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川柳的逍遥 人の世の一家言
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2丁目より暗い3丁目の闇  雨森茂樹



ペ        リー提督横浜港上陸の図
 
 
「渋沢栄一」百姓をやめて武士になりたい>


渋沢家は、麦や藍お作り、養蚕もした。生産するだけでなく、藍は他所
からも買い入れ、自ら紺屋に売って商いも営んだ。家業は面白く、栄一
はこれに熱中した。努力は、手にする金額となって戻ってきた。また父
市郎右衛門の手腕と栄一の工夫、さらに質屋お営んだため、周辺の村の
中では、二番目に富んだ家といわれるほど繁栄した。そんな充実した日
々を送っていた栄一「百姓をやめて武士になりたい」と願う出来事が
起こったのは、17歳の時であった。


振り向いたとたんに虹が消えかかる  前中知栄




    代官・利根吉春

 
渋沢家は財産家ゆえ、藩の御用達として「姫様の輿入れ」「若君の元
服」など、藩の行事の際はなにかと金を用意せねばならなかった。
この年も金が要るからと代官に呼ばれたが、父に外せぬ用があったため、
代わりに栄一が赴いた。若森と名乗った代官は、実に居丈高に栄一に、
「五百両を差し出せ」と命じた。


白という理由でいじめられてます 月波余生


もちろん栄一に逆らう気はなかったが、自分は父の代わりに御用を伺い
に来ただけ、「自分一存で答えをだせないから、話をいったん持ってか
えって、父の返事をもって再び足を運ぶので…」と代官に伝えた。
それでなんの差し障りもないはずだが、代官は「駄目だ」という。
「今すぐ返事をしろ」と迫った。あろうことか、栄一が、女遊びに五百
両くらい使っていると決めてかかり「たかが遊びに使う金ほどの五百両」
と言い放ち、それを殿様に差し出すのは名誉なことで「有難く思え」
まで言った。さらに栄一を「融通の利かぬ役立たず」と愚弄し、散々侮
蔑の言葉をあびせてきた。


政界に忖度というドーピング  ふじのひろし




       渋沢栄一郎

 
「いったい、あれが人に金を借りる態度なのか。これまで我が家は二千
両ほども都合してきたが、一銭も返す気なぞないではないか。そもそも、
こちらは決められた年貢はすでに、納めているというのに、さらに金を
用意させられるのだぞ。だのに借りてもらえることを有難がれ」なぞ言
われても、無理があろう。「何故、借りる方が、ああも高飛車なのか、
少しも道理が立たず、腐りきっているではないか」


道しるべ判別できず赤とんぼ  山本早苗


そして、これを突き詰めれば、政治が悪いという結論に至った。身分や
役職が世襲されるせいで、実力が伴わず、ああいった若森のような愚者
でも代官になれるのだ。さらに諸侯の政治が悪いのは、徳川の世が悪い
からだと思い至った。栄一に、世の有様に対する問題意識が生まれた瞬
間であった。悪いものは正さねばならない。今の世のまま仕方がないと、
何も行動せずにいれば、分別のない人間に支配され、搾取され、一生が
終わるのだ。


矢印の向きゆるやかに黄泉の道  堀口雅乃



      江戸へ京へと集まってきた武士たち


ー百姓をやめて武士になりたいー
政治を動かしているのは武士なのだから、まずはその立場に己が就かね
ばどんな大層なことを考え、口にしても、空に空しく消えていくのみだ。
まずは今の自分の立ち位置を変えるのだと、栄一は決意した。


逆風に立ち位置変えて待つ一手  小林満寿夫
 


      尾高長七郎


栄一の「世を正すために武士になる」という決意が「討幕」の思いにま
で膨れ上がったのは、従兄であり、友であり、義兄でもある2歳上の
七郎の影響だ。栄一は19歳のとき、学問の師である尾高惇忠の妹・
を娶り、通称を栄一郎と改めた。長七郎は、その千代の兄であり、師
惇忠の弟である。大柄な長七郎は剣術家を志し、数年前から江戸に出て
修行に励んでいる。そのかたわら、「尊王攘夷」の思想に染まっている。


首になる時はいっしょだ竹とんぼ  森田律子


そのため、里帰りのたびに江戸から友人を招き、このころ流行りの「天
下国家の時勢」について論じる。
数年前にペリーが来航し、不平等な通商条約を結ばされ、時の大老が暗
殺されて以降、世直しについて同志と語り合う気風が高まっていたのだ。
「尊攘志士」と呼ばれる男たちが、活発に活動し始めたのも、この頃だ。
長七郎らと共に熱い議論を戦わすうちに、自分も江戸へ出て多くの高名
な志士と交わりたいと、栄一も感化された。


器ではないがいずれはしてみせる  磯部義雄

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半熟がうまいタマゴも人間も   新家完司


 
             南町奉行所           北町奉行奉行所
南町奉行所(数寄屋橋内)と北町奉行所(呉服橋内)の両奉行所は、
見ての通り、門構えが違い、大きさも違った。南が少し大きかった。


「江戸町奉行」は江戸幕府の職制で寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行
の一つである。江戸幕府はこれを重視し、老中の支配下に置いた。
「町奉行」は配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄
を指揮し、その職学は、江戸府内の行政、司法、警察の一切に及んだ。
定員は二名で南北両奉行所に分れ、月番で交替に執務したが、時に応じ
て増減された。原則として旗本がこれに任命され、役料は三千石、芙蓉
間詰で勘定奉行の上座、輩下に与力・同心がいた。
(南町奉行所は有楽町駅の南側で、マリオンの北側一帯がかつての場所
であったといわれ、名奉行・大岡越前守忠相は南を19年勤め、また遠
山左衛門尉金四郎は、南北両方の奉行職を勤めた)


