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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鉄板の厚さで勝負しています  前中知栄


  明倫館の模型 (山口市博物館)

「毛利藩の教育」

萩の藩校・「明倫館」は、上士にのみ登校が許された学校で、

極めて優秀であった。

その為、身分の低い藩士達も縁故を伝って入学し、学問を修めた。

毛利13代藩主・敬親はことのほか教育、人材育成に熱心で、

享保3年(1718)に5代藩主・吉元が萩城三の丸に開設した藩校を、

全体規模を拡大して、城下の中心地へ移転させた。

幕末の数多い優秀な人材は、

敬親の「教育方針」のたまものなのだ。

明倫館に関わりのある著名人をあげると、
吉田松陰、小田村伊之助、玉木文之進、椋梨藤太、周布政之助、
高杉晋作、桂小五郎、長井雅楽、井上聞多、大村益次郎など。

タクトからペールカラーの音符たち  矢沢和女


    有備館  (国指定史跡)

有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもの。
北半分を剣術場、南半分を槍術場とした。
また、ほかの藩から剣や槍の修業に来た人たちとの試合場にも
使われ討慕運動に活躍した土佐の坂本龍馬が、
萩を訪れれた文久2年に 、剣術の試合をしたといわれている。

敬親が立ち上げた当時の明倫館の規模は、約1万5千坪の敷地内に、

聖廟(宣聖殿)を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として、

学問習得のための建物、

それも漢学中心の初等・高等の教育施設が、配置され、

東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、

後方には水練池、北方には、約3千坪の練兵場が設けられた。

因みに、1万5千坪は、甲子園球場4個分にあたる。

竹に節私に意地があるように  八田灯子          


    明 倫 館

「敬親が殊に重要視した明倫館教材の①-詩経」

【天が陰雨の天気とならぬ内に、鳥が彼の桑の根の皮をはぎ取って 

   己の巣のまどを手堅くまといからめて

   雨が降っても降りこまぬように備えて

   不測の患を予防するということがある。

   君子即ち人の上に立つ人が もし,

   国を治めてまさかの時に禍をうけぬ予備をなさんとならば,

   学問をすることで、人材を造るより上策はなきはずである】

人の世に明かりが灯る人の手で  前田楓花

【人材を作ることを楽しんで子弟を教え、

   取りしまりを簡易にして人民を悦ばすれば、

   即ち 民の父母たる徳あるものであるということがある。

   而して「左伝」には学ぶということは、

   草木で申せば 植えて培養する仕方に当る。

   もし、学ばなかったらば、草木が養われずして衰えるがように

   人材が出来ぬものであるということがある。

   今 君公が国家を治めらるるに学事を上策として、

   子弟の学問を励まして 学校をたてたまい、

   之に教育を施して 人材の衰えぬようにせらるるのであるから、

   民の父母たる徳は 誠に大なるものである】

(『左氏伝』(さしでん)孔子の編纂と伝えられる歴史書)

点を打ついつか線にも絵にもなる  勝又恭子


「嘉永重建碑の削り取られた部分」

【明倫館のいたずら】

堀内から江向に移された時、明倫館の開校を記念してたてられた

「嘉永重建碑」と呼ばれる石碑がある。

この嘉永重建碑を見ると、

左から四行目のまん中あたりの文字が、三字ほどが削られている。

削られた文字は、「幕命而」

もとは、「幕命を崇奉して、国家の蕃屏たる所以なり」で、

意味は「幕府の命令をよくきいて国を守る」 とあったところ。

蕃塀とは、「不浄除け」の不浄なものを遮断する意味から「楯」と訳す。

立ち位置が微妙コウモリの保身  竹内いそこ


歴代毛利の藩主たち

「その謎の解明」

関が原から三年後の慶長8年(1603)に

徳川家康は江戸に全国の大名を統括する幕府を開いた。

そして慶長20年には「大坂の陣」によって豊臣家を滅ぼし、

名実ともに「天下人の座」についた。

毛利ほか諸大名は徳川家から

「領地(藩)を預かる」という形となり、幕藩体制が始まった。

毛利元就の次男・吉川広家の嘆願により、

お家の存続を許された毛利家は、その後、本拠地・長門と一字から

「長州藩」と通称されることになる。

しかし、元就以来から守り抜いてきた120万石を、

周防・長門37万石に減らされた恨みは、

江戸時代を通じ、歴々と長州・毛利家に根付くことになる。

13代藩主・敬親もまた表向き「幕府恭順」と言いながら、

内心では「倒幕」への気持ちは、抱いていたのである。

同時に、長州の藩士の心も、

「幕命而」を削ったところにあったということだろう。

酸欠なんです赤いクレヨン下さいな 山口ろっぱ


  昌平坂学問所

 【豆知識】「藩校」

藩校は江戸時代、藩が主に家臣の師弟を教育するために設立した。

就学が義務とされるのは、家臣の長男のほか、

藩によっては、藩士全体にも及び修学期間は、

一般に7歳から20歳位まで。

今で言えば、幼稚園から短大まで一つの学舎で学ぶことになる。

授業は「儒学」が中心で、

中国の「四書五経」の素読や「習字」を学ぶほか、

「歴史・礼式、詩文の創作、算術」など幅広い教科が行われた。

文武両道を目指して、「槍術術,柔術、剣術、馬術」などの

実技や兵書の講義などもあった。

江戸の後期にもなると、

藩によっては、「医学・洋学・西洋砲術」なども加えられ、

300あった藩のうち、220余りに藩校が開設されている。

「幕末に名をはせた藩校に長州藩の明倫館、水戸藩の弘道館、

会津藩の日新館、薩摩藩の造士館、江戸幕府は昌平坂学問所

などがあり、そこからは多くの人材が育っていった」

先生と呼ぶと振り向く二三人  美馬りゅうこ

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