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川柳的逍遥 人の世の一家言
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万力に挟んで夢を逃がさない  清水すみれ





                                 後宮の中ー寝殿造の内部空間
藤壺の庭に咲く藤を眺めて語り歌う、中宮と女房たち。



寝殿造りの建築は夏向きにできており、風通しがよく開放的である。
気候が温和なため自然とこの調和を大切にして、壁で遮断崇ることが
少なく、間仕切りとして唐紙障子や壁代を使い、風や人目を遮るために
屏風や几帳を立てた。
白木の建物と黒漆塗りの調度、柔和で優美な色調を漂わす大和絵屏風
や几帳。彼女たちの衣服や調度などの装いの総合的な組み合わせを、
装束と呼んだ。





ゆったりと振り子の刻む時にいる  山口美千代












源氏物語
の舞台となるのは、およそ千年前の平安京である。
「泣くよウグイス平安京」知られるように794年(延暦13)桓武天皇
により開かれた平安京は、唐の都・長安を手本に、縦横にはしる道路で
碁盤のように区切られていた。
北側中央には、帝の住まい・内裏や政治の中心が置かれた大内裏があり、
南北にはしる朱雀大路をメインストリートに、東側の左京、西側の右京
に分けられている。
なお、左京の北側は、多くの貴人たちの高級邸が並んでいた。




花の下行儀いい葉もご覧あれ  竹内良子



紫式部ー源氏物語の世界へ--①  生活編










「雅と高貴の邸・後宮へ」
帝が日常生活をする建物が清涼殿
寝室にあたる「夜の御殿」は、その北部分にあり、背後には、七殿五舎
後宮が広がっている。
後宮の殿舎は、それぞれ壺(中庭)に植えられた庭木に因んで「桐壺」
「藤壺」などと呼ばれ、そこに住むお妃は「桐壺更衣」「藤壺女御」
と呼び倣わされていた。
殿舎の位置は、主にお妃の身分によって決まり、例えば、桐壺更衣に
与えられたのは、清涼殿から一番遠い淑景舎(しげいさ)である。


風向きを教えてあげるから触れて  真島久美子





几帳や屏風、調度品のおかれる寝殿造りのインテリア


「貴族の邸」
貴族の邸は廊下はもちろん、母屋もすべてフローリングで、固定された
間仕切りが少ないシンプルなもの。
移動可能な几帳や屏風で広い空間を仕切って、机や厨子などを置いて、
ワンルーム感覚でアレンジをした。
慶弔や季節の彩りを表すために、室内を調度で飾ることを当時から、
「しつらい」と呼び、例えば、お産のときには、産室の調度を白一色に
統一したり、来客時には、濡れ縁の簀子が屏風などで仕切って、応接間
に早変わりした。


蓮の露出来損ないの無い丸さ  寺田天海





    源氏物語画帖 幻


「格子まいる」
格子は黒塗りの木を縦横に組んで廂(ひさし)の周りに設けた建具で、
朝に掛け金で吊り上げ、夜下ろすことを「格子まいる」といい、朝夕の
女中の仕事だった。
源氏物語の中で六条御息所が、上げられた格子から源氏が見送るシーン
など、格子が効果的に使われている。



振り幅の広い女のヘチマ水  山本早苗





          平安貴族の寝具





「質素な平安貴族の寝具」
当時の掛布団には、衾(ふすま)と呼ばれる長方形のものと、襟と袖の
ついた直垂衾(ひたたれふすま)の2種類あった。
しかし、布団は高価な貴重品で、誰もが使えるものではなかった。
それではどうしていたか、その日に身につけていた衣服を脱ぎ、布団代
わりに掛けて寝ていた。
一夜をともにした男女が別れ際に、上に掛けた衣服をまた身にまとって
別れる「後朝の別れ」も、そんな生活習慣から生まれたものだった。



悲しみの分だけ笑顔上手くなる  井口なるあき





     藤原道長が33歳~56歳までの間に書いた日記。

具註暦(ぐちゅうれき)という毎日の運勢が書かれた暦の、行間の余白
に日記が書かれている。
「この世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば」