公園の鳩と呼ばれていた巡査  くんじろう


「江戸町奉行」 遠山左衛門尉金四郎


「お奉行様は大忙し」
「町奉行」は、警視庁、裁判所、消防庁、東京都庁を兼ねた役所の長の
ように、絶大な力を持った存在だ、と思われがちだが……。
お奉行様は、奉行所内にある私邸から、朝8時ころに奉行所に出勤する。
前日の筆頭与力からの訴状などの報告( 月番の期間に受け付けた訴状を、
非番の期間に事務処理する体制だったが、それでも、訴状の山は一向に
減らなかったという)に基づき、部下の与力たちに指示を出した後10
時には、江戸城へ登城し、芙蓉の間に詰めて、町触れの草案を練るなど
の仕事をこなすのである。


暗闇のアルファベットの生欠伸  北原照子


そんな中、月に三度開かれる「評定所の会議」がある。奉行の職務で、
最優先しなければならない会議である。ほとんどの会議の内容が、大名
のお家騒動や直参旗本に関する案件で「町奉行、寺社奉行、勘定奉行」
「三奉行」の所轄範囲が複雑に入り組んでいるような事件だった
通常は合議制で処理されたが、時には、老中が出席したり、将軍の決裁
を仰ぐ事もあった。加えて、中奥の老中部屋へ出向いて報告を上げたり、
逆に老中から呼ばれ、指示を受ける事もあった。


も一人のボク沖でぼんやりしています 田口和代


昼食後。午後2時頃に江戸城を出て、奉行所へ戻る。奉行所では、午後
2時過ぎから、民事や刑事の「裁きの時間」である。とはいえテレビで
見るような「お白州」での取り調べではなく、実際は、吟味方与力が取
り調べは済ませてある。奉行は、罪状を読み上げ、形式的な質問を行い、
流刑、追放、敲き、お叱りなどのい刑罰の場合のみ、判決を申し渡す
だけである。死罪に相当するような罪状に関しては、将軍の許可を受け
なければならない。そこから許可が下りた奉行は、牢屋敷まで検使与力
を派遣し死刑を宣告して、即日処刑をした。一日のお裁きは、凡そ午後
4時まで、日暮れと共に大門は閉じられる。だが、奉行の仕事が終わっ
たわけではない。机の上には依然として訴状の山なのだ。奉行は私邸に
戻っても残務は、深夜まで続くのである。


風下でピリオド打てぬ酒を飲む  上田 仁
 




町奉行所は、玄関に向かって右に「当番所」があり、左に「詮議所」、
詮議所の奥に「お白州」がある。「例繰方」の部屋は詮議所と玄関の間
にある。詮議所では、吟味方与力が横に8人並んで詮議する。ほかに吟
味方同心がいて、吟味方与力の詮議を助ける。


悪人の仮面が剥げるイボコロリ  宮井元伸
 


     引退後の遠山金四郎


「遠山金四郎を彫る」


「町奉行」と聞いてまず思い浮かぶのは、テレビでお馴染みの大岡忠相
遠山景元(金四郎)である。こうしたドラマなどの影響もあり、奉行
所は犯罪取り締まりのイメージが強いが、警察、司法に加え行政・消防
も担当したほか、評定所の一員として幕政にも参加していた。
この役職は、元禄から享保の10年間を除いて二名で担当し、南北それ
ぞれの奉行所があったが管轄地は分かれておらず「月番交代制」で江戸
全体を管轄していた。非番の奉行所は表門を閉め、訴訟や請願こそ受け
付けなかったが、それまで抱えていた訴訟などを引き続き処理していた。


黄昏の髪は一本ずつ洗う  合田瑠美子


ここで遠山の金さんに焦点を合わせてみよう。
遠山金四郎景元には、若い時の放蕩と彫物伝説が今もって続いている。
その伝説は、当時からかなり広まっていたようだ。
大坂の医師の見聞録『浮世の有様』に、
『若き時、放蕩不順にして、心行い悪しく、家出をなして、吉原の辺り
にて、博打打ちの群れに入り、常に悪行をなして至りしが、親兄弟死失
して其の家を継げる者なきゆえに、此度、親類の斗らいにて召しかえし、
家督せしめしと云う事なり。かかる人物故、惣身残らず入れ墨をなして、
見苦しき事なりと云う事なり』
(時代劇で見られる彫り物は、右肩から右肘にかけての桜花が定着して
いるが、ここでは総身のこらずという。だが図柄は記していない)


良心の呵責はとうに捨てました   前中知栄 


金四郎と同じ町奉行所に、与力として勤めていた佐久間長敬は、維新後
の回顧談『江戸町奉行事跡問答』に、
『旗本の末男にて、書生中は、いづれの場所にも立ち入り、能く下情を
探索して、後年立身の心掛け厚く、学力世才に長じ、有為に仁物(人物)
なりしが、外見にては「放蕩者にて、身持ち悪しく、身体に彫物と唱う
墨を入れ、武家の鳶人足、大部屋中間にまで交際し、遊歩行きたる者な
どと云う評判(噂)を受けし者」なれど、ある年、志を得て官途に登る
や、忽ち立身して、天保・弘化・嘉永の頃には、北と南の町奉行を勤め、
余初めて勤めに入りしは、同人晩年、南町奉行の頃にて、裁判の様子を
一見せしに「毛太く、丸顔赤き顔の老人にて、音声高く、威儀整い、老
練の役人」と見受けたり。当時の評判には、大岡越前守以来の「裁判上
手の御役人」と申し唱えたり』
(大先輩に寄せる敬意がある。また風貌についての文言は、実際に見て
いる人だけに貴重である。ここでも彫の図柄は不明である)


