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川柳的逍遥 人の世の一家言
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N700Sの呪われた下顎  くんじろう




         鳥羽へ配流される後鳥羽上皇  


「承久の乱・後鳥羽上皇降伏のみっともない言い訳」

 
朝廷側敗戦の6月15日、後鳥羽上皇北条泰時に使者を送り、
全面降伏ともとれる「院宣」を伝えた。 何が書いてあるかと言えば
「(藤原)秀康朝臣、(三浦)胤義以下の徒党、追討せしむべきのよし、
宣下すでにおわんぬ、……凡そ天下の事、今においてはご口入に及ばず
と雖も、ご存知の趣、いかでか仰せ知らざるか。兇徒の浮言に就きて、
すでにこの御無沙汰に及ぶ、後悔左右に能わず」
つまり、この戦いは藤原秀康三浦胤義たちが起こしたもので、
あなたの申請通りに、彼らの追討の命令を出そう。
「兇徒の浮言」凶悪な者のでたらめな言葉に騙されて後悔している」
と言い、
『……自今以後は武勇を携えるの輩は召し使うべからず、また家を稟
(う)けずに武芸を好む者、永く停止せらるべきなり…先非を悔いて
おおせられるなり』
① もう政務には口出ししない。
② これからは武士たちを出仕なせない。また貴族でも、家業をつかず
武芸を稽古している者は出仕させない」と、いうものであった。


言い訳は止そう余白はあと少し  上田 仁





            承 久 の 乱



「鎌倉殿の13人」 承久の乱・永井路子 & 戦後処理


<―実朝の後継者には後鳥羽院の皇子を>
と、政子みずからが上京して、藤原兼子と交渉し内諾を得ていたが、
実朝の惨死の報を聞くと、後鳥羽は手のひらを返すような態度に出た。
<鎌倉を困らしてやれ>と、いうのだろう。
後鳥羽の皇子という約定の言を左右にして実現を拒み。
藤原道家の子・三寅を4代将軍にすえるべく鎌倉へ送って来た。
だが三寅はまだ二歳の幼児だ。
いくら何でも二歳の幼児をそのまま将軍にするわけにはいかない。
そこで政子が代役をつとめることになった。
鎌倉幕府を打倒することを悲願とする後鳥羽上皇は、
<よちよち歩きの幼児と老婆の組合せでは、将軍の権威もへったくれも
ありはしないだろう>と、あれやこれや、幕府への嫌がらせをはじめた。
これが「承久の乱」の発端となった。


渋柿を甘い甘いと言わはって  大内せつ子

「意外と尼御堂は手ごわい」
<たかが幼児と老婆の寄合所帯>と思っていた後鳥羽は、その手強さは、
義時の存在にあると感じとった。
「うぬ、きゃつめだな、張本人は」
後鳥羽は、鎌倉打倒の矛先を義時に狙いを定める。
「義時を討て!幕府を問題にしているのじゃない」
<憎いのは義時ひとり>という態度をとり続け、さらに<義時を討てば、
莫大な褒美を与える>と、ニンジンをぶら下げ、こっちの水は甘いぞと
ばかりに密書を送り、鎌倉の武士たちを煽った。
官職をちらつかせ、恩賞で釣ろうという朝廷ならではの甘い罠だ。
鎌倉を内部分裂させ、同士討ちをさせようという魂胆である。
鎌倉武士はきっとこれによろめく、と後鳥羽は踏んだのだ。



美味すぎる話の裏にこんな罠  柳川平太






「今や義時は標的となった」
―もしかここで御家人たちが、恩賞に釣られ、総崩れになったら?
それを食いとめる力は、さすがに義時も持ちあわせてはいない。
が、その生涯の危機にぶちあたると、立往生すると思いのほか義時は、
ここで後鳥羽にまさる巧妙な手を打つ。
将軍代行である政子のロで、問題をすりかえさせたのが「政子の大演説」
だった。政子は、故将軍頼朝の業績を長々と述べたてた。
『…やっと人間らしい権利が認められたのは誰のおかげか。
皆な、故将軍家のおかげではないか。そのお計らいでそなたたちの所領
も増え、生活も豊かになった。その恩を忘れる者はよもあるまい』と。


