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川柳的逍遥 人の世の一家言
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濡れそぼつグレーの穴でありました  徳山泰子


  井伊直虎と虎松

徳川幕府で譜代大名筆頭を務めた井伊家は、幕末の大老・井伊直弼らを
排出した名門。そんな井伊家は戦国時代、当主となる男子が相次いで亡く
なり、お家断絶の危機に直面した。
そんな時代、「徳川四天王」の一人となる武将・井伊直政の後見人を務め、
尼から城主となった女性がいる。数奇な運命に翻弄されながら、
一家の危機
を救ったのが、次郎法師こと「井伊直虎」である。

大河ドラマ・「おんな城主-直虎」の予習―①

「おんな城主」直虎は男性か? (新聞が報じる直虎の新事実)

井伊氏は徳川幕府下の彦根藩主として有名だが、戦国期には遠江の

井伊谷の領主で、今川義元に代表される今川氏の配下にあった。

これまでは、直虎は井伊谷城主、井伊直盛の娘の次郎法師が家督名乗って

家督を継ぎ、後徳川家の重臣となる井伊直政の養母となったとされてきた。

発見された史料「守安公書記」には、今川氏真(義元の子)の配下にあった
                                  にいのさまのすけちかのり
井伊家について、井伊谷の領地が、直盛の義理の兄弟・新野左馬助親矩

甥にあたる「井伊次郎」に与えられたとの記述があった。

直虎の存在を示す史料は永禄11年(1568)、新野左馬助の兄とされる
  うじつね
関口氏経との連名で「徳政令」を出した時の書状しか見つかっていない。

同館の井伊達夫館長は「次郎法師は徳政令反対はだったので、

井伊次郎が父の氏経と連名で出したと考える方が自然、

井伊次郎こそ直虎と名乗った可能性が高い」と指摘する。

はてさてどうしよう凭れかかられて  雨森茂樹

(拡大してご覧下さい)
新聞が語る井伊直虎とは誰のことだったのか


磯田道史・国際日本文化研究センター准教授は、

「次郎法師のいとこが直虎を
名乗った可能性が見てとれるなど興味深い」

と評価。


「今回の史料で直虎と名乗った可能性のある人物も、その後の行方が不明。

今後の系図研究などが重要になる」と指摘する。

井伊館長は彦根藩から分藩した分家の分家の当主を2005年に継いだ。

今回見つかった古文書は、約50年前に彦根市の古道具店で購入したという。

史料は享保20年(1735)に編集され、新野左馬助の娘らに1640年、
               きまたもりやす
彦根藩筆頭家老を務めた木俣守安が聞書きした記録などが、収められていた。

隙間から覗く世間が面白い  北川ヤギエ   

「井伊谷は力を持った武士たちが勝手に所領の取り合いをし、

わがまま放題をして沈静化しないので(氏真が)関口越後守(氏経)の子を

井伊次郎とし井伊谷の知行をあてがった」との記述もあった。

これまで「次郎直虎」は江戸中期の史料「井伊家伝記」に登場する女性

「次郎法師」と同一人物だと考えられていた。

彦根市の彦根城博物館は「見つかった史料は全体を見ないと評価できない」

とやや困惑気味だ。

NHK公報局は、この新聞の取材に「ドラマはあくまでフィクションです。
一年間、視聴者の皆様に楽しんでいただける大河ドラマを制作して参ります」
と文書で回答している。

予習はまだまだ、続きます。

剃刀をあてると膜は震えだす  くんじろう

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