ソプラノの切り口上に逆らえず  美馬りゅうこ



   歌舞伎が演じる遠山(大山)金四郎
 

因みに「南北両方の町奉行」を勤めたのは、他にもいるが、金四郎が初
である。これも評判を呼び、江戸後期の見聞記『藤岡屋日記』に
『遠山左衛門尉、先年北町奉行を相勤め、又候此度(またぞろこたび)
南町奉行に相成り、当人一代の内に、南北両奉行を相勤める事、是又珍
しき事ともなり』とある。


こげついた頭のような鍋みがく   田中 恵


「彫物の図柄」に、初めて言及したのは、旧幕臣の木村芥舟が、明治
16年(1883)に著した『黄梁一夢』だとされている。
『景元才幹有り、庶子たるの時、遊興を好み行剣(品行方正なところ)
なし、交わる所、皆市井無頼の悪小(悪い少年・若者)。たまたま兄
没し、家を継ぐ。幡然節(はくぜんせつ)を改む(がらりと変わる事)
すなわちー改心)。擢(ぬき)んじて監察となる。其の左腕に家紋を
鯨(彫物)するを以て、人駭(じんがい)異せざる莫し』。
(人駭異せざる莫しとはー誰もが驚き怪しむ事)


小刻みに出す言い訳のあれやこれ  山本昌乃



   両肩に描かれている金四郎の桜花


「左腕に花模様だった」とある。花といえば桜となり、はっきりと桜花
としたのは、同じく旧幕臣の中根香亭である。
『人となり慧敏(けいびんー知恵があり敏捷である事)然れども若き時、
放蕩にして検束(自制心)なく、常に酒を好み、娼家に宿す。既にして
(やがて)自ら怨艾(えんがい)し幡然(はくぜん)其の行いを改める。
…中略…。景元狭斜に放蕩せし頃、無頼子弟に伍して、腕に桜花の分身
(彫物)せり。故に顕官(高官)に登るに及び、常に硬く襯衣(下着)
を着け、盛夏と雖も脱することなしと、然れども、此の故を以て、頗る
下情に通じ、明鑑鏡を懸けるごとく、人之を欺く能わず。近代屈指の良
市尹(しいん)たり』。
(明治に入り人名辞典にまで「桜花」と記された段階で所謂「遠山桜」
が決まりとなってしまったようである)


真顔で見せたがる鎖骨のバーコード  山口ろっぱ


金四郎は、嘉永5年(1852)59歳で隠居し、帰雲と号した。
風得たり 青雲の志
南衛(南町奉行所)久しく御治む
足るを知る元龍を躍き
今敵う白雲の志


晩春の出口はみどり色螺旋  山本早苗


金四郎が初めて就いた役は子納戸職で、時に33歳。まことに襲い就職
ではあったが、15年後には「青雲の志」を果して、勘定奉行から町奉
行に就任した。因みに、初めての就職から町奉行に至るまでの15年は、
19年の大岡忠相に次、長いものである。そして白雲の志とは、隠居し
て悠々自適の心境であろう。元龍とは、『三国志』に登場する陳登の字
と思われる。元龍は、父の陳珪と共に劉備に仕えて功があった。
金四郎の父・景普(かげみち)は、長崎奉行や作事奉行などを勤め、幕
政に貢献している。金四郎は、元龍父子に思いを馳せ、人生の充足感は
元龍より上だと言いたかったのではないか。
天つ空照らす日陰に曇りなく元来し山にかゑるしら雲
                      (多士済々評判記ゟ)


落日の足は人間臭くなる  桑原すゞ代

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前略とサヨナラの隙間の重要案件  山口ろっぱ
 

 
      町方役人の夜回り


奉行所に属した同心と密接な関係を持ちながら、自治組織による町方役
人も町廻りを行った。中央の少し右ー提灯を提げている町方役人、右上ー
男を誘う夜鷹、左下ー蕎麦屋が描かれている。(近世職人尽絵詞     鍬形蕙斎画)


隠し立てできぬ闇夜のホタルイカ  銭谷まさひろ
 



 江戸の捕物に描かれた同心ー①
石川五右衛門を捕えようとする芝居絵に描かれた同心で、文久元年頃の
風俗を伝える。同心は十手を咥えて捕り縄を持つ。(歌川国明『増補双級巴』)




「江戸の定町廻り同心」



江戸の町奉行所は今日の裁判所であり、警視庁・東京消防庁を含む東京

都庁に相当する。吟味筋(刑事)双方の事件を南北奉行所月番制で扱っ
ている。奉行所の廻り方(外勤)同心は与力の下役で、禄米三十俵二人
扶持の待遇の低い待遇のもと、定町廻り、隠密廻り、臨時廻りの三廻り
に配属されていた。与力・同心は、拝領地八丁堀に住んでいたことから、
「八丁堀の旦那」と呼ばれた。
町廻りは、町奉行支配地である江戸御府内を、芝筋、本郷筋、麹町筋を
中心に定員12人(南北で24人)の少数同心が、昼夜に分かれて巡回
した。寛文2年(1667)5月、新開地の本所・深川筋が町奉行の管轄に加
えられて以来、それを「定町廻り」と呼ぶようになった。