「宮廷勤めの男たちの朝」
宮廷に勤める男たちの朝は、それはそれは忙しいものだった。
起きると、まず自分の属星(ぞくしょう)の名号を7回唱える。
これは生まれた年と北斗七星の名を結びつけた一種の呪文で、子年生ま
れは貧狼星(とんろうせい)、辰年生まれは廉貞星(れんていせい)と、
いったように定められていた。
その後、鏡を見て人相を占い、その日の運勢を確かめ、歯を磨くなどを
して身だしなみを整え、朝食の前には、昨日の出来事を日記に認めるの
も日課だった。



手相みる易者人相悪かった  青木ゆきみ



「運勢の悪い日は物忌みでお休み」
物忌みという言葉は、源氏物語にしばしば登場する。
運勢の悪い日などに「物忌」と書いた札を家の外にかかげ、家に籠って
人との面会を慎む。「忌む」というのは、災いに近づかないようタブー
となる行いを慎むこと。
物忌みの日は、官中に出仕せず自宅で過すのだが、年に20~70日も
あったというから、欠勤や逢引きのよい口実に利用されることもあった
ようだ。



お仏飯差し上げるにもどっこいしょ  新家完司





         牛車に乗って





「外出は牛車に乗って大路小路をゆったりと」
やんごとない貴族たちの場合、自分の足で歩くということは、ほとんど
なく普段の移動には、もっぱら車や輿、馬などを利用した。
なかでも「牛車」は、最もポピュラーな乗り物で、身分や格式に応じた
数多くの種類があった。
牛車への乗り降りは、まず繋いでいる牛を切り離し、後ろから乗って、
前から降りる。
定員は4人で、内側に向かい合って座る、座席配置。
牛を誘導するドライバーの多くは、10代後半の牛飼童と呼ばれる少年
が担った。



ドア閉める音でもベンツだと分かる  髙杉 力





     外出する女性





「徒歩の外出はカジュアル・ファッションで」
女のひとり歩きは、危険なこと。
身分の高い女性は牛車で移動したので、徒歩で外出することはほとんど
ない。が、それほど身分の高くない女性は、壺装束を身にまとって出か
けた。歩きやすいように髪を小袖に入れ込み、裾が地面にひきずらない
ように単衣や袿(うちき)を折りり上げた。
衣をすぼませ、折りはさむことから壺装束といい、肩から掛けた紅絹
(もみ)の帯は懸帯という。



ポケットの多い服着て忘れ物  ふじのひろし




「女房はカラーコーディネーター」
平安貴族の衣服は、重ねた衣の色目の美しさが、その人のセンスや美的
感覚を表した。 襲(かさね)の色目は約200種もあり、季節や場所、
年齢、好みなどから主人の衣服の色を宮仕えの女房たちが、コーディネ
ートした。
たとえ一枚の衣であっても、表地と裏地の色彩がその時節にふさわしく
調和していなければならない。色目の知識と色彩のセンスがなければ、
女房の仕事は務まらなかったのだ。



売れるわけ無いからパリコレで着せる  板垣孝志





       日本風・鏡





「鏡」
古来より、祭祀の道具として用いられ、帳台の中にかけて魔除けにする
など呪術的な意味合いもあった
平安時代の鏡は、銀や銅、鉄などの表面を磨いてつくられた。
八角形で、裏面には植物、鳥などの装飾が施され、平安時代の始めまで
は、唐草や鳳凰など中国風デザインが主流だったが、鏡は、身だしなみ
には欠かせない大切な道具として、松や梅、秋草、鶴、千鳥など日本風
の雅な絵柄へと変わった。
使う時は、鷺足の鏡台にかけ、使い終わったら鏡箱に収納した。



鏡からもらう晴れの日くもりの日  堀田英作





道勝法親王百人一首絵入り歌かるた
夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
清少納言は、化粧品の鉛の毒に悩まされた一人だった。
40歳を過ぎる頃には、醜い鬼のような顔だったという。


「都で流行りの色白美人」
白粉で顔を塗りたてていた平安美人
女性が化粧をするようになったのは、この時代からで、それ以前は、
健康的な素肌が美の条件だった。
寝殿造という採光の悪い建物で暮らすようになって、薄暗い中でも輝く
ような白い肌が求められたというわけで、白粉をぬる習慣がはじまった。
しかし、当時の白粉の原料には、鉛や水銀が入っており、肌が化粧焼け
したり、シワが増えたり…。
ひどい時は、その毒性で死ぬこともあったという。
当時は、美しくなるのも命がけ…。



