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川柳的逍遥 人の世の一家言
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きのうから蜜柑が二つ枕もと  時実新子


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 徳川秀忠・江戸絵

秀忠、お江、二人の新婚生活は伏見城で始った。

お江は、稀代の英雄・信長の血を引くというだけに、

文字通り名門中の名門、貴種であった。

誰の閨閥(けいばつ)かで、人間の評価はがらりと変わる。

秀忠の屋敷には、きりりとした空気がただよった。

今日といういくさへ眉を描いている  たむらあきこ

今をときめく天下人の秀吉も、

もともとは、信長の草履取りだった。

だから、お江には、特別な待遇がほどこされた。

慶長元年(1596)には、

二人の新邸が完成し秀吉も訪れている。

豊臣と徳川の、蜜月の時期だった。

たてよこななめ桃源の風通し  山本早苗

文禄5年(1596)7月12日、畿内一帯で大地震が発生した。

江の住む徳川屋敷も倒壊し、

江はその瓦礫の下敷きになった。

そのとき江を捜しにやってきた秀忠は、

江を見つけると、

瓦礫を退けて助け出し、屋敷外に連れ出した。

江はその日から、秀忠を見直した。

初めて夫として、

秀忠を受け入れることが、出来たのである。

握手して運命線をすりかえる  河村啓子

大地震の被害は甚大で、

家康の上屋敷では長倉が倒壊し、

家臣が犠牲になったとされる。

お江はその報せを受け、

早速、義父・家康に見舞いの文を宛てた。

その文に対する返書として、家康が礼を述べている。

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≪慶長元年の地震の際の

   お江の家康へ送った見舞いの文に対する、家康の返書≫  
 
「徳川家康自筆消息 徳川秀忠夫人浅井氏宛」

という文が、残されている。

海峡を渡る標準語の女  森中惠美子

「文禄から慶長へ」

文禄 4年(1595)

関白・秀次が高野山で切腹(七月)。
聚楽第解体。
家康以下諸大名30名の連署血判をとり、秀頼に忠誠を誓う。
お江が秀忠と結婚(九月)。

慶長元年(1596)

伏見城が地震により全壊。
伏見城、木幡山に再建。
明国へ再出兵。
お拾4歳で「秀頼」と改名。

靴紐が切れたニュースもありました  新川弘子  

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秀吉は、関白・秀次に関するものすべてを、

抹消しようと、
自身が自慢にしていた聚楽第まで、

跡形もなく取り壊してしまった。

取り壊された聚楽第の跡は、

現代では、市街地に埋もれてしまったが、

堀や池の痕跡は「聚楽廻」の名前で残る。

また、広島城は、聚楽第を真似て作られた。

そして、西本願寺の飛雲閣は、

聚楽第から移築された言い伝えが残る、桃山建築の傑作である。

歯ぎしりににて墓石が伸びる音  井上一筒

それから2ヵ月のち、

徳川秀忠の婚儀が執り行われたのである。

お江は秀忠より、6歳年上であったが、

そんなことは、政治的な思惑の前では、誰も問題にしない。

舅にあたる家康にとっては、

身の安全が保証されたようなものだから、

大満足な縁組であった。

清水の舞台の向かいは披露宴  黒田忠昭

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 大御台・お江の方(江戸絵)

披露宴は、お江にとっては、

関八州の太守の奥方になる、身の引き締まるおもいであった。

秀忠は、当時としては大きい身長160センチあり、

身体つきはがっちりしていたが、

澄んだ瞳と、大人になりきっていない初々しくさに、

江は、秀忠に弟を見るような、可愛らしさを感じつつ、

自分の果たすべき、

将来への決意を新たにするのである。

骨量も度胸も見事妻が上  柴本ばっは

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 広島城金鯱瓦

このとき、初の夫・京極高次は6万石に加増され、

八幡山から大津へ移る。

秀次の領地であった尾張は、

大政所の縁者・福島正則に与えられる。

秀吉は初め、

「前田利家にどうか?」

という考えだったが、石田三成が、

「虎に翼を与えるようなもの」 

と反対したいきさつがある。

(これが、三成の後悔をうむ間違いであった。

  三成はのちに利家と組んで、家康と戦うことになるのだから・・・)

トーストの焦げから跳ねだした論理  立蔵信子

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