心音を数えて一日が終わる  合田留美子




 
江戸の捕物に描かれた捕り方ー②

 五右衛門に与力が刀の鍔に手をかけ捕り手が投げ飛ばされている


 
その役目は、当初は浪人の辻斬りへの警戒、明暦3年(1657/1月18日~
20日)の明暦大火後には、火気取締りに重点が置かれるようになったが、
享保6年(1721)からは博奕・市中風聞虚説や奢侈風俗取締りに重点が移
されている。ともかく、江戸100万人と言われた大都市をたった24
人で犯罪防止に務めるのである。


お互いが入れた切り取り線でした  有海静枝


「定町廻り」と改称されたように、同心たちは昼は四ツ(朝ー10時)夜
は暮六ツ(夜ー6時)の定刻より、自身番屋伝いに巡回して、事件の有無
を問うたり、留置のと科人については、事犯によって大番屋送りの指示
をおこなったりした。定廻りは、夫々の町奉行の下で、担当地区を巡回
し、お上が出した法令が守られているか、如何わしいことはないかなど
を監視し、犯罪が発生すれば取り締まる。犯罪捜査よりもパトロールの
意味が強かった。


青空を破いてグイと鼻をかむ  菊池 京



江戸の捕物に描かれた捕り手と五右衛門ー③

五右衛門は食らいつく捕り手たちを千切っては投げ千切っては投げる。

 
廻る地域は広域であるため「足早に背中にひびを切らして歩いた」と言
い伝えられ「竜文の裏の付いた三ツ紋付の黒羽織(夏には紗か絽)暑い
時分には「菅の一文字菅」「背に十手を差す」という。髪型は「八丁堀
銀杏」という独特のスタイル。通常、腰に木刀を差す供(小者)を一人
連れ、さらに後に二人の岡っ引きを付けている。この姿が、力士や役者
と並んで「八丁堀の旦那」と町方からもてはやされたものである。


罪と罰烈しく掻き混ぜてパフェ  酒井かがり


因みに、与力と同心とでは、十手の差し方が違う。
刀と揃えて腹の前に刺すのが与力で、腰の後ろに隠して差すのが同心。
その根拠は定かではないが、現場を動き回る同心としては、町に溶け、
身分を悟られるのがまずかったのかも知れない。また与力には、訴訟
を処理する権限があり、ほとんどの事件は、与力の処理を町奉行が白
洲で追認していたが、同心の職務は捜査、逮捕、取り調べまでだった。


二者択一に割り込む粒あんトースト  山本早苗


いわゆる与力は検察・裁判官。同心は、大岡越前守や必殺仕事人のドラ
マを見ての通り、定廻りがメインの仕事で、現場検証をし岡っ引きを情
報屋に雇い、下手人を捕縛し、番屋で取り調べもするが、取り調べで容
疑が固まった段階で、与力に犯人を引き渡す。
そこから先は権限外となる。
与力との関係は職務上はっきりと上下の関係にあり、同心が与力に昇格
することは、極めて稀である。


草間弥生で隠す心の破れ  合田留美子



         捕り縄の極意書


与力を長としない奉行直結の同心の掛りがあった。
「遠山の金さん」のお白州の場面などを見ても、なるほどと分る通り、
用部屋手付、隠密廻り、定町廻り、臨時廻り、下馬廻り、門前廻り、御
出座御帳掛り、定触役、引纏役、定中役、両御組姓名掛がある。
また「隠密廻り、定町廻り、臨時廻り」「三廻り」という。
同心の役格は、年寄役、増年寄役、年」寄並、書物役、物書役格、添物書
役、添物書役格、本勤、本勤並、見習、無足見習の11に分かれている。


真実を前に節穴が並ぶ  居谷真理子


「定町廻同心」
 同心の花形といわれ、法令の施行を視察し、非違を監査し、犯罪の捜査、
逮捕をする役で、現在のパトロール警官である。これが映画、小説で同
じみの「定町廻同心」であるが、その定員は一町奉行所にわずかに6名
である。南、北町奉行所で12名。臨時廻同心も同数であるから合わせ
て24名、これで江戸府内を巡回して治安に勤めたのであるから驚異的
である。この12名がそれぞれの受持区域をもって、常時廻っているが、
つい手が足りないから岡ッ引・下ッ引が動員されるようになるのである。


新しいナビには古地図古代文字  くんじろう


「臨時廻同心」
定町廻同心の予備隊のような存在であるが、その職務は全く同じであり、
定員は一組6人、両町奉行所で12人である。れは定町廻同心を永年勤
めた者がなり、定町廻同心の指導、相談に応じる先輩格であった。


チョイ悪の目つきのままで爺さんに  上田 仁


「隠密廻同心」
「江戸町奉行事蹟問答」に次のようにある。
「隠密探索は同心へ奉行より申し付けるなり。予審中主任与力より申し
含めることもあり、その方法は、同心職務につき奉行も与力も指図する
ことなし、専任するなり。何事に不依聴込たることは、善悪ともに奉行
に告げ、奉行の耳目となって働くなり。捕縛すべき罪悪と認めるものは
奉行へ告げるまでもなく時期を移さず町廻りとはかり捕縛し、忠孝美事
に至るまで奉行へ告げるなり」


ぴったりと背中合わせの幸不幸  清水英旺
 
「同心の服装」
江戸の町を巡回している南北あわせて20人の定廻りと臨時廻りは、独
特の格好をしている。御成先着流し御免といって、将軍の御成先でも着
流しを許されていて、武士なら必ず身に付けなければならない袴をはか
ない。着物の柄は派手な格子か縞。身幅は裾が割れやすいように女幅。
その上に竜紋裏三ツ紋付の黒羽織の端を巻羽織といって裾を内側にまく
りあげて帯に挟み、茶羽織のように短く着る。髷は八丁堀風といって一
を詰める。
(一とは髷の元結で結んだところから後方に突き出た部分)


