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川柳的逍遥 人の世の一家言
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花巡り孤独の深さ分かち合う  靏田寿子
 

 
                                      明 月 記

 
「藤原定家の素顔」

定家は、鎌倉初期の大歌人.。「千載和歌集」「新古今和歌集」の編纂
を行ったりしたが、現在のわれわれには「百人一首」の選者としてのほ
うが馴染み深い。
『明月記』はそんな彼が19歳から80歳で没するまで記された日記だ。
そこには、源平争乱期から鎌倉初期の出来事が、細かに記されており、
定家ファンが「ウソ!ホント!」がっかりしそうな他人の悪口などなど
当代随一の文化人らしからぬ記述もあり、定家という1人の「貴族の真
姿」を自虐のように正直に記している。
たとえば、定家24歳のとき、些細なことで、言い合いになった同僚の
源雅行を蝋燭で殴りつけ、謹慎処分を受けたり…など。
案外と激しやす
い人間だったのかもしれない。


赤染まる忘れた過去のリトマス紙  峯島 妙


また彼は、任官への執念が深かったようで、当時の権力者であった藤原
兼子を「狂女」と罵りながら、金品を贈って機嫌をうかがい、庇護を期
待していた…ことなどはよく知られていることだ。
さらに中納言になりたいがために、九条道家に執拗に食い下がって嘆願
を続け、この願いが果たせなければ、「一層のこと死んでしまいたい」
とまで、その心情を(「明月記」に)記している。


ドスの利いた声で清楚な佇まい  前中一晃


だが、その執念もわからなくもない。
和歌の大家としての名声があっても、裕福な暮らしをしていたわけでは
なかったのだ。
彼の家族は、妻と11人の子どもの他に、同居人や従者、女房、下女を
合わせて30人余り。
定家はこれらの人々を養っていかねばならなかった。
さらに、文化人としての、交際費や都にあった広い屋敷の維持費、など、
その苦しい生活状況を察することができる。
そう考えると、プライドをかなぐり捨てて、家族のために頑張る親父み
たいで、応援したくなる。


引き際を探しあぐねている蚯蚓  河村啓子


「鎌倉殿の13人」 百人一首 & 後鳥羽上皇と藤原定家


菊歌の帝王といわれた後鳥羽上皇と同時代の代表的宮廷歌人・藤原定家
2人を結びつけたものは、もちろん「和歌の世界」であった。
上皇21歳、定家39歳。
上皇は、定家の和歌の世界に強く心を惹かれ、定家は上皇によってその
才能を世に広く認められるようになった。
上皇は定家の才能を見出し、定家は上皇の芸術上の師となったのである。
ところが、18も歳の違う2人の蜜月時代は、そう長く続かなかった。


嵐の章に挟まれていた栞  清水すみれ


和歌に政治的なものを求めようとする上皇と、和歌を純粋に文学として
捉えようとする定家とでは、根本的に和歌観が違うのである。
2人の確執は、上皇が起こした「承久の乱」直前に決定的となった。
承久2年(1220)2月13日の内裏の歌会で、定家が場所柄をわき
まえない言葉をつかったことに対して、上皇の怒りが炸裂し、
定家は、宮廷の歌会からボイコットされてしまった。
宮廷で歌を詠むことを禁じられたのだから、宮廷歌人にとっては失脚同
然であった。


消しゴムを借りぱなしにした別れ  山本秀子




           時代不同歌合絵 (中務卿具平親王愚詠)京都国立博物館蔵)
隠岐で後鳥羽が編んだ歌合を絵画化


「承久の乱」に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐島へ流罪となった。
定家は上皇と仲違いしていたことも幸いし、歌詠みとしては異例の出世
とも思える、権中納言に任ぜられる。
しかし、彼は、一年でその職を退き、小倉山の麓にこもってしまった。
一方配流の身となった上皇は、隠岐での19年間を、和歌の世界に没頭
した。上皇が隠岐で編纂した「時代不同歌合」には、時代を超えて選ば
れた万葉以来の100人の王朝歌人の歌が、それぞれ3首ずつ掲載され
ていた。その中には、藤原定家の名前も入っていた
隠岐の動向に人一倍注意している定家の耳に、この便りがつたわらない
はずはない。上皇と不自然な別れ方をした定家だあったからこそ、
この「時代不同歌合」の思いもよらない嬉しい便りは、彼を天にも昇る
心地にさせたに違いない。


けんかして喧嘩して許してしまう  市井美春
 


     百 人 一 首
ちはやふる この方が百人一首一番人気らしい。これが正規の色男です。


藤原定家が編纂した「百人一首」は、王朝社会から武家社会への大きな
時代の転換期に産み落とされた作品である。
「小倉百人一首」として、われわれの耳には馴染み深いが、実はこの作
品の裏側には、余人には考えも及ばないような秘密が隠されていた。
定家がこの作品に盛り込もうとしたメッセージとは…?


