日の丸が揺れたからとてめし茶碗 壷内半酔
本能寺ー光秀の急襲
「信長・本能寺に斃れる」
天正10年
(1582)6月2日未明、
信長に命じられ、
一足先に中国戦線へ赴くはずだった
光秀の軍が、
京の本能寺を急襲した。
世に言う
「本能寺の変」である。
わずかな供回りしか連れていなかった信長は、
当初は自ら弓や槍を持って奮戦したが、
やがて居間に戻ると、自ら館に火を放ち自刃した。
妙覚寺に滞在していた嫡男の
信忠は、
防戦のために、二条御所に移った。
だが、
「衆寡敵せず」で、信忠も自刃して果てた。
※ 衆寡敵せず=少人数では、多人数にとても勝てない。
持逃げされた向日葵の首一つ 井上一筒
本能寺信長(国芳絵)
この知らせが
秀吉の元に届いたのは、翌3日の夜であった。
光秀の密使が秀吉の陣迷い込んだとも、
京にいた信長の茶道相手である
長谷川宗仁が、
いち早く、秀吉に知らせたとも言われている。
いずれにしても、
京での変事を
毛利よりも早く知ることができたのは、
まさに天運というべきだろう。
ただし、この一報に触れた秀吉は激しく動揺し、取り乱した。
主君・信長が
明智光秀に討たれたことも衝撃だが、
同時に、織田の援軍10万はなくなり、
もし毛利方がこの事実を知れば、
和睦どころか攻勢に転じる可能性さえある。
秀吉はまさに絶体絶命の淵に立たされたのである。
梟の目など信じたけれど夢 山本早苗
衝撃と困惑ー当然、この事実を知った
官兵衛もそれに襲われた。
しかし、有岡城で死地を切り抜けて来ただけに
「肝」は据わっていた。
最も大事なことは、
取り乱している秀吉を落ち着かせること、
人間とはいかなる生き物かを、
その体験から誰よりも知っている官兵衛は、
秀吉の耳元で信じられない言葉を囁いた。
まま
「さても天のご加護を得させ給い、もはや御心の儘なりたり」
" 殿には武将としての御武運が巡ってきました。
ここを切り抜けた後に待っている大事に、懸けようではありませんか、
信長が殺されたことを「奇貨」とし、
あるいは「ポスト信長」の一番手となって、
この後に対処したらどうか・・・"
というのである。
※ 奇貨=利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会。
ほぐされってジキルとハイド入れ替わる 早泉早人
しお
このひと言で、萎れていた秀吉の心に
「希望」が甦った。
さらに、官兵衛の言葉は、
本能寺の変で、絶望の淵に追い詰められた秀吉軍の将兵にも、
「この死地を脱すれば、我らが殿が天下人になる」
という、夢を与えることにもなあった。
官兵衛は秀吉の命を受けて
恵瓊を呼び、和睦を急いだ。
信長の横死を恵瓊に知られず、
かつ、拙速ではない和睦が求められた。
仏飯とまるい会話をして生きる 岩根彰子
「毛利方を欺き通し和睦して上方に急反転して信長様の仇を討つ」
これが、官兵衛の瀬戸際外交の骨子であった。
そして、信長の死の二日後の6月4日、
正式に和睦が成立し、
清水宗治が切腹して果てた。
官兵衛の和平交渉が実を結んだのだった。
あとは上方に向けて大軍を移動するだけだ。
しんがり
官兵衛は自ら殿軍を申し出て、
毛利勢が前線を引くのを確認してから、堤防を切り落とした。
戦国史上に名高い
『中国大返し』と呼ばれる秀吉軍の
大移動が開始されたのは、6月6日のことだった。
生き死にの話はご飯食べてから 谷口 義[6回]
PR