もう一度やってみないかサラリーマン  中村秀夫
 


      秘伝の捕縛術
制剛流に「早縄」をはじめ当時の捕縛術は8種類あった。


「例繰方という役職」
廻り方の事務部門にあたる。「例繰方」は捕らえた下手人の状況に応じ
て断罪の擬案を行い、前例の御仕置・裁許帖に照らし合わせて書類を作
成し、奉行所に提出する役回りである。罪因の犯罪捜査、被害者の情状、
断罪の議案を擬案を蒐集記録し、他の事件捜査の参考に資し、また検討
索例を掌る。事件解明のための重要な仕事をこなし、かなり繁多な業務
だが給料は安い。(居眠り磐音というお薦めの本がある)


雑音はまとめましたと粟おこし  美馬りゅうこ
 


      秘伝の捕縛術ー②

「岡っ引き」
同心が自分の身銭で雇う町人の情報屋を「岡っ引き」という。
定廻り同心は、巡回のときに「小者」を連れている。これは正式な配下
ではないが、同心直属の部下になる。
これに対して、その区々の持ち場で手助けをする者を「岡っ引き」とい
った。岡っ引きは「御用聞き」ともいわれ、江戸以外では「目明し」
西では「手下」とも呼ばれた。小者が同心屋敷で生活している下男とす
れば、 岡っ引きは同心に個人的に仕えるだけで、保証らしいものはない。


口先だけは立派な男だったのよ  森田律子


「下っぴき」
同心の下には岡っ引きが、2、3人付いているが、その岡っ引きの下には
また4,5人の手先が付いている。岡っ引きも、一人前になると一人で7,
8人くらいの手先を使っていた。それらを「下っ引き」といい張り込みや
連絡が必要な時に、 緊急で招集をかけるときの手数である。
岡っ引き、下っ引きを合わせると千人ほどが江戸市中を廻っていた。ドラ
マなどに登場する岡っ引きは、正義の味方が多いが、実際は、その立場を
利用して強請を働くような必要悪的なものだった。しかし犯罪の捜査には、
裏の世界に精通している彼らの存在が、どうしても欠かせなかった。


小塚っ原から胴体だけ戻る  井上一筒

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帆をあげよ鼻腔に南風のいい薫り  くんじろう



「渋沢栄一」 『論語と算盤』漫画と名言


「論語」は、孔子が残した言葉を弟子たちがまとめたものである。
それは儒学となり、そこから朱子学も派生して、徳川幕府の支配思想と
なった。徳川幕府が倒れ、明治になると、朱子学は廃れ、何もかもが西
欧風に変わっていった。渋沢は明治政府に仕えながらも、こうした時代
風潮に違和感を覚えていたのだろう。論語を道しるべに生きた渋沢イズ
ムを『論語と算盤』に書かれた名言を、通して渋沢栄一に触れてみる。


引導を渡す間合いの最初はグー  中 博司


     














 





 

















 







 















 







 「民、信なくば立たず」


「子貢 政を問ふ」 子貢が孔子に政治の要諦を問うた。
子曰く「足食、足兵、民信之矣」
孔子は、まず第一に食生活の充実をはかってやること。次に軍備をとと
のえること、そして、民の信頼を得ること、と答えた。
子貢が問うた 「必不得已而去、於斯二者何先」
子貢は、ではその三つのうち、止む得ずして一つを除くとしたら、
どれを除きますか、と尋ねた。
孔子は言下に「軍備を捨てよ」と答えた。
子貢は続けて「その二つとも保持し得ない事態が到来した場合、どちら
を捨てますか」と聞いた。
孔子曰く「食を去らん。古よりみな死あり、民信なくんば立たず」
つまり、食を過大視してはならぬ。道が信じられず、道がすたれるよう
ではおしまいだ、というのである。


カンガルーの最短距離のジャブ  井上一筒









 


渋沢 「私が考え実践してきた合本主義は、単に私利お追及資本主義と
は異なり…私利と公益の合一を考えるものです」
「仁義礼智信」
「孔子を始祖とする儒学の五つの項目は、ここに『信』がありますが…
もう一つ『義』がありますね」
孔子が言ってます「行動に際して義を優先させるのは、小人である」
「私も、事業に関して利を優先せず、義お優先してきました。
『義』とは世のため人のためになること…公益だと言い換えられます。
社会・国・世界…公(益)私(利)お合一させること、つまり合本主義
です」
「国家社会の助けがあって初めて自分でも利益があげられ、安全に生き
ていくことができる。私が常に希望しているのは<物事を進展させたい>
<モノの豊かさを実現したい>という希望をまず人は、心に抱き続ける
一方で…その欲望を実践に移していくために『道理』お持って欲しいと
いうことなのです」
「その『道理』とは、社会の基本的な道徳を、バランスよく推し進めて
いくことにほかなりません」
「道理と欲望とがピッタリくっついていないと国や社会は衰えていくで
しょう」
「一方、欲望がいかに洗練されようと、道理に背いてしまえば、いつま
でも<人から欲しいものを奪い取らないと、満足できなくなる>という
不幸を招いてしまう」


ニッポンと叫ぶ時だけ日本人  一階八斗醁


 

 


