忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[206] [207] [208] [209] [210] [211] [212] [213] [214] [215] [216]

すれすれを吹き抜けてゆく男の訃  たむらあきこ 

140b2c48.jpeg

エジャナイカの集団     

冬の京都は、底冷えがきつい。

地面の下から這い上がる寒気が、骨を凍てつかせる。

慶応3年(1867)11月15日、午後8時頃、

先斗町の料理屋を出てきた”七人の男”が、辻々で踊り狂う

"エジャナイカ"の人波を避けて、急ぎ足に道をたどり、

河原町通蛸薬師下ルの「近江屋」という、「醤油屋」をめざして歩いていった。

数珠をもつ遠く近くの死を思う  森中惠美子

e521dd5b.jpeg

中央に近江屋の名前が見える名簿

男たちは、京都見廻組」の一団だった。

新撰組と並んで、幕末の京都で活躍した”治安組織”である。

幕府旗本の子弟だけで、構成されていたので、

農民上がりと蔑む新撰組との対抗意識も強く、功名手柄を焦っていた。

この日も組頭の佐々木只三郎は、

配下の今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥仲蔵・桜井大三郎を呼び寄せ、

「これから重罪犯の逮捕に取り掛かる」

と差図を与えた。

耳よりも指揮振る人に目が走る  ふじのひろし

802bab2f.jpeg


龍馬が放ったピストルの弾痕(寺田屋)

「土佐藩の坂本龍馬に不審の筋があり、先年、伏見で捕縛しようとしたところ、

 敵はピストルを発射して抵抗。

 伏見奉行所同心2人を射ち倒して脱出し、残念ながら取り逃がした。

 その坂本が、今夜、近江屋に滞在中である。

 今度ばかりは、逃がさずに捕縛すべし。

 万一手に余ったら、討ち取ってよろしい」

狙われた坂本龍馬は、幕府側から見れば、指名手配中の凶悪犯であった。

綿菓子の死角でちょっとしたスリル  山本早苗

e2290188.jpeg

龍馬を斬ったといわれている、小太刀の名手・見廻組・肝煎桂早之助の脇差

「室内の闘争を予期して、小太刀の名人のみを二階に闖入(ちんにゅう)させた」

 実行者の間で、手筈が整った。

7人のうち、渡辺・高橋・桂の3人は二階に踏み込む。

今井・土肥・桜井の3人は、台所辺りを見張り、必要があれば助太刀する。

首領の佐々木は、家内に入らず、離れて立って成行きを見届ける。

近江屋はもう、大戸を閉ざしていたが、家内では人声がしていた。

表戸を叩き、出てきた男に

「拙者共は、松代藩の浪士でござる。

ごく内々の用件で、至急坂本先生にお目に掛かりたい。

夜分失礼とは存じながら推参致しました」

と取次を依頼する。

希望という名刺カオスへ散布する  唐木浩子

意外にも相手はまったく怪しまず、今井ら3人を店内に入れてくれた。

当の龍馬は、近江屋二階の奥座敷で、

同志の中岡慎太郎と国事を論じていた。

頑健な大男のくせに、寒がりの龍馬は、

その日、風邪気味で、真綿の胴着の上に舶来絹の綿入れを着込み、

さらにその上に、黒羽二重の羽織を重ねて、

火鉢を抱え込むように座っていた。

目の前にあるけど見たくない未来   岡田陽一

db0a5071.jpeg

事件当夜の近江屋二階・間取り図と暗殺者の進路。

黒線は刺客の襲撃経路、右下が階段、上右が床の間

火鉢を真ん中に、龍馬・慎太郎へ刺客はまっすぐに忍び寄った。

応対に出た男は、藤吉といい、相撲取りをしていた肥大漢だった。

「松代の旦那でござんすかい」

と、人を疑わず、巨大な体躯を運んで取次のため二階に上がる。

それに付け入って、足早に階段を駆け上がり、

襖を隔てた奥座敷に、名刺を通じて出てくる藤吉を、いきなり斬り倒した。

バッタリ倒れる大きな音に、

奥から、「ホタエナ!」

と、土佐弁で
叱責する声が聞えた。

暗殺の日-1-②へ・・・つづく

お茶室で太極拳をしています  井上一筒      

拍手[1回]