ひと言に救われひと言に嘆く  靏田寿子 



 もし演説の主役が義時であったとしたら、いくら理屈が通っていても、
どうしても自己弁護になってしまう。
<俺のために戦ってくれ>というわけだから、今ひとつ説得力に欠ける。
が、政子なら、
「義時のために戦えといっているんじゃない。幕府の浮沈にかかわるこ
 とだか ら、幕府のために戦うべきなのだ」
と、ぬけぬけとそう言うことができる。
そして、もっと踏みこんでいえば、この政子の大演説を用意したのは、
義時かも知れず、また、幕府の知恵袋である大江広元のシナリオだった
かもしれない。


風吹かず大人の梯子買いました  市井美春








かくて鎌倉勢は一丸となって京へ出陣する。
おもしろいことに、その中にはライバル三浦義村の顔もあった。
鎌倉の事情に詳しい後鳥羽側はもちろん義村の所にも密書を送っている。
「義時を討てば恩賞は望みのまま」  
しかし、義村はこれに応じなかった。
「こんなものが来たぜ」
いとも簡単に義時の前で密書をひろげてみせるのだ。
さすが義村も鎌倉武士、幕府の存亡と義時打倒を秤にかけるだけの冷静
さは失わなかったとみえる。
朝廷側は一瞬のうちに鎌倉武士に踏み潰されてしまったのだ。
後鳥羽上皇は隠岐に流され、都の地を踏むことなく一生を終える。



メルヘンを抱いて夕日色の奈落  田村ひろ子








さて「承久の乱」の本質的な面を考えれば、鎌倉武士は政子の演説に踊
らされて出陣したわけでは決してない。
彼らは彼らなりに利害得失を計算していたのだ。
<―今、義時を討った方が得か損か>
彼らが義時支持に傾いたのは、伊賀局の所領問題に関して、
義時「あくまで地頭擁護を貫き通した」点を評価したのである。
<―頼りになるボスだ。義時こそわが味方だ>
と思ったのだ。
ここに義時のナンバー2としての真骨頂がある。
もし、彼があのとき後鳥羽の言い分を受け入れていたら?
いや、そうすることもできないわけではなかった。
当の地頭には、因果を含めて辞めさせ、その代りに何か埋めあわせを
考えてやる、という政治的解決の道は残されていたのだ。



横隔膜流人の辿りついた波  高橋 蘭


こうした解決はむしろ容易である。後鳥羽の顔も立つし、義時もいずれ
官位の昇進の機会に恵まれることだろう。
が、それではずるずると、後鳥羽の思う壺にひきずりこまれてしまう。
妥協を重ねているうちに、鎌倉幕府体制は弱体化し、歴史は逆戻りして
しまうだろう。 だからこそ、敢えて彼は突っぱったのだ。
そして承久の乱を勝ちぬき、歴史の歯車を前に押し進める役割を果した
のである。
これだけのことをなし得た政治家は、日本にどれだけいるだろうか。
現在だって、民衆の利益を犠牲にし、権力の前に尻尾を振る連中ばかり
ではないか。
ここで私はナンバー2の最後の、そして絶対条件として、部下の支持、
あるいは広い民衆の支持を獲得することを付け加えたい。
 ナンバー1とは、なごやかに、そしてナンバー2をめざすライバルには
きびしく、そしてそれ以下に対しては、うんとやさしく!
渋柿を甘い甘いと言わはって  大内せつ子



