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川柳的逍遥 人の世の一家言
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文箱にぎっしり詰まる座右の銘  合田瑠美子

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安徳天皇を抱いて入水する二位尼

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 鵯越の坂落としの場面


「源平合戦」

「石橋山の戦い」といわれる合戦で頼朝は破れ、

いったん安房国に敗走するが、

治承4年(1180)10月20日の「富士川の戦い」で、

平氏追討軍を撃破。

その後、頼朝は鎌倉に戻り、

以後、源氏の棟梁である「鎌倉殿」として采配を振るう。

一方、信濃国の木曾谷では、木曾義仲が独自に挙兵、

「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」では、

平氏勢に壊滅的なダメージを与えて、

平氏一門を京から追い出すきっかけをつくった。

物欲は歳の二乗に比例する  今井弘之

勇躍京入りした義仲だったが、

蜜月だった後白河法皇と次期天皇の継承をめぐって対立。

ついには、

朝敵として頼朝の命を受けた源範頼・義経勢に討ち取られた。

ポイントのLから飛び出した蛙  河村啓子

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 一の谷の戦い合戦図

源氏方の内輪揉めは、

平氏にとって、起死回生の絶好のチャンスだったが、

後白河法皇の絶大な信頼を得て勢いに乗る義経に、

「一の谷の戦い」で惨敗。

瀬戸内海をわたり四国へと逃れて捲土重来を期すも、

「屋島の戦い」でまたしても義経に敗れる。

西へ西へと敗走した平氏勢は、

やがて最終決戦「壇ノ浦の戦い」を迎える。

撤退が始まる人間らしくなる  岩根彰子

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   屋島の戦いの図

雌雄を決する戦いは、

寿永4年(1185)3月24日未明に始まった。

当初、源氏勢を防戦一方にさせた平氏勢だが、

潮流の変化もあって形勢は逆転。

最後を悟った平氏一門は、

次々に冷たい海の中に、自らの身を投じていった。

平安時代、そして無類の栄華を誇った平家の時代が、

終わりを告げた。

トンネルを抜けみまさかへさようなら  森中惠美子

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 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

「壇ノ浦の悲劇」

二位殿時子「浪ののしたにも都のさぶらふぞ」

先帝を抱いて飛び込む。

建礼門院も温石(暖房用の石)や硯を懐に

入れて沈むが、渡辺党の源五に引き上げられた。

船のはた板に弓で打ち付けられ、動けない女房もいた。

「内侍所」(御鏡)を開けようとする兵を制する平時忠も船に

残っていた。

首筋まで遠吠えだけで埋まる  酒井かがり

平教盛・経盛兄弟は、鎧の上に碇をくくりつけ、

資盛・有盛・行盛は手を組んで入水する。

宗盛・清宗父子は、

「四方見めぐらし、あきれたるさま」

部下に押されて落水するが、

「くッきょうの水練」のために沈まず、

伊勢義盛にともに引き上げられた。

飴色の顔で沈殿物となる  井上一筒

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那須与一扇の的の場面 (いろいろと信じがたい伝説)

「義経八艘飛びの真実」

箭種(やだね)を尽した能登守教経(のりつね)だけは違った。

大太刀と大長刀を両脇に抱え、判官義経を探し回る。

顔を知らないために、

「物の具のよき武者」 の船に乗り移る。

義経も、「おもてに立つ様にはしけれども」

ついに「判官の船にのりあたッて」しまう。

義経は「かなわじ」と長刀を脇に挟んで、

「みかたの船の二丈ばかりのいたりけるに、

  ゆらりととび乗り給ひぬ」


と逃げ出すのだ。

対岸に繋いだままの助け舟  清水すみれ

教経は

「はやわざやおとられたりけん、

 やがてつづいても飛び給はず」
と、冑を脱いで,

土佐の武士安芸太郎兄弟を道連れに入水する。

26歳の命であった。

世にいう「八艘飛び」の場面である。

しかし、一番大きく飛んだのは「一艘」であり、

およそ6メートルの距離にあるところだ。

小柄な彼の、世離れした行為に尾ひれがついて、

「八艘」も飛び越えていくようになったのは、

後世の拡大解釈である。

「判官びいき」の為せる業といえよう。

君が代を歌いつづける海の底  大森一甲

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