PR

テロ憎むうつくしい花咲く限り  森中惠美子

9c4c38f4.jpeg

    佐々木只三郎

『龍馬暗殺に成功した京都見廻組のリーダーは、「佐々木只三郎」という人物である』

佐々木は、幕末の剣客の中で、最強のひとりだったという説もある。

龍馬は、最も恐るべき男に狙われたといっていい。

七味とはいえ辛味しかわからない  清水一笑

佐々木只三郎は、会津藩の生まれである。

会津精武流の使い手で、その”小太刀の腕前”は日本一とさえいわれた。

佐々木は、見廻組だけでなく、

新撰組誕生をめぐっても、キーマンの役割を果たしている。

彼の兄である手代木直右衛門は、会津藩の若年寄で、

藩主・松平容保の懐刀のような存在だった。

この兄弟のラインが重要なのだ。

カメラでは捉え切れない無言劇  谷垣郁郎

佐々木只三郎は当初、新撰組の前身・浪士隊に取締役・並出役として参加。

浪士隊が東西に分裂したとき、京都に残った浪士隊は会津藩に預けられ、

これが新撰組となる。

この周旋工作をしたのが、佐々木だったと考えられるのだ。

佐々木は、兄・直右衛門と緊密に連絡し、

その兄が会津藩を動かしたのである。

与野党でオセロゲームの陣地取り  八木 勲

e5f8a38e.jpeg

新撰組誕生の主・清河八郎

見廻組の誕生にも、手代木・佐々木の兄弟ラインが、深くかかわっていたとみられる。

佐々木只三郎の名を一躍轟かせたのは、清河八郎の暗殺によってである。

清河八郎は、新撰組前身の浪士隊創立の呼びかけ者であり、

普通は3年かかる北辰一刀流の目録伝授を、1年で成し遂げた男である。

当代屈指の剣客であり、

新撰組の近藤勇、芹沢鴨ら荒くれ者も手を出せなかった。

あきらかに転ぶあきらかに嘲笑  中野六助

佐々木は、幕閣から清河抹殺の任を負うと、清河の隙を待ち続け、

ある夜、旧知の清河と、偶然出くわしたかのようにして挨拶、

清河が油断したところを、仲間とともに、一撃で仕留めている。

佐々木は、人を油断させるのが巧みで、龍馬もまた、油断させられてしまったのだ。

佐々木は、龍馬暗殺において、実行犯の奥に控えた。

仮に、龍馬が刺客の攻撃をかわし、階下に逃げたとしても、

そこには、佐々木只三郎が待ち構えている。

佐々木に狙われた以上、すでに龍馬に逃げ道は、なかったといっていいかもしれない。

劇薬と書いといたのに減っている  島田握夢

tizome-heya.jpg


龍馬暗殺の部屋

「余談」

幕府当局の目から見れば、龍馬は去る慶応2年1月23日、

伏見の寺田屋で、奉行所同心を殺傷した逃亡犯であるにすぎなかった。

佐々木只三郎は、報復の一念と大魚を屠る野心に燃えていた。

勝海舟は、

「佐々木に上から指示を下したのは、

 大坂町奉行から大目付に転じた松平大隈守信敏、

 ならびに、その下役だった目付の、榎本対馬守道衛だったのではないか」

と推定している。  (『海舟日記』明治3年4月15日)

≪当時の記録には、『時に坂本、名を変じて才谷梅太郎という。

 幕吏の探偵を避くるなり。しかるもなお流言あり。

「土佐の豪侠坂本は、頃日、浪士300人を率い窃かに京都に入り込めり”

