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川柳的逍遥 人の世の一家言
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黄金糖の角で磨いている言葉  河村啓子

    

                         黒田家譜にある官兵衛の言葉

「弔い合戦」

「殿には武将としての御武運が開ける機会が巡ってきました。

  ここを切り抜けた後に待っている大事に懸けようではありませんか」

官兵衛の言葉は、秀吉軍の将兵にも、

「この窮地を脱すれば、我らが殿が天下人になる」

という希望と勇気を与えることになった。

官兵衛は安国寺恵瓊を呼び、和睦を急いだ。

「毛利方を欺き通し和睦して上方に急反転して信長様の仇を討つ」

恵瓊は、将来を見据え、

また官兵衛の腹の内を読んで、この提案に乗った。

がっちりとこの世の端に命綱  新家完司

あとは小早川隆景が応ずるかどうかにかかっている。

恵瓊がすでに説得にかかっていたが、

官兵衛は夜道を駆けて,隆景に目通りを願った。

「信長公は毛利を滅ぼすおつもりで、出陣されました。

   御到着ののちには、もはや和睦はかないませぬ」

「なぜ和睦を急ぐのか?」 

と首をひねる隆景。

「すべては天下のためでございます。

   和睦がなれば必ずや乱世は終わり、

   毛利は生き延びることができまする」

返答を迫る官兵衛に、とうとう隆景は頷いた。

もどれない場所で揺れている尻尾  山本昌乃



     本能寺の焼け跡に残った信長の壷

これが官兵衛の瀬戸際外交の骨子である。

官兵衛が信長の死を知って数時間後のことであった。

そして―6月4日。

正式に和睦が成立し、清水宗治が切腹して果てた。

官兵衛の人並み外れた胆力、人の機微を見抜く洞察力、

「この男なら」という信頼があればこそ結実した和睦であった。
                どんじり
そして、官兵衛は秀吉に殿軍を申し出たのち、

ふたたび小早川の陣へ赴き、隆景に奇妙な要請をする。

「これにて、我らは兵を引きます。つきましてはお願いがございます。

   毛利のお旗を20本ほどお貸し願いたい」

「なんのためだ?

   毛利が織田に味方すると、明智に思わせるためか?」


蓮ひらく今日の心のかたちして  八上桐子



官兵衛と恵瓊は、ハッとした。

すでに隆景のもとに「信長を討った」との書状が届いていたのである。

しかし逆賊と手を組み、事を構えて遺恨を残すより、

天下人に最も近い秀吉に恩を売るほうが、

毛利のためになると考え、隆景は官兵衛の頼みに応じた。

そして、兄・吉川元春がこのことを知る前に立ち去るよう勧めた。

やがて、信長の死を知った吉川元春は、

講和を破棄して追撃を主張したが、隆景はただ、

「誓詞を守るのが毛利の家訓」 としてこれを許さなかった。

食べてすぐ偽装を見抜く舌を持つ  ふじのひろし



   沼城古図

城の周辺は湿地帯。城山は亀の様に見えることから亀山城とも呼ばれた。

秀吉軍の大移動が開始されたのは、6月6日の午後のことだった。

殿軍を任された官兵衛は、高松城から22キロほど東にある沼城で、

最初の休息をとる秀吉軍と合流、

その後、姫路城まで55キロをほぼ一日半で踏破した。

将兵を一旦城下に帰して休ませようという幹部たちの案に官兵衛は、

「ここで気を緩めてはならない。

    勝機を掴むためには休息など与えてはいけない」

と主張。

しかし、その一方で疲れている将兵のために、

多くの粥を煮て与える配慮を見せることも忘れなかった。

ころがして掬う一日黄金糖  徳山泰子

6月9日、姫路城を発った秀吉軍は、

11日には尼崎、12日には富田に着陣。

約80キロ余りの道を三日で駆け抜けてきたのである。

50~100日で畿内を制圧出来ると考えていた光秀は、

予想を遥かに上回る速さで、秀吉の軍が迫ってきたことに驚く。

畿内各地の武将や織田と対立していた有力大名に書状を送り、

協力を仰いだが、結果ははかばかしくなかった。

それどころか光秀麾下の摂津・丹後・大和の諸将は、

秀吉からの書状を受け取ると与することを約束している。

秀吉軍がこれほおどの短時間で戻ってくるとは、

思ってもいなかった光秀軍が、慌てたのは必然であった。

こわれる理由持っているんだシャボン玉  和田洋子

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