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川柳的逍遥 人の世の一家言
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男は土に女は風に死ぬという  森中惠美子

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「いろは丸事件・番外」

明光丸で備後の鞆に入ると龍馬は、さっそく紀州藩側と交渉するが、

徳川御三家の威光をむき出しにする紀州藩は、

結局、龍馬の言い分を徹底的に無視する。

海援隊の中には、

「紀州藩側に斬り込む」

と申し出てきた者もいるが、

龍馬はなんとかなだめ、勝てる方法を思案しいていた。

その最中、明光丸は龍馬を残したまま、長崎へ向かってしまった。

あまりの傍若無人ぶりに、龍馬の血は、ふつふつと燃え滾る。

同時に、龍馬はこの時、死を覚悟した。

ケロイド状の週刊兄貴  酒井かがり

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その時、不安になったのがおりょうの存在だ。

自分が死んだ後、長崎にいるおりょうは、独りになってしまう。

そこで龍馬は、三好慎蔵に、

「もしも自分が死んだ後は、おりょうの面倒を見てくれ」

と手紙を書いた。

慎蔵から手紙の話を聞いたおりょうは、嬉しかったに違いない。

龍馬の行動を見ていれば、確かに、

いつ死んでもおかしくない。

おりょう自身、その事に対しては常に、不安を抱いていた。

信じよと教え信じるなと悟す    上田陽子

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 龍馬談判する(記念館)            

「いろは丸事件顛末」

紀州藩は徳川御三家の威光をかさにきて、

高圧的な態度に出るが、

いざ長崎奉行所で裁判が始まると、紀州藩側の不利がわかっていく。

さらに龍馬は、丸山・花月を訪れると、唄を作り、お元たち芸妓らに披露した。

”船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る”

この唄は、すぐに長崎の花街で流行り、

やがて市中に広まっていく。

企みの輪ゴムを一つずつつなぐ  墨作二郎

裁判は、紀州藩側に不利に進む。

紀州藩も焦り、

「龍馬を暗殺しよう」 という動きも出てきた。

そんな折、龍馬の元へ、桂小五郎が訪ねてきた。

龍馬率いる海援隊と紀州藩の争いを、

「長州藩が支援するというかたちで、幕府と戦端を切る」

と言うのだ。

時勢は、もうそこまで沸騰していた。

潜ったと思て見てるが浮いてこん  杉山ひさゆき

ついに紀州藩は万策尽きた。

紀州藩は薩摩の五代友厚に調停を頼み、

龍馬はこの一件を、後藤象二郎に任せる。

ふたりの政治家が介入することで、

いろは丸事件は決着する。

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       いろは丸展示館

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   海底に眠るいろは丸

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   いろは丸のドアノブ

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いろは丸と沈んでいた”古伊万里の茶わん”

真夏の雲をイチニッサンで裏返す  石川重尾

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 桂小五郎・龍馬と高杉晋作

「龍馬と桂小五郎の仲」

桂小五郎は、薩長同盟締結時の長州側の代表者である。

龍馬は、桂を同盟へと口説き、桂をその気にさせるために奔走した。

桂と長州側の気持ちをもっともよく、汲み取っていたのは、

龍馬だったと思われる。

その龍馬の心遣いが、薩長同盟を成立させるが、

龍馬と桂の仲は、いささか不可解なところがある。

モールス信号が行き交う変な隣   北原照子

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龍馬というのは、野放図というか、

大言壮語好きなところや、丼勘定のところがあって、

時代が違えば、山師扱いにされかねない人物だ。

いっぽうの桂は、正真正銘のエリート。

龍馬が脱藩していた時代、桂は京都留守居役という重職を担い、

長州の若手リーダーのひとりでありつづけた。

≪ただ、高杉晋作のような奇想天外な発想力はなく、

 バランス感覚にはすぐれているものの、個性に欠ける秀才だった≫

生まれつきの顔でどうやら役がくる  玉木宏枝

個性派の龍馬と、まじめでやや個性に欠ける桂。

一見、水と油のようだが、なぜか互いに理解しあい、

相手を尊重することができた。

龍馬が、桂とうまくつき合えたのは、武市半平太という、

桂と同タイプの人物と、

近くで接してきたことがあったからかも知れない。

龍馬は武市を理解していたし、

武市は、龍馬に一目置いていた。

も一人の私が聖書読んでいる  成定竹乃 

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いっぽう、桂にしても、

個性的な人物である吉田松陰高杉晋作らと、つき合ってきていた。

桂は、自分にないものを持つ、個性派を好んでいたのかもしれない。

また、龍馬と桂は、相当古くから知り合いだったという説もある。

龍馬が江戸で剣を学んでいる頃、

桂も江戸にいて、斉藤弥九郎の練兵館道場の塾頭にまでなっている。

安政4年(1857)10月、江戸の鍛冶橋・土佐屋敷での試合には、

龍馬も桂も出場している。

そして、いろは丸事件においても、桂は龍馬の支援した。

ふたりには、若いころからの知り合いという”友情”を感じあっていたのだろう。

待ち人はカラスになって会いに来る  井上一筒    

拍手[7回]