 幕吏のこれを忌憚する事甚し」 

とあり、
デマ混じりの噂が書き残され、いかに危険人物視されていたかがわかる≫

破れない壁に明日へ覇気もらう  吉村久仁雄

1a006368.jpeg

鳥羽伏見の戦いで着用したとされる鎖帷子ー丈は約70センチ。(霊山歴史館)

麻と鉄で作られ、佐々木家の家紋・四つ目結が見られる。

右下に銃創を受けた血糊と、左肩口に斬り込まれた跡がある。

「佐々木只三郎・辞世の句」

”世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしの しら菊のはな”

死ぬ少し前に、飛び込んだ酒屋で酒代の代わりに、襖に書き付けたという。

暗殺の日・1-①へ・・・つづく

流れる砂転がる砂仏になる砂  山口ろっぱ 

拍手[7回]

一幕四場の俺のドラマのあとわずか    大海幸生

1b836dbf.jpeg

近江屋に履き捨てられた下駄ー(この下駄に近江屋の刻印が残る)

『龍馬暗殺は、数ある幕末の暗殺のなかでも、もっとも手のこんだもののひとつといえる』

危険を感じていたはずの龍馬が、まんまと油断させられ、

何ら反撃できないまま、斃されたのだ。

うまく行きすぎると何か恐くなる    宮前秀子

慶応3年(1867)11月15日/午後8時過ぎ、

龍馬が宿泊する”近江屋”に、
数人の武士が訪ねてきた。

武士達は、「十津川郷士」と名乗り、名刺を渡し、龍馬に面会を求めた。

一説には、「松代藩士」を名乗ったともいわれる。

取り次いだのは、龍馬の従者・藤吉だった。

龍馬には、面識がある十津川郷士がいた。

藤吉も、そのことを知っていたので、

疑いを抱くこともなく、二階にいる龍馬のもとに名刺を持っていった。

固まってなにかひそひそ悪だくみ    加山よしお

51723341.jpeg

藤吉は、龍馬に名刺を渡し、階段を下りてきた。

そこに刺客が待ち伏せていて、藤吉を斬り倒した。

二階の龍馬の耳にも、その倒れる音や藤吉の悲鳴が届いたが、

龍馬は、

「ほたえな!」

と、ひと言で片付けてしまう。

「ほたえな」とは、土佐弁で”暴れるな”・”ふざけるな”という意味だ。

龍馬は、元相撲取りの藤吉が、ふざけて相撲でもとっていると思ったようだ。

これが、最後の運命の分かれ目となった。

鼻血くらいでいつも救急車を呼ぶな  三好聖水

刺客らは、階段を駆け上がり、奥座敷の龍馬のもとに姿をあらわす。

そのとき、刺客らはいきなり戸を開け、襲いかかったという説もあるが、

刺客のひとりは、龍馬の前で、

「坂本様、おひさしゅうございます」

と丁寧に挨拶したともいわれる。

その説に立つと、刺客の挨拶に龍馬は、

「誰だろう?」 

と思案しながら名刺を見た。

そのやりとりで、刺客は、どちらの人物が龍馬であるかを特定できた。

五分五分の可能性なら賭けてみる  嶋澤喜八郎

12937120.jpeg

龍馬が敵の攻撃を止めた時の、刀の鞘のえぐれ

刺客は突如、刀を抜き、思案している龍馬に襲いかかった。

と、同時に別の刺客が、中岡慎太郎に襲いかかったという。

龍馬に襲いかかった刺客は手練であった。

最初の一撃は、龍馬の額を襲い、第二撃は、肩から背中を斬りつけてきた。

それでも龍馬は、刀の鞘をつかみ、

頭を狙ってきた第三撃を鞘で食い止めた。

だが、龍馬の抵抗もそこまでだった。

刺客は、もう一度龍馬の頭を狙い、刀を振り下ろしてきた。

龍馬は避けることができず、

この最後の一撃で、龍馬の脳漿が飛び出した。

青い絵の中で激しく吠えている    阪本高士

そして刺客は、龍馬が絶命したことを確認すべく、龍馬の脚を刺した。

このとき、「さあよからん」という言葉を残している。

いっぽう、中岡慎太郎を襲った刺客の手際は、龍馬を斬殺した刺客ほどではなかった。

中岡の全身を斬りつけ、中岡に28か所もの傷を負わせたものの、

とどめを刺せないでいた。

龍馬を倒したほうの刺客は、それで十分と見なし、

中岡を相手にした刺客を制止し、引き揚げにかかった

時を吸い尽す紫色の蛭     井上一筒

84f611c6.jpeg

刺客が立ち去ったあとの部屋

刺客の去ったのちも、龍馬には、かろうじて息があった。

龍馬は虫の息ながら、中岡慎太郎に呼びかけている。

中岡は、薄れていく意識のなかで、それを記憶した。

「挙動にくむべし、剛胆愛すべし。この剛胆ありて、初めて事をなすべし」

これは、自分を襲った刺客の実行力を、ほめての言葉だろうか。

つづいて、悔恨の言葉を吐く。

「遺憾なり。之をもって奴輩に斬らざりしことを」 

龍馬は、迫る死を無念に思ったのだ。

「余は深く脳を斬らる。とうてい生くるあたわず」 

これが、龍馬のこの世での最期の言葉となった。

≪中岡は、このあと救出され、龍馬より2日ほど長く生き、11月17日に息をひきとった≫

暗殺ー3へ・・・つづく

どん底に居ても明日の設計図  村田己代一

拍手[3回]