「孔門十哲の一人・子貢(しこう)が孔子を語る」
孔子「言語は子貢」と称するように、子貢は雄弁な人物であった。
子貢の雄弁さは、孔子に限らず多くの人が褒めそやしており、人から
「孔子よりも君の方が優れているよ」と言われることも多々あったが、
子貢は奢ることなく、孔子の方が素晴らしいことを弁舌爽やかに一人
一人に諭した。という。


あんた何時から味醂になりはった  山口ろっぱ


「告げ口好きな魯の子服景伯(しふくけいはく)へ説得する場合」
「屋敷の塀にたとえれば、私の家の塀は肩くらいの高さですから、
家の中が小奇麗であることが窺うかがえるでしょう。
しかし、先生の家の塀は、優に背丈以上の高さがありますから、
門を叩いて中に入らなければ、その宗廟の美しさや役人たちの元気な様
子を見ることができません。その上、敷地が広大すぎて、その門を見つ
けることができる人が少ないようですから、子服景伯殿が「私を先生よ
り優れている」
と言われたのも仕方のないことです」
(ともかく孔子とその弟子の言行録である「論語」の中に子貢は、最も
多く登場してくる人物である)


曇天を切り取り血豆をひとつ  酒井かがり


「斉の26代君主・景公と子貢との孔子についてのやりとり」
景公「あなたは誰を師となさっているのか」
子貢「仲尼(孔子)が私の師です」
景公「仲尼は賢いですか」
子貢「賢いです」
景公「どのように賢いのですか」
子貢「存じません」
この子貢の答えに景公は、訝しんだ。
景公「貴方は仲尼は賢いと言いながら、その賢さが、どのようなもので
あるのかは知らないという。それでよろしいのですか」

それに対して、子貢は、
「人は誰でも、皆天が高いことを知っておりますが、では、天の高さは
どのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたし
は仲尼(孔子)の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなもの
であるのかは知らないのです」

と、子貢は孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。


忖度の胃もたれに効くパンシロン  中野六助


「渋沢栄一・名言」


名言 ①
「金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。
しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。
金儲けにも品位を忘れぬようにしたい」


エレベーターの十八階で肩がこる  森 茂俊


名言②
「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論である
が、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済
の上から自滅を招くようになる。ゆえに、士魂にして商才がなければな
らぬ。その士魂を養うには、書物という上からはたくさんあるけれども、
やはり「論語」は、最も士魂養成の根底となると思う。


音のない日暮れに愛は育たない  森田律子


それならば商才はどうかというに、商才も、論語において充分養えると
いうのである。道徳上の書物と商才とは何の関係が無いようであるけれ
ども、その商才というものも、もともと「道徳」をもって根底としたも
のであって、道徳と離れた不道徳、詐瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆ
る小才子(こざいし)小悧口(こりこう)であって、決して真の商才で
はない。ゆえに商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書た
る論語によって養える訳である」


無駄縒りは1本もない蜘蛛の糸  新家完司


大正3~7年(1914-1918)の間、第一次世界大戦が繰り広げられた。
それをきっかけに空前の好況を迎え、「大戦景気」と呼ばれるバブルが
始まった。世界的に船舶が不足したことから「船成金」と呼ばれる大金
持ちが続出し、財閥も力を強めていった。工業生産額は農業生産額を追
い越し、求人率が増え、仕事をもとめて人が都市へと集まる結果を生む。
急速に近代化がすすむと、若者の間にも「立身出世、金儲け」が注目さ
れる時代となった。
しかし、大正7年、終戦にともなって「戦後恐慌」が起き、さらには、
大正12年に「関東大震災」が発生し長期間の不景気に陥ることとなる。
そうした時代の中の大正5年、渋沢栄一『論語と算盤』を出版した。


過去帳が湿る少しの悔いがある  西澤知子


名言③
「算盤は論語によってできている。論語はまた算盤によって本当の富が
活動されるものである。ゆえに「論語と算盤」は、甚だ遠くして、甚だ
近いものである」
「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。 正しい道理の富でなければ、
その富は完全に永続することはできぬ。 ここにおいて論語と算盤という
懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考え
ている」と説き、論語(道徳)と算盤(経済)との一致を試みるのだ。


じいちゃんの一喝満月が上がる  和田洋子


名言④
「そのため仁義道徳によって利用厚生の道を進めていくという方針を取り、
「義理合一」の信念を確立するように勉めなくてはならぬ」と説く。この
義理合一こそ孔子の、すなわち論語と、算盤を一致させる精神なのだ」


煙突を抜けると美しい敬語  山本早苗


名言⑤
「道徳を論じている書物と商才とは、何の関係もないようだが、商才と
いうものは、もともと道徳を基盤としているもの。道徳から外れたり、
嘘やうわべだけの軽薄な才覚は、いわゆる小才子や小利口ではあっても、
決して本当の商才ではない。したがって、商才は道徳と一体であること
が望ましい」
すなわち渋沢は「事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、
多数社会を益していくのでなければならぬ」と言い「多く社会を益する
ことでなくては、正経な事業とは言わない」と断言する。


度の合わぬメガネと遊ぶおぼろ月  田村ひろ子


名言⑥
「道理は天における日月の如く、終始昭々乎(しょうしょうこ)として
毫も昧(くら)まさざるものであるから、道理に伴って事をなす者は必
ず栄え、道理に悖(もと)って事を計る者は、必ず亡ぶることと思う。
一時の成敗は長い人生、価値の多い生涯における泡沫の如きものである」


引き際を探しあぐねている蚯蚓  河村啓子 


名言⑦
「いやしくも正しい道をあくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを
避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうと
すれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようにな
ってしまう」


