ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
[
315
] [
314
] [
302
] [
313
] [
312
] [311] [
310
] [
309
] [
308
] [
307
] [
306
]
清盛の遺言
神さまは前触れもなく「来い!」と言う 新家完司
「源平合戦図屏風」ー〔屋島合戦図〕
(画像をクリックすれば拡大されます。大きくご覧下さい)
「清盛の遺言」
清盛
は、仁安2年
(1167)
、太政大臣となり、
武士としてはじめての平氏政権を樹立し、一時は、
「平氏にあらずんば人にあらず」
といわれるほどの全盛を誇った。
煙突を抜けると美しい敬語 山本早苗
しかし、
清盛
と
後白河法皇
の近臣たちとの間に摩擦が生じ、
「打倒平氏」
の声があがり、
ついに
、
以仁王
の令旨が出される。
以仁王の挙兵はすぐ鎮圧されたが、
源頼朝・木曾義仲
らの挙兵によって、
国内は
「治承・寿永の内乱」
といわれる争乱状態となる。
触角の端にこの世のならずもの 清水すみれ
そうした中、養和元年
(1181)
閏2月4日、
清盛は熱病で64歳の生涯を閉じる。
死に臨み、死後、堂塔を建てて供養するより、
「頼朝の首をはね、我が墓の前に懸けよ」
と遺言したことが
『平家物語』
巻第6にみえる。
蔓伸びる先はかなしい空である 中野六助
「壮絶な清盛の最期の言葉」
死を目前にした閏2月4日朝、
清盛は、
円実法眼
を使者として、後白河に
「自分が死んだ後は万事を宗盛と相談して遂行してほしい」
と言った。
指きりの語尾の辺りの生返事 美馬りゅうこ
それに対する後白河院の返事は曖昧であった。
清盛は怒りをあらわにして、
藤原行隆
に、
「天下のことは宗盛が専断するのだ。
異論があってはならない」
と言った。
それは、東国追討のことだけでなく、
中央のことについても、同様との考えであった。
首までにしとく情けに沈むのは 清水すみれ
『吾妻鏡』
閏2月4日条は、清盛の遺言として、
「三ヶ日以後、葬儀あるべきである。
遺骨は播磨国山田法花堂に納めて、
七日ごとに形の如く仏事を修せ。
毎日は修するな。
また京都で追善をなすな。
子孫はひたすら東国帰往の計らいを営め」
と言ったとする。
散骨にしてくれ閉所恐怖症 播本充子
しかし、実の息子が伝えたところによれば、
清盛の遺言はもっとすさまじかった。
のち治承5年8月1日以前、
後白河
が
宗盛
に、
頼朝
から、
「源平相並んで仕えるべきだ」
という、
和平の申し出があったことを内々に伝えた。
コップをかじるほど水を欲している 福尾圭司
すると宗盛は、清盛が死ぬ直前に、
「我が子孫は、一人生残る者であっても、
骸を頼朝の前に曝せ」
と遺言したので、
「和議には応じられない」
と返答している。
確かに父の喪中にも関わらず、
平重衡
は閏2月15日に東国の追悼に発向したが、
『明月記』
によれば、
それは清盛の遺言によるものであった。
逢いにゆく光を少し研いでから たむらあきこ
[2回]
PR
y2012/12/20 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
<<
清盛・「あっち死」
HOME
最後のサイコロ
>>
Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ
[PR]
カウンター
1日1回、応援のクリックをお願いします♪
最新記事
式部ー藤壺・花陽炎-①
(11/21)
式部ーどうにもとっまらない-賢子
(11/14)
式部ーどうにもとまらない賢子
(11/07)
式部ー賢子--跳んで弾けてとまらない
(10/31)
式部ー恋の手立ては手紙から
(10/24)
リンク
管理画面
新しい記事を書く
メールログイン
カテゴリー
演劇・映画 ( 8 )
ポエム&川柳 ( 1091 )
アルバム(風景) ( 2 )
アルバム(催事) ( 2 )
アルバム(動物) ( 0 )
雑学 ( 43 )
名言・辞世の句 ( 0 )
未選択 ( 0 )
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開