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川柳的逍遥 人の世の一家言
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すべからく咲けば散りますあしからず  田口和代

拡大してご覧ください)
  徳川四天王図
徳川家康および彼に仕えた徳川四天王・井伊直政、酒井忠次、本多忠勝、
榊原康勝。直政の兜が史料通りに描かれている。

「おんな城主-直虎」の予習ー⑩

織田信長の死後、豊臣秀吉が台頭し、着実に天下人へとのし上がっていく。

家康は天正12年(1584)秀吉との直接対決、小牧・長久手の戦いに臨む。

そこで井伊直政は初めて、赤備えの部隊を率いて手柄を立て、

天下に名を知られるようになる。

直政は小柄ながら赤備えを率い、長槍を構えて真っ先に敵陣へ突き進んだ。

軍律も厳しく、違反した兵には容赦なく刃を振るい、

敵味方を問わず、
「井伊の赤鬼」と恐れられた。

ゴキブリを叩いてちょっとだけ晴れる  桑原伸吉

その後秀吉は家康を懐柔しようと自身の母・大政所を人質として送ってきた。

その警護役にあたったのが、直政である。

大政所の侍女らは、直政の端正な顔立ちと丁重な仕事ぶりに惚れ込むほどで、

また大政所は自ら茶を立て直政に振舞ったという。

「秀吉の元に帰るときは道中も警護しておくれ」 と頼まれてもいる。

こうして直政は、徳川軍を代表する名将へと成長していった。

膨らんだ鼻はうすうす知っている  山本昌乃

天正18年(1590)、北条家が滅亡すると、家康は関東へ移封される。

それに随行した直政は、井伊谷を離れる代わりに上野国箕輪城に

12万石の所領を与えられた。

この石高は徳川家臣団で最高であり、他に10万石以上与えられた者は、

本多忠勝、榊原康政のみであった。

また京都御所においては、家康の家臣の中で直政だけが昇殿を

許される
立場となるなど、筆頭格といえる存在に上り詰めたのである。

この星の全ての人が笑う日よ  徳山泰子

又、直政は政治・智略の面でも成長をみせ、秀吉死後の政治抗争において

交渉役を任され、黒田長政藤堂高虎などを家康の味方に引き入れている。

天下分け目の大戦・関が原の戦いにおける直政の活躍は、⑨に述べた通り。

女婿の松平忠吉とともに、先陣の福島正則を出し抜いて、


敵に突撃してから、凡そ6時間後には決着がつき、

西軍が敗走するや、
直政は島津隊を追撃する。

ところが追撃中、敵の伏兵が放った弾丸を腕に受けてしまう。

一命は取り留めたが、傷は深かった。

血流は酸っぱく明日の不透明  山口ろっぱ


       関が原合戦図
直政率いる赤備えの井伊隊が西軍の島津隊を追走する瞬間が描かれている。

合戦の翌年、長年の戦功から直政は家康から、

敗軍の将・石田三成の旧領・近江佐和山18万石を与えられた。

佐和山は、また交通の要衝である。

家康は最も信頼できる家臣・直政にこそ、相応しい土地と考えたのだろう。

当時、佐和山城は「三成に過ぎたるもの」とまでいわれた名城であったが、

関が原の後は荒廃していた。

直政は別の場所に新たな拠点となる城を築こうとしたが、

その矢先に体調を崩す。

関が原で受けた銃創が悪化したのである。

月光の電信棒は誰の墓  河村啓子

故郷の井伊谷に帰りたい―そう願った直政であったが、

病状は徐々に悪化し、ついには起き上がることも出来なくなってしまう。

そして慶長7年(1602)2月21日、赤鬼・直政は意外なほどあっけなく、

42歳の生涯を終えるのであった。

なお直虎、直政の血脈は、これから260年・13代・井伊直弼へと続く。

(「おんな城主-直虎」ー予習は、これにて終了いたします。
次からは、「源氏物語」54巻を分かりやすく、簡略にお送りします。
源氏物語をまだお読みでない方、ご期待ください。)


郷愁の赤はぱっくり鬼おこぜ  前中知栄

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