戦いの姿勢でブーツなどはくか    森中惠美子

ed85f3c2.jpeg

龍馬の死まで一か月、後藤へ認めた大政奉還の檄文、

ここから龍馬の運命の章は、終わりに向かうことになる。


慶応3年(1867)11月15日、

龍馬は盟友・中岡慎太郎とともに、暗殺される。

暗殺の舞台となったのは京都の”近江屋”である。

近江屋は、今の京都の繁華街・河原町通り沿い、

蛸薬師通りを南に、少し下ったところにあった醤油屋で、

龍馬の母藩・土佐藩の京都藩邸にも、醤油を納めていた。

京の街路面電車は雨に濡れ  田中峰代

6d63ad14.jpeg

近江屋主人・新助

龍馬が近江屋に潜伏したのは、近江屋が土佐藩と昵懇の関係であり、

主人・新助が意気に感じるタイプだったからだ。

近江屋から北に少し上がった三条通りの近くには、

材木商を営む「酢屋」があった。

そこは、海援隊の京都本部であり、

龍馬は普段、この酢屋を常宿にしていた。

最後となったこの京都入りでも、

9日から、酢屋に宿泊、13日になってから、近江屋に移っている。

抽斗の奥に眠っている地雷    笠嶋恵美子

龍馬は万一に備えて、近江屋では母屋には泊まらず、

裏庭の土蔵に潜伏していた。

近江屋主人・新助は、土蔵に隠し部屋をつくり、

そこに龍馬らを、かくまっていたのである。

新助は、情報漏洩を恐れて、

自分の家族にも、今回の龍馬潜伏を話していなかった。

手の内を読まれぬように霞網   伊藤益男

龍馬が常宿・酢屋を離れ、近江屋の土蔵にこもったのは、

幕府方の警戒体制に、ただならぬものを感じたからだろう。

京都では、「新撰組」に加え、

「見廻組」が新撰組と競うかのように、

警戒レベルを上げていたのだ。

新撰組から分離した高台寺党の伊東甲子太郎藤堂平助は、

新撰組の動きを察知し、

龍馬と中岡慎太郎に対して、

「新撰組が龍馬を血眼で捜している」

ことを語り、とりあえず、土佐藩邸に避難するように忠告した。

疑問符がまとわりついて眠れない  合田瑠美子

龍馬も、危険の迫っていることを感じ、

土佐藩邸入りを検討するが、

土佐藩邸は、かつての脱藩者に冷たく、龍馬をかくまうことを拒否した。

あとは薩摩藩邸が、頼みの綱だが、

「土佐へのあてつけになるから・・・」

と龍馬は薩摩藩邸へ入ることを、断念していた。

知らぬ間に味方の数が減っている  八田灯子

3061a037.jpeg

人通りも少ない近江屋の正面玄関

悲劇が起きるのは、龍馬が風邪をひいたためでもある。

旧暦11月中旬といえば、いまの暦では12月なかば。

京都名物の底冷えが、一段と厳しくなる時期であり

土蔵暮らしは、発熱している龍馬の体にはこたえた。

そこで龍馬は14日、土蔵から母屋の二階座敷に移った。

