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川柳的逍遥 人の世の一家言
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わたくしのあばらへ蔓草がのびてくる  大西泰世

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      清盛像

「興福寺の焼き打ち」によって、

南都方面の反平家勢力が壊滅したことは確かだった。

南都の悪僧に呼応した河内源氏の石川義基も討ち取られ、

畿内周辺の戦況はいったん落ち着いた。

すべて拭った少し新しい朝になる  山口ろっぱ

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「最後のサイコロ」

治承5年(1181)1月14日、高倉上皇が崩御し、

東山の清閑寺に葬られた。

享年21歳。

天皇になりながら、何ごとも思うにまかせず、

父・後白河と義父・清盛の政争に、

翻弄され続けた生涯だった。

ある人の提案により、

清盛夫妻が中宮・徳子を後白河の後宮に

入れようとしたのはこのときである。

「いっそ出家したい」

という徳子の必死の訴えによって、

代わりに厳島内侍との間にできた娘が送られたが、

法皇はそれほど喜ばなかったという。

月並みの銀の涙の乱反射  岩根彰子

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色好みの法皇といえども、

みえみえの懐柔策にのるほど愚かではない。

平家の権力維持のために、

治天の君の掌握は必要であったが、

清盛はそのような旧態依然とした宮廷対策だけに

奔走していたわけではない。

以上の政策と並行して、武家政権にふさわしい、

大規模な「軍制改革」を進めていた。

あいまいを許さぬ針が錆びている  たむらあきこ

上皇の死の2日後、

惣官職というポストを新設して宗盛を任命した。

畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)と近江・伊賀・伊勢・

丹波の9ヵ国に対して、

武士の動員と兵糧米の徴収を行う

高度の軍事指揮権が与えられたといわれている。

まんべんにレーズンパンな秋にする  山本早苗

2月7日には、

有力家人・平盛俊を丹波国諸荘園総下司に任じた。

≪京に隣接する丹波を対象に兵糧米の徴収を行うものである≫

畿内を中心とする広域の軍事指揮権を、

平家が直接掌握することで、

全国規模の内乱に対処する体制を構築するのが、

狙いであった。

平家政権はより高度な軍事機能を備えた

武家政権へ脱皮を図りつつあったのである。

秋蝶の膝関節もリハビリ中  河村啓子

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京の防衛体制も急速に整えられていった。

1月下旬頃から、

九条の末に六波羅、西八条に続く、

新たな拠点づくりを開始したのだ。

この付近には九条兼実皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)など、

上級貴族の邸宅もあったが、

所領の一部を強制的に没収して、

武者たちの宿舎にあてた。

お醤油をちょっと切らして借りに行く  津田照子

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2月17日には、安徳天皇を八条の頼盛邸に移した。

公卿たちは反対したが、

清盛が防衛上の必要性を主張して、強行したのである。

2月2日には、六波羅にいた後白河上皇も、

八条に近い最勝光院に移されている。

かみそりが鏡台にあるおそろしさ  森中惠美子

この時期、

清盛が九条周辺に拠点を構えようとしたのは、

南都や宇治に通じる交通の要衝をおさえる

戦略的な意味があった。

後年、木曾義仲の上洛に対して、

平家が京都を放棄したことからも分るとおり、

「京都は攻めるに易く、守るに難い」

平家の軍事施設と

天皇の御所が一体化した拠点を建設し、

新王朝の新都にすることが清盛の狙いだった。

打ちのめされてからが始まりである  森田律子

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しかし、真のねらいが明らかにされることはなかった。

安徳の八条行幸から一か月も経たないうちに、

突如清盛が熱病で、

帰らぬ人になってしまったからである。

宗盛は九条末の軍事拠点を放棄し、

ふたたび、六波羅を平家の拠点にした。

私は絶滅危惧種です多分  高橋謡々

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