忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1053] [1052] [1051] [1050] [1049] [1048] [1047] [1046] [1045] [1044] [1043]
アイスピックで砕いた残念のかたち  山本早苗




    御当羽院 戦支度 (歌川国芳画)



三代将軍実朝が非業の死を遂げた後、さすがに北条氏は動揺していた。
しかし、その後継者は、実は、なかったわけではない。
それ以前に、子供のない実朝のために、政子みずからが上京して、
<――後継者には後鳥羽院の皇子を> と、交渉し、
内諾を得ていたのである。
ところが実朝の惨死の報を聞くと、後鳥羽上皇は手のひらを返すような
態度に出た。この際、「鎌倉を困らしてやれ」というのだろう。
言を左右にして実現を拒んだのである。


こんな時に限って踏切のいけず  藤本鈴菜


今度は義時の弟の時房が上京して交渉にあたった。
千騎の兵を率いて無言の示威を行ったのだが、効果はさっぱりで、
遂に後鳥羽院の許可をひきだすことはできなかった。
代りに選ばれたのは、頼朝の姉の血を僅かにひいている左大臣藤原道家
の子、三寅。まだたった二歳の幼児だった。
いくら何でも二歳の幼児では、そのまま将軍にするわけにはいかない。
やむを得ず政子が代りをつとめることになる。
「尼将軍」といわれるのはこのためだが、断っておくと、
彼女は正式に将軍宣下をうけたわけではない。
つまり将軍代行の形をとったのである。


零した涙に明日を握らせる  上田 仁



かくて、政子は公的にもトップのの座についたわけだが、
しかし真の実力者は、義時であることを見ぬいている炯眼の人物がいた。
後鳥羽院である。
後鳥羽院は歴代天皇の中では、指折りの政治好きだ。
ただし、天皇だから義時のように堪えることは知らない。
スタンドプレーが好きなあたり、むしろ義経型である。


あの人の心の奥をのぞきたい  小西美也子




                 御 所 池 周 辺

「鎌倉殿の13人」 後鳥羽上皇のスタンドプレイ 
摂津・水無瀬離宮。後鳥羽天皇、伊賀局、卿局の3人が水無瀬に舟を
浮かべ、小さな膳に酒を嗜みながら、管絃や舞の催しを楽しんでいる。
そこではこんな会話がなされていた。
後鳥羽「皇子を将軍に欲しいと言ってきたか?
    源氏の将軍が途絶えて鎌倉も困っているとみえるな」
卿の局「ですから、先年の二位の尼どのとの約束を是非にと」
後鳥羽「そうはいかんぞ…情勢は変わった」
卿の局「はァ?」
後鳥羽「おそらく、鎌倉はますます北条の天下になる。
    そんなところに私の皇子を将軍として下してみよ」
伊賀局「………」
後鳥羽「もし、北条が皇子を奉じたらどうなる。将来の日本国は二つに
    割れることにもなりかねん」
卿の局「まさか…」
後鳥羽「第一北条ごときに天下を左右させるわけにはいかん。
    今こそ鎌倉の動揺を衝いて、我が親政を取り戻す時」
院と幕府の関係は破れ、両者の間には緊迫した空気が高まった。


言うことがコロコロ変わる活火山  宮井いずみ




鎌倉大倉御所



一方、鎌倉御所。政子義時が顔を見合わせ苦虫を噛潰している。
義時「摂津の長江、倉橋の二荘園を罷免しろ、などと、無茶な要求を」
政子「皇子将軍はだめ、地頭を罷免せよ!なんて、冗談じゃない!」
義時「その荘園の給主というのが、院の寵愛している伊賀局なんですよ」
政子「公私混同も甚だしい!第一地頭のことばかりは、京都の言いなり
   になるわけにはいきません。
   幕府の根幹に関わること。絶対に譲ってはいけません」


鳩尾の怒りが弾けだす柘榴  荻野浩子



           仙 洞 御 所





仙堂御所では。
後鳥羽「地頭を替えない限り、鎌倉の言い分など聞かん!」
鎌倉御所では。
政子「原則は絶対に曲げられません!」
「地頭改廃」は大きな政治問題化したが結局、双方和解するにいたらず、
皇子将軍はご破算となり、摂関家である左大臣・藤原道家の2歳の子・
三寅が4代将軍として迎えられることになった。
後の頼経である。
だが、後鳥羽院の反幕府の感情は、ますます強くなっていった。


卓袱台をかえしたやろな親父なら  松浦英夫



                藤原頼経(三寅)



承久元年(1219)7月19日、三寅が鎌倉入りすると、ただちに
政所始の儀式が行われ、政子が、幼い三寅と並んで挨拶を受けた。
政子「鎌倉殿がもっと大きくなるまで私が代行します。
   私の言葉は、鎌倉殿の言葉と心得るように…」
実朝の死後、将軍の代わりを務めていた政子は、引き続きその任務を
果たすこととなった。名実ともに「尼将軍」として振舞った。
そして義時が補佐して幕府の実権を掌握した。


運命へ畳鰯の独り言  中村幸彦




     前大僧正・慈円



比叡山延暦寺。
『コレハ将軍ガ、内外アヤマタザランヲ ユエナクニタマレムコトノ
 アシカランズルヤウヲコマカニ申也…』
そのころ 前天台座主・慈円(67歳)は歴史書「愚管抄」を執筆中で
鎌倉を討とうとする後鳥羽院の計画を止めさせようと、痛烈な言葉を
記していた。
「前座主さま、相変わらずご執筆ですか?」
慈円「ああ何とか院に世の道理を分かっていただきたいからね」
「やはり、院は倒幕をお考えなのでしょうか?」
慈円「この末世では、武士の現在のあり方は当然のことなんだよ。
   まして摂関家の九条家から将軍が出たのは、願ってもないこと」
「……」
慈円「道理の分からぬ院は何かと武士、特に鎌倉を敵視される。
   このままではとんでもない過ちを犯されるだろう。
   本来なら、後鳥羽院に降りていただくのが一番なのだが」
「…それはまた過激なことを…」
慈円「君のため、世のためには、それが道理というもの」
『愚管抄』承久の乱が起る直前に書かれており、この中で慈円は、
後鳥羽上皇の無謀な倒幕計画を痛烈に批判している。
愚管抄の目的は、上皇の幕府転覆を阻止することにあった。


地雷踏みましたねよそ見しましたね  本田律子

拍手[5回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開