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川柳的逍遥 人の世の一家言
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アサリにはなりたくはないシジミにも  雨森茂樹


    井伊直政

「おんな城主-直虎」の予習ー⑨

慶長5年(1600)9月15日、美濃・関が原。

東軍を率いる徳川家康は、石田三成ら西軍との戦いに臨んでいた。

天下分け目の大勝負である。

7万を数える東軍には、歴戦の強者たちが顔を揃えていた。

中でも先陣を許された福島正則の鼻息は荒く、

前方の宇喜多隊を睨みながら、開戦の時を待っていた。

そこへ小隊が現れ、福島隊の脇を追い越していく。

正則は激昂した。

「何者か!本日の先陣はこの福島正則に任されておる。

    抜け駆けは何人たりとも許さぬぞ」

「抜け駆けではござらぬ。内府様(家康)の御曹司(忠吉)の初陣ゆえ、

    清洲侍従様(正則)のお働きぶり、後学のため拝見いたしたく、

    参上つかまつった」

古い地層からはみ出している痴話喧嘩  赤松蛍子


龍潭寺の開山堂に残されている井伊家御用達の駕籠。
武具と同じように鮮やかな赤で塗られている。


そう応えたのが、赤い甲冑に身を包む忠吉の後見役・井伊直政であった。

井伊家24代当主の直政は、この時40歳。

自身の後見役であった直虎が世を去ってから。

すでに18年の歳月が流れていた。

三河以来の家臣でない直政だが、徳川家中で異例の大出世を果たし、

本多忠勝、酒井忠次、榊原康政と並んで「徳川四天王」と称されるに至る。

その第一歩となったのが、

天正12年(1584)「小牧・久手の戦い」であった。


24歳の直政の戦いぶりを、「名将言行録」は次のように記す。

「直政が赤旗、赤幟、朝日の光に輝きて山より此方に駆け下し、

    縦横に駆け破り、敵終に打ち負けて、大将数多打たれしかば、

    士卒は言ふに及ばず。

    此時よりして、京家の者ども直政を赤鬼と名づけけり」


呼び鈴を押したら鬼が顔を出す  嶋澤喜八郎


直虎に甘える将来の赤鬼

「井伊の赤鬼」と謳われた活躍ぶりを誰よりも喜んだのは、

泉下の直虎だったかもしれない。

翌年、直政は小牧・長久手の戦いの武功により6万石に加増され、

井伊家旧領のすべてを取り戻したのである。

かって井伊谷で一族の者たちが、次々と理不尽な最期をとげ、

やむなく直虎が女性の身で当主となったものの、城を追われたこともあった。

しかし直虎は決して「井伊家再興」を諦めることなく、

その志を継いだ直政の手によって井伊家の悲願は成就したのである。

春風が沁みるレタスにも花が咲く  桑原すゞ代


 井伊家最古の鎧

関が原前夜には、直政は武勇だけでなく政略にも手腕を発揮し、

多くの豊臣恩顧の武将を味方に引き入れた。

こうした点も、あるいは直虎や南渓和尚らと通じる部分なのかもしれない。

そして関が原当日。

福島隊には後学のためと称した直政だが、
傍観する気など毛頭なく、

自らの指揮で真っ先に鉄砲を宇喜多隊に撃ちかけた。


これが合図となり、関が原の合戦が始まる。

「本日の戦で内府様は天下をお取りになる。

    ならば一番に仕掛けるのは徳川の臣でなければ格好がつかぬ。

    福島には霧の中で敵に撃ちかけられたと申せばよい」

それが直政の言い分だったが、なんとも大胆不敵であった。

左といえば右と言い張る川獺  徳山泰子

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