことが、

描かれている。

秀吉は気晴らしにと、花見を計画した。

3月15日に、醍醐寺で行われたその花見に参加したのは、

豊臣家の女たちとその侍女、

そして大名の女房衆だけという、異様なものだった。    

夜桜の優しさごっこ受け入れる  前中知栄

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醍醐の花見で能を舞う秀吉

    

その中で、秀吉は、思い切り楽しんだ。

これは慶長の大地震によって亡くなった、

多くの女性たちを弔うだけでなく、

秀吉自身が元気な様を、大勢に見せつけ、 

「最期が近いことを感じさせまい」

 

とした目的もあったとされる。

そして、花見から2ヶ月もしない5月5日、

秀吉は、伏見城で病床の人となる。

日本中重い気分の花便り  松本としこ

また病床の秀吉は、自分の死後、

豊臣家と秀頼の将来が不安で仕方なく、

新しい政治体制として、五大老と五奉行の制度を定めた。

五大老は、徳川家康を筆頭に、

前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家である。

政治をとりしきる集団指導制ではあるが、

顔ぶれを見れば、

家康に牛耳られてしまうことは必定だった。 

毒は微妙に輪の中で熟れていく  山口ろっぱ

 

そこで秀吉は、大老をチェックする「奉行制度」も作った。

石田三成を筆頭に、

前田玄以、浅野長政、増田長盛、長塚正家の五人が、

あらかじめ細目を決め、五大老にあげる仕組みだ。 

「よしよし」

 

秀吉は病床で安堵した。           

≪しかしこれがのちに、「関が原の戦い」を引き起こす要因となった≫

           

これでいいこれでよかったこれでいい  嶋澤喜八郎

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7月半ば頃になると、秀吉は再起しがたいことを悟り、

秀頼と豊臣家の将来を、いろいろと憂慮し、

大名たちを集めて、「11か条に及ぶ遺言」を述べた。

「第一条」は、家康に対してである。

秀頼を家康の孫・千姫の婿にしたのだから、

その孫婿・秀頼を取り立ててほしいと、

前田利家はじめ、五大老の前で何度も懇願した。  

雨降って拝み降らなくても拝み  通 一遍

  

「第二条」は、

若い頃から付き合いのある前田利家に対して、  

「秀頼の守り役として面倒を見てもらいたい」

  

と、咳き込みながら語った。

「第三条」は、秀忠に対してであった。  

「親の家康殿が年をとられ、いずれ秀忠の時代が来たら、

  家康公と同様に、秀頼の面倒を見てもらいたい」

  

と頼んだ。 

繭吐いたあとが大きな穴になる  赤松ますみ

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秀吉花押

五大老と五奉行は、それぞれ記請文をしたためて、

その命令に背かないことを神に誓い、

これに「花押」を書き、血判を押した。

「なごりおしく候。秀頼をよろしく頼む」

家康に最期の言葉を残して、

息絶えたのは8月18日だった。

享年62歳。 

経を読む第三頸椎が憎い  岩根彰子

 

天下人である太閤秀吉といえども、

最期は、このような姿をさらすことに、

秀忠は、実に気の毒に思った。

秀忠は、お江に秀吉の最期を詳しく話した。

秀吉はやせ衰えて声も細くなっていたが、

死ぬ2・3日前に、お江に対して、     

「今後は余を父といわず、家康を父と呼ぶがよい」

     

と、秀頼に話したことも伝えた。

散っていく最後の力ふり絞り  河村啓子

「秀吉辞世の句」  

”露と落ち露と消えにし我が身かな なにはのことは夢のまた夢”

  

『豆辞典』

≪辞世の句というのは、本当にその期に及んで詠むものでなく、

あらかじめ用意しておくもので、秀吉のこの句は、

孝蔵主が預かっていたものといわれる≫

蓮華座をほぐせば辛子明太子  井上一筒

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大河ドラマ・『お江』-第31回-「秀吉死す」  あらすじ

秀吉(岸谷五朗)が、火事の見舞いに徳川屋敷を訪れた。

秀吉は、江(上野樹里)秀忠(向井理)の、

夫婦ぶりに目を細め、
  

「嫁いでよかったであろう」
  
などと言い、余裕のあるところを見せる。

だが、人目もはばからず、

拾(須田琉雅)の肌着の匂いをかぐといった、

異常な行動を隠そうともしない様子は、

彼の老いと衰えを物語っていた。 

とりあえず午後から雲の動くまま  山本昌乃

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秀吉はその後、再び朝鮮に兵を送ると決める。

また、切支丹の弾圧にも乗り出した。

さらに、4歳の拾を元服させ、名を秀頼と改めさせる。

そうした行動を見て、家康(北大路欣也)は、

「殿下は、生き急いでおられるのやも」

と漏らす。

つまり、残された時間が長くないと悟り、

幼い秀頼のためにできるだけのことをしようとしていると・・・。 

鹿は野をかけるいつかは骨になる  墨作二郎

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迎えた慶長3(1598)年の夏、

ついに秀吉は、伏見城で回復することのない病に倒れる。

病床でひたすら秀頼の将来を案じ、

大名衆に、 

「秀頼を頼む」

 

