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川柳的逍遥 人の世の一家言
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手相は凶だが足相は大吉  雨森茂喜


楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記

「楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記」は、昭和の初めころ、

村田清風の孫・村田峰次郎という歴史家が書いた。

伝記の中に「耕堂」の名の由来があり、文章はそこから始まる。

「君は当時、思ふ所ありて世厄を遁れ、

   帰農を以て楽みとする情意なれば、

   嘗て耕堂または不如帰耕堂などの雅号も、
     ここ
   爰に到り始めて実現さるることとなれり」 

伊之助は一時期すべての職から離れ、農業に勤しんだことがある。

その中から、伊之助と龍馬の出合いを紹介したい。

髪切った帰りに茅の輪またくぐる  前中知栄

一時、幕府への忠誠を誓う保守派が長州藩内で台頭したとき、

その反対勢力だった小田村伊之助は野山獄に入れられていた。

しかし、高杉晋作の功山寺挙兵の勝利によって、

藩政府の政治方針が、一新されたことをきっかけに、釈放された。

獄を出た後は、三条実美ら五卿を訪ね、塩間鉄造の名で

太宰府に滞在していた折、そこで偶々、

薩長を結びつけることを画策していた

土佐脱藩浪士・坂本龍馬と出会ったという訳である。

時々は真空パックの空を出す  山口美千代


  坂本龍馬

「龍馬と逢う」


幕末維新期に於ける伊之助(楫取素彦)の最大の功績は、

九州の太宰府で坂本龍馬と会見し、

「薩長同盟」のきっかけをつくったことと言われる。

村田峰次郎が名文で次のように書いている。

「君の筑前に入るや、途次偶々たまたま土州藩阪本龍馬に逢ふ。

   潜に国事を談し、互に時事の得失を説く。

   阪本口を極めて討幕の期熟するを言ひ、

   速に長薩の連合策を遂行せんことを切論し、

   暗に西郷吉之助の同意ある趣を語り、
     じか     せいちく
   併せて自家に胸中の成竹を開展したり。

   君深く阪本の誠意を諒とし、馬関に帰るや、俄に桂小五郎を訪ひ、
    せつ
   窃に阪本の連合説を勧む」

 成竹=あらかじめ成功する目途のあること。

開けゴマ一気に喋り出す禁句  百々寿子

  桂小五郎
しゅこう
「桂、之を首肯せり。
                                                                                                   ぐうきょ
   その後、阪本馬関に来たり、特に桂の寓居を叩き、
  かって
   曾て君に伝へし所の連合説 詳論せり。

   それよりして連合策の主張交渉は、次第に歩を進め、

   大成の良結果を覩るに至れり。

   その他日の成功とする所は、

   当初、君か斡旋の労に起因せるものならんか。

いやしく
   苟も連合の議を記せんとするに於て、

   君の功決して 逸すへからすと信す」


 首肯=うなずくこと。

あさっての話 眉間で割るリンゴ  佐藤正昭

「そこからの小五郎」

「おれは ぶっ壊すのは大の得意だが、

 作り上げるのは大の苦手とするところだ。

 作るのは 桂しかなかろう」

そう言い放ったのは、高杉晋作である。

そこで、京都から離れ、団子屋をやっていた桂小五郎を、

亡命先の但馬出石から呼び戻して、

この男に、藩政のすべてをまかせた。

”蛤御門の変”で長州がたたかれた後、

長州の残兵を探しに行った戦場の、京都から逃れ、

但馬で骨休めしていた小五郎にとっては、損な役回りである。

しかし、藩命とあればやむを得ない。

慶応元年(1865)4月下旬、高杉の一報で、小五郎は萩に戻った。

唐突を燻製にしているところです  山口ろっぱ

薩摩の方でも、

「おれは古い家を壊すのは おおいに得意とするところだ。

 しかし、新しい家となれば、大変苦手である。

 それは、大久保が適任と考えている」

そう語るのは西郷隆盛である。

高杉の言葉と、内容はまったく同じだ。

まさに「薩長同盟」また「維新」は、役割分担で実現した。

長州に戻った小五郎は「政事堂用掛及び国政方用談役心得」

に任命され、紆余曲折をしながらも、

慶応2年1月の同盟成立まで、精力的に動いた。

龍馬との会見は次の通り。

5月01日 龍馬 下関・綿屋弥兵衛の宿で桂小五郎との会見を望む。
5月06日 小五郎、白石正一郎邸にて龍馬、土方楠左衛門と会談。
5月07日 小五郎、坂本龍馬、土方楠左衛門と会談。
5月08日 小五郎、坂本龍馬、土方楠左衛門と会談。

龍馬は小五郎を説得するのに三日要している。
そして、やがて西郷との会見の運びとなる。


わたくしののほほんへまさかのうねり  山本昌乃

     
   五十鈴御殿          銀 姫


五十鈴御殿は、
萩から山口に移ってきた毛利元徳の正室・安子が
居館としたもので、
美和は約5年間、この御殿で奥女中として安子に
奉公した。


【豆辞典】「守り役(教育係)」とは。

伊之助が大宰府に赴いていたころ、

毛利元徳の正室・安子銀姫)に仕えていた美和は、

漢籍(中国の書籍)の素養などを認められて、

嫡男・興丸の教育係に抜擢された。

大名の継嗣のそばには、

その地位にふさわしい見識や素養を身につけるため、

優れた教育係が置かれることが多かった。
もとすけ
織田信長平手政秀武田信玄板垣信方毛利隆元国司元相

などがよく知られている。

女性では徳川3代将軍・家光春日局

13代将軍・家定正室・篤姫幾島

伊達政宗の守役・片倉喜多などが名高い。

このように見ていくと、

美和がどれだけ教養豊かな女性であったかが分かる。

螺旋階段ようやく当たり出す朝陽  古田祐子

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