大いなる大根のごときこころざし  佐藤正昭






        平安時代のお風呂





「そこはかとない残り香が…」
衣類には香りを含ませ、部屋にも香を焚く貴族たちの暮らし。
入浴の機会が少ない平安時代。
香りがなくてはいられなかったのだろう。
おまけに邸内には、独立したトイレがなく、人々は部屋におまるを置き、
そこで用を足していたから、もとは唐様に倣った香りの文化が、舶来の
香料でオリジナルの香りを調合して、センスをしのばすといった、貴族
たちの嗜みになっていた。




失いたくないもの壊したいもの  下谷憲子





        小野小町ー佐竹本三十六歌仙
プレイボーイ在原業平をはじめ、通いつめて命を落した深草少将など、
多くの男性を魅了した絶世の美女・小野小町は、おそらく容貌とともに
美意識に優れたものがあったものと思われる。


「センスくらべ」
平安時代を代表する女性の装束といえば、なんといっても十二単
多い場合には、20枚も重ねて着ることもあったという。
重さにすると10㌔以上に…しとやかに、ゆったりとした所作に
ならざるを得なかっただろう。
そもそもこの時代に、十二単の文化が花開いたのは、後宮の女性たちが、
ライバルに負けまいと、衣装の美しさを競い合った結果だった。
襲(かさね)の色合わせや模様、生地を季節やしきたりに合わせて選ぶ
センスも、平安美女の条件だった。



まだ誰も見たことのない色で咲く  河村啓子






         若紫の髪を削ぐ光源氏



「黒髪を切るとき」
信仰心の篤かった当時の貴族の女性たち。その彼女たちが、
頼みとする夫や愛する子どもと死に別れたとき、重い病気の
回復を祈願するとき、或いは自身が罪悪感に苛まれるとき
など、大切な長い黒髪を切って出家した。切るといっても、
背中のあたりで切り揃えるだけで、渋い色の袿を重ね、
法衣としての袈裟を上から掛けた。


ほらごらんあかんが頭掻いている  太下和子





          松椿蒔絵手箱 (国宝)



「くしけずるほどに、より美しい黒髪」
当時、美しい髪を保つためには、洗髪より櫛で髪の汚れを落とすことが
多かったよう。櫛はいくつかの種類があり、ふだん髪をとく櫛には、歯
の粗い「解櫛」、髪にゆする をつけて髪を解く歯の細かい「梳櫛」
あったほか、髪に挿して飾りにする「挿櫛」などが使われた。櫛は象牙、
黄楊、紫檀などで作られ、螺鈿で装飾をした豪華なものも。
櫛は櫛笥(くしげ)に収納し、そこには櫛のほかに鋏や耳かき、髪掻、
櫛払などの身だしなみの道具一式を入れていた。



ときめきを運んでくれたのは光  伴 よしお





      源氏物語絵巻東屋一髪を梳く女性


「美しい髪の秘訣」
豊かで長い黒髪を保つには、シャンプーや整髪は欠かせない。
しかし、当時のシャンプーは「ゆする」と呼ばれる米のとぎ汁や、強飯
を蒸した後の湯。養毛に効果があると信じられて、髪につけて梳くのが
いつもの手入れだった。なお入浴は、日柄を選んで5日に一度で、軽い
朝食をすませた後のことだったとか。
入浴といっても、浴槽につかるわけではなく、湯浴み程度のものだった
ようだ。



指先の痺れもたまに撫でておく  靏田寿子




         長い黒髪の平安女性


「長い黒髪が美女の条件」
当時は、豊かで長い黒髪が「美女」の絶対条件として、貴族の男たちに
持て囃された。
藤原師尹(もろただ)の娘・芳子は、美人の誉れ高い女性で、黒髪の長
さは何と5~6㍍ともいわれ、簀子から牛車に乗ると、黒髪は廊下を越
してなお、母屋の柱に絡んでいたという。
芳子は、村上天皇の女御となって寵愛を受けた。
また『古今和歌集』1100首を暗誦したと伝えられ、まさに才色兼備
のスーパーウーマンだった。



むら雲の嗚呼の部分のうすべにの  宮井いずみ

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