言い訳は出来ない七月の指紋  山本早苗


  
    藤原定家              後鳥羽上皇


「メッセージ」

定家が編纂したとされる「百人一首」には、隠岐の後鳥羽上皇に対する
定家の思いが、隠されている。
「上皇を思う気持ちを言葉で」伝えたいという衝動と、しかし言葉では
表現できないというジレンマが定家を苦しめた。
その結果、生まれたのが「百人一首」である。
上皇は、鎌倉幕府の最大の敵である。
うっかり上皇の肩入れをしようものなら、即刻、捕えられ、国賊として
上皇同様に配流に処されるのである。
そこで定家は、百首の歌を選ぶとき、隠岐に流されている後鳥羽上皇を
連想させる言葉の入った歌を選んだ。
「おき」=「隠岐」、「あま」=「海士」のように、定家にしかわから
ない暗号句である。
(「海士」は上皇が19年間暮らした流刑地中の島にある海士浦(あま
のうら)のこと。)


手のひらにそっと頂くひとり分  津田照子


世の中はつねにもがもな渚漕ぐ あまの小舟の網手かなしも
                        93番 源 実朝
(この世の中が、いつまでも変わらないでほしいものだなあー。
 渚を漕いでゆく漁師の小舟が、網手をひかれるさまは、何とも愛おし
 いものだ)


よく見ればやっぱりこの世おもしろい   新家完司


わたの原漕ぎいでてみればひさかたの 雲居にまがふの白波
                        11番 藤原忠通
(広々とした海上へ船を漕ぎ出して見渡すと、はるか遠くでは、
 白い雲と見分けのつかぬように立っている沖の白波よ)


待ち受けはあの日の空にしています  宮井いずみ


心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花
                       29番 凡河内躬恒
(この辺がそれであろうと折るなら、あて推量に折ってもみようか。
 初霜があたり一面に降りて、霜なのか白菊なのか、さっぱり分からな
 くなっている。そんな白菊の花であるよ)


折鶴の仕上げに祈り吹き入れる  石川柳寿


わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと 人にはつげよあまの釣り船
                    76番 小野 篁(たかむら)
(あの篁は、広々とした海原はるかに、多くの島々をめざして、船を
 漕ぎ出して行ったと都にいるあの人に告げておくれ。漁師の釣舟よ)


無理ですよ昨日はやって来ないから  太下和子


人もおし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆえに物思う身は
                       99番 後鳥羽上皇
(人が愛おしくもあり、人が恨めしいとも思われる。つまらないことに
 この世をあれこれと思うがゆえに思い悩む、この身には)


さっきまできっと菜の花だった蝶  鏡渕和代


藤原定家は、数ある上皇の歌の中から、流刑地において、上皇が詠んだ
この一首を「百人一首」に入れた。
「思い通りにいかないこの世を嘆き、人々に対する愛情と恨み」
を詠いこんだ暗い和歌である。
こうして定家は、自分だけにしかわからない暗号に等しい歌を集め、
後鳥羽上皇への思いの丈を、彼一流のストーリーに創り上げたのである。


度の合わぬメガネと遊ぶおぼろ月  田村ひろ子
 


    藤 原 定 家


藤原定家は自分の和歌も一首、「百人一首」のなかに収めている。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

この歌の中で待つ人とは勿論、後鳥羽上皇である。
(松帆の海岸で、夕方に焼かれる藻塩みたいに、愛しい彼を待っている。 
 私の心も恋い焦がれている)
松帆の浦は、淡路島の北端にある地名。夕凪どき、すなわち夕方ころの
海面は波がない。そこで藻塩を焼いている。(藻塩を焼く=塩作り)


ふわり雲なくしたものがでてきたわ  山本昌乃

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