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川柳的逍遥 人の世の一家言
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日ノ出ズル国ノオンナヲミクビルナ  清水すみれ


 井伊直虎の像

「おんな城主-直虎」の予習ー⑧

織田信長による天下統一は、天正10年(1582)武田を滅ぼしたことで、

目前と見られていた。

長年、信長との同盟を守り続けてきた家康は、信長から駿河国が与えられ、

それまで治めていた三河・遠江両国と合わせ、3ヶ国の太守となる。

信長は家康の労をねぎらうため安土城に招待し、

家康も御礼を述べるため、安土に赴くこととなった。

その一行の中には、井伊万千代の姿もあった。

安土で歓待を受けた家康一行は、京から堺へと足を延ばした。

そして運命の6月2日、わずかな手勢で京の本能寺に宿泊していた信長は、

家臣の明智光秀の謀反に遭い命を落としてしまう。

浮き雲に教えてもらうはぐれ方  佐藤美はる


 直虎の使用した鏡
直虎の決意の表情も涙もそして辛い世相も映した鏡である。


この光秀の謀反に仰天した家康が、伊賀越えを敢行し命からがら

岡崎城に
戻ったことは長らく語り草になっているが、

この時、万千代は家康を守った
功により、

孔雀の尾羽根を使った陣羽織を拝領している


そのことから見ても、脱出行に若い万千代が格別の働きを見せたことが

容易に想像できる。

領国三河に帰国した家康を待ち受けていたのは、織田家という歯止めを

失ったことから勃発した、旧武田の領国を舞台に相模の北条氏と

越後の
上杉氏と徳川氏が熾烈に争う。

いわゆる、「天正壬午の乱」であった。

これは本能寺の変の後、支配権力が空白もしくは脆弱になった

旧武田領の
獲得合戦である。

あかり下さい 先が見えないのです  安土里恵


 井伊の赤備え

家康と北条氏政は互いに信濃、甲斐、上野を切り取り次第という密約を

交わし
和睦。

上杉景勝は因縁の川中島を含む北信濃の四郡を切り取っている。


家康は残された織田方の諸将の支持を得て、甲斐の武田旧臣を取り込んだ。

徳川家に臣従すれば、旧領を安堵するとしたのだ。

こうした交渉事には、万千代も携わっていたようだ。

この激動の天正10年11月、万千代は元服し正式に井伊家の家督を相続。

名も官途が加わり「井伊兵部少輔直政」と改めている。

枕辺にピンクの獏を呼びつける  中野六助


   井伊家墓所
ここに直虎と直親が仲良く眠る。


その裏では本能寺の変の3ヶ月後の8月26日、次郎法師が井伊谷で永眠。

元服した直政の晴れ姿を、次郎法師は見ることは叶わなかった。

龍潭寺とその末寺に当たる白耕庵(妙雲寺)に祀られた。

そして井伊家代々の墓所がある龍潭寺に葬られ、

生前は結ばれることがなかった元許婚の井伊直親の隣で眠っている。

二人で生き糸を引いたりゆるめたり  山本昌乃


    妙 雲 寺

直虎亡き後も、直政の活躍は目を見張るものがあった。

家康は新たに召抱えた武田家旧臣の中から、特に勇猛な武士団として

知られた山県昌景の配下だった者たちを、直政の下に集めた。

そして全軍の鎧兜を「赤」に統一させたのである。

ここに「井伊の赤備え」が誕生。

直政は名実ともに立派な侍大将となった。

今は亡き次郎法師も墓場の影でこの虎松の躍進を喜んでいることだろう。

さよならの後で浮きます影法師  徳山泰子


井伊直虎(次郎法師)と妙雲寺開山の南渓和尚の位牌

天正12年(1584)、信長の次男である織田信雄羽柴秀吉の対立が

激化すると家康は信雄支持の立場を明確にする。

そして3月に起こった「小牧・長久手の戦い」で、

直政が初めて「井伊の赤備え」を率いて戦場に立ち、大いに奮戦した。

少年のような容姿の直政だったが、赤い鎧兜に身を包んで、

長槍で敵を薙ぎ倒す姿から「井伊の赤鬼」という呼び名も加わった。

こうして直政の勇名は、広く知れ渡っていくのであった。

もう一度結んでおこう玉手箱  佐藤美はる  

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