下水道の奥の無人島である   井上一筒                     

翌15日、龍馬は隣に住む土佐藩参政・福岡孝弟を二度訪ねるものの、不在。

夕刻には、中岡慎太郎が龍馬を訪ねてきたので、

龍馬は軍鶏鍋を食べようと思いつき、小僧の峯吉に、

「軍鶏を買ってくるよう」

頼んだ。

龍馬は用心棒をかねて、元相撲取りの藤吉を従者にしていたが、

ほかに備えはなかった。

龍馬は、無防備なまま、運命の夜を迎えた。

暗殺ー2へ・・・つづく

焼き鳥屋の前ニワトリは歩けない    西澤知子

拍手[5回]

賭けにゆく車窓にガスタンクが見える  森中惠美子

f7c004fd.jpeg

”大政奉還”は慶喜の「高度な政治判断」であったが、その目論見は外れた。

「大政奉還への道」

大政奉還は、徳川慶喜が放った「起死回生の奇策」というイメージで語られてきた。

政権を返上してしまえば、

薩長らの掲げる「倒幕」は、意味をなさなくなるという論である。

たしかに朝廷は、日本全土を統治する能力はない。

外国から一人前の政権として、認められるだけの外交実績もない。

≪まるで現在の民主党(菅政権)の事を言っているようである≫

「薩摩や長州は、しょせんは寄せ集めだから、やがて進退窮まって、

 徳川家を盟主とする政権を、作らざるを得なくなるだろう」

そのような「高度な政治判断」で考えた、慶喜の”大政奉還”であった。

橋上にうかつに耳を置いてくる  たむらあきこ

「一方、薩土盟約を実現した龍馬らの構想は・・・?」

大政奉還と武力倒幕は、一般的には、対立する概念と思われているが、

そうではない、いきなり幕府を軍事力で倒すとなると、

土佐藩のような親幕府的な心情を抱いている藩は、なかなか踏み切れない。

大政奉還を経ての、新政権構想を掲げることで、

「土佐藩のみならず各藩を次々と巻き込み、事実上、幕府を無きものとしてしまう・・・」

のが龍馬の考え方である。

4fbef503.jpeg

≪「薩土盟約は、あきらかに幕府を否定している」

「王政復古は論なし」

「国に、二帝なく、家に二主なし、政刑唯一君に記すべし」

「将職に居て政柄を執る、是天地間有るべからざるの理也」≫とある。

太陽に豆板醤をまぜた  石田柊馬

当時、全国のほとんどの藩において、藩内世論が分裂状況にあった。

「揺れ動く」諸藩を、可能なかぎり、

「倒幕」という、ゴールにつながる道筋に引き入れるため、

まずは、幕府に「大政奉還」をさせる。

最後は、徳川権力の廃絶につながっている「渡り廊下」としての、

大政奉還という考え方であった。

渡り廊下に入ってしまえば

「徳川権力の剥奪」
という建物に向かうしか道はないから、

結局は武力倒幕が実現する。

≪”大政奉還しない幕府を倒すこと” と、

 ”大政奉還して、弱体化した幕府を倒すこと” 