「承久の乱後」




            篝屋の風景
大路の辻々に篝屋がおかれ、御家人たちが駐屯した。
探題の分署のようなもので、櫓があり、夜には篝火が焚かれた。


「鎌倉幕府の京の拠点は六波羅に」

承久の乱後に南・北の六波羅探題が設置され、初代の探題には北条泰時
が就任した。
探題の下には、近畿の御家人が組織されて、軍事警察の一切を幕府が執
り行うことになった。後に大路の辻48カ所篝屋(かがりや)が造られ、
京の夜間警備も強化される。
探題だけでなく荘園や西国所領を管理するために御家人の宅が設けられ、
いわば幕府の京支部として、大きな役割を果たしていくことになる。


煩悩の数だけ残る爪の跡  蟹口和枝


「過酷な戦後処理」
六波羅探題の北方は泰時が探題南方に就任した叔父の北条時房とともに、
戦後処理にあたった。
まず承久3年(1221)7月2日、佐々木広綱、五条有範、後藤基清、
大江能範といった、朝廷側に加わった首謀者クラスの御家人たちを斬首
した上に獄門に晒した。
(この者らは皆、右大将(頼朝)の恩を受けて、数カ所の荘園を賜り、
 右府将軍(実朝)の推挙により5位に昇った。たとえ勅命を重んじた
 としても、どうして精霊(頼朝・実朝)の照らすところに恥じないこ
 とがあろうか、すぐにその恩を忘れて遺塵を払おうとするのは、全く
 弓馬の道に反する)ものだった。


絶叫を本物にするビブラート  森吉留理恵


処刑された佐々木広綱の子どもたちのほとんどが、戦死していたが、
わずか10余歳の勢多伽丸(せいたかまる)は、仁和寺の道助入道親王
(後鳥羽上皇の子)に育てられ出家していた。
この少年も広綱に連座して探題に捕えられていた。
当初、泰時は、戦に関係のないこの少年の命を救おうと考えた。
ところが、その裁定に異を唱えたのが叔父である佐々木信綱だった。
信綱は「勢多加丸を生かすのならば、私はマゲを切って遁世する」
と宇治川の戦いで軍功著しかった信綱に強くいわれ、勢多伽丸の首を
斬ってしまうのである。


忘れたい一日でした蝉しぐれ  津田照子




六波羅に連行される公家たち(坊門忠信、中御門宗行、源有雅)、葉室
光親、高倉範茂、一条信能)の後ろから探題の武士が指図している。



「後鳥羽上皇の側近の貴族たちも次々と処刑された」



武士たちにとって、負ければ死が待っているというのは、当たり前の事
だった。
しかし、平安時代の長きにわたり、貴族は政争に敗れても、基本的には、
命が取られることはなかった。
だが幕府は、そうした朝廷の慣習を顧慮することなく、権臣たちをただ
ちに断罪し、高倉範茂は、自ら入水による死を選んだ。
尚、坊門忠信は、源実朝の妻の兄であった為、助命の恩恵を受けるが、
5人は処刑された。


躊躇ったらしい結界に足跡  みつ木もも花



                                           高倉範茂の処刑


高倉範茂北条朝時が預かり、東国へ向かう足柄山の早川に着いた時、
範茂は「斬首されてしまうと極楽浄土へは行けなくなる。
だからこの川に沈めてほしい」と願い出た。
朝時は範茂を大きな籠の中に入れ川に沈め、家来に命じて上から押さえ
つけさせた。

もう死んでええと言うてるのに祈祷  きゅういち




      隠岐の後鳥羽上皇



「上皇の配流」


後鳥羽上皇は,隠岐へ、土御門上皇(上皇の長男)は土佐へ、順徳上皇
(上皇の次男)は佐渡へ配流とした。
ただ土御門は父とは違い、幕府との対立を望まなかった人で、幕府も
「無罪でよい」と考えていたが、「父が追放されているのに、自分が留
まったままでは親不孝者だ」と、あえて流罪を望んだという。
” 浮世にはかかれとせこそ生れけめ 埋りしらぬ我涙かな ”
(私はきっとこのような境遇であれと定められて、この辛い世に生まれて
 きたのだろう。だからこれを納得すべきなのに、涙が落ちてくるよ…)
と土御門の歌が残っている。


男っぽい男の食べるよもぎ餅  八木侑子

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