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剥離する隙も与えぬ膝小僧  酒井かがり

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   龍馬、怒りの交渉

勢いというものは、多少の荒波を乗り越えていくものだ。

ふって湧いたような”船舶衝突事件”が起こる。

海援隊側の蒸気船・『いろは丸』と、

紀州藩の『明光丸』とが、航路不注意により衝突、

武器弾薬を積んでいた”いろは丸”が、沈没したという事件である。

沖に船あれどラッキョに義理はなく  筒井祥文

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   ”鞆の浦沖”の六島

当時の船舶規則により、

西欧型蒸気船は、右舷に青灯、左舷に赤灯を点滅させ、

海上を航行していた。

”いろは丸”は前方に”明光丸”の青灯を見ていたが、

突然、赤灯に変化したのを確認した。

すなわち、

「明光丸が、急旋回してきたために、間に合わず衝突した」

と主張した。

それが証拠に、衝突の際、明光丸の甲板には、人っ子ひとり見えなかった。

「これは海上前方を見張るべき艦員が不在であり、

 ”万国公法”に照らし、明光丸側の過失は明らか」

だが、船舶を所有する紀州藩は、海援隊に対して

「責任を負え」

と迫ったのである。

ほなどないしたらええのこんな時  有田晴子

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     談判の場面

龍馬ら海援隊の勢いを恐れてか、

まずいことに紀州藩の上部は、幕府を通じて、事件のもみ消しを図ったのである。

これが海援隊にバレた。

「ひきょうもん、やるか」

と龍馬は怒りまくった。

すでに薩長同盟は成っている。

それを斡旋した自信もあった。

「こん際、紀州藩にシロクロのけじめをつけちゃる」

と龍馬をはじめ海援隊の一行は、

長崎・丸山の料亭・「花月」にどっと繰り込んだ。

蟷螂の競り合い確と受けとめる  岩根彰子

そこで龍馬は、”前祝い”だと言って宴を開き、三味線片手に大騒ぎをした。

そのとき、即興で作った唄が、

”船を沈めたその償いは、金を取らずに 国をとる・・・”

というものであった。

この自作自演の即興歌は、大受けで、芸妓は踊りだすし、

隊員は気勢を上げるで、宴は朝まで続いた。

噂撒くやつは案外側にいる  松本あや子

やがてこの唄は、花街から流れて流行歌までなり、

判官びいきもあって、海援隊の人気は、うなぎ登りとなる。

今度は、海援隊の大人気が、紀州藩に伝わり、

世論の圧力に、押し潰されそうになった。

やむを得ず重い腰を上げた紀州藩の幹部は、事後処理の席につく。

情報集団でもある海援隊は、世論操作に成功したのである。

そして龍馬は、事実審理に万国公法の立場から臨み、

徹底的に理詰めで事件を追求し、

紀州藩が海援隊に、”賠償金-8万3千両”を支払うことで決着した。

したたかに生命保険かけつづけ  森中惠美子

この事件の最中にも、龍馬は、一つの心配りをみせている。

「紀州藩は徳川御三家の一つじゃ。

 薩長同盟にかかわった海援隊として、この泥仕合に負けるわけにいかんかった。

 しかし、こんワシには一つ悩みがあった。

 それは小次郎(陸奥宗光)のことじゃ。

 あやつは紀州藩の出じゃきに、気をもんでおってのう。

 もともと (けんかいー堅物)な性格じゃきに、海援隊の中で評判が悪うて、

 その上にあの事件じゃろう・・肩身の狭い思いをさせてしもうたぜよ。

 しかし小次郎には、『幕府を倒すための策、オンシが気を病むことはないぜよ』、

 と言っておいた」

というものである。

龍馬が、陸奥にみせた優しさである。

枯れぬようテーマに水はやっている  壷内半酔

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「坂本は近世史上の一大傑物にして、其の融通変化の才に富める、

 其の議論識見の高き、

 其の人を、誘説感得するの能に富める、

 同時(代)の人、能く彼の右に出るものあらざりき」

めったに人を誉めることのない、陸奥宗光が、

言葉の限り、隊長を回顧して畏敬の念を捧げた。

≪事件が解決したその日、龍馬と海援隊の面々は再度「花月」に集い、

芸妓、弦妓、太鼓もちを左右にはべらせ、大判振る舞いの酒で、

カッポレを踊りながら勝利に酔ったそうである≫

階段の手すりを握る歳となり  井上一筒

1cf0369e.jpeg       

『ニュース・「いろは丸沈没事件」』

慶応3年(1867)4月23日23時頃、

最近、景観論争で脚光を浴びている”鞆の浦沖”の六島付近で、

海援隊の蒸気船・「いろは丸」(160トン)と、

徳川御三家・紀州の蒸気船・「明光丸」(870トン)が衝突をした。

龍馬ら海援隊一行は、明光丸に乗り移って鞆の浦に寄港、

海援隊側は、紀州側と4日間にわたって、賠償交渉を行った。

その後、舞台は長崎に移り、交渉は難航したが、

最終的に、龍馬側が、紀州側から多額の賠償金を勝ち取った。

力んでもピサの斜塔は倒せない  小谷竜市

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いろは丸と明光丸の海路図

≪右に明光丸・左にいろは丸 上図の右上に六島≫

「その時の、龍馬側の主張」

御手洗航路上を西進していた明光丸を、発見した”いろは丸”は、

左に舵を取り、遅れていろは丸を発見した明光丸は、

右に舵をとった後、左に戻し、衝突した。

その後、明光丸は、いったん後進して、いろは丸から離れたが、

再び前進して、再度いろは丸に衝突、これが沈没の原因となった。

明光丸は乗組員全員を乗せ、

いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが、途中で沈没したというもの。

主張する以上は腹を決めている  村岡義博

そこから120年後、昭和63年になり、

”いろは丸沈没事件”の調査が始まった。

以後、平成元年にかけて、3回にわたる調査の結果と、

平成17年に行われた、第4次調査で、

いろは丸の積み荷全体の遺物を、ほぼ収集された。

遺物は、約220点余り。

「ドアノブなどの内装品や船具」

「積み荷の水銀朱を入れた木箱」

「刀の柄などに用いられた、鮫皮(エイの皮)を保管するための台座」

などのほか

「履き込まれた革靴の靴底」、

などが収集された。

ポチ連れて埋蔵金を嗅ぎ回る  八木 勲

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不思議なことに、積み荷の最新式銃などの補償をめぐって、

紀州藩と交渉し、巨額の賠償金の対照になっていた、

「ミニエー銃」「部品」 などは、

まったく見つかっておらず、

「交渉を有利にするための龍馬のはったり・・・ではなかったか」

との見方も出ている。

ポケットの底たくらみはかび臭い  墨作二郎

また、海援隊の商船・「いろは丸」とみられる船体の第4次調査で、

紀州藩・明光丸の船体の傷が、右舷にあったことなどから、

「海援隊側の操舵ミスの可能性があったのではないか」

と見られている。

これで、龍馬の信用は、ガタ落ちになるはずだが、

ニュース的には、何故か、おおきな問題になっていない。

≪龍馬人気が、真実に蓋をさせてしまったようだ≫

過去形で語ればみんな美しい  西山春日子

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『龍馬伝』・第42回-いろは丸事件 あらすじ

弥太郎(香川照之)の働きで、

蒸気船・いろは丸を借り受けた龍馬(福山雅治)たち海援隊は、

早速運搬業を開始。

だが、そんなやさきに事件は起こった。

大坂へ向かっていたいろは丸は、

夜半、紀州藩の船・明光丸と衝突し、あろうことか沈没してしまったのだ。

しかも、徳川御三家である紀州藩は、

「海援隊を脱藩浪士の集まり」

と、見下し、見舞い金として、千両支払うのみで事を済ませようとしたのだ。

これに納得のいかない龍馬は、

船と積み荷の賠償を巡って、談判し、

紀州藩と真っ向から、交渉することを決めた。

赤い月背おう高圧線のちりちり  山口ろっぱ

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談判に先立ち、元紀州藩士の陸奥(平岡祐太)は、

紀州藩の勘定奉行であった父が、失脚させられたと打ち明け、

「どうしても勝ちたい」
 と語る。

1度目の談判が、不調に終わり龍馬は、

「これは幕府と土佐藩の戦いであり、負けてはならない」

と、2度目の談判に同席するよう後藤象二郎(青木崇高)を説得。

かたや紀州藩も、

勘定奉行・茂田一次郎(中尾彬)が、談判の席に現れる。

いざという時へ裏技磨いてる  北川ヤギエ

拍手[4回]

私を高めそれから書く手紙  三村 舞

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  ≪海援隊京都本部・酢屋≫

”この二階に海援隊の仲間が集まった。”

『高瀬川の流れとともに』

高瀬川畔の「材木商・酢屋」は、御用達だった土佐藩との縁から、

二階を「海援隊」本部として融通した。

酢屋が、海援隊の本部扱いされるようになったのは、

酢屋がもともと、土佐藩と密接な関係にあったからである。

土佐藩の外郭団体といっていい、海援隊の京都本部になったのだ。

また、酢屋が高瀬川のすぐ近くにあり、

その立地を生かして海運業も営んでいた点も、

龍馬の目にとまったともいわれる。

一目惚れこれも一つの運のツキ  西藤次男坊

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≪高瀬川・舟入場一隻の船の展示があり、先の小橋を右へ渡ると酢屋だ≫

海援隊が、酢屋を本拠としたのは、

土佐藩とのあいだに、微妙な距離があったからでもある。

土佐藩は、海援隊を傘下に置いたものの、

藩政に危険が及んだときは、

海援隊を、藩から切り離すつもりだったのである。

そのため海援隊は、土佐藩邸に本部を置くことなく、

土佐藩に近い、酢屋を本拠としたのである。

≪その後、幕府による龍馬とその仲間への追及が厳しくなり、

 隊士の多くは、酢屋ではなく、大阪を本拠とした。

 龍馬も、酢屋では危険であると感じ、近江屋に移っている。

 だが、近江屋とて安全ではなかった≫

ピーナツを目に嵌め込んでいる門出  井上一筒

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右上の看板には、隊士名が記されている。

姉・乙女に宛てた、長文の手紙(慶応3年)には、

”酢屋二階”に投宿していたと記している。

また、酢屋に海援隊・京都本部を置いたこともあり、

陸奥宗光長岡謙吉ら多くの隊士も、投宿している。

11月15日、龍馬遭難の直後の”天満屋事件”も、

この酢屋の二階の一室に隊士が集まり、事件が起きている。

船宿に魚拓を囲む釣り仲間  山本憲太郎

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 姉・乙女宛・5メートルの長文

『龍馬の長文』

慶応3年6月24日、

翌日には、「薩土芸藩約定書」締結を控えていた。

龍馬は、早朝6時、河原町の「酢屋」二階の机の前にいた。

乙女姉と姪の春猪宛てに、手紙を書いていたのである。

その日は、相当爽快な気分であったのだろう、

龍馬が乙女に宛てた手紙の中では、

最も長い5メートルにも及ぶものだ。

花時計止めて待ってた人がいる  森田律子

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高瀬川・碑文

『慶應三年六月二十四日 乙女(姉様)、おやべ(姪)宛て
    
 『今日もいそがしき故、薩州やしきへ参りかけ、朝六ツ時頃より、此ふみしたゝめました。

 当時私ハ、京都三条通河原町一丁下ル車道 酢屋に宿申候。

・・・(中略)・・・

 此頃私しも、京へ出候て、日々国家天下のため、議論致しまじハり致候。

 御国の人ハ 後藤象二郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎、毛利荒次郎、

 石川清之助(此人は私同ようの人)。

 又望月清平(これハずいぶんよき人なり)。

 中にも後藤ハ、実ニ同士ニて、人のたましいも志も、

 土佐国中で、外ニハあるまいと存候』

 訳ー≪訳・・・は不要か・・・後藤象二郎をベタ褒めしている≫

味方だと言うが斜めに構えてる  籠島恵子

・・・(中略)・・・

 『かれこれの所、御かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と 御笑被下まじく候。

 私一人ニて、五百人や七百人の人お引て、

 天下の御為するより廿四万石を引て、

 天下国家の御為、致すが甚よろしく、

 おそれながらこれらの所ニハ、

 乙様の御心ニハ、少し心がおよぶまいかと存候。・・・』

訳ー≪「後藤象二郎に騙されているなどと、笑わないで下さい。

五百人や七百人で、御国のために尽すよりは、

土佐二十四万石の力を借りて、天下国家のために尽力する方が、良いでしょう。

姉様には、そこまで考えが及ばないでしょう」≫

こころざしのような背骨はもっている たむらあきこ

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高瀬川に展示の舟入の船≫

”龍馬が爽快な理由” は、

鞆の浦沖で起きた”いろは丸”VS”和歌山藩船・明光丸”沈没事件の賠償問題

が5月に解決し、

6月22日には「薩土盟約」も樹立させていた・・・からである。

≪「薩土盟約」は、薩摩藩小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通等と、

土佐藩の後藤象二郎、福岡藤次郎等で決め、

龍馬は、同志・中岡慎太郎と、現場に立ち会った≫

絆創膏はずすとルーブル美術館  石田柊馬

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≪坂本龍馬は土佐藩士なり・・・≫

手紙には、活躍する土佐藩の逸材として、

後藤象二郎を始め福岡孝弟、佐々木高行、毛利恭助、望月清平を挙げ、

中でも、後藤は、わが同志で志も魂も、土佐一番であると明記している。

これを読めば、

「勤王党贔屓の乙女姉が、気分を悪くする」 

のを、龍馬は十分承知しており、

事実、後藤と龍馬が同席したことは、土佐藩中を駆け巡り、

「龍馬許せぬ」

と騒ぎ出す者も、数多くいたらしい。

熱燗に変わると愚痴の第二幕  平尾正人

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≪龍馬が最も愛した乙女姉さん≫

乙女姉 からは、

「何故、後藤象二郎など、武市の敵と同志を組むのか」

との非難の手紙を、受け取っていたものと思われる。

ましてこの時期、

兄の坂本権平家の養子に入った春猪の夫・清次郎が、

土佐を飛び出して、龍馬の下に来ていた。

乙女の心配が、手に取るように判る龍馬は、

このことも権平兄に傷がつかぬように、後藤とも相談しており、

後藤に、

「天下のために働くことであれば、坂本家に傷はつくまい」

と言わせており、安心したことをさらりと姉に伝えている。

広辞苑電話で予約する霞  岸下吉秋

冗談めかして、大事業をなさんとする固い決心を、示しているのである。

反面、

「土佐から出たい」

と、乙女姉が言い出していることに対して、

「勤王や尊皇と騒ぎ、濡れ手で粟を掴むように、

 天下国家の話を吹き込む輩もいるのだろうが、

 女が出奔するなど、危険なことを考えるのはお止め」

と説得し、

洗脳はハーブの息とうすみどり  井上恵津子

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≪高瀬川沿い・土佐藩邸跡‐(酢屋より約100m)≫

春猪には、亭主が脱藩しているのに

「簪を送ってくれなどとは、何事か」

と諌め、はたまた兄の権平は、酒が過ぎるとか、

妻のお龍は、

「天下国家のことなど、壮言もせずに良く尽くし、

 縫いものなど、女の務めを果たしており、時間があれば本を読むように」 

と言って聞かせていると、

「姉様もそうすれば」

と言わんばかりの長文で、

龍馬の人間味あふれる優しさを、顕している。

踏み台にどうぞ丈夫なこころです  新家完司

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≪龍馬は筆まめだったようだ≫

脱藩以後は、土佐藩からも追われ、

幕府からも命を狙われた龍馬にしてみれば、

「読んだらすぐ火中に」 とか、

「人に見せるな」 と、

出した手紙の破棄を望み、

おそらく膨大な手紙の中から、残った”百三十九通”である。

(宮地佐一郎著参考)

階段の見える風景豆ごはん  墨作二郎

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≪酢屋のこの看板に向いの京劇が写っている≫

『酢屋とは』

享保6年(1721)創業から、京都三条で材木商を営む。

幕末、当時6代目・酢屋嘉兵衛は、この材木商を営む傍ら、

角倉家より、大阪から伏見、そして京へと通ずる高瀬川の木材独占輸送権を得て、

運送業も行なっている。

現在、酢屋の前にある”京劇”は、当時、高瀬川の「舟入」で、

高瀬舟が出入りしていた。

岸には、納屋が建ち、船の荷をあげていた。

そんな時こころで追っている昔  西山春日子

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≪酢屋二階は「龍馬」ギャラリーになっている≫

酢屋の東を流れる、高瀬川の川沿いには、

各藩の藩邸が立ち並び、

各藩との折衝や、伏見そして大阪との連絡にも格好の地であった為、

龍馬は「酢屋」に身を寄せていた。

嘉兵衛は、龍馬の活動に大いに理解を示し、

彼の活動の援助に力を注いだ。

龍馬は、家の者から「才谷さん」と呼ばれ、

二階の表・西側の部屋に住まいし、

当時の面影を残す二階の出格子より、

龍馬は、向かいの船入れにむけてピストルの試し撃ちをしたといわれる。

≪現在10代目・「酢屋」となった二階には、当時を偲ぶものが展示されている≫

男の罪を風の罪だと思わねば  森中惠美子

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円の中に座す円に疎外される瞬間  山口ろっぱ

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趣味の三味線を弾き、歌を唄う晋作

「幕末カラオケ事情」

高杉晋作は、折りたたみ式の”三弦(三味線)”を持ち歩き、

それを片手に酒で喉を潤わせて、浄瑠璃を楽しんだ。

十八番は、自作自演の即興だったそうだ。

静々と浄瑠璃を歌うのが、趣味であった。

龍馬が、陸奥宗光と一緒に、馬関にある奇兵隊の兵舎を訪れた際に、

高杉の歌う”鬱の虫が巣くったような”浄瑠璃を、

たんまり聞かされたそうだが、

龍馬の性格からして、飽き飽きしたようだ。

酔えば出る清和源氏のひとくさり  森山勝彦

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龍馬に見せるピストルの威力

しかし、龍馬は、高杉からピストルを一丁、もらうこととなり、

試し撃ちなどして、気が晴れた。

性格の違いか、高杉には近寄れなかった龍馬であったが、

高杉の小倉城攻撃のときには、

「やじうまなどしてよろしいか?」

と許可願いを受けて、

「よろしかろう」

というので、

「随分と勝ち戦を楽しめた」

と書き記している。

しゃっくりを止める話を持ってるか  森中惠美子

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晋作は破天荒に藩の金を自由に使った

このとき高杉は、すでに酒樽などを開かせて、

宴の準備を整え、指揮をとったという。

折りたたみの三弦も、手元にあったことだろう。

その三弦は、いわばカラオケ装置、

マイクは、自分の声のみとなるのだが、

江戸中期頃から浄瑠璃は、流行の兆しがあり、

三弦で節を取り、最初に浄瑠璃を楽しんだ人物は、

織田信長ともいわれている。

ちなみに、

≪源義経と長者浄瑠璃娘との恋歌≫を、シナリオにして三弦を奏でたものが、

いわば、”カラオケの始まり”であった。

巻き貝の奥からもれるピアノソロ  本多洋子

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  カッポレを唄い舞う芸妓

ところが龍馬の場合には、浄瑠璃などでは、満足できない。

テンポの良い歌に踊りが入る。

龍馬の十八番は、”カッポレ”の自作自演である。

いわば、アドリブを加えたシンガーソングライターなのだ。

それに必ず、酒も芸者も入る。

そして三弦、太鼓などの鳴り物に合わせて、

場を盛り上げるのが大の得意であった。

口八丁手八丁で腰軽い  吉岡 修

≪まさに、カラオケで悦に入る主人公を、演じていたのである≫

カッポレは、今でいうロックンロールのようなもの。

大判振る舞いの、馬鹿騒ぎをするのだが・・・、

海援隊の士気を盛り上げるのに、

役立つこと大であった。

≪行きつけの店は、今も残る長崎の料亭・「花月」であった≫

阿波踊りよりもおらがの盆踊り    筒井祥文

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晋作の何故かどこかに影がある

「晋作の日常」

奥番頭役から直目付役へと、昇進していった晋作の父親・忠太小は、

藩主にひたすら忠実で、実直な人物ではあったが、

小心な男でもあった。

「晋作や、おおぎょうなことはしてくれるな。トトの立場ちゅうものが、あるからのう」

というのが口癖であった。

晋作には、耳にタコができるほどではあったが、

彼の偉いところは、父親を心配させぬように、

気を使うところであった。

笑顔の裏も笑顔だなんていい人ね  八田灯子

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しかし晋作は、父親と違って、気性の非常に激しい、

また男気の強い性格である。

おいそれと父親の言いなりに、なってはいられなかった。

「おおぎょうなこと」

をせずにはおれない晋作は、

父親の目に触れないように、

こっそりと”おおぎょうなこと”をしていたのである。

よそ行きの顔は四隅を欠いておく  井上一筒

高杉家と少し離れた平安古(ひやこ)という街筋に、

久坂玄瑞が住んでいた。

このあたりには、槍持ちなどを、任とする武士などが、住んでいた。

そのためか、体格のよい男が、随分といたそうである。

久坂も六尺もある大きな男で、当時としては、相当に大柄であるが、

頭脳明晰で、幼いころから、

神童と呼ばれるほどであった。

その久坂との出会いが、高杉の人生を変えたのである。

取り扱い注意私の虚栄心  中井アキ

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       松下村塾

運命の場所は、吉田松陰の主宰する”松下村塾”である。

父親たちが、子に近寄らないように諭し、恐れた場所である。

村塾には、親の反対を押し切って、入塾した仲間たちが、大勢いた。

勘当されて家を追い出された者も、数知れずいた。

そういう不良仲間と呼ばれた若者たちを、指導していたのが、

吉田松陰である。

その松陰自身も密航を企て、牢獄に入れられていたのだから、

彼を大罪人と考える、萩の人たちも多くいた。

いわゆる、”村塾が危険視”されるのも、当然であった。

なァ息子時計の針を進めるな  板野美子

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   桂小五郎(谷原章介)

高杉にとって最大のライバルであったのが、久坂玄瑞である。

桂小五郎もいた。≪のちの木戸孝充である≫

桂は、19歳のとき江戸へ留学し、練兵館に剣術を学んだのだが、

生来の運動神経の良さか、入門早々に頭角を現し、

その塾頭になって萩に帰ってきた。

しかし、高杉はまだ頭角を現すに至らず、

詩作にふけったり、気まぐれに剣術の稽古をしたりと、

桂のような勢いがまだなかった。

桂の噂は、知っていただろうが、それほど関心も寄せず、

お坊ちゃん育ちの、ただの人だったのである。

美肌菌多いからとて持てもせず  ふじのひろし

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     村塾・教室

気性の激しい高杉は、入塾以来、

同じく負けん気の強い久坂を、意識するようになる。

久坂は、秀才の誉れが高かったのだが、

両親や兄とも死別し、いわば、孤児同然の境遇を送っていた。

久坂もまた孤独ゆえ、仲間を求めての入塾だったのだろう。

村塾には、いろいろな事情から常時20人ほどが、寄宿していたようだが、

通いも含めると、200人の若者が、出入りしていた。

このような中で、晋作は、いつかこの頂点に達し、

彼の個性を、発揮していくのである。

≪いわば”おうぎょうなこと”をしでかす、不良仲間たちとのエネルギーが、

明治維新を導いていくことになるのである≫

クモの糸学べることはたんとある     服部文子

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『龍馬伝』・第41回-「さらば高杉晋作」 あらすじ

長年の確執を乗り越えて、龍馬(福山雅治)は、

土佐藩の参政・後藤象二郎(青木崇高)と手を結んだ。

これにより、龍馬率いる亀山社中は、「海援隊」と名前を変え再出発。

土佐藩という、大きな後ろ盾を得た龍馬たちは、

運輸、開拓など、さらなる大規模な事業を展開しようと計画する。

それもこれも、自分たちの食ぶちを稼ぎながら、

大政奉還を実現するため。

龍馬たち海援隊の面々は、目標に向かって思いを新たにする。

ワインセラーから取り出す翼のひとつ  岩田多佳子

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そんな中、身の危険を感じた龍馬は、

お龍(真木よう子)三吉(筧利夫)に預けるため下関へ向かった。

久しぶりに再会した高杉(伊勢谷友介)は、病の床につき、

明日をも知れぬ身となっていた。

ともに浜辺に出かけ、2人は「新しい世」について語り合う。

「日本を頼みます、坂本さん」   

「ほんまは、高杉さんと一緒に新しい日本を作りたかった」

高杉の無念を肌で感じた龍馬は、

高杉の志を引き継ごうと心に決める。

先に逝くつもり我儘いうつもり  一戸涼子

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海援隊に新たな脱藩浪士も加わり、

小曾根乾堂(本多博太郎)が用意した離れを拠点として、

海援隊の活動がスタートする。

海援隊の経理を任されたのは、

土佐商会の主任である弥太郎(香川照之)だった。

彼は、龍馬たちの要望で、船を手配しようと奔走。

”いろは丸”を大洲藩から、借り受けることに成功する。

義理堅い氷河は水を盛ってくる  壷内半酔

拍手[7回]

耳削いで来れば仲間にしてやろう  井上一筒

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    海援隊の仲間

写真左から

白峰駿馬ー長岡藩藩士。日本最初の造船所を開設する。

千屋虎之助(菅野覚兵衛)ーお龍の妹・君江(紀美)の夫。一時期、お龍の面倒をみる。

龍馬ーこの写真の10ヶ月後に暗殺に遭う。

高松太郎ー龍馬の姉・千鶴の子。龍馬の遺志を継ぎ蝦夷地で活躍する。

岡本健三郎ー龍馬の護衛役。近江屋事件では階下に待機していた。

長岡謙吉ー海援隊副隊長 船中八策・大政奉還副書を起草する。

気が合うね出会いはそんな台詞から あいざわひろみ

”海援隊”を結成する前、龍馬は肝心の船を失い、

経済的に完全に行き詰まり、

亀山社中は、解散寸前の危機にあった。

そこに現れたのが、土佐の参政・後藤象二郎である。

後藤は、土佐商会を運営し、当時、長崎をたびたび訪れていた。

後藤の使命は、土佐藩の海軍力・海運力の強化にあり、

そのノウハウを持つ者を求めていた。

その後藤のアンテナに、龍馬の亀山社中がひっかかったのである。

後藤は、亀山社中が持っていたノウハウに期待した。

風を掬う風を吸う風満ち足りる  山口ろっぱ

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   ”清風亭”使用桐箱

慶応3年1月12日、後藤は、長崎の清風亭に龍馬を招待した。

そのとき後藤は、龍馬が贔屓にしていた芸妓・お元を呼んでいる。

後藤は、抜け目なく龍馬懐柔の下準備をしていたのだ。

この時期、土佐は、薩摩、長州にさまざまな遅れを取っていた。

遠雷を急ぐ自転車のペダル  森田律子

≪軍事力、産業技術力、交易力、国家構想力といった、

 当時、雄藩と呼ばれた藩が、必要としていた、

 すべての面において、遅れていた≫


また、土佐には、薩摩、長州との太いパイプもなかった。

土佐はそれらの遅れに気づいて、

形勢挽回に力を入れ、

その一環として、亀山社中の取り込みを考えたのである。

ライバルの斜め後ろに付くゆとり  上嶋幸雀

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  後藤と龍馬をとりもつ杯

後藤の提案は、龍馬にとっても、悪い話ではなかった。

当時、亀山社中は、薩摩藩の庇護下にあったものの、

資金的な援助はわずかであり、社中の財政は逼迫していた。

龍馬は次の手を打てない窮地にあったのだ。

しかし、土佐藩が出資してくれれば、金に困ることはない。

うまくいけば、土佐藩を動かして、政局をリードできる。

龍馬と海援隊が、幕末の主役に躍り出ることも、可能になる。

龍馬は、後藤の人間力、実行力を見て、

提携できる相手と踏んだのだろう。

そして両者は、過去を問わず、

血塗られた土佐の歴史を乗り越えて、合併した。

怨みからうらみへ向かぬ針の先  森中惠美子

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     土佐・開成館

慶応3年(1867)4月、海援隊が誕生する。

海援隊は、亀山社中と土佐の開成館という、二つの組織が合体して生れた。

土佐の開成館は、

土佐藩が慶応2年、殖産興業、富国強兵を目指してつくった組織。

山内容堂側近の後藤象二郎が、具体的に計画を立て、

 海軍を練成する軍艦局、貿易を振興させる貨殖局、

 産業開発をになう勧業局、外国語を訳す訳局、

 大砲をつくる鋳造局、などから成り立っていた≫

鬼太郎を捻って貧乏から抜ける  本多洋子

開成館の本部は、高知にあったものの、

その組織の性質上、高知では技術の向上を望めない。

そこで、海外交易の中心地である長崎にも、

”土佐商会”
と呼ばれる拠点がおかれた。

やがて、後藤象二郎は、

同じ長崎に拠点を置く、龍馬の亀山社中のことを知り、

提携を考えるようになる。

白い器に僕の野心を盛りつける  和気慶一

それは、土佐藩の上士勢力と、郷士勢力を結びつける、

作業でもあった。

開成館は、土佐でかって実権を握っていた吉田東洋の流れをくむものだった。

≪その吉田東洋は、尊皇攘夷を唱える武市半平太の土佐勤皇党一味に殺される。

 いっぽう、亀山社中には、土佐勤皇党の流れを組む者が多くいた。

 勤皇党は東洋暗殺後、一時、土佐の実権を握るが、

 容堂によって解散に追い込まれ、

 半平太は切腹、多くの党員が裁かれた≫

もうひとつのかけがえのない息遣い  笹田かなえ

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     海援隊約規

上記写真の記述は ”土佐藩および、そのほかの藩を脱藩した者、

海外に行きたい者なら、誰でも入隊できる”とある。

亀山社中の者たちは、後藤を憎んでいたし、

後藤は後藤で、東洋暗殺に関連した亀山社中の者らを、

快く思っていなかった。

だが時代の流れが、相容れないはずの、両者を結びつけた。

龍と象の約束のシェイクハンドぜよ  坂本龍馬

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