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川柳的逍遥 人の世の一家言
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跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ



 新史料「長宗我部元親、恭順の書状」発見を伝える6/23日の新聞

「本能寺の変・光秀の真実」

「本能寺の変」の原因に、織田信長が四国の当地方針を変え、

面目を潰された明智光秀が謀反を起こしたとする「四国説」がある。

その説の空白を少し埋める「書状」が、
           いしがい
林原美術館が所蔵する「石谷家文書」から発見され、

歴史学者ら関係者が驚きに湧いている。
        ちょうそかべもとちか
四国の雄・長宗我部元親が光秀の重臣・斉藤利三宛に記した文書で

日付は5月21日、「本能寺の変」の10日前である。

※「石谷家文書」は美濃国の武将・石谷光政、頼辰父子の書状などで構成され、

  天正年間を中心とした3巻47通

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長宗我部元親が斉藤利三に宛てた書状

信長に従う旨が記されている。

左下元親の花押と「5月21日」「利三」の文字がみえる。

当時の長宗我部元親は四国統一の途上。 

ところが大坂本願寺との和睦が成立したことなどから、

信長は、当初の友好関係を転換し、

長宗我部側に土佐以外の占領地からの撤退を要求していた。

今回発見されたうち、

6月2日の変の約5ヶ月前にあたる1月11日書状では、

利三が元親に

「要求に従うのが長宗我部のためになるし、光秀も努力している」 

と助言をしている。 

これに対し、元親は5月21日付で、

「長宗我部のために働いてくれてありがたい。

  信長殿の朱印状へ返答をいままで延ばしたのは申し訳ない。

  一宮城はじめ阿波国の諸城からは命令通り退いたことを、

  信長殿に伝えて欲しい」

と返答。

カピパラが揃って西を向く答え  酒井かがり

続いて元親は、

  「しかし中心部の城は撤去するが、

  土佐に近い南部の海部城と西部の大西城の両城は手放したくない。

  長年にわたって尽くしてきたのにこうなって残念で、納得いかない。

  戦争をしたいのではない。

  何とかならないか。委細は頼辰に聞いてほしい」

と切々と訴えている。

信長の命に従うことで、衝突を避けようとしていたことが分る。

しかし、元親が譲歩したといっても、

信長は阿波を取り上げる方針を決めており、

利三としては、とても報告できる内容ではなかった。

寝返りを考えている涅槃像  河村啓子 

               
      もうしつぎ
信長は元親との申次(交渉役)を光秀に任せていた。

元親の妻が光秀の重臣・斉藤利三の妹という縁もあり、

効果的と考えてのことだったのだろう。

光秀は、この付託によく応え、元親との交渉ルートを確保していた。

織田と長宗我部の融和、

さらには、長宗我部の帰順までを視野に入れていた。

ところが信長は、急に方針を転換してきたのだ。

自分の家臣に与えるために、新しい領地が欲しくなったのだろう。

信長は、融和ではなく武力衝突、

問答無用の四国討伐に着手したのである。

おしるしに月をスライスして渡す  赤松螢子               

そして6月2日、四国攻めは信長の三男・信孝を総大将に、

大坂住吉から出陣することとなった。

長年、長宗我部との申次ぎにあたってきた光秀は、

面目を踏みにじられられ、
                    くだ
また長宗我部が織田の軍門に降ってきたときに、

得られるはずだった莫大な武功も、水泡に帰してしまう。

これに遺恨を抱いた光秀は、「四国攻めを何とか阻止してほしい」

という元親の必死の願いとあいまって。

それらが謀反に突き動かしたのではないかといわれるのである。

心頭を滅却しても火は熱い  筒井祥文

石谷家文書に対する「渡部裕明氏の見解」

『光秀はなぜ、信長を襲ったのか。

「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所持地論争と並んで、

日本史最大の謎とされている。

さまざまな説が出されてきたが、

今回の「石谷家文書」は謎解きの大発見といえる。

変を考える主な史料は、「信長公記」のほか、

関係者の間で交わされた書簡や当時の公家の日記、

さらには「川角太閤記」などの編纂物がある。

編纂物は面白いのだが、

光秀が安土城での徳川家康の接待をしくじった話や、

領国を取り上げられた話など、

後世に作り上げられたフィクションが多い。

その点、「石谷家文書」は、変の直近の史料であること、

しかも出したのは長宗我部元親、受け取ったのも斉藤利三と、

四国攻め交渉をめぐる当事者であり、史料価値は高い。

書状からは、信長の四国政策の突然の方針変更に対する長宗我部側の、

率直な戸惑いと反発、そしてあきらめの心情も生々しく伝わってくる』 

どのイスもいつでも被告席 以上  むさし

 信長の光秀いじめ

「その他、本能寺の変の諸説」

「野望説」
室町後期から戦国時代の通年は「下克上」である。
強いものが正義。
いざとなれば主人も家来もなく、裏切りですら恥ではない。
天下をとろうとの「野望」を光秀が持ったとしても、何の不思議はない。

「怨恨説」・「いじめ説」・「将来悲観説」
 怨恨説は光秀が信長を恨んでいたというもの。
よく知られたところで、母親が殺されたというのがある。

 型破りな信長と実直な光秀は相性があわない。
光秀の顔を見るだけでムカムカした信長は、
家臣の居並ぶ前で恥をかかせたりといじめを繰り返した。
このいじめに加担したのが森蘭丸といわれている。

 秀吉のようにおべっかを使えない光秀は、
日本統一事業が完成した後のことを思うと、
いずれ自分は佐久間信盛のように追放されるだろうと考えたのである。

「黒幕説」
光秀の単独犯ではなく、背後に黒幕がいたとの考え。
① 足利義明 ② 朝廷説 ③ 秀吉説 などが黒幕にあげられている。

『四国説』
上に述べた通り。

まっすぐの鉄条網はありえない  森田律子

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