と念を押すその姿はもう、衰弱した1人の老人にすぎなかった。 

三日月の欠けた部分がわたしです  岩田多佳子

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初(水川あさみ)は、秀吉を見舞うため、

高次(斎藤工)とともに急ぎ伏見城へ。

もちろん淀(宮沢りえ)も、秀吉のそばを離れない。

そして江は、秀吉にいよいよ死が迫ったころ、ようやく姿を見せる。

「私はあなたを殺したい。病などで死なれてはならぬのです」

涙をこらえながら、屈折した思いをぶつける江。

コンパスで正方形を書いている  和田洋子

そんな江に、秀吉は、「ひとつ頼みがある」と語りかける。

江は  

「秀頼のことなら知りませぬ」

  

と答えるが、それに対して秀吉は、

江の予想を裏切る意外な言葉を口にするのだ。 

昭和に戻れと出来ない事を言う  前中知栄

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その後の徳川の伏見屋敷では、秀忠と江は、

秀吉に死が迫り、家康が、天下に吹く次の風を、

読もうとしているところ、

絆を深めたかに思われた江と秀忠は、

相変わらず、微妙な距離のある関係を続けていた。

命を救われた江が、  

「あなたの妻として一心不乱に生きていきます!」

  

と力んだところで、

秀忠の反応は冷めたままなのだ。
 

妥協してもっと孤独になる夕日  杉野恭子
 
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だが、そんな状態であるにもかかわらず江は妊娠。

やがて、千と名付けられる女の子を産む。

秀忠は、千の誕生にも、

あまり感情を動かさないように見えたが、

実は驚くほど子煩悩で・・・。 

良かったね無事到着にまた感謝  庄田潤子

 

拍手[3回]

ドドーンと花火ぼくを笑ってくれないか  立蔵信子


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  淀川花火の日の明と暗         まもなく打ちあがります

「タマヤー! 鍵ヤー!」

江戸時代・川柳が誕生した文化・文政の頃(1800年頃)に、

「両国の川開き」で、玉屋と鍵屋が競って、

花火を上げていた。

これが、「東京・隅田川花火大会」の原型である。

帯に下駄淀川花火の忘れもの  幸松キサ

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江戸の様々な風俗を記した、

「守貞漫稿」(もりさだまんこう)という、
当時の随筆に、

小舟の上で花火を打ち上げる人を、

描いた絵が載っている。

当時の花火は、練った火薬玉をアシの筒につめて、

火の玉を飛び出させる方式だった。

花火師が火花を散らす夏の陣  ふじのひろし

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両国橋を境に、上流側は、「玉屋」が、

下流側には、「鍵屋」が陣取った。

ただ、玉屋は失火事故を起こし、一代で江戸を追放される。

30余年の活動だった。

一方、ライバルの鍵屋は、東京江戸川区で、

今も、
「宗家花火鍵屋」として、

現在15代目が元気に頑張っている。

タマヤ―と江戸の花火は祭り好き  松本あやこ

ところが、平成になっても、上の川柳のように、

かけ声というと
「タマヤ―」の印象が強い。

当時は、玉屋の人気が圧倒的だったらしい。

”橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋といわぬ情なし”

という狂歌もある。

情(錠)がないから、鍵屋と言わない、というココロだろう。

(折りしも、今年は東北震災のため、隅田川花火は延期になった)

ねずみ花火を首筋に入れる刑  井上一筒

「平成23年8月6日・淀川花火大会写真集」

五連発で始まった花火の饗宴

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P1090089.jpg P1090092.jpg P1090114.jpg  

花火師の構図夜空を画布にする  吉村雅文


花火見上げる赤い顔・青い顔

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P1090095.jpg P1090096.jpg P1090104.jpg

音だけの花火都会のビルで聞く  杉本克子

約一時間のドラマのど真ん中

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f160eb90.jpeg 928bec27.jpeg 3dd048e1.jpeg

花火師の魔法に嵌まるつもりです  井丸昌紀

華やかに儚く花が咲き乱れ

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P1090123.jpg P1090113.jpg e0cbdb69.jpeg

花火ドカン知らんオバンに抱きつかれ  北川ヤギエ

目を凝らして見ればキティやUFO

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574b6672.jpeg 50c5677a.jpeg db96c909.jpeg

線香花火はしゃいで姉の顔になる  桑原伸吉

一発の花火が落ちるてくるまで

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隙のない花火で仲間になどできぬ  たむらあきこ

山下清の絵のような

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花火大きくちいさく山下清描く  森中惠美子

クライマックス

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P1090144.jpg P1090142.jpg P1090146.jpg

線香花火ボトンと恋をあきらめる  本多洋子

フィナーレ

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P1090161.jpg P1090158.jpg P1090153.jpg

この花火終わるとあしたから他人  泉水冴子

拍手[5回]



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