明日を語る資格などありません 雨森茂樹    


「子貢が孔子に言った。それに対して孔子は何と言った」
子貢曰「他人からされては嫌だと思うことを、自分も他人にはしない。
私は、こういう人間になりたいと思います」

孔子曰「それは、とても難しいことだ。お前にできるか?」
普通の人なら「いいことだ。おおいに頑張れよ」
と言うところだが、孔子はそうは言わなかった。
孔子は子貢が日ごろ、口先が達者で、実行が伴わないことが多かったので、
嗜めたのである。


鑑みる右脳辺りの二毛作  蟹口和枝
 

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テロップのニュースへリンゴ剥きながら  山本昌乃


             
               読売は読んで売るから読み売り屋

「青柳たたくあだ口の波 読売の双帋の名 残雁鳴いて」
双帋=草紙・半紙
「読み売り」は、かわら版を面白おかしい呼び声で売り歩きます。
「黒船来る」など、時事問題からうわさ話や、全くのウソ話まで、
口先ひと
つで売れ行きが決まります。
また幕末には長編の事件物も売られ明治の演歌師に引き継がれた。

「新米の 歌も出来秋 よみうりの くちに年貢も いらず儲ける」


帽子から仏像を出す象も出す  嶋沢喜八郎


「読み売り」 ー瓦版


「読み売り」とは、江戸時代、世間の出来事を摺り物とした瓦版を面白
おかしく読み聞かせながら街を売り歩くこと。また、その瓦版やそれを
売り歩く人を言った。
「きのう、芝居で、大きな喧嘩があった」
「ムム、それは、どうした」
「いやも、大乱(大騒ぎ)よ。相手はひとりじゃが、強い奴さ。
大勢かかるところを取って投げる。踏みつける。桟敷へほうりあげるや
ら、ぱらりぱらりと人つぶて。これは叶わぬと、舞台へ逃げ上がるとこ
ろを、足を取って引っ張ると、ぐっと足が抜けた」
ーなんともオーバーな報告だが、こういう巷の噂話を、瓦版に摺って売
り歩いたのが「瓦版」だった。(安永二年四月序『芳野山』)


年収は讃岐うどんが五本ほど  中野六助


ー読み売りというものに数種あり、三、四人より六、七人づつ伍をなし
て、時の出来事を探り、公に関せざる珍しき事ある時は、善悪とも即時
に印版に起し、駿河半紙という紙に摺り立てたるを、互いに珍しそうに
呼びつつ歩く。これは、この度世にも珍しき次第は、高田の馬場の仇討
ちなどと言いて売り歩くなり。
 大火ある時は、焼場所を図面に起し、焼失したる戸数、屋敷、寺社、
町名、町数、火消しの消し止めより、死傷の次第を明細に記して売る。
地震、暴風、天変地異ある時も同じく印して売るなり。
また、敷き物を路傍に敷きて店を張り、坐して売るものは、大火の記事
を面白く読み聞かせつつ売るなり。
また、路傍に立ちて、図面を手に持ちて売るあり。焼け場、方角、場所
付けを御覧なさいと言いながら売るあり。(『絵本江戸風俗往来』)


捨てても捨てても正直には遠い  山口ろっぱ


ーこの種の読み売りばかりでなく、世上の事件を節付けして歌い歩く者
もいた。世上にあらゆる変わったる沙汰、人の身の上の悪事、万人のさ
し合い(さしさわり)をかえりみず、小歌に作り、浄瑠璃に節付けて、
つれぶし(連節)にて読み売るなり。愚かなる男女、老若の分かちなく、
辰巳あがりそそりもの。これを買い取りて楽しみとす。
(つれぶし=他の人と節を合わせてうたうこと) (『遊笑覧』)


棺桶が軽い中味はいれたかい  中村幸彦



葛飾北斎画、瓦版を売る読売の姿。
 江戸時代、瓦版の配布は禁止されており、時代劇などでは、左側の姿で
しばしば登場するが、このように顔を露わにするのは明治維新直前まで
無く、右のように編笠を被って、顔がわからないように売った。


瓦版の売り子を「読み売り」と呼ぶ。江戸時代、先にも書いたが、読み
売りの実際にしていた格好は、多くの場合「深い編み笠で顔を隠す」
いうものだった。瓦版販売は、幕府によって禁止されていたので、上の
絵のように二人は顔を隠して瓦版を売り歩いた。大体、二人一組で活動
し、一人が販売し、もう一人が見張り役をした。
【知恵袋】 瓦版が世に出はじめるのは、天和年間(1682~83)頃から
で大量に出版されるようになるのは、天保期(1831-45)以降とされる。


 その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子


封建制を敷く江戸幕府は、瓦版のような世間の出来事を広報する庶民の
メディアを良く思ったはずはなく、貞享元年(1684)には、報道を制限
する「読売禁止令」を出した。とはいえ、江戸時代の「お触れ」という
のは、ノルマのようなものがあり、適当なもので、役人も余程のことが
ない限り、読み売りを捕えたりはしなかった。互いに「空気」を読んで
いたのだろう。なお、当時は「われわれが瓦版と呼ぶ刷り物」「瓦版
の販売者」も、ともに読み売りと呼ぶ。


少しだけ飾りつけてる舌の先  原 洋志


瓦版は、時事問題を伝えることが使命だが、商売だから、売れなければ
成り立っていかない。だから、取り上げるニュースは「社会的に意義が
あるかどうか」というよりも「庶民が興味をもってくれるかどうか」
いうものだった。当時、瓦版の売り上げがよかったナンバー1、2位は、
やはり「黒船来航と安政江戸地震」だった。驚きと信じられない情報で
庶民は、「何事!?」と、瓦版を買い漁ったものだった。