を較べれば、明らかに後者のほうがハードルは低いのだ≫

渡らせて淵となりゆく桂川  杉浦多津子

93a0f126.jpeg


後藤象二郎は大政奉還・「建白書」を幕府に提出する。

慶応3年(1867)10月3日のことである。

後藤は、当時、徳川慶喜は二条城に滞在していたので、

13日には、二条城におもむき、

慶喜の決断を仰ぐために会見におよぶ。

その会見の直前、後藤は龍馬から激励の手紙を受け取っている。

「もし後藤が戻らなければ・・・海援隊を引き連れて、慶喜を襲撃して自分も死ぬ」

さらには、もし後藤の献策が失敗して、

「大政奉還の機会を逸したならば・・・

 その罪は天が許さないだろうから、もはや生きていられないだろう」

と、後藤を脅迫するかのような、ことさえ書いている。 

なみなみの今を零してはならぬ  山本早苗

04097e58.jpeg

大政奉還が発せられた、二条城二の丸御殿大広間

大事にあたる際のこうした迫力、覚悟もまた龍馬の一面を語っている。

龍馬は決して、単純な平和論者ではなかったし、

時代の大変革が起こる過程では、

「ある程度の犠牲が出るのは止むを得ない」 と考えるリアリストでもあったのだ。

そして、後藤の献策をうけた慶喜は、その日のうちに、

在京40藩の重臣を二条城に招集し、「政権返上」を告げる。

翌14日、「大政奉還上表」が朝廷に提出され、

15日の朝議において、勅許が下り、大政奉還は正式に成立する。

ジンジンと来るバリトンのエピローグ  山口ろっぱ

ee0af232.jpeg

もはや賽は投げられた。

時代状況は、倒幕へと向かう激流となり、

龍馬もまた、その激流の中に身を置くことになる。

言葉などいらない目の前の海で  立蔵信子

d3cca135.jpeg

『龍馬伝』・第47回-「大政奉還」 あらすじ

大政奉還へ、

容堂(近藤正臣)の書いた建白書を受け取った将軍・慶喜(田中哲司)は動揺する。

龍馬(福山雅治)は、慶喜に一番近い永井玄蕃頭(石橋蓮司)に直接会い、

「徳川家を存続するためにはこれしかない」

と説き、慶喜を説得してくれと頼む。

あきらめたらあかん苦労が無に帰る  鈴木栄子

3460cb92.jpeg

弥太郎(香川照之)、「戦が始まり武器が高く売れるようになる」

と、銃を買い占めていたが、

ふと、「龍馬なら大政奉還を成し遂げる」

と思い立ち、方針転換して手持ちの銃を売りに転じる。

一方、永井玄蕃頭に後押しされ、慶喜は二条城に諸藩を集め、

大政奉還を問うが、どの藩も反対しない。

時流を悟った慶喜は、大政奉還を決意する。

視力0.1で見る時刻表  井上一筒

5e3edbe9.jpeg

知らせを待つ龍馬のもとに、勝(武田鉄矢)が訪れる。

幕臣である勝は、龍馬がなくそうとする幕府の人々の将来を憂うが、

龍馬は、

「皆が同じように、自分の食いぶちを自分で稼ぐ世の中になる」

と返す。

そこへ大政奉還の知らせが舞い込み、

新しい日本の夜明けに歓喜する龍馬。

吠えて吠えて吠えて維新の風が吹く  島尾政男

19f81282.jpeg

しかし、武力討幕を目指してきた”薩摩や長州”、

幕府に忠誠を誓う”新選組”、

そして、揺るぎないはずだった”権力を奪われた将軍、幕臣たち”が、

自分たちの道をことごとく邪魔をする、

龍馬の命を狙い始める。

≪「余談」ー龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していた。

 しかし、慶喜本人が、龍馬という人物の存在を知ったのは、

 明治に入ってからであった≫

生と死の中ほどに立つ彼岸花  前田扶美代

 

≪豆辞典 一の間、二の間を合わせると92畳の大きさ≫

拍手[5回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開