瓦版めくってブランデーちびり  新家完司



          「黒船来航の瓦版」


嘉永6年(1853)6月3日、アメリカのペリー提督が率いた黒船四隻が
神奈川県浦賀沖にやってきた。彼らは幕府に、開国を要求しに来たわけ
だが、庶民は、そのような交渉よりも黒船自体に興味があった。
(何!あれ何?何で、何しに来たん、という感じ程度のものだった、か)
右上には、「長サ 三十八間、巾 十五間、帆柱 三本、石火矢 六挺、
大筒 十八挺、煙出長 一丈八尺、水車丸サ 四間半、人数 三百六十
人乗」と、黒船の詳細なデータが記されている。
(因みに、黒船来航のニュースは瓦版史上最大のヒットになった)
 
 
三日月の顎で刈り取る虚栄心  斎藤和子



    「蒸気機関車が描かれた瓦版」


 ここにも詳細なデータがあり、左上に主にアメリカという国について
の説明があり「アメリカの首都はワシントンである」という情報までが
書き込まれている。当時、日本は、オランダ、中国、朝鮮、琉球の四ヶ
国としか国交がないところへ、アメリカが割り込んできた格好であり、
続いてロシア・イギリスも加わり、開国の波が押し寄せ、日本の危機を
報せるニュースであったが、庶民は、この後、結ばれる日米和親条約が
何であろうと、また開国の何たるかは知らず、関心ごとは、アメリカ側
の贈り物である蒸気機関車の模型などにあった。


二度三度聞き直してもカタカナ語  美馬りゅうこ



「米俵を船まで運ぶ要員として集めた力士を報じる瓦版」


日本政府はアメリカに沢山の米俵を贈り、それを運ぶため力士を雇った。
アメリカ人は背丈が高い。180㎝を超える巨漢のアメリカ人が多くい
たのに対し、日本人男性の平均身長は、155㎝ほどだった。こういう
対抗策として弱味を見せたくない日本は「日本にも大きな人間がいるぞ」
ということを見せたかったのだろう、力士はそういう要員としてかりだ
された。


ほんものの馬鹿になれたら強いもの  奥野健一郎



    「安政江戸地震の瓦版」
安政江戸地震の直後に出た瓦版「関東江戸大地震井大火方角場所附」は、
被害状況や幕府が被災者のために作った「お救小屋」の位置などが書か
れている。


安政2年(1855)10月10日、江戸で起きた直下型地震。震度は
6以上だったと言われ、木造ばかりだった江戸の建築物は、ほとんどが
被害を受けた。死者は、江戸府内に限っても、一万人前後と推察され、
この地震の被害状況を伝える瓦版は、600種以上発行されたという。


神様もリセットしたい過去がある  前中
 


「ゆるがぬ御代要之石寿栄(みよかなめのいしづえ)」


ここに地震の被害状況が詳細に書かれている。記事のはじめの方を要約
すると「結婚や仕事で地方から江戸に出てきている人々は、一刻も早く
故郷の両親に『私は無事でした』と知らせて安心させてあげなさい」と
ある。瓦版製作者の優しい気遣いが感じられる、記事もあった。


巡りくる春へと命立ち上がる  平井美智子



 「妖怪アマビエのニュースを伝える瓦版」


令和の時代にも登場するアマビエは、弘化3年(1846)4月、現在
の熊本の肥後国の海に夜ごと光り物が起こったため、土地の役人が赴い
たところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6
ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。ただし、同時に疫病が流行するから、
私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ
て海の中へと帰って行った。当時も拝んだ、神様仏様アマビエ様~だ。


他人事と厚意は高い棚に置く  有田一央
 

 「遠くの出来事をどのようにして取材をした?」
幕府や大名、役人の書状を運んだ「飛脚」は、命ぜられて火災や洪水の
取材をして、情報を伝える役割を担った。江戸の中期以降は、飛脚屋が
公式の災害通信を扱うようになり、大地震や大火事が起きたときには、
めざましい活躍をみせている。飛脚は各地のニュースを集めるだけでな
く、その情報を手書きや印刷して、関係方面にも届けた。かわら版を取
り扱う書店なども、飛脚をニュースソースにして江戸時代における通信
社的な役割を担った。


セミが鳴く生保の額を調べてる  靏田寿子


 

「瓦版はなんぼ」
瓦版は、戦争の陣地の様子や火事・地震や火山の噴火など、災害の報道、
心中や敵討ちなどの人情話やゴシップから、徳川家と天皇家の動きなど
の報道まで、人々が知りたがる情報を1ー2枚ほどの紙に刷り、読み聞
かせたりしながら売った。瓦版の値段は、江戸時代を通じて3-4文。
当時のかけそばの値段は16文だから、庶民が気軽に買える値段だった。


やわらかいティッシュは名刺がわりです  森田律子


しかし、瓦版は心中事件などをセンセーショナルに書き立てて煽った為、
時には「人心を惑わすべからず」と幕府に取り締まられるようになった。
ペリーの黒船が来航したときなどは、幕府は「異国船について書くこと
ならず」と厳しいお触れを発した。が、したたかに瓦版の商売人は、使
命感?というものか、今、起こっている事実(情報)を書いた。
それにより庶民は、黒船の来航や地震のことを知ることができた。
やがて幕府が揺らぎだすと、政治の動きを伝える瓦版は、「新聞」とい
う名で明治3年、発行されるまで、庶民の知る権利という、大きな役目
を果たてきたのである。


ふるさとの駅にむかしの